Subject:平成15年8月25日 (一)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/25 21:06
8月1日朝まで生テレビでの私の一つの発言に刺戟されて、日録の感想掲示板のほうに議論が百出した。論争は騒然として、侃侃諤諤たる有様であったようだ。8月20日付日録に私が取り上げたある人の引用文に端を発する。翌日から8月24日までの僅かな間に、関連発言は、私の数えた限りで述べ人数35人に及ぶ。
私は言い出しっぺの責任をとって、議論の基礎となるべき資料を以下に提供する。
(1) 8月1日朝まで生テレビの録画から、できるだけ正確にあの日の私の言葉をここに再現する。ただしあの場における笑い声や拍手やどよめきまでは再現できない。
(2) 上記に異を唱えた感想掲示板[692]番の発言から、私が社会的評価をこれで失墜したと看倣す[704]番の発言まで、論争開始段階の5人のご意見をここに再掲示する。
(3) 私のテレビ発言の元になった拙著『自由の悲劇』の関連文章を紹介
これにより私の真意をより正確に理解していただけたら幸いであるが、私は資料を提供するだけで格別の見解は述べない。(尚『自由の悲劇』に私の発言の原点があることは[701]番の方により既に指摘されている。)
(1)朝まで生テレビの私の言葉は次の通り「芸大学長の平山郁夫さんがある日こんなことを言っていました。夫婦で画家になっている自分のお弟子さんをたくさん見てきた。夫のほうが絵を描くチャンスは多く、展覧会に出す点数も妻よりもはるかに多い。妻の方は家事や子育てで忙しくしていて、なかなか絵に向かえない。しかしやがて子育てを離れてから、長い間絵筆をもたなかった妻の絵がメキメキ上達し、変貌するケースを非常にたくさん見てきた。家事や子育てが人間としての彼女を育てたんですね。そこでとくに、外へ出て社会で働くだけがいいことだと思っている若い女性に言っておきたいんですね。社会に出て自己実現だなんていうくだらないことを言うな。」(会場は爆笑)
(2)以下感想掲示板より5人のご意見を再掲示する。
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[692] 周回遅れの朝生感想 投稿者:セロー 投稿日:2003/08/20(Wed) 22:02 [返信]
いつもの朝生では、激しい議論の度に「がんばれ西尾先生!」と手に汗にぎりお茶の間応援団と化してしまう私ですが、今回はコーヒーなどすすりながら落ち着いて見ることが出来ました。
それは、今回のテーマが議論になりにくいものであり、またパネラーもそれぞれの立場で意見を述べるに留まったからかもしれません。
西尾先生の発言は、「ものごとの表も裏もない社会」「大人の世界の恐ろしいある種の秘密がない社会」など、よくぞここまで的確な言葉が浮かぶものだと感心するほど、ひとつひとつ大きく頷けるものでしたが、ただ一点、今日の日録でも取り上げられたこの部分には頷くことができませんでした。
>「社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」という
>西尾さんの女性一般に対する発言も、敵意ではなく、愛情に満ちた言い方で、
>平山郁夫氏の「家事育児を経た女性は、絵の能力がみるみる上達していった」
>という例を出して、女性のあり方に対する一つの考えを呈示していました。
(保守とディフェンス様ご投稿より)
独身で、もしくは子どもを作らず働く女性は「社会に出て自己実現」という言葉で表せるほどパターン化されたものではありません。こうした言葉を聞くたびに、当事者のひとりとして、「マスコミで作られたキャリアウーマンのイメージに囚われているのではないか」と思ってしまいます。
今ここでひとつひとつの事例をあげることはしませんが、少なくとも私を含めて私の周囲のでは、仕事と子育てを「天秤にかけて」仕事を選んだという人はほんの一握りです。
また、平山氏の言葉の引用も一見正論に思えますが、働く女性の多くは、才能次第で元のポジションに戻れるような立場にはいません。したがってここで画家の世界を例に出すのは不適切と思います。
私自身、例えばビーチバレーの佐伯美香選手やマラソンのシモン選手など出産後に復帰して活躍している選手には若い独身選手以上の拍手を贈っています。その円熟味を増したプレイに感動もします。
