平成15年10月4日
 
 
 批評の条件 (一)   
/H15年10月04日11時36分 (移転時日付)

                     投稿者 西尾幹二  2003/10月4日 11時36分



 
 当インターネット日録をときおり開いて下さっている読者にひとことお断りしておかなくてはならないことがある。当サイトには「日録感想掲示板」が附属していて、誰でも自由に意見を書き込むことができるシステムになっている。勿論そこできめられた条件さえ守れば、私の主張内容を批判するのも自由である。

 約3000〜5000人程度が予想される当日録の訪問者は、必ずしも「日録感想掲示板」にまでは手を伸ばさないかもしれない。しかしいろいろな論争がそこで起こり、私に無関係な論争もあれば、放って置くと私の名誉にも関わる言い争いがなされるケースもあって、困惑することもときにないではない。

 今日とりあげるのは関連する隣接の掲示板「新・正気煥発掲示板」にまで言い争いが飛び火して、放って置けない情勢と見て、あえて書くのである。しかもこの件は一度懇切に私の所見を表明しておいたのに、察しの悪い関係者は私の言の一を聞いて十を悟る能力を持っていない。つまり、文章読み取りの一定レベルの能力を持っていないのだ。

 今回は「日録感想掲示板」に乱入する書き込み者の知的並びに道義的レベルまで含めて、苦情を申し上げる意味もある。

 ことの起こりは8月初旬に熊本の旅から帰ってきたら、森英樹と名乗る新しい書き込み者が、「疑問」と題し、「最も疑問なのは西尾氏をはじめ保守派論者が早稲田大学名誉教授松原正氏の批判を黙殺していることです。」[590]番2003.8.8 と私を直に名指しして、いきなり論難することばを文中に投げつけてきたのである。

 はて、さてなぜ松原正の名がにわかに出て来たのか私には事情が呑みこめない。唐突である。私は日録で一度も言及していないし、すっかり忘れていた名前である。若い頃、何度か会っているが、今の私は彼について何も知らない。彼の私への「批判」がいつ、どこに書かれているのか、読んだことはもとよりないし、その存在すら知らない。

 いわゆる公開の批判はそれなりに名の通っている雑誌や新聞に書かれなければ効力を発揮しないが、それでも出版物の数が多いので知らないで終わることが少なくない。『国民の歴史』への左翼の批判本は十指を越えると聞くが、最初の一冊以外を私は手にしていない。

 そうこうするうちにいろいろな人が「日録感想掲示板」に松原正についてあれこれ語りだした。松原が旧仮名を使っているので福田恆存の正統の弟子だが、西尾は新仮名でずっと書いてきたので保守派としては失格だ、というようなことやらなにやらいろいろ言いたい放題の話題がくり出される。

 森英樹と言う人は再度私にあてて次のように言う。「私は松原正氏の先生への批判をもっともな事だと思い、それに対する先生の反論を期待しています。松原氏は福田恆存氏の直系の弟子だと思うのですが、松原氏の門下生は品性下劣な方が多いのは何故だろう。」[691]番2003.8.20 などと私に関係ないことまで書いてくる。

 松原正の「批判」の存在自体を私は知らないのに、それは「もっともな事だと思う」と言い、私に「反論」せよと言い、私がいま知らないこの人物の「門下生」のことまでゴタゴタ書いてくるこの森という人は余りに無礼ではないかと、そのとき思った。私は管理人Bさんを介して彼に個人的にメイルを送って、失礼を窘めようかと思ったほどだ。

 彼が誰かある人を尊重するのは彼の自由である。しかしそれを前提にして、同じ尊重を私に強要するのは常識を欠いている。ましてその「門下生」のことなど、私が知るものかと言いたいことを言い募るのはどうかしている。この人は血迷っているのではないかと私は思った。

 つまり森という人は私が松原正なる人物と近い関係にあり、その門下生の誰彼れを私が知っているという前提で話しかけてくる。じつに迷惑である。他にも福田恆存氏関連の書きこみがあのころサイトのあちこちに出た。

 私が「日録」8月19日に次のような書き出しの長文を書いたのを覚えている読者もおられるだろう。

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 夏の旅から帰って、「インターネット日録」の感想掲示板を見ていたら、私が福田恆存の弟子であることをもって自らを任じ、A氏あるいはB氏とこの点で競い合っているとでもいうような莫迦げた風説が述べられているので、一言しておく。

 私は福田恆存氏を敬慕している。しかし氏の弟子ではない。また唯一の理解者であるとも、思想の継承者であるともまったく考えていない。

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 この文章に初見の方はお手数でも当日録の表紙から150817をクリックして、同文をご一読たまわりたい。私はあのとき福田恆存氏と自分との関係をあらためて考えなおしてみたいと思い、この機を利用して一文を認めたのだった。

