Subject:平成15年8月4日 (一)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/04 08:55
8月1日25:40〜のテレビ朝日「朝まで生TV」に出演した。予告プログラムは「日本の不安」という題だったのに、当日になったら「若者の“暴走・獣性”と“無責任”大人で日本沈没?!」という題に変更になっていた。パネルに最初表示された事件は、「渋谷小6少女監禁事件」「長崎4歳児殺人の12歳少年問題」「早大生レイプサークル事件」「八王子路上ごろ寝若者の逆切れ障害致死事件」で、それに鴻池大臣の「市中引き回し打首発言」事件も加えられていた。
以下私はビデオを見直すひまがないので思いつくままの所見を記す。
広島の尾道市立土堂小学校の蔭山英男校長が1993−94年頃を境に、日本の子供の「生命力の低下」、すなわち体力の低下、学力の低下、校内暴力や不登校の増加を示したグラフが、司会の田原総一朗氏によって紹介された。すると申し合わせたように福島瑞穂氏、宮台真司氏、宮崎哲弥氏の三人がこぞって、少年犯罪の数は増加していない事実をこれまたグラフで示し、最近いろいろな事件は起こるが、特別に異様な事態が日本社会に立ち現れているわけではないと力説した。
それはその通りだと思う。グラフの数字は用意していなかったが、私もはじめそう言おうと思っていた。人口の中に一定比率で現れる疾患者数は昔も今もそう変わっていないはずだ。かの三人は12歳児の残虐犯罪は昔からあったという。マンションに小学校6年の女の子4人を手錠監禁して自殺した男は異常性愛願望(少女の尿に興奮する)の病人で、自殺未遂を繰り返していた。社会が自由に解放された結果、病人が勝手自由に動けるようになっている環境が問題で、犯罪そのものが増加しているわけでは決してない。その指摘は正しい。
けれども、この三人がこぞって少年犯罪の強調に抵抗したのはなぜだろうか、と思った。ことに宮台真司氏、福島瑞穂氏の二人はゆとり教育、ジェンダーフリー、男女共同参画基本法など一般に自由の拡大、解放路線を今まで一方的に支持してきた人々である。大谷昭宏というよくテレビに出るジャーナリストもそうである。私からいわせれば典型的な「サヨク」である。ところが彼らは最近、誰か別の人のことを左翼といったりして、自らは左翼でないといわんばかりの様子を半身においてみせたがる。一体何だろうかと私は思った。
たしか議論も半ばをすぎたあたりで、私がスポーツ選手は練習(訓練)を大切にし、自由な技を発揮するにはフォームや型に自分を合わせることを必要とする。無形式、無拘束の自由ではスポーツは上達しない。スポーツ選手に求められている練習や形式が人間教育一般に当てはめられないのはおかしいではないか、という意味のことを言った。すると不思議なことに今回は全員が一斉に私に賛成した。私が教育の基本は訓練であり、暗記だ、と言ったら、なんと宮台が同じことを言い出し「教育は暗記だ」と叫んだ。精神科医の和田秀樹氏までが、病人を立ち直らせるには型にはまるようにして安心させることが大切だなどとも言った。
子供が何でも自分はできるという万能を信じる時期がある。その鼻をへし折られることで成長していく。ところが今は自我を阻害する壁がない。田原氏が昔はいじめが当り前で、いじめられて成長し、成績順位が一位からビリまで壁に張り出された恥と威しで成長した。その話から、私が教育の中には一定の「野生の暴力」が必要である、と言った。むかしは下級生で生意気な奴がでてくると上級生に鉄拳制裁された。今はそういうこともなくなっている。子供の非行を大人が制裁しない。親切な他人が非行少年を殴ろうものなら、問題になるし、へたすると刺される。というような私の出した話の流れから、宮大真司氏が柔道部や空手部のシゴキは必要なのだ、などとにわかに言い出した。えっ?あんたが?と私は目を剥いた。「もともとシゴキが厳しいと知られている運動部に覚悟して入って、間違って死んでもそれは仕方がない。」などとたしか彼が言うと、宮崎哲弥がそうだ、そうだ、と相槌を打った。えっ?どうなっているの、君達は?!
