Subject:コーヒーブレイク 15
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/03 23:21
日本会議熊本が主催するシンポジウム「日韓歴史大討論」について、プログラムが届いたのでご案内申し上げます。
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1. 日時 平成15年8月7日(木)午後6時〜9時
2. 会場 熊本市産業文化会館大ホール(700名収容)
熊本市花畑7—10 電話096−325−2311
3. 入場券 前売り¥2000 当日券¥2500
TEL096-322-7484・096-322-7494に連絡下されば送付します。
4. タイトル シンポジウム「日韓歴史大討論in熊本」
5. プログラム案
① 開会の挨拶
② 日本国歌斉唱・韓国国歌吹奏
③ パネリスト紹介
④ 各パネリストからの問題提起
金完燮氏「『日韓合邦』は正しかった」(20分)
占部賢志「日本の韓国統治——教育政策について」(20分)
西尾幹二氏「日韓の歴史と現実に如何に向き合うのか」(20分)
⑤ ディスカッション1、「日韓近代史について」(45分)
⑥ 休憩(10分)
⑦ ディスカッション2、「日・韓の未来について」(50分)
⑧ 閉会の挨拶
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Subject:平成15年8月17日
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/17 18:47
萌黄色(もえぎいろ)とうよりはエメラルドグリーンとむしろ言いたい大波浪が盛り上っては、また崩れる。その真中を小船が疾駆する。
阿蘇の外輪山を火口へ向かってまっしぐらに車で走った、そのときの印象である。車を小船にたとえれば、起伏の大きい左右の草原は波浪のごとくであった。盛り上がって小さい丘を形づくり、やがて丘を下って平べったい草原になる。どんどん車で行くから波のようにみえる。波を分けて船が進むようにみえる。
エメラルドグリーンの波の間に鉄紺というのか、黒に近い緑というのか、ともかく印象の強い杉の林が現れる。およそ1キロか2キロの細長い濃いブルーの杉の木立が波の間に見え隠れする。一つをやりすごすとまた現れる。まるで巨船が近づいてはまた離れていくようだ。「あれはみんな植林です」と運転手が言った。「なぜポツン、ポツンと植林したんでしょう?」「さぁーネ。」
阿蘇の第一の印象はこの外輪山の草原の光景であった。台風が去って、夏の陽光は誰に憚る所もない輝きをみせていた。
たしか漱石が『二百十日』かなにかでこのあたりの風景を描写していたかなと思うが、しかと思い出せない。漱石には草の丘を波浪に譬える体験はありえないはずだな、と思い、同行者に告げると、「熊本では漱石は人気がないのです」という思いがけない言葉が返ってきた。
熊本はいうまでもなく漱石ゆかりの地である。しかし熊本人には根っからの土着の人しか愛さない、いささかショーヴィニスティックな所があるのかもしれない。一番人気はだからどうしても加藤清正なのである。
火口からは白い噴煙があがっていた。有毒ガスを含むので喘息や心臓病の人は近づくのを禁止するとくりかえしアナウンスされている。うっすら異臭が鼻をつくが、幸い風を背に受けていたので、立ちのぼる噴煙は展望台とは反対側の位置へ流れていた。
阿蘇から黒川温泉、九重高原を遊んで11日夜帰京した。
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Subject:平成15年8月18日
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/18 09:46
『文藝春秋』誌から次のようなアンケート企画が届いた。
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拝啓
向暑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
皆様には平素より小誌「文藝春秋」にひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございます。
小誌では来る9月号(8月10日発売)におきまして、「日本 黄金の4000日 衝撃の事件 1964−74(仮題)と題した大アンケート企画を計画しております。東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年から、戦後初のマイナス成長を記録し、田中内閣が退陣した1974(昭和49)年までの約4000日こそ、戦後日本の絶頂期だったのではないでしょうか。高度経済成長が到達点に達し、社会の大衆化が進み、今でも記憶に残る大事件が次々と起こりました。