 そして松原正の名前はここでは一言も触れていないが、折も折であるから、じつは意識してきちんと分る者には分るように書いておいたのである。

 嗚呼、読者よ、どうして一を聞いて十を悟らないか。私になぜ全部明示させるのか。

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 小林秀雄にせよ、三島由紀夫にせよ、強烈な個性の周辺には必ず死屍累々たるエピゴーネンがいる。小林を敬慕しかつ畏怖し、評論家として立てなくなった数知れぬ人々の体験記は昭和文学の隠されたエピソードである。ラディカリスト三島は、最後には唯一人の弟子森田必勝しか認めなかった。ニーチェに三流音楽家ペーター・ガストしか弟子がいなかったように。

 晩年の福田先生にも強烈な求心力があり、三島事件のあとますます烈しさを増し、離れていなければ食い滅ぼされる鬼面のこわさがあった。若い文芸批評家にも、舞台演出家にも、英文学者にも、先生の強い個性の光に当てられ、とうとう一家をなすに至らなかった人が多数いる。

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 ここに「英文学者」と書かれてあるのが誰を指すのかが読み取れないような人は、文章を読んでいったい何処を読んでいるのか、と言いたい。「日録感想掲示板」にその人物のことがあれこれ取り沙汰され、私への「批判」はもっともな内容なので私に「反論」せよとまでいい募る文面に、ひごろいやでも接している「日録感想掲示板」の読者であれば、私がここまで書けば、誰のことを言っているのかピンとこなくてはむしろおかしい。つまり私はこの英文学者を「一家をなしていない」と明言しているのである。

 私が言わなくても、当時の書き込みのなかにも具眼の士が何人かいた。くどくなるが、二例を掲載させていただく。

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{i日録感想房}[596] MATUBARA?
From:日本のネオコン
H15/08/09 03:54:59

松原正のことですか?
あれは、単なる小言オヤジです。
誰からも相手にされていません。
松原を愛読する貴殿は、松原の身内ですか(笑)
それとも教え子?
何を言っても、つまり誰それを批判しても、反論がないということの
意味をかんがえてみては…?
要するに、論壇から、まったく無視されているのです。
そういう人です。
まあ、がんばってください。


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{i日録感想房}[604] 松原正さんについて
From:総合学としての文学
H15/08/09 23:46
 
 はじめまして。
 松原正さんの批判に対して西尾幹二さんや西部邁さんが何の反論もしないのは至極真っ当なことであると思います。松原正さんの批判文は、瑣末な事をものものしく取り上げて批判しているだけで、その対象となる評論の本質そのものを批判するというもので
はありません。これは松原正さんが単なる批判家であって自己の思想たるものがないからであると思います。あるとしたら批判の思想だけです。
 はっきりいって松原正さんが福田恒存の弟子を称してミニコミ雑誌やインターネットで保守派論客を批判することは福田恒存フアンの私にとっては、不愉快極まりない行為です。最近インターネット上で松原正さんこそが福田恒存の真の後継者だと言う人が結構いますが、いったい松原正さんのどこが福田恒存の真の後継者なのでしょうか?その
ことについて説得力ある意見を私は未だ聞いたことがない。
 松原正さんとそのフアンの人達のインターネットでの活動は福田恒存を知らない人達にかえって福田恒存を敬遠させてしまいます。
 この人達、本当になんとかならないものでしょうか?
 
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 その後の展開をみていると、森英樹という人の書き込みは次第に落ち着いてきて少し分ってきたようで、私に無理無体な要求をしなくなったし、なかなか学識のあるところも披瀝して、読める文章を書くようになってきた。ただし他人に分り易く説く、という努力が足りないので、いぜんとしてしばしば独りよがりな文章である。



 
 
批評の条件 (二) 2003/10月5日 16時16分


 さて、松原正なる人物のことは本当はもうこれで終わりにしてよいのだが、私が8月19日付日録の末尾に「晩年の福田先生にも強烈な求心力があり、三島事件のあとますます烈しさを増し、離れていなければ食い滅ぼされる鬼面のこわさがった。」—と記したことは、じつは簡単な話ではないのである。

 晩年の福田先生は孤独だった。というより、自らを追いこんでいろいろな意味で孤立化していた。ご病気も近づいていた。「自我の芯」で戦うのは間違いであることをふと私にお洩らしになってから数年は経っていた。先生のユーモアは内心の苦澁とのバランスを保つ自己維持の働きだった。私は遠ざかっていた。というより福田先生は、ある期間、松原正以外の誰もそばに近づけなかった。しかしそれも何かがあって、長くはつづかなかった。先生は孤独の影を濃くした。

 松原正は自分が唯一の弟子だと錯覚したのかもしれない。しかし彼は福田先生の文章の癖の強い悪い面だけを猿真似したエピゴーネンにすぎない。

  文章書きはどんな人にも闇がある。行動の逸脱もある。三島由紀夫にも江藤淳にもそれはあった。その人と付き合いたくなくなるような厭な側面、人間としての危うい側面がある。福田恆存氏にもそれはあった。晩年それがことさらに露呈した。運命を共にした劇団の事務局長が福田恆存に関する誹謗文書を残している。福田論を書くならこのようなネガティブな側面をどう評価するかは、避けて通ることはできない。福田家のご遺族もたぶん読みたくない部分である。

 つまり、文章書きは誰しも厭わしい部分をもっているということだ。人格円満などということはあり得ない。病的なものと生命力とが一体となっている。いくつもの複数の「恥部」となってそれが表に出るのが普通である。江藤淳の最晩年をみるがよい。