しかし、それを普通の女性に当てはめることはしませんし、できません。なぜならば、仕事の質が違うし受け入れる環境もまったく違うからです。保守とディフェンス様が「女性のあり方に対する一つの考えを呈示していました」と書かれていたのとは逆に、私は上の引用部分の発言は西尾先生にしては少々乱暴だと感じました。
蛇足ではありますが、私の感想は「当事者」ゆえのバイアスがかなり掛かっているものと思います。その点、誤解している部分などございましたらお許しください。
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[698] あと出しみたいでヤだけど 投稿者:御前♂±♀ 投稿日:2003/08/21(Thu) 10:45 [返信]
朝生での西尾先生の「女は社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」云々の発言に関して、日録の方でもこちらでも再度意見が出ているようなので、私もイッチョカミさせていただきます。
先に言い訳すると、私はこの発言のあった朝生を見ていません。日本からもうじき録画ビデオが届く予定ですが、実際に自分で討論の流れを見て、コンテクストを把握しないうちは、はっきりしたことは言えないだろうというのがあります。
ただこうしているうちに時間が経ってしまい、後でなにか言いたくても完全にアウトなタイミングになるのもちょっと忍びないので、あえて「まだ朝生を見ていない状態」でも私が思うことを、勝手ですがが書いておきます。
最近、公けの場での政治家の女性蔑視的発言がテレビなどで取り上げられているようですね。早稲田の集団レイプ事件に「あれはまだ元気がある」と某代議士が言ったとか、森元首相が「子供も産まない女が年金もらおうとするのはおかしい」と言ったとか。どちらも少子化問題に関する討議の場だったそうですね。
で、私はこの手のことを聞いても、もはやいきなりカッカきません。というのは、こういうトピックスを取り上げる時のテレビ報道のやり方に疑念を持っているからです。一体、どんな討論の流れの中で、発言者が自分をどの位置に置いて言ったことなのか、ということがまったくというほど見えないからです。確かにこの発言だけを見れば、私も独身で働く女性の身として愉快ではないです。まぁ「レイプはまだ元気」の方は、多分、大衆にウケを狙って、所謂「おもしろあぶな」なことを言おうとしたのでしょう。しかし芸としては失敗でしょうな。森さんの方は、彼が内閣時代に、女性蔑視的発言をいろいろしたというのを私は聞いていないので、この一言のみで、森さん=女性蔑視論者、とは私としては決められません。
この手のことをよく言うのに、石原都知事がいますが、彼は本当に「ババア」発言をしたし、他でも突っ込まれるようなことを言い易いです。私は「ババア」発言のことを聞いた時思ったのは
「こういうこと言うと、小泉さんや安倍さんより品が一段落ちて見えちゃうんだよ」
というものでした。率直に言って、暴言だと思いますね。ただし、もし今都知事を選ぶとしたら、私は石原さんに一票入れます。何故か?それは石原さんが一番働く女性(特に母親)にとって助けになる政策を実行しているからです。駅前の都で運営する託児所を設置して、評判がよいため数も増えているという事実があります。これは、口で女性の気持ちを理解するの、働く母親の味方だのと言って、実際は指一本動かさない人より、当然私としては支持できることです。つまり極端な話、石原都知事が「女なんか、ケッ」と暴言吐いたとしても、この政策を出されると、石原=働く女の敵、とは言えないのですね、私の感覚では。
それで長い前フリになってしまいましたが、結論を言うと、私は朝生の「女は社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」=西尾幹二の人格、女性蔑視論者、とは思っていません。西尾先生の著書を何冊が読ませていただきましたが、私の感覚では女性蔑視論的なものはなかったと記憶しているからです。ただし例の朝生発言は、やはり暴言として聞こえてしまうと思います。私としては愉快なものには聞こえません。(再度、まだビデオを見ていない状態での感想ですが)
自分自身で生き方を選び、自己責任を負う意志のもとに、どこでどのように自己実現を求めるか、という選択の自由は男女の性別に関係なく保障されたものであるし、そうでなければ先進国社会などとは言えない、と私は思っていますので、その先進国の一つである日本の、思想的リーダーの一人である西尾先生には、あまりこの手の暴言はしていただきたくないな〜、というのが、私個人的気持ちではあります。