思いつくままに挙げてみれば、新幹線開通、「平凡パンチ」創刊(64)、いざなぎ景気始まる(65)、ビートルズ来日(66)、リカちゃん人形発売(67)、川端康成ノーベル賞受賞(68)、東大安田講堂占拠、アポロ月着陸(69)、大阪万博、三島事件(70)、ドル・ショック(71)、あさま山荘事件、田中内閣成立、沖縄返還、横井庄一さん生還、山口百恵デビュー(72)、長嶋引退(74)等々。この間に、現在の日本のあり方がすべて凝縮されていたといっても過言ではありません。別紙の年譜をご参考にして、もっとも記憶に残る事件を挙げていただき、そのとき、どこで何をしていたか、その事件をどう思ったかをお書きいただきたいと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
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私は送られてきた年譜の中から、昭和44年(1969年)12月27日を選んだ。そこには「衆院総選挙で社会党50減の大敗。自民党は300議席の勝利。『70年安保』問題に決着」と書かれてあった。私はこの日の総選挙を「もっとも記憶に残る事件」として選んで、次のようにアンケート用紙に記載した。
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「日本 黄金の4000日 衝撃の事件 1964−74」アンケート回答
1969年12月27日
人はみな日本の出来事に目を向けるが、世界史の大転換期でもあった。ベトナム戦争。ウォーターゲート事件。徐々に口を開いた米社会の暗部。黒人パワーの噴出。プラハの春。宇宙開発競争と人類の月面到着。中国の文化大革命。第二ヴァチカン公会議によるカトリック教会の世俗化。世界的な規模で広がった高学歴志向、教育爆発。著しい女性の社会進出、ウーマンリブ。性の解放。子供の大人化あるいは大人の子供化。大学生の情緒不安定と回答不可能な問いの乱発。パリの解放区と北京の紅衛兵騒ぎ。テレビに育てられた世代の出現とピル解禁。もうお母さんのように生きたくないという女性の意識変化。文明国の人口減少の開始・・・・
いろいろな意味で日本を超えた転換期で、地球はエネルギーが充満し、各地で破裂し、一昔前なら世界大戦が始まる時期だったが、核状況がこれを抑えた。共産主義が破竹の勢いで地上を座捲したが、ソ連戦車のチェコ鎮圧(プラハの春)は共産主義世界観の断末魔のうめきだった。東側は機能不全に陥り、そのことが西側の共産主義運動の性格を変えた。西側の繁栄と平等は、マルクスの問いをとうの昔に珍腐にしていた。繁栄と平等は人間を弱くする。創造力を奪う。この中でどうやって革命を起こすかが新左翼の矛盾だった。
1920年代からのスターリズムかファシズムかの二者択一の問いは戦後もマルクス主義か実存主義かの問いに引きつがれていて、ずっと緊迫していたが、この時期ににわかに意味を失った。日本では新左翼を甘やかした街頭乱闘と大学封鎖に国民が断固としてNO!と言った日、すなわち昭和44年末の総選挙でケリがついた。この日を境に百年の幻想は消え去り、無気力、無関心、無感動の70年代が始まった。
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Subject:平成15年8月19日
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/19 09:08
夏の旅から帰って、「インターネット日録」の感想掲示板を見ていたら、私が福田恆存の弟子であることをもって自らを任じ、A氏あるいはB氏とこの点で競い合っているとでもいうような莫迦げた風説が述べられているので、一言しておく。
私は福田恆存氏を敬慕している。しかし氏の弟子ではない。また唯一の理解者であるとも、思想の継承者であるともまったく考えていない。
私は氏を先生と呼び、昭和37年ごろから親しくお教えをいただく幸福を味わった時期をもつ。当時は何人も同年同輩の知友がそこにいた。大略10年ほど先生の著作と生身の先生を同時に身近に感じて暮らしたものだが、いつとはっきり言えぬまま、私は先生から離反した。
私は先生から必死に離れる努力をした。自分で今までの自分を否定する苦しい歳月があった。先生と似たようなことをやっては自分が生きていけないからだ。自分を活かすにはこれまでの影響を全部拭い去ってしまわねばならない。よく考えれば、そんなことが出来るはずもないのだが、自分をそのように追い込む必要があった。思想のあの点でもこの点でも、先生に同調できないものを自分のうちに感じた。そこを明らかにすべきであると思った。先生に考え方を合わせるようなことがあっては、自分に死刑を宣告するようなものである、と。
私の離反劇は先生の察知する所となり、先生の不快を買った。察するに私の態度に反抗的なところがあったからであろう。その時期は不運にも先生の文章力が、どういうわけかやや生彩を欠き始めたと今ならば判定できる頃合と重なっていた。