 松原正は福田恆存の人生の最後に姿を現した「恥部」の一つであった。エピゴーネンに醜悪はもっとも具体的かつ絵画的に、本人の代役となって立ち現れるものである。

 福田論を書くときには松原正の存在を欠かすことはできない。勿論「恥部」として彼が福田氏において果していた生理機能上の役割とその陰画としての存在をである。

 「日録感想掲示板」にその後「白波」と名乗る人、「新・正気煥発掲示板」に「軸」と名乗る人が松原正の名において、あれこれ悪文を寄せているようだ。どうか相手にしないで頂きたい。エピゴーネンのエピゴーネンは恥部の二乗を四倍にするような存在であることはもう分り切っているではないか。



 
 
批評の条件 (三) 2003/10月6日 10時22分


  私は批評をする場合にその人の代表作に焦点を絞って書く。そこまでできない場合でも相手の著作を読んでから書く。こちらが批評のボルテージを上げて対応するときには特にこの点を気を付ける。片々たる新聞などの短文を批評するときには大袈裟な表現は慎むようにする。

 勿論私も全部その原則を守っているわけではないが、できるだけそうしている。『西尾幹二の思想と行動』③「論争の精神」に収めたいくつかの私のポレミックをみていただきたい。ボルテージの高い論難の文章が幾篇も入っているが、相手の代表作をあえて対象にしているのに気づくであろう。そこまで遡って調査研究して書く。

 相手を叩くのではなく、相手の神を叩くのが作法だからだ。平成5年(1993年)頃、戦後保障をめぐる「ドイツ見習え論」を批判したときに、私はヴァイツゼッカ—元ドイツ大統領を標的にして書いた。ヴァイツゼッカ—が憎いからではない。日本の「ドイツ見習え論」者たちが元大統領の言説を拠り所にし、これを神にして、自説を組み立てているからである。

 相手の上っ面を感情的にあれこれ言っても意味がない。土台を突き崩すには神を撃て。これは福田恆存氏から私が学んだ勇気の一形式である。先生はバートランド・ラッセルを槍玉に上げて、日本の平和主義の虚妄を剥いだ。

 最近の私がやってきた別の例でいえば、私は小熊英二批判を「諸君!」編集部に頼まれて、小熊を相手にせず、彼の神である丸山真男と大塚久雄に対する批判にのみ焦点を絞った。

 新聞の小品や雑誌のエッセーを題材に批評を展開する場合には、題材の範囲に限って、事柄それ自体の適否を論うことになるから、あまり欲張った批評をしてはいけない。相手の人格を問うたり、思想の根幹にまで触れることはかなり難しい。

 少ない分量の紙面にボルテージの高い大きな批評語を書きつらねると、徒らに自分が威張りちらしているような文体になる。それをやると後で読んで、自分が羞しくなる。

 以上批評の礼節について私見を若干述べたのは、松原正の文章を今度初めて読んで思う処があったからである。「日録感想掲示板」[971]番2003.9.17.投稿者白波に私への無遠慮な批判があり、松原正の「西尾幹二氏を叱る」http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/MATSUBARA/hoshu05.htmlという文字をクリックして引き出せるようになっていた。松原が書いていたのは『月曜評論』というミニコミ誌であることも分った。この雑誌は私に届けられていないので、私は読んでいない。

 ぜひ読者は試しにここをクリックして私への悪口をご一読なさるとよい。松原の文は自分を偉そうにして威張りちらしたいために書いているような稚気満々たる文章で、これでよく自ら後で赤面しないのだろうかと不思議に思った。羞恥心の欠落がこの人の、哀れを催す強さである。

 彼が批判している拙文は産経新聞「正論」欄(平成12年1月11日)「知識世界のパラダイム——三度目の大転換期を迎えた日本」である。平成11年11月以来、拙著『国民の歴史』がベストセラーでありつづけていた丁度その最中である。松原正が嫉妬心を剥き出しにして私を侮辱する言葉えらびをしている強がりがまた哀れを催す。

 正月用にと頼まれたこの私の新聞の文章は格別のいい論説とも思わないが、格別非難されるたぐいの論説でもない。読者のご参考に供するために以下に全文掲載する。

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     知識思想世界のパラダイム
    三度目の大転換期を迎えた日本


《《《矛盾した性格を持つ日本人》》》

 ニューヨーク・タイムズの東京支局長ハワード・フレンチ氏から、日本における千年紀(ミレ二アム)をどう思うかというインタヴューを年末に受けた。日本には元号、陰暦、皇紀などの独自の暦があるのに、年々西暦の使用が広まり、ついにミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行われる日本の現状をどう思うか、という質問である。

 なぜ私にことさらにこの質問を?と反問したら、つねづね伝統価値を主張している日本人に、日本社会で使われてきた暦が消えていくことによってその暦で培われてきた文化が失われていく危険性を感じていないかを知りたいためだ、という応答である。こう言われると私は、さりげなく、たいして気にもかけていませんよ、と本能的に防戦する構えになる。