でもね、「国民の歴史」「自由の恐怖」で見る、あの硬質のダイヤモンドのようなクールな文体と、Face to Face討論朝生で見るベスビオス火山、もしくは阿蘇山のパッションの対比こそが、西尾先生の魅力だとも思っています。いつまでも長生きを、とではなく、天寿まっとうの日の前日まで、西尾先生は現役のままでいていただきたいと祈っております。
あ、そうそう。それと福島瑞穂氏は、あの時、西尾先生に何も反論しなかったのかしら? だとしたら彼女のフェミニズム看板とやらも根性入ってないですねぇ。まぁ議員だから、人気取って当選していくらのもんだから、ここ最近のセンゴミンシュ主義擁護派に向かい風状況で、あんまり嫌われる態度はとりたくないわ、というのも分からんではないけど、にしても、だ...。
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[700] 朝生の西尾先生の発言について 投稿者:岩田 投稿日:2003/08/21(Thu) 14:25 [返信]
私の家にはテレビがありません。テレビがあるとどうしても見てしまうからおかないことにしています。そんな私が後悔するのは朝まで生テレビに自分の尊敬する先生方が出ておられるのを耳にするときです。
この西尾先生が参加なさった番組は、たまたま先輩の家で見ました。朝まで生テレビを見たのも初めてのことでしたし、あんなにもテレビの前に座っていたことも数年ぶりのような気がします。
学識ぶった上に発言には重みがない方や、気持ちだけで発言が空回りしているような方もいたように思います。
西尾先生は科学的に発言する人々に対して、極めて自然体の文学的、あるいは人間的発言をなさっていたように思います。「翳りのなくなってきた現代」という表現は、まさにその通りであると感じました。
私が感銘を受けたのはブキャナンの本に対する評価です。あの本が取り上げられたことも驚きでしたが、内容に対して極めて冷笑的な方々が多かったのが印象的でした。いささか意地悪い見方をすれば、我々は政治家が大衆に書いたような本など真剣に相手にはしませんよ、というような傲慢な感じがしました。その中で西尾先生が「私はこの本を肯定する。ただ、外交問題は駄目だ」といっていたのが印象的でした。
そして、「女は社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」という発言にも感銘を受けました。ここまではっきりと言い切れるのは西尾先生しかいなかったであろうと思います。この発言のポイントは管見では「社会に出て自己実現」というところにあるのではないかと思います。女性蔑視の発現ではありません。社会に出なければ自己実現ができないというような、安直なイデオロギーに対しての警鐘だと思います。「社会に出て自己実現」というイデオロギーの下では、社会に出ていない専業主婦は自己実現をなしていないことになります。しかし、人間の価値というものはそんなところにはないというのが思想家としての西尾先生のお立場ではないかと思います。しかも、そのイデオロギーを受け入れれば、過去の輝いて生きてきた女性の方々を踏み躙ることにもなります。上辺を飾り自己中心的な人間を増産してやがては社会、国家を溶解させる危険なイデオロギーへの鋭い指摘であったように思います。
浅学を顧みず、蛇足、感想を書かせていただきました。
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[702] 女性の社会進出について 投稿者:北のあきんど 投稿日:2003/08/21(Thu) 17:01 [返信]
私は女性の社会進出がけして悪い事ばかりではない・・・と考えるほうです。
しかし条件があります。
それは家庭をないがしろにしてはいけない・・・ということです。
正直こういう意見は女性が最も嫌う意見です。
個々においては色々事情があるわけだし、あたまから押さえ付けるような表現そのものが宜しくない・・・という女性の方が多いです。
でもちょっと考えてみてください。
はたして日本の社会は過去を振り返って女性の能力を本当に拒んできたのでしょうか。
私は女性の社会での役目と言うのは重要だったと思っています。
しかし先ほども言いましたが、そこには家庭を重視する女性の役目というものがあって、始めて成り立つのです。
私は商人の家に育ちましたから、他の人とは少し環境が違うかもしれません。
私の母も祖母も大変よく働きましたよ。