私はこの間の苦しい心の闘いをまだ言葉にしていない。先生は演劇人であり、英文学者であり、国語問題の闘士であった。私はそのいずれにおいても先生から1000歩も遠いところにいた。私に先生のユーモアのセンスはなく、貴族主義のプライドもなかった。
一例をあげれば、私は「平等」に対する考え方が先生と違っている。日本の国民の強さは太平楽めいた民衆の平等意識にあると私は思っている。先生は階級意識を欠くから日本人はダメだというような意味のことをよくユーモアをこめて語っていたが、イギリス社会をモデルにして日本を見ているように思えて、私には理解しがたかった。
外からどんどん新しい文明を入れ、古い自分を捨てていく日本人の一見軽薄なあり方に、福田先生はいつも懐疑的だったが、私はそこに日本人のバイタリティを発見し、期待していた。私は経済繁栄を目指した日本の選択を肯定さえしていた。先生とはたぶんこの点が決定的に違っていた。
古い文明を大事に保守するヨーロッパと、新しい文明を矢継早に取り入れる日本との比較で、先生は大体前者に軍配を上げ、日本の西洋にとうてい及ばぬ所以を説かれたが、私はヨーロッパの古い文明にある種の硬直を感じ、しかも日本の方がヨーロッパよりある意味で古く、ヨーロッパに新しさと底の浅さがあることも少しづつ意識するようになった。
先生は大東亜戦争の否定論の否定論者だとアイロニカルな言い方をなさったが、私は率直に自らを大東亜戦争肯定論者でよいと思っている。
私は先生の神経の震えるような文体に魅かれ、真似しようと思ったことがあったが、次第に自分とは違う精神の持主であると気がつくにつれ、先生の文章に自分が及ぶか及ばないかということ自体を気にしなくなっていった。
それでも若いうちは永い間これが心を苦しめた。ある日先生が私に「西尾君の文章は私の文章とは違う。中村光夫のほうに似ている」と仰有った。それが「とうてい私には追いつかないよ」と言っているように聞こえて苦になった。けれどもそのとき先生はこうも言った。「君の文には前を承け後でもう一度展開し直す論理性がある。それは悪いことではない。」このように後半に言われたことのほうに私が意味を認めるようになったのは大分経ってからのことであった。しばらくは自分が否定されたとばかり思って傷ついた。
私はどういうわけか先生の著作を随分長いこと読んでいない。一冊をなす「福田恆存論」を書きたい、と自己広告しながら、今もって果たせないのは、心の中の整理ができていないだけでなく、あえて遠ざかっていた時期が長いこととも関係があるかもしれない。
小林秀雄にせよ、三島由紀夫にせよ、強烈な個性の周辺には必ず死屍累々たるエピゴーネンがいる。小林を敬慕しかつ畏怖し、評論家として立てなくなった数知れぬ人々の体験記は昭和文学の隠されたエピソードである。ラディカリスト三島は、最後には唯一人の弟子森田必勝しか認めなかった。ニーチェに三流音楽家ペーター・ガストしか弟子がいなかったように。
晩年の福田先生にも強烈な求心力があり、三島事件のあとますます烈しさを増し、離れていなければ食い滅ぼされる鬼面のこわさがあった。若い文芸批評家にも、舞台演出家にも、英文学者にも、先生の強い個性の光に当てられ、とうとう一家をなすに至らなかった人が多数いる。
ツァラトゥストラはこう言った。「弟子たちよ、私はこれから独りになっていく。君たちも今は私から去るがよい。しかもおのおのが独りとなって。そのことを私が望むのだ。」「いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。」(第I部、贈り与える徳)
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Subject:平成15年8月20日
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/20 10:25
「日録」の感想掲示板というものをほぼ毎日読むようになって、経験したことのない奇異な感覚を味わっている。自分の書いたものがすぐに論評されるのは私には初めての体験である。おおむね敬意をもって扱われるのは有難いが、なかには遠慮なくズバッと私という人間を射抜いている表現もある。福田恆存先生との関わりにおいて私を誤解している表現の例もそれだが、この点は19日付で私の立場を明示しておいた。しかし誤解ではなく、なかには私という人間が見抜かれ、気づかれていたか、やはりと感心する次のような例もある。
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[624] 私の読み取り 投稿者:たこのす 投稿日:2003/08/12(Tue) 01:12 [返信]
・・・・・・略・・・・・・
私が始めて西尾先生を知ったのは、外国人労働者を受け入れるかどうかで堺屋太一と議論したバブル期のNHKの討論番組でした。そこで先生がこういったのを鮮明に覚えています。
”日本をドイツみたいな国にして良いのですか!”