今日は文部科学省のゆとり教育のリーダー寺脇研氏は局側から誘われたのに出ていない。私からみてゆとり教育や過激な性教育やジェンダーフリーの問題における左翼解放派とみられる人々、宮台真司氏や福島瑞穂氏らは相変わらずよく喋ったが、思想のスタンスを狡猾に変え始めている。一連の少年犯罪は学校における自由と解放の結果である。最近の情勢は彼らには具合が悪いのである。ものの言い方、表現を変えて逃れようとしているようにみえる。
しかし言葉だけ保守に寄り添わせてみせても、破壊主義者の正体はじつは変わっていない。
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Subject:平成15年8月7日
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/07 17:46
8月5日夜飯田橋のエドモントホテル地階の料亭平川に席をとって、小堀桂一郎、松本道介(中央大学文学部教授)両君と久闊を叙した。われわれは独文学科の同級生である。
小堀君にはロンドンに留学中の宗教学研究中のお嬢さんがいる。「娘から昨日手紙が来て、今ミュンヘンにいて、我が家の伝説となっているDallmayrをこの目でたしかめ、店内にも這入って見てきたのだそうだ。」と彼が語りだしたので、私たち二人はオヤッという顔をした。
Dallmayrは由緒ある食料品店で、ミュンヘンの市役所広場の裏手の方の通りに面している。昭和40年(1965年)に小堀君が結婚したのを祝って、私が白ワイン二本をここから送った。それが小堀家の語り草となって、その頃まだ生まれていない令嬢の耳にまで伝わり、しかも38年も経って、記憶がつづいているのには理由がある。勿論このワインが小堀君をいたく喜ばせたからに相違ないが、ただそれだけのことではないのである。
小堀君はわれわれの仲間のなかで一番早くドイツに留学した。私がミュンヘンに渡ったときにはもう帰国して、何年か経っていた。彼の留学先もミュンヘンだった。ワインはDallmayrのブランドものに限る、という薀蓄を傾けた情報が彼から伝えられていたが、ワインとはどんな味の酒であるのかということを当時誰も経験していなかった。今の日本人にはほとんど信じられない話をしているのである。
「日本のデパートにワインが並ぶようになったのはいつ頃からだろう?」と三人はしばらく考え、語り合った。確証はないが、昭和47年−48年(1972−1973年)頃からではないだろうか、という推定に落ち着いた。
ミュンヘンから送られたワインは小堀家に配達されたのではない。彼は税関から通知を受け取った。羽田の税関へ行って、一本何百円か当時としては相当に高い税金を支払ってやっと自分の手に入る。小堀君は大よろこびで羽田へ受け取りに行ってくれたそうだ。澄んだ湖水の水のような色調の、herb(やや苦味のきいた辛口)というドイツ語の味覚にぴったりのワインを、若夫婦はたのしんだに相違ない。
ところが、同じ機会に私は何人か世話になっていた人にも同じワインを送ったが、そのうちの一人が不平を言って来た。贈り物なのに金を支払わなくてはならない。どう飲んでよいのかも分からないので当惑している、と。一般の日本人はまだワインを飲む習慣をもっていなかったのだ。ワインといえば赤玉ポートワインといって、ただ甘い一方の酒があった。葡萄酒とはそういうものだと思っていたのである。
小堀君は留学時代にドイツワインの味を覚え、帰国してもう二度と飲めないものと諦めていた。(日本が贅沢品を輸入できる経済大国になるなどと誰が予想していたであろう)。小堀君は新妻にドイツの話をし、ワインの味を説明し、Dallmayrを憧れの異国情緒とともに語りきかせていたことであろう。そんな中にとびこんで来た私からの二本のワインは、彼を狂喜させた。お嬢さんにまで一家の伝説として語り伝えられる名誉に与ったのは私の方だが、今夜久し振りに会って、ミュンヘンからの彼女の便りにまたそのことが書かれてあったのを聞かされるのも心楽しく、懐かしく、有難い話である。
