Subject:平成15年8月1日 (一)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/02 17:20
「早速頂いた本を読了、面白くてすぐ感想が書けましたので、一応お送り申し上げます」と肉筆で添え書きして、ワープロ打ちした次の一文がファクスで届けられた。恒文社21専務の加藤康男さんからである。『全体主義の呪い』を新装版にして『壁の向うの狂気』として出して下さった方である。
このところ加藤さんとは仕事の必要からたびたび会う。われわれの次の仕事も進行している。一昨日西荻窪の例の焼鳥屋「吾作」で飲みながら打ち合わせをして、それからカラオケパブ「六花」に行った。そのとき新刊の本を手渡した。この本は書店の店頭に出て丁度一週間が経つ。
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『私は毎日こんな事を考えている』感想
読む側の我が時の流れを脇に置きながら、インターネットから立ち上がってくる西尾先生の声が変換されて聞こえる、という優れものの一書でした。
書物でありながら、こんなにも著者の音声、音感、リズムなどが伝わってくる本は極めて稀であります。それは、活字といえども肉声が聞こえてくるようなものが今日いかに重要かということではないでしょうか。
先生は、勿論、歌そのものがお好きで、カラオケなどもよくされることは知る人ぞ知るですが、ただ歌うのではなく、音楽を大切にした演劇的な歌謡をされる歌の手法は見事なものです。歌うことと、語ることに演劇的な歌謡をされるとそれは歌劇です。この本が一年間の日本を憂いながらも、読む人に元気を与えてくれるのは恐らく先生の絶妙なる節回しのお蔭でありましょう。
とりわけ私が嬉しかったのは「みかんの花咲く丘」のくだりです。川田正子さんの歌声で戦後を立ち上がった我々としては当然ですが、もう一件つい先日自分で編集した『東條家の母子草』にも関係するからです。この本の著者・東條由布子さんは戦中、戦後を伊東市で過ごします。伊東は「みかんの花咲く丘」のモデルの舞台でした。彼女はこの歌で石持て追われるがごとき日々の幼な心を癒したそうです。
川田正子さんの音声が私たち世代の胸を打ったように、西尾先生の音声が聞こえるこの本が新しい世代の胸を打つことを大いに期待します。この深い常闇に風穴を穿つ日まで、西尾先生に頑張って頂かねばなりません。
平成15年8月1日
恒文社21 加藤康男
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初めていただいた書評である。ありがたい。一昨夜の「六花」の歌声がまだ耳に残っているかのような書きっぷりなのが面白い。ただ、読んでいてこの本には今までの私の本とは異なった音調が聞こえてくる、というのはどうやら本当らしい。他の人からもすでに聞いた。
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誤記訂正等.H15/8/3.pm13:02
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Subject:平成15年8月1日 (二)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/03 08:58
文中に出てくる東條由布子『東條家の母子草』は恒文社21の8月の新刊だが、昨日半分まで読んで涙をおぼえた。由布子さん——英機首相の孫——のご父君は戦後職場を追われ、どんな仕事も与えられず、自転車で険しい山道を走り回って食べ物をあつめ、行商もした。東條家の家族には近くの農家では食べ物も売ってくれなかったのである。彼女の兄さん(長男)は巣鴨の祖父に会いに行くのに靴がなく、金持ちの別荘の子供が修理に出している靴を靴屋の好意で一日だけ借りて、東京に行ったそうである。
物資の極端に乏しい時代だった。商品らしいものがなにもない時代だった。みんな飢えを免れることだけを毎日の仕事として生きていた。そんな条件に加えて政治迫害を受けてはたまらない。想像を絶することである。あの時代は私の幼少年期でもあるが、東條家の家族の悲惨は今日まで知らなかった。
年譜をみると由布子さんは私より4歳下である。ふと思いついて『わたしの昭和史』少年篇1.2(新潮社)を加藤氏に託して彼女に贈った。
同書は少年時代の私の「日記」を基礎に書かれている。私は次のページにそっと付箋をつけておいた。昭和23年11月12日の項である。
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食糧問題は相変わらず未解決だったが、10月22日の「日記」に、「新聞によると東京で芋の配給があまったと書いてあり、引きとる消費者がいないということである。昨年は芋のくきや葉を食べたのが嘘のようだ」とあるのが目を引いた。日本は極貧状態を少しずつ脱出しつつあったようだ。
一方、米ソ対立は不気味な影を広げていた。父は最悪の場合を想定してよくこんな話をした。朝鮮半島はもとより日本列島の全域までが、米ソ戦争の舞台とならないとも限らない。日本が戦場になったら、20万の米国占領軍は、ソヴィエトの大軍に押されて、いったんは全部引き揚げてしまうだろう。そして軍備のない日本はたちまち赤化し、ソ連の属領になってしまうだろう。しかしアメリカはそのまま手を拱いてはいまい。再び上陸してくる。しかしそのときには、ソ連兵の上にも、日本人の上にも、原子爆弾をぽかぽか落とすだろう。最良のケースは北欧かベルリンかで戦争になることだ。そうなったら日本はかえって良い条件を与えられる。アメリカは日本を産業国家として立ち直らせる必要にせまられるからだ。
