批評の条件 (一)
/H15年10月04日11時36分 (移転時日付)
投稿者 西尾幹二 2003/10月4日 11時36分
当インターネット日録をときおり開いて下さっている読者にひとことお断りしておかなくてはならないことがある。当サイトには「日録感想掲示板」が附属していて、誰でも自由に意見を書き込むことができるシステムになっている。勿論そこできめられた条件さえ守れば、私の主張内容を批判するのも自由である。
約3000〜5000人程度が予想される当日録の訪問者は、必ずしも「日録感想掲示板」にまでは手を伸ばさないかもしれない。しかしいろいろな論争がそこで起こり、私に無関係な論争もあれば、放って置くと私の名誉にも関わる言い争いがなされるケースもあって、困惑することもときにないではない。
今日とりあげるのは関連する隣接の掲示板「新・正気煥発掲示板」にまで言い争いが飛び火して、放って置けない情勢と見て、あえて書くのである。しかもこの件は一度懇切に私の所見を表明しておいたのに、察しの悪い関係者は私の言の一を聞いて十を悟る能力を持っていない。つまり、文章読み取りの一定レベルの能力を持っていないのだ。
今回は「日録感想掲示板」に乱入する書き込み者の知的並びに道義的レベルまで含めて、苦情を申し上げる意味もある。
ことの起こりは8月初旬に熊本の旅から帰ってきたら、森英樹と名乗る新しい書き込み者が、「疑問」と題し、「最も疑問なのは西尾氏をはじめ保守派論者が早稲田大学名誉教授松原正氏の批判を黙殺していることです。」[590]番2003.8.8 と私を直に名指しして、いきなり論難することばを文中に投げつけてきたのである。
はて、さてなぜ松原正の名がにわかに出て来たのか私には事情が呑みこめない。唐突である。私は日録で一度も言及していないし、すっかり忘れていた名前である。若い頃、何度か会っているが、今の私は彼について何も知らない。彼の私への「批判」がいつ、どこに書かれているのか、読んだことはもとよりないし、その存在すら知らない。
いわゆる公開の批判はそれなりに名の通っている雑誌や新聞に書かれなければ効力を発揮しないが、それでも出版物の数が多いので知らないで終わることが少なくない。『国民の歴史』への左翼の批判本は十指を越えると聞くが、最初の一冊以外を私は手にしていない。
そうこうするうちにいろいろな人が「日録感想掲示板」に松原正についてあれこれ語りだした。松原が旧仮名を使っているので福田恆存の正統の弟子だが、西尾は新仮名でずっと書いてきたので保守派としては失格だ、というようなことやらなにやらいろいろ言いたい放題の話題がくり出される。
森英樹と言う人は再度私にあてて次のように言う。「私は松原正氏の先生への批判をもっともな事だと思い、それに対する先生の反論を期待しています。松原氏は福田恆存氏の直系の弟子だと思うのですが、松原氏の門下生は品性下劣な方が多いのは何故だろう。」[691]番2003.8.20 などと私に関係ないことまで書いてくる。
松原正の「批判」の存在自体を私は知らないのに、それは「もっともな事だと思う」と言い、私に「反論」せよと言い、私がいま知らないこの人物の「門下生」のことまでゴタゴタ書いてくるこの森という人は余りに無礼ではないかと、そのとき思った。私は管理人Bさんを介して彼に個人的にメイルを送って、失礼を窘めようかと思ったほどだ。
彼が誰かある人を尊重するのは彼の自由である。しかしそれを前提にして、同じ尊重を私に強要するのは常識を欠いている。ましてその「門下生」のことなど、私が知るものかと言いたいことを言い募るのはどうかしている。この人は血迷っているのではないかと私は思った。
つまり森という人は私が松原正なる人物と近い関係にあり、その門下生の誰彼れを私が知っているという前提で話しかけてくる。じつに迷惑である。他にも福田恆存氏関連の書きこみがあのころサイトのあちこちに出た。
私が「日録」8月19日に次のような書き出しの長文を書いたのを覚えている読者もおられるだろう。
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夏の旅から帰って、「インターネット日録」の感想掲示板を見ていたら、私が福田恆存の弟子であることをもって自らを任じ、A氏あるいはB氏とこの点で競い合っているとでもいうような莫迦げた風説が述べられているので、一言しておく。
私は福田恆存氏を敬慕している。しかし氏の弟子ではない。また唯一の理解者であるとも、思想の継承者であるともまったく考えていない。