 日本人は外国からの圧力の度が過ぎるとこれを武断的に排除したがる性格を持つ反面、周知の通り、深い考えもなしになんでも無差別に外国のまねをしたがる矛盾した性格を持っている。豊臣秀吉の朝鮮出兵のころ、日本人の間にポルトガル人の服装や料理がにわかに流行したことがあった。秀吉が北九州と京都を往復するときに、供回りの者は競って西洋風の服装をしたがった。マントとケープと襞のついたシャツに半ズボンという出で立ち。子牛の肉料理にも人気が集中し、秀吉までがこれを好んだ。当時キリシタンでもないのに主の祈りを捧げ、アヴェマリアを暗誦するものさえあった。


《《《貯水池のような日本文化》》》

 日本人のこの無原則ないし無性格は、ほとほといや気のさすこともあるが、日本の前進の原動力でもある。一見して外国崇拝のいやらしい形態をとりながら、じつは確実に普遍文化を取り込むという結果をひき起こすのは、文化に国境を見ないこの無差別主義のせいでもある。秀吉の時代にはそういう良好な結果にはならなかったが、古代日本人が仏教や律令をとり入れたときに、中国文字を介するという屈辱などはおそらく感じたはずはない。漢字漢文は当時の国際公用語であった。中国崇拝に光だけを見た。それで危険はなかった。日本は大陸の軍勢に蹂躙された経験はないからだ。

 同じことは明治にも繰り返された。英語やドイツ語やフランス語を学んで、文化的植民地に陥る恐れが十分にあったし、現にあるのだが、そのときにはそうは考えないし、現に考えていない。他のアジア諸国に起こったことが日本には起こらない。日本人は外国崇拝を胸を張って行って、自国文化の独立にかえって役立ててきた珍しい国である。

 日本文化は貯水池のような深さがある。何を外から入れても、アイデンティティが壊れない安心感がある。何を入れても結局何も入らないからかもしれない。ニューヨーク・タイムズの東京支局長に私はそういう意味のことを答えた。

 しかし相手は私のことばを信じなかった。自分は日本文化のフレキシビリティ(柔軟さ)はよく知っているが、圧倒的な西暦使用に不安を覚えないか、と食い下がってきた。それに対し私は、元号と西暦の併用は定着しているものの、日本人の生活感覚の中に「19世紀」はなくて「明治」があるという歴史意識の古層は変わらないのだ、と反論しているうちに、だんだん不安になってきた。


《《《現実の変化見ない知識人》》》

 私が不安になったのは、ミレニアムへの大衆社会の付和雷同ではない。日本はいま知識思想世界のパラダイム(ものの考え方の枠組み)の大転換をせまられつつある秋を迎えている。その大転換とは確かに自国の外に基準を置く今までの日本人のやり方がダメになってきた喫緊の自覚である。日本史にはときどきこういう急転換が起こる。外国崇拝の度が過ぎると硬直し、自立心を失い、発想の自由がきかなくなる。今まではいっさいの基準を外から取り入れても内が壊れないで安心していられたが、これからは自分で自分の基準を作らないと、外の尺度は役に立たないし、かえって内を束縛し、不自由になる。欧米という外の基準に自分を合わせる明治以来の習慣がもはや光をもたらさず、悪弊になっているということに、私の知る大学社会や指導者層一般がまったく気がついていないか、あるいは気がついても容易に自分を変えられないでいるという深刻な事態がある。

 日本社会は古代初期(弥生時代)と明治初期とに次いで、三度目のパラダイムの大転換期を迎えている。漢字漢文を基軸にする思考と、欧米語を基軸にする思考と、二つがともに無効になった。私が『国民の歴史』を書いたのは、まさにその点を警鐘乱打するためであった。

 読者から大反響を頂いたのは国民のかなりの層がこの点に気がついているからだが、他方に、拙著をナショナリズムの再来とか、モノカルチュアーの民族史とか、戦前への回帰とかまでいうあきれた言いがかりさえあった。大学社会や知識世界に住む人間の現実の変化の見えなさ、パラダイムの転換に身を合わせられないみじめさが、しきりに目立つ。

 質問で食い下がるハワード氏に私は心の底にある自国知識人への私の不安と絶望を言い当てられたようなヒヤリとした思いを味わった。

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 松原正の批判文とよみ比べて、上記の文章をご自身の判断力で検討し、考察していただきたい。新聞の小品なので舌足らずは否めないが、私は言うべきことをきちんと言ったつもりであるし、今でも基本的にこの文明観に変更の必要を認めない。



 
 
批評の条件 (四) 2003/10月7日 9時56分

 
  私は処女作『ヨーロッパの個人主義』以来、必ずしもヨーロッパ主義者ではない。その点で福田恆存氏の思想——氏もヨーロッパ一辺倒では決してないのだが——とは、微妙なズレ、若干の認識の相違がある。8月19日「日録」の「私は福田氏の弟子ではない」と記述したあの文章の中ほどから次の部分をあえて引例しておく。