朝食事の用意をして、子供達が学校に行ったら洗濯・掃除に追われ、それから店に出ます。そしてまた御昼の食事を用意して、また店に出て、店員が全員食事を終えたら自分が食べて、そしてまた店に出ます。
そうこうするとまた夕飯の支度です。
そのあとは店には出ませんが、布団の注文なんかあると夜なべで縫います。
皆が寝静まってもまだ働いています。
こんな環境に育った私の感じる、女性の社会での役割はとても重要だと言う思いは理解していただけると思います。
ちょっと特殊でしょうけどでも農家とか漁師もそうですよ。
問題は最近の女性が、自分の母親と同じ人生は歩みたくない・・・という考えではないでしょうか。
そこからして既に女性の能力を放棄してませんかね。
女性と言うのは非常に家庭では能力を発揮できる生き物なんです。
子育てだってそうですよ。
女性がよく働く国はどこも繁栄すると信じてます。
それが少し履き違えているばかりに、問題が生じているんです。
私の祖母はよく言ってました。
「女は男より力もない、頭もない、でも旦那を支えられるのは女しかいないんだ」と。
これこそ本当の幸せな人生じゃないですか。
家庭を支えてその答えがズバリ自分に全部返ってくるんですから、これほど遣り甲斐のある仕事はないと思いますよ。
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[704] 一つの失言による社会的評価の失墜 投稿者:やや 投稿日:2003/08/21(Thu) 19:36 [返信]
西尾先生の「女は社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」という発言には殊に失望してしまいました。時代は刻一刻と変化しています。
「あの時代は良かった」「昔は良かった」などと懐古する発言は個人の評価を著しく失墜させる結果をもたらしてしまいます。
現在は男女ともに社会で自己実現を叶える時代です。時代の流れといいますか、社会の変化によるニーズというものが発生しているわけです。
女性が社会でたくましく、そして優雅に働くことは女性個人の自己表現と映り見ていて大変気持ちがいいものであり、社会がより活発化します。
専業主婦というものは家の中でじっと家事をすることですよね?
しかし、専業主婦ということは経済的にどっぷり夫に依存する結果となります。
これは精神的な自立とうい意味で非常に不健康ですし、女性のそれまで受けてきた教育とか培ってきたスキルの社会的浪費にもつながります。非常にもったいない。
日ごろ西尾先生の北朝鮮に対する的確かつ冷徹な視点や教養豊かな発言に感心させられてきた私としては、この西尾先生の「女は社会に出て自己実現などというくだらないことを言うな」という発言によって評価が急落したことは否めないです。
・・・・・以下略・・・・・
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Subject:平成15年8月25日 (二)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/08/26 16:07
(3)私の発言の元になった『自由の悲劇』の関連箇所を以下に紹介する。
若い女性の読者へ
山の中腹を切り拓いて開墾はできても、山を動かすことはできない。この場合、どうしても動かない山とは何か。それは自分というものである。弱い者も強い者も、才能のない者もある者も、女性も男性も、誰しも自分というものの限界の中に生きている。・・・・・略・・・・・
よく女権論者は、女性の敵はつねに男性であり、男性中心に作られてきた歴史や社会のシステムにあると主張する。しかし女性の敵は、いったい女性である貴女自身の外の何処にあるというのだろう。それとも貴女は、妊娠し、出産する存在としての女性自身の条件の下に生きていないというのだろうか。
「性差」は存在しない、などとばかげたことはどうか言わないでいただきたい。子供を産んだ男性はいないのである。男性が女性より能力的に優れているとかどうとかの問題ではない。男女の間に優劣の差はない。ただ女性は女性という生理的宿命を背負っており、問題はそこを起点にして考えを出発させなくてはいけないと言っているだけである。同様に、男性もまた、男性以外に持っていない生理的・心理的・社会的宿命を背負って生きているのである。そのことを女性である貴女はいったい一度でも考えたことはあるのか。