あれからずっと自由貿易の可能な平和な時代がつづくということも、誰も予想していなかった。同時にヨーロッパは遠く、簡単には行けない。航空運賃のディスカウントなどというものはなく、ドイツまで片道68万円(今の貨幣価値にすればたぶん600万円)もした。そういえばピザという食べ物を日本で最初に出したレストランが六本木に開かれたのも同じ頃だった。作家の中村眞一郎氏が若い文学者の集りで「お前たちにイタリアのピザというものを食べさせてやる」といって連れて行ってくれたのが、私の記憶では昭和37年(1962年)頃ではなかったかと思う。
いずれも経済の高度成長の始まる直前である。私がドイツ留学から帰国したのは昭和42年(1967年)だった。二年間の留学の間に街並といい、道路といい、商品といい、日本が急激に変化しているのを実感したものだった。私たちの目は欧米にだけ向けられていた。昭和39年(1964年)末に所得倍増の池田内閣が佐藤内閣に変わった変わり目の頃である。
旧友とワイン談議をした一夜明けて8月6日朝、宮崎正弘さんから絵葉書の代りに、次のファクスが届いた。ワインやピザが珍しかった、あの地球が広く大きかった時代から、まだ40年は経っていないのである。
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西尾幹二先生
拝啓 昨日(8月4日)夜、ようやく中国・江南の取材から帰国しました。
「大上海メガロポリス」地域の変貌ぶりは驚かされます。ともかくSARS災禍が一応、あけて、酷暑の華南、江南は連日39度、40度です。 疲れ果てたうえに、すこし日焼けしてもどりました。温州までは飛行機もホテルも満員、完全に中国経済のエネルギーは戻っていましたね。紹興では魯迅先生の通った喊亭酒店で、とろけるような紹興酒を味わいました。
寧波では蒋介石旧居と「可母渡(かぼと)遺跡」も、ついでにみて特急で上海へ。
特急一等車はがらがら、上海も日本人がいないので満員の店、ホテル、レストランとがらがらのところと対照的でした。
総括的に中国はSARSから立ち上がり従来のエネルギーを回復。しかし日本人がまるで戻っていない。日本人相手のクラブは閑古鳥。ところが食べ放題飲み放題99元という日本料亭は行列ができていて、全部中国人でした。
上海までの日本航空も半分くらい。ビジネスクラスは二人だけ。外国人は大分もどって商談をしていました。
たぶん現地からの絵はがきより、このFAXが先になると思います。
平成15年8月6日水曜日
宮崎正弘
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日本人客ががらがらというのはSARSのせいだが、思えばワインやピザが珍しかったあの時代の中国は日本人には近寄り難く、今の北朝鮮のように北京政府は米帝国主義とそれにつき従う日本政府をどぎついことばで攻撃しまくっていた。文化大革命(1966−1976)の始まるほんの少し前か、始まりかけていた時代に相当する。
そんなに昔とも思えない自分の若い頃の小さな出来事がすでに「歴史」の色調を帯びてくることを伝えたくて一文を認めた。と同時にワインをどう飲んでよいか分からない人が大部分の社会が昨日まで日本に存在し、そしていつなにかの嵐で、また再びそういう社会にならないとも限らない、この世はうたかたの夢のごときことも伝えたくて筆を執ったのである。
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(管理人B.注).本日8月7日は九州熊本にて、ご案内のとおりのシンポジウムが開催されます。
西尾先生は8月4日(二)で「朝まで生TV」続編を予定されていますが、時間が
取れないのでこちらを先に掲載します。