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 一例をあげれば、私は「平等」に対する考え方が先生と違っている。日本の国民の強さは太平楽めいた民衆の平等意識にあると私は思っている。先生は階級意識を欠くから日本人はダメだというような意味のことをよくユーモアをこめて語っていたが、イギリス社会をモデルにして日本を見ているように思えて、私には理解しがたかった。

 外からどんどん新しい文明を入れ、古い自分を捨てていく日本人の一見軽薄なあり方に、福田先生はいつも懐疑的だったが、私はそこに日本人のバイタリティを発見し、期待していた。私は経済繁栄を目指した日本の選択を肯定さえしていた。先生とはたぶんこの点が決定的に違っていた。

 古い文明を大事に保守するヨーロッパと、新しい文明を矢継早に取り入れる日本との比較で、先生は大体前者に軍配を上げ、日本の西洋にとうてい及ばぬ所以を説かれたが、私はヨーロッパの古い文明にある種の硬直を感じ、しかも日本の方がヨーロッパよりある意味で古く、ヨーロッパに新しさと底の浅さがあることも少しづつ意識するようになった。

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  日本では神話がきちんと全部残っているが、ゲルマン神話は残っていない。いまゲルマン神話とよばれるものは、アイスランドに残存した類似の神話から類推して復元したものである。

  日本には平安時代に中国から輸入された多数の古書が保存されている。中国では大半が消滅してしまった。江戸時代に保存された古書に基づく儒教の経書のテキストクリティークの花が開いて、清朝の学者達を愕然とさせたこともある。

 ヨーロッパの街は石造りなので古い建造物が保存されているように見える。しかし、14世紀より前のものは少ない。ギリシアとローマはヨーロッパではない。このことは念のために言っておく。
 石造りのヨーロッパはストックの文化である。どんどん壊して新しく変えていく日本はフロウの文化である。文化の形式が異なる。

 神話・文学・芸道・文献・寺社仏閣は古代以来を保存する。住宅・街・衣食生活・思想観念はどんどん新しく取り替える。そこに日本の強さがあったと私は信じている。しかし今、自分を新しく替えていく方法に迷いが生じ、パラダイムの転換が強く求められているのではないか——というのが、先に掲げた拙文の問いである。


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   報告

 焚書事件に関する感想掲示板のご意見のうち17を選んで(ほとんどすべてですが)、人名別、時間順に配列し、コピーを冊子にし、約7人の関係代表弁護士に渡しました。作業はつくる会本部事務局のお世話になりました。以上とりあえずご報告いたします。


 
批評の条件 (五) 2003/10月8日 9時12分


 以下に掲げるのは17年前の私のエッセーで、今まで私のどの本にも収録されていない。読売新聞社刊『THIS IS』昭和61年(1986年)6月号の「私が出会った本」というリレー随想欄からである。

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  ニーチェの運命愛と福田恆存

 私が出会った本の中の最大のものは、私が翻訳したり、研究の対象にしたドイツの思想家のそれであろう。

 私は30歳でニーチェの『悲劇の誕生』を翻訳し、42歳でこの作品の前史を詳らかにするために1700枚の『ニーチェ』二部作を上梓した。その二年前にショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を翻訳する機会に恵まれたが、この面倒な仕事を引き受けたのも、同書が『悲劇の誕生』の踏み台となった作品だからで、従って、中年に至るまでの私の全精力は、もっぱらニーチェの謎めいた問題作の私なりの解明に注がれたのだと言っても過言ではない。

 ニーチェの青春の血を燃え立たせたこの処女作は、私の青春の血をすべて吸い取ってしまったわけだ。だから「私が出会った本」の中で真っ先に挙げるべきは、右の一書に尽きると思う。ただ、これについて述べるのは本欄の趣旨に合わないだろう。

 じつを言うと「私が出会った本」について述べるのは私の謂わば生業であるから、このタイトルで原稿を求められるのは、お前の人生と職業のすべてについて述べよ、と言われているようなもので、じつに当惑する。
 
 もとより、高校時代から順に、衝撃度の深かった本を挙げよと言われれば、私にも通り一遍のことが出来ないでもない。カミュ『異邦人』、ドストエフスキー『地下生活者の手記』には高校生の頃震撼させられたし、当時、萩原朔太郎に没頭した時期もあった。30歳を過ぎてからは、荘子と韓非子に魅入られ、キルケゴールの『現代の批判』を自分の思索の支柱だと考えたこともあった。日本文学の中では『平家物語』が屈指だし、近代文学では小林秀雄を措いてない。しかし「私が出会った本」について述べるのが生業であると書いた以上、私も一冊の本で「出会った本」を論じなくてはその名に値しない。

 比較的近い将来にそれを実現したいと考えている相手は福田恆存で、一人の著作家を隅々まで読んだと言う自信があるのは、ニーチェ以外には氏のほかにない。

 「私は偉大な任務と取り組むのに、遊戯とは別のやり方を知らない。遊戯こそは偉大さを示すしるしであり、その本質的な前提の一つである。」

 「孤独に悩むということもやはり、その人が偉大でないことの証拠である。—私はいつだって〈多数〉にだけ悩んできた。・・・・・七歳という、おそらく誰も信じないほどの早い時期に、私はすでに、どんな人間の言葉も私の許には決して届かないであろうことを知っていた。」