自分を社会的に弱い存在と意識し、しかも圧倒的に弱いのではなく、対等であるにも拘わらず不利な状況にあると考えられるような立場にある人間は、女性に限らず、とかく平等に関する強い内攻的復讐感情(ルサンチマン)を抱き勝ちである。・・・・・略・・・・・
人間にとってどうにも解決できない困難な相手は、社会的・政治的な課題ではなく、自分という存在に外ならない。自分ほどに困った、厄介な相手はこの世にない。
自分を比較的に弱い存在と意識する者は、自分だけが不自由と思い定め、自分より強い他の存在の自由をひたすら羨望する。そして、自分の不自由を地団駄踏んで口惜しがる。しかし、そこでよく考えて欲しいのだが、能力のある者は、その能力ゆえにひどい不自由を忍んでいるのである。権力を持つ者は、その権力ゆえに自分で自分を扱い兼ねることが、まま多いのだ。内攻的復讐感情(ルサンチマン)の虜になっている者には、それがいかんせん見えない。・・・・略・・・・・
弱い者だけでなく強い者も、才能のない者だけでなく才能のある者も、女性だけでなく男性も、人間である限り、ことごとく、自分というものを扱いかね、苦悩している。一番手に負えないのは自分という存在である。自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。・・・・・略・・・・・
よく女性の「自己実現」ということを聞くが、男性も含めて、職業の多くは「自己実現」の手段でも何でもない。私も自分の所説を述べ、本を著して生きているが、それが「自己実現」だなどと大それた考えを抱いたことは一度もない。人は誰でも、何もない人生の空白の時間をそれぞれが自分なりのやり方で埋めているだけである。つねづね思うのだが、本当に「実現」すべき「自己」を持っている人が私には羨ましい。そういう「自己」を持っている人は、男女を問わず、覚悟して不幸をいとわぬ茨の道を歩むことだろう。
もし私と同じ程度の、普通の男性の職業人と立ち混じって活動することを女性の「自己実現」と呼ぶのなら、それも決して悪くはないが、そういう女性にはこれだけのことは言っておきたい。中年過ぎの男性で、勤務を辞めたいと一度も思わなかった者は恐らくいない。しかし、妻子のことを考えて、じっと忍耐しなかった者もやはりいない。
私は先に、女性は妊娠し出産するという女性としての宿命を背負っているが、宿命は女性にだけ与えられているのではなく、男性もまた、男性以外は持っていない生理的・心理的・社会的宿命を背負って生きているのだ、と書いたのを覚えておられようか。「自己実現」を目指す若い女性の読者よ、どうか右の言葉だけは今一度読み直しておいていただきたい。・・・・・略・・・・・
私が委員として参加している第14期中央教育審議会の中間答申とりまとめが大詰めにちかづきつつある最中の・・・・・略・・・・・9月14日(平成2年)、東京芸術大学学長・平山郁夫画伯の参考意見聴収において、才能というものについて、大変に含蓄のある面白いお話を伺う機会を得た。
才能は悪い条件に抗して伸びるものではなく、悪い条件をつねに利用して伸びるものだ、と画伯は仰しゃった。一寸何かがあって潰されるような才能は、何をやっても潰される、とも語った。・・・・・略・・・・・
次の話がひときわ私の印象に残っている。多数の弟子や卒業生を見守ってこられた画伯ならではの話ではあるが、芸大時代に知り合って結婚する。夫妻ともに画家というケースが、近頃は珍しくない。そういうカップルの運命をじっと見つづけていると面白いことに気づく。夫の方に絵をかく時間は多く、出展点数も妻の何倍にも及ぶ。しかしなかなか伸びない。家事をし、子を育てている妻は絵筆をとるひまもなく、歳月が流れる。しかし子育てが終った頃に、突如として妻の絵が良くなってくる。家事や育児が人間としての彼女の成長を引き起したに違いない。それが絵に反映する。絵はそういうものであり、他に理由は考えられない。1、2の事例でいうのではなく、非常にこういうケースが多いので考えさせられている。技術を磨くひまのなかった妻の絵がにわかに売れ出し、夫の方は顔色なしである。男の度量が広ければ、彼の方もやがて伸びてくるが、おかしくなって離婚に至るケースも少なくない、と。
若い女性が「自己実現」というようなことを言いたいのなら、こういう事例をよく考えてから口にすべきであろう。人間としての成長なくして、いったい何が「自己実現」であろう。そして人間として成長し、幸福になるのに、どこで、どうしなければならないという決まりはない。生涯じっと家の中にあっても、成長し、幸福になる者はなるし、ならない者は、どこにいてもならない。