私はドイツ文学者の癖に何ちゅーことを言う人だと腰が抜ける思いでした。
・・・・・・略・・・・・・
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ここを読んだとき私は少し心がすくんだ。私にとって自然な発語が他の人にとっては愕然たる印象を与えるということを私自身はまるで意識していなかったからである。
ドイツを学ぶのは自分のためである。あるいは自分の属する文化圏、日本のためである。ドイツのためにドイツを学ぶのではない。若い頃、「私はなにもドイツのために生きているわけではないのである。私はドイツ文化の宣伝係ではないし、私の仲間はドイツ文化極東出張所員ではない。」(『ヨーロッパ像の転換』第9章「〈留学生〉の文明論的位置」)などと書いたのは、同じ学会の先生や先輩たちを見て、主体性のなさに対する反発を覚えたからであった。
私はドイツ研究を志したが、どこまでもドイツは「他者」でありつづけている。外国文学者はおうむね学んでいる対象国を崇敬する余り、相手の文化に次第に埋没し、自己をそこに同化させてしまうケースが多い。私はずっとそうでない人生を歩んできた。そして、それは無意識に心に染みついていた。
だから、「日本をドイツみたいな国にして良いのですか!」は、私には特別奇を衒ったのではない、自然に口をついて出てくる言葉だった。それは私がゲーテやニーチェを擁するドイツの19世紀までの言語文化を敬愛していることとは自ずと別の事柄であった。古い文化を肯定すれば、現代の文化までことごとく肯定し、学習の対象にしなくてはならないというのはおかしい。今まで欧米文化に対して日本人研究家はとかくにそういう姿勢をとり勝ちだった。どういうわけかフランス研究家にその例は極端に多い。フランス独特の中華思想に多分まきこまれてしまうからであろう。勿論欧米に限らない。中国研究家にも例が多い。心して注意したい。
8月1日の朝まで生テレビを見て、感想板に数多くの意見が述べられたが、発言を意図して少なくしていたあの日の私の姿を遠くから見ていて下さった次の観察文は、ことのほか私自身には納得がいく、ありがたい内容であった。
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[535] 朝まで生テレビの感想 投稿者:保守とディフェンス 投稿日:2003/08/03(Sun) 15:57 [返信]
日録と関係がありませんが、先日西尾先生が出演された
朝まで生テレビの感想を書かせていただきます。
私、朝まで生テレビの昔のビデオも録画でとってあるくらいに、
この番組を好んで見ており、西尾さんの過去に出演したビデオも所有している
のですが、今回の西尾さんの発言も鋭い発言ばかりで、何か遠い眼差しで
本質を一突きするかのごときの正論ばかりだったと思います。
聞いていて、ああ、この問題の本質はそこにあったのかと、なにかもやもやした
疑問が氷解するがごときのカタルシスを得られる発言でした。
刑罰の本質は応報か教育かというのは、西尾さんのおっしゃるように明快な
結論の出ないテーマですが、「遺族はイエス・キリストになる」(西尾さん)
ことを強いられる少年事件の法的責任のあり方には強く疑問を持ちます。
また、「社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」という
西尾さんの女性一般に対する発言も、敵意ではなく、愛情に満ちた言い方で、
平山郁夫氏の「家事育児を経た女性は、絵の能力がみるみる上達していった」
という例を出して、女性のあり方に対する一つの考えを呈示していました。
(反対の方もいるでしょうが)。
ブキャナンが言っている「母親みたいになりたくない女性の増加」が少子化
をはじめとした物事の根本問題であるということに共感していた西尾さんが
印象的でした。
以前どなたかが、西尾さんの発言はすべて重ねると一つの論文であるかの
ようだと言っていましたが、今回も西尾さんの発言ひとつひとつが、遺言である
かのごとき、鋭さとまとまりを感じました。
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さいごに「遺言」と書かれたのはやられた、と思ったが、あの日の印象は多分こういうイメージであったであろう。声を大にして議論しないつもりで臨んだので、良い効果をあげたのである。あまり出しゃばらぬようにしていたのに、田原総一郎氏があの日は珍しく私に発言の機会を多く与えてくれたので、そのつど手短かに肝心なことだけを語ることができた。
番組で扱われたのは考えることが非常に多い深刻なテーマであった。「日録」に若年層の犯罪多発に対する私の考えはまだ示されていない。
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Subject:コーヒーブレイク 16
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/30 16:10
9月に二つの「西尾幹二講演会」を行います。
(1) 9月10日(水)18:30〜21:00
金沢市観光会館
「子どもに何を伝えたらよいのか——誤解されている個人主義——」
主 催 金沢青年会議所
連絡先 090−3298−8413 葭田(ヨシダ)
入場料 ¥1000
(2) 9月27日(土)1:30〜
浦安市民文化会館
(京葉線・新浦安下車)東京駅から20分
「日本再生への道」
主 催 UNKの会
連絡先 047−390−9727 関根
後 援 産経新聞社千葉総局
入場料 当日¥1500 前売¥800