 「・・・・・何事もそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。未来に向かっても、過去に向かっても、そして永劫にわたっても絶対にそう欲しないこと。必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ。いわんやそれを隠蔽することではさらさらない。——あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわりにほかならぬ。——そうではなく、必然を愛すること・・・・」

 以上は私が白水社版全集のために今たまたま翻訳しているニーチェ『この人を見よ』の中の一節だが、この古代的な運命愛の感覚を具えている現役の思想家は、日本では福田恆存以外にない。

 世間は政論家としての氏の仮面に欺かれて、その奥にある思索人としての氏の巨きさと独創性とを未だに知らない。

 氏は知識人のどの社会にも収まらない孤独な人だが、孤独は「多数」の価値観を拒絶しつづけている氏の意志の帰結であって、それはいつも遊戯の感覚と結びついている。一冊を挙げよと言われれば『人間・この劇的なるもの』だが、ここでは「必然を愛する」ことこそが人間の自由だという深い逆説が日本文学に例の少ないアフォリスティックな思惟形式で提示されている。

 近代的な間尺では計れないこの思想圏に達している日本の文学者は、氏のほかには、森鴎外と小林秀雄の二人だと思う。どちらもいわゆる「近代小説」などとは無関係である。

 私は彼らを論じ、「私の出会った本」の名に値する結果を今後十年のうちに示したいと思っている。


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 「今後十年のうちに」と言っておきながら17年もが過ぎてしまって、何らかの答えを出さなければならないときがきた。

 私は文芸批評から仕事を始めたので、どうしても現代の日本文学を相手にしなくてはならなかった。少なくとも明治以後の近代文学を対象とすることを当然の課題として求められた。それが私には厭でたまらなかった。
 
 ここに鴎外の名を出しているが、幸田露伴の方がふさわしいかもしれない。近代小説などというものにこだわった夏目漱石にはさしたる興味がもてなかった。さりとて、福沢諭吉も中江兆民も岡倉天心もつまらない。内村鑑三は日本人として四つに組む課題にならない。明治に入ってからの日本はつまらない。一生かけて研究するような対象は存在しない。ずっとそう思ってきた。
 
 ニーチェに匹敵する存在に出会うには、私にいわせれば、荻生徂徠と本居宣長にまで遡るほかない。古代の運命感覚と神秘主義を知っている近代人はあそこまで遡らないと出会えない。
 
 明治は偉大だとよく人はいうが、そうだろうか。明治は啓蒙主義の時代にすぎない。偉大なのは明治ではなく、明治に及ぼした江戸の残像である。
 
 「江戸のダイナミズム」はそういう自覚から始めているが、残念ながら、手を着けたのが余りに遅すぎた。「つくる会」運動で時間が疾走した。残された時間でもうさしたることは何もできまい。
 
 ひょっとすると明治ではなく昭和の思想史は、私たちが余りに近過ぎて気づかないだけであって、考えられているよりもずっと大きい存在かもしれない。「昭和の思想史」を今述べた、古代の運命感覚から総括する仕事を計画している。福田恆存はそのとき間違いなく重要な柱の一本である。
 


 
 
批評の条件 (六) 2003/10月9日 9時26分


 ツァラトゥストラの序説に書かれている、「私は君たちに告げる、人間は己れのうちに混沌をかかえ、舞踏する星雲を産み落とすことが出来なければならぬ」と。

 こうも書かれている。「私は愛する、傷を負ったときもなお魂の深さを失わない者を。」
 
 「批評の条件」というこの連続エッセーは、「日録感想掲示板」への投稿者、というよりほとんど乱入者というに近い森英樹と名乗る人物の乱暴な書き込みへの私の苦情から始まった。始まりが彼であれば、終わりもまた彼でなければなるまい。
 
 彼の職業は鳶職であるという。齢の頃は三十過ぎか。ずっと女にもててきたと豪語し、やたら音楽を愛し、哲学には該博な知識があり、善くいえばスケールの大きな、悪くいえば八方破れの、破天荒人物とお見受けする。なにしろ書き込みの中で、カトリーヌ・Mさんという名で同じサイトに書いている女性に向けて、「カトリーヌ・Mさんは私の女房でした(笑)。何か文句あるなら直接言えよー!夫婦なんだから!」(おちょくり塾2003.10.5)と叫んでいるのだ。面白い人物であるようだ。
 
 彼は「批評の条件」(一)における私の苦情に対し、謝罪だか弁解だか自己主張だか不安の表明だか自己礼賛だかわからないような長文の釈明文「西尾先生と私」(山椒庵 2003.10.4)を書いた。私に分ったのはうんと若い頃私の本に出会い、それを切掛けにニーチェや小林秀雄や福田恆存を読み始めたということだった。それなら私にも「魂の誘惑者」としての若干の責任がないわけでもない。
 
 けれども「西尾先生と私」は全体としてはさっぱり要領を得ない文章だった。自己韜晦もいいところの悪文で、言っていることが分らない。するとよくしたもので、「山の不動」と名乗る人が「森英樹様」と題した文章(2003.10.4)で、「直球を投げます。何を仰りたいのかさっぱり分りません。」とズバリと書いた。私が言いたかったことをこのように言ってくれる人が現れた。
 