当時は中国がまだ内戦状態にあった。中国が人民政府を樹立し、やがて朝鮮戦争が勃発するおよそ2年も前のころの話である。
大人たちがいくらこんな予測を無責任に交しても、わたしには新しい戦争の実感はもうなかった。国中がぼんやりした平和ムードにつつまれていたからだ。軍人を非難し、軍国主義を反省し、戦争を招いた旧政府の失敗を弾劾する声が巷にあふれていた。自分たちの参加した戦争をもう他人ごとのように裁く声のみが圧倒していた。父が第三次世界大戦の可能性を噂話のようによく語ったのも、実際には起こりそうもないというどこか楽天的な気分と、かりに起こっても日本人は自分の力ではもうなんにもできないという虚脱心理と、裏腹の関係にあった。
日本は世界政治の舞台を降りた「観客人」になりつつあった。すべてが自分たちの力の及ばない遠いところでことが決せられると言う無力感が前提をなしていた。自分が責任を背負わないで、歴史を非難したり、未来をあれこれ噂めいて予測したりする知的ムードが、新聞を蔽いだしていた。それは50年後の今日につづく前兆である。日本のどこかが腐り始めていた。
極東国際軍事裁判の判決が下ったのはこんなときだった。当時の大人たちがこの事件にどんな反応を示したのか、わたしはよく理解していない。一度、研究してみたいという気もある。
私自身は強烈な反応を示している。
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「昭和23年11月12日(金)晴天
ウェップ(ママ)裁判長における、國際的東京裁判はついに、最後の判決が下された。東條他24名の被告は總て有罪をせんこくされ、こう死刑7名、無期刑16名、7年1人、20年1人であった。これはどうだろう。日本人ばかりのいたましい姿である。侵略的方法は決して日本だけであったらうか、やはりアメリカにおいてもそのような精神はあったらう。戦争に負けたのが、最もいけない原因である。責任は日本だけではない。憎むべきアメリカ等である。
「負ければ賊軍勝てば官軍」諺通り」
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最後の諺は、よくいわれる通俗的な、子供っぽい引例だともいえる。
しかしわたしは判決がよほど気になったらしく、翌13日の日記には、新聞の前文を書き下ろしたうえで、
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宣告 姓名
終身禁固刑 荒木 貞夫
絞首刑 土肥原賢二
(中略)
禁固刑廿年 東郷 茂徳(罪状認否の日より)
絞首刑 東條 英機
終身禁固刑 梅津美治郎
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という具合に、25名の宣告と姓名を漏らさず全員、「日記」のページに筆写している。新聞を切り抜いて貼っておけばすむことなのに、なぜそこまでしたのか自分でも分らない。そして、最後に一行あけて、「今になって考えて見ると可愛い想である」と書いている。感想はたったのこの一行だけである。
これをあまり吟味する必要はない。子供に歴史の運命の何が分るであろう。深い考えあっての一行の言葉なのではない。でも子供心に、どう言っていいか分らない思いがあった。そしてただもののあわれを覚えた。それだけのことだったろう。でも、それだけでいいではないか。非難したり、嘲ったり、罵言を浴びせたりの大人の真似をするよりも、よほど良かったのではないか。
わたしの内部にはそのころ世相に対する憤りの感情が少しずつ芽生え始めていたように思える。そういえば少し大人びているといわれるかもしれない。だから、成熟した批判精神というようなものからはまだほど遠い、腹立ちまぎれの感情である。経験も浅い、過去も短い人間の好き勝手な放言に近いものかもしれない。過去といえば、幼児に経験した戦争時代しか知らない。そしてそれは最悪の時代だったと、誰しもが語っていた。最悪か最善かの判定も許されず、ただひたすら前を向いて生きていたあの戦時下の人間の生命力の発露を、われわれ日本人はいつしか思い出すことさえも出来なくなっていた。
(『わたしの昭和史』少年篇2)
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すべてが遠い日の幻影である。けれども目の前の現実とあまり変わってもいない。当時も今も人は同じ感情で生き、同じ認識をくりかえしている。
8月15日を境に局面が一転換してしまったのである。一度起こったことはもう覆らない。しかし次のことがまた起こり、過去が蘇るということもあり得ない。歴史に再生はない。未来に復活もない。過去は不可逆であり、未来は予知不能であり、存在するのは現在だけである。歴史は現在という点のつながりであり、過去においてもそのときの現在という点があっただけである。そういう限界に直面している人にだけ、現在という点の中に過去が映し出され、未来がおぼろげながら予想されるのである。それ以上のことは人間の身には起こらないのだと思う。
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誤記訂正等.H15/8/3.pm13:02