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この文章に初見の方はお手数でも当日録の表紙から150817をクリックして、同文をご一読たまわりたい。私はあのとき福田恆存氏と自分との関係をあらためて考えなおしてみたいと思い、この機を利用して一文を認めたのだった。
そして松原正の名前はここでは一言も触れていないが、折も折であるから、じつは意識してきちんと分る者には分るように書いておいたのである。
嗚呼、読者よ、どうして一を聞いて十を悟らないか。私になぜ全部明示させるのか。
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小林秀雄にせよ、三島由紀夫にせよ、強烈な個性の周辺には必ず死屍累々たるエピゴーネンがいる。小林を敬慕しかつ畏怖し、評論家として立てなくなった数知れぬ人々の体験記は昭和文学の隠されたエピソードである。ラディカリスト三島は、最後には唯一人の弟子森田必勝しか認めなかった。ニーチェに三流音楽家ペーター・ガストしか弟子がいなかったように。
晩年の福田先生にも強烈な求心力があり、三島事件のあとますます烈しさを増し、離れていなければ食い滅ぼされる鬼面のこわさがあった。若い文芸批評家にも、舞台演出家にも、英文学者にも、先生の強い個性の光に当てられ、とうとう一家をなすに至らなかった人が多数いる。
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ここに「英文学者」と書かれてあるのが誰を指すのかが読み取れないような人は、文章を読んでいったい何処を読んでいるのか、と言いたい。「日録感想掲示板」にその人物のことがあれこれ取り沙汰され、私への「批判」はもっともな内容なので私に「反論」せよとまでいい募る文面に、ひごろいやでも接している「日録感想掲示板」の読者であれば、私がここまで書けば、誰のことを言っているのかピンとこなくてはむしろおかしい。つまり私はこの英文学者を「一家をなしていない」と明言しているのである。
私が言わなくても、当時の書き込みのなかにも具眼の士が何人かいた。くどくなるが、二例を掲載させていただく。
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{i日録感想房}[596]
MATUBARA?
From:日本のネオコン
H15/08/09
03:54:59
松原正のことですか?
あれは、単なる小言オヤジです。
誰からも相手にされていません。
松原を愛読する貴殿は、松原の身内ですか(笑)
それとも教え子?
何を言っても、つまり誰それを批判しても、反論がないということの
意味をかんがえてみては…?
要するに、論壇から、まったく無視されているのです。
そういう人です。
まあ、がんばってください。
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{i日録感想房}[604]
松原正さんについて
From:総合学としての文学
H15/08/09
23:46
はじめまして。
松原正さんの批判に対して西尾幹二さんや西部邁さんが何の反論もしないのは至極真っ当なことであると思います。松原正さんの批判文は、瑣末な事をものものしく取り上げて批判しているだけで、その対象となる評論の本質そのものを批判するというもので
はありません。これは松原正さんが単なる批判家であって自己の思想たるものがないからであると思います。あるとしたら批判の思想だけです。
はっきりいって松原正さんが福田恒存の弟子を称してミニコミ雑誌やインターネットで保守派論客を批判することは福田恒存フアンの私にとっては、不愉快極まりない行為です。最近インターネット上で松原正さんこそが福田恒存の真の後継者だと言う人が結構いますが、いったい松原正さんのどこが福田恒存の真の後継者なのでしょうか?その
ことについて説得力ある意見を私は未だ聞いたことがない。
松原正さんとそのフアンの人達のインターネットでの活動は福田恒存を知らない人達にかえって福田恒存を敬遠させてしまいます。
この人達、本当になんとかならないものでしょうか?
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その後の展開をみていると、森英樹という人の書き込みは次第に落ち着いてきて少し分ってきたようで、私に無理無体な要求をしなくなったし、なかなか学識のあるところも披瀝して、読める文章を書くようになってきた。ただし他人に分り易く説く、という努力が足りないので、いぜんとしてしばしば独りよがりな文章である。