 と、面白いことに、今まで自己韜晦と自己隠蔽と自己顕示という矛盾の塊だったこの人の文章は、にわかにパッといっぺんに透明になり、「ここまで書いたのだから私も『直球』でいきます(笑)」と宣言して、さらりと仮面をぬいだ。
 
 「己の内に混沌をかかえている」この人物が、「舞踏する星雲を産み落とす」ことに成功するかどうかは分らぬが、「傷を負ったときもなお魂の深さを失わない」人間であることだけは、どうやら確かなようだ。以下の引用にそれが髣髴としている。

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| [402] Re:[400] 森英樹様 投稿者:森英樹 投稿日:2003/10/05(Sun) 05:16
| 前略・・・・・・・・・・・
| 私は大学卒業後に高次救急センターに勤務していました。一年365日24時間、病院に
|いました。勿論、全ての命を救おうという理想に燃えて。「良く」生きるとか死ぬと
|いう「思考」は排除した。「生かす」事だけが全てではないと言うのは現実を知らな
|さ過ぎると思う。当たり前だが幸福だったか不幸だったかは本人の問題である。私が
|決める事ではない。私は必死に目の前の「生命」を生かす事に専念した。
|その後、私は脳外科の教授に望まれその医局に在籍した。ある時、厚生省の小役人が
|来て遠まわしだがハッキリと「タックス・ペイヤーにならない患者は治療しないでくれ。
|国家予算を圧迫する延命治療は止めてくれ」と言った。ここで私の思考は混乱をきた
|した。国家は医師に何を求めているのか?「社会に必要・不必要な患者を見極めて治
|療しろ!我々国家は責任を持たない!」というものであった。正直耐え切れなかった。
|約2年間奉公した後、精神科に鞍替えをした。この科は今までとは違った。患者自身が
|自分の生きている意味を尋ねてくる。当然、私にも明確な答えは出せない。自分が何
|者なのかすら分からないのだから。この科での治療終了の意味は「社会」に復帰する
|ことを意味する。果たしてどんな「社会」に?患者自身も社会復帰を熱望するが復帰
|した後に何をしたいのか判然としないのである。勿論、復帰したい「社会」に自分の
|求める全てがあると思うのは勘違いである。患者の中には、もう完全に現実と乖離し
|て社会と接触を持とうとしない人達もいる。だからといって現実を拒絶する彼等を軽
|蔑はしない。既に彼等には「社会」というものが必要でないのだ。ましてや分業化さ
|れた精神の管理社会には彼等には無意味なのである。それなのに何故、治療を続ける
|のか?国家が要請するからである。何の為に?タックス・ペイヤーとしてである。
|ここに現代国家の悪魔のような良心性が垣間見える。
| ・・・・・・・・・・後略・・・・・・・・
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 これに対し、「山の不動」さんは「真っ直ぐど真中の」ボールに「爽やかな気持ち」を感じたと応じ、自らは25年間薬の業界にいて、病院の営業回りもしたと述懐。「医師の虚栄心」に「子供じみた単純さ」を見ていたとも語った。森英樹氏は次のように応じている。
 
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|[405] Re:[403] 森英樹様 投稿者:森英樹 投稿日:2003/10/05(Sun) 11:56
|>山の不動さんさんへ
|> 実は、私も大学を卒業してから現在まで25年間、薬の業界に居ます。若い頃は、
|>貴兄が在職されたような病院もかなり沢山営業で廻りましたので、その裏側の醜
|>悪も厭というほど見せられてきました。経験で申しますと、医師の虚栄心は独特
|>のものがあり、ある意味では子供じみた単純さを含んでいると思えます。
|不動さんは所謂MRさんだったんですか?私はMRさんの接待をかなり受けました
|よ(笑)。医師独特の「虚栄心」は何処からくるのか分かりません。飲み屋の姉ちゃん
|に聞くと酒癖が悪いのは医者、教師、警察が挙げられるようです。特に私の時代の
|医師は過酷な受験戦争を勝ち抜き医学部に進学した人が多い。それは単に偏差値が
|高かったから医学部に入ったという人も沢山いました。でも大概の人達は6年間に
|渡る医学教育でモチベーションが変わります。変わらない人もいます。もう学生時
|代から医学部の人達としか付き合わない人が非常に多い。そして、単なる「知識」
|だけを試す国家試験に受かり医師免許(生殺与奪の権利)をもらうのです。私は或る
|意味で最高学府に属し、ちやほやされる自分を最低野郎だと思っていた。そして自
|衛の策として敢えて医学部の人達とは距離を置いた。「医者」または「医学生」と
|してではなく「森英樹」として世間の人に認識されるようにした。講義をほっぽり
|だしバンド活動(笑)。全身タトゥーの女の子、けちで有名な中小企業の社長、他の
|学部の学生、現場監督、魚屋、スナックの女、極道者のチンピラ、銀行員などと親
|しく付き合っていた(笑)。これが「虚栄心」を避ける賢明な方法とは思えないが当
|時の私にはそういう抵抗しか出来なかった。
|> >ここに現代国家の悪魔のような良心性が垣間見える。
|> この事は貴兄自身の中ではどのように解決しておられるのでしょうか?
|> そして、今後どのように関わって行こうとされているのでしょうか?
|現代の国家に於ける問題点は、その共同体に必要とされる分野もしくは場所を無理
|矢理に作ってしまう事だと思う。これでは社会の「構成員」になりたくなくても、
|いやなれなくとも何処かに自分が配置されてしまう。つまり「社会」に強制参加さ
|せられてしまう。国家としては切り捨てたい部分なのだが何らかの曖昧な理由で彼
|等を参加させてしまう。現代の日本には既に「辺界の悪所」は無いのである。国家
|による社会の「分業化」には、こういう問題が発生する。国家の目指す「社会」と
|個人が目指す「社会」との矛盾である。つまり「社会」というものを認識出来ない
|人に「社会に参加せよ!」と言っても、これは病識の無い患者に「これは一生付き
|合っていく病気ですよ」と言うくらい無責任かつ無意味な言葉なのである。
|私は精神科医を辞しした後に、ある行動を起こし患者に医療の実態を全て暴露した。
|明らかに、ある団体は「迷惑である!」との姿勢を示した。精神医療のからくりを
|全て公開した。当然この私の行為は患者にとって不利益になる事も知っていた。し
|かし、このまま惰性でこの医療が展開されると将来にとって悲劇しか見えない。私
|は現在、復職しようか悩んでいるが復職したら目の前の患者をひたすら治療してい
|くだけである。
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 現代の日本には「辺界の悪所」がない、という指摘には私も共鳴する。小学校の女子児童がパンティを売り、他方、何かというと些少なことでセクハラ騒ぎになる今の社会の矛盾。ウラもオモテもない社会、陰翳のない社会になったとは前に言ったことがある。すべての人間は味もそっけもない社会のどこかの席に、いやでも応でも坐らされ、しかも人権とかヒューマニズムの名において煌々とライトに照らされっぱなしなのである。病人は保護され、隔離されれば、若年層犯罪も阻止されるであろう。しかるに病人のままでいたい者も社会の「構成員」に配置されてしまって、ライトを当てられて生きねばならぬ。森さんはつづけて次のように言っている。

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|[416] 結局言いたい事は! 投稿者:森英樹 投稿日:2003/10/05(Sun) 15:45
|私はまだ復職していないから、ここで精神科医Aに登場してもらう。そこに何らか
|の精神障害を抱えている患者Bが受診。AはBに対して現在の多くの問題を持って
|いる診断基準に照らし合わせて診断し病名を付ける。そしてAはBに「精神保健福
|祉手帳」のメリットだけを説明して交付する。現在の日本に於いて「精神障害者」
|という理由で雇用の際に「差別」してはいけない事になっている。しかし、それは
|「建前」で選考の際に当然このBは、はねられる。雇用主は適当な理由を付けて。
|「差別」が、いけないのではない。国家が「差別」を無くそうとして、それをタブー
|視するのがいけないのである。国家が、その「社会」に全ての人間を位置づけよう
|とするのが間違いである。「差別」自体は未来永劫に渡り無くならない。「差別」
|があるからこそ「社会」は分業出来る。しかしBのような「その社会」を必要とし
|ない、いや認識出来ない人を無理矢理に社会に嵌め込もうとするのは甚だ問題であ
|る。勿論、精神的に健康な人ならば「社会が自分に合わないなんて甘い事を言うな!」
|で終わりである。それこそBにとって「社会」とは何か?現代国家の悪魔のような
|良心性とは、このような個人の精神を国家の側で良心的に管理し配属してしまう事
|である。そこに悪意は無い。それが問題である。過去には「座敷牢」とか「姥捨て
|山」「見世物小屋」があった。分かって欲しいのは、「そういう時代に戻せ!」と
|いう事ではない。あくまで「社会」というものは、それが必要な人達にとっての「
|フィクション」に過ぎない事を知って貰いたい。そして国家の良心は悪意が無くと
|も個人の精神を縛り付ける事があるという事である。
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 私が子供の頃、戦争に入る直前だったが、まだ街は長閑で、巣鴨のトゲヌキ地蔵にお参りに母につれて行ってもらった。境内に屋台その他が並んでいて、片輪者の見世物小屋があったのを覚えている。勿論、母は中に這入って見ることを許さなかった。しかし今は、ご承知の通り、「片輪者」ということばそのものが活字の世界から消えた。国家は消毒されている。ご清潔主義である。

 目に見えない形で広がっている新しい時代の全体主義にわれわれはすでに完全に不感症になっている。森英樹氏の不安と憤りは私にも自分の問題として共感できる。
  
 発端は森英樹氏が松原正に引きこまれたことだった。言葉の過激さだけの刺戟が欲しかったからだと彼は語っている。松原正は不安な知識人の一部にとって「辺界の悪所」の代役なのであろうか。そうと考えてはじめてあの名に騒ぐ人の存在する理由がやっと納得いくのである。