Subject:平成15年7月12日 (一)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/07/12
12:10
旭川は初めてだった。濃い緑の森の間に、広々とした畑地があり、くっきりと四角に区切られた明るい黄色、少し濁った黄褐色、エメラルドグリーン、濃い青緑色の布地をパッチワークしたような丘陵地帯が広がっていた。翌日私はその丘陵の中の一つに立っていた。
飛行機の上から明るい黄色と見えたのは麦畑だと見当はつけていたが、本土ではもう麦を栽培していないので、近くで確かめるまでそうではないのかもしれないとも思っていた。少し濁った黄褐色は牧草を刈った跡地で、エメラルドグリーンは牧草地、濃い青緑色はビートと呼ばれる砂糖大根かじゃが芋畑だった。
どれも広々として、正確に長方形に区切られている。じゃが芋畑には花が咲いていた。薄紅色の花を斑点のように散らしているのが男爵芋、白い色の花は農林一号だそうだ。ポテトチップをつくる芋だと聞いた。どれも8月末〜9月末が収穫期で、本土よりやはり遅いのだなぁと思った。
着いた8日の夜富良野に泊まった。丘の上に立木が人影のように立っている美しい平野を走り抜けた。ファーム富田という紫色のラベンダー園で知られるお花畑が最初のお目当てだった。天気は素晴らしく良かった。遠望する大雪連山が花列の上に浮かぶ眺めもただごとではない。しかしこのきちんと整備された、ラベンダーグッヅを売るお店もある公園のようなファームよりも、美瑛町というその名も最近知られるようになった、丘の斜面にだだっぴろくいかにも無造作に栽培されているラベンダー畑のほうが空間的な広がりを感じさせた。木立の囲いで仕切られていないせいで、いきなり花の坂の上が大空につながっているからだと分かった。
美瑛町は目抜きの中心街が北欧風の建造物で統一されている。長崎のハウステンボスを思い出させ、まるで日本でないみたいだった。美瑛とはいかにも洒落ていて、作為された名かと思っていたら、アイヌ語で油ぎった所という意味だそうで、むかし硫黄が匂った土地という由来らしい。
タクシー観光をして下さった若い女性ドライバーは美瑛の出身者で、北海道の外に出たのは高校の修学旅行で関西に行ったときだけであり、そのとき初めて竹という植物を自分の肉眼で見て納得したという。それはそうだ。竹は岩手県の一の関より北にはない。代わりに白樺もポプラも南国では珍しいし、ヨーロッパのような富良野、美瑛の丘陵風景は日本の田園のどこにもない。
「こんな美しい所で育ってあなたは幸せですね。」と私は少し気障なことを言った。麦畑のど真中にどでかい立木がひょろっと一本聳えている、近頃は観光客用にある名がついている地点を通りすぎたとき、彼女は「このあたりは私の親戚の農場なんです」と言っていた。生まれた土地を愛し、そこを信じ、生涯をそこで過ごすのが人間にとって一番自然で、幸福で、そして本来的なことなのだ。そう思ったが、彼女にそこまで偉そうにくどくは言わなかった。
後藤純男という日本画家の印象的な個人美術館があって、そこのレストランで軽食をたべた。ガラス窓は大きく、外は一面の小豆畑に初夏の光がかがやき、小さい仕切りの多い本州の湿った風景とはどこか違う。
天皇皇后両陛下が一週間前にお通りになったほぼ同じルートを旭川へ抜ける。両陛下があわや事故にお遭いになりそうで全国ニュースになった地点のそばも通ったが、気がつかなかった。というのも不幸なことに、そのあたりから私は体調が悪化し、車を降りるのも苦痛で、周囲の景色にも注意を払わなくなっていた。
前夜、身を伸ばして右手で新聞をつかもうとした瞬間に、右脇腹の下、腰上に激痛が走った。初めてのことで気にもしなかった。朝になれば治ると思っていた。しかし朝、痛みは強くなっていた。車の乗り降りにも支障をきたした。それでも歩く分には苦痛はそれほどない。背をかがむようにして歩くと痛みを免れた。けれども右手で物を拾えないし、運べない。理由はまったく分からない。ほんの少し腹部に力が入るだけで、右の脇腹から腰へかけて筋肉を切り裂くような痛みで、絶句し、動けない。われわれはそれとは気がつかぬ動作をしているときでも、ほとんどあらゆる場面で腹筋を使っていることに改めて気がついた。嚏(くしゃみ)をしても痛い。咳をしても痛い。何をしても、腹にちょっと力が入ると、余りの痛さで、瞬間呼吸をとめ、苦痛の去るのを待つ。
女性ドライバーは気を利かして、病院に電話を入れ、観光を早めに切りあげた。私は4:30に旭川市リハビリ病院の整形科の門を叩いた。おかげで有名な向日葵畑のそばまで行って、私は広大な黄色い花の大海原を一眸におさめる地点に立つことは出来なかった。
レントゲン写真を6枚撮影し、骨に異常はなく、いわゆる「ギックリ腰」と医師に診断される。4種の嚥み薬と湿布剤、それで痛みの去らないときのための坐薬をもらった。どうやらこの坐薬がきいたらしい。翌朝は肉を裂かれるような痛みはやゝやわらいでいた。
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Subject:平成15年7月12日 (二)
From:西尾幹二(B)
Date:2003/07/13
08:34
天皇皇后両陛下が旭川空港をお立ちになったとき、日の丸を振るお見送りの人の波が当然のごとくに生じた。とりわけ空港沿いの街道には約500メートルにわたって自動車の列ができた。人々は車の外に出て、手に手に日の丸を持ち、両陛下の機影がとうに去り、空の彼方に見えなくなってもなおかなり長い時間、立ち去り難い様子で、なかなか車列を乱し、走り出そうとはしなかったということだ。
その話を自らの目撃談としてきかせてくれたのは時事通信社の旭川支局長野口安計氏だった。「新しい歴史教科書」のコラムに、昭和6年昭和天皇が鹿児島から軍艦で帰京されるとき、遠く暗い海岸に住民たちが焚いたと思われるかがり火の列が見えた。陛下は暗い海に向かって一人挙手の礼をされつづけたというエピソードがのっている。当時の新聞が語り伝えたものであろう。しかし野口氏によると、『北海道新聞』は今回の旭川空港の車列の話はいっさい書かなかった。他の全国紙の北海道版にのったかどうか、現地の人にぜひ調べてもらいたい。
あの日の旭川市の歓迎ぶりも語り草になっていた。たまたま私の泊まったホテルは富良野でも、旭川でも、光栄にも両陛下のご宿泊と一週間後の同じ宿舎であった。しかしホテル側でもとくにそのことを語るわけでもなく、いい意味で淡々としていた。私は時事通信社が教えてくれなければ分からなかったほどで、天皇ご一家の行動が一般化し、市民の中に融けこんでおられることをむしろ物語っている。けれども、歓送迎の国民の気持ちはまた別である。旭川グランドホテルと市役所の間のさして広くない街道に3000人余の人波があつまり、両陛下はホテルの窓から手を振って応答された。この歓迎の風景をテレビは写したが、新聞は伝えたか否か。
新聞はなぜか不透明な敵意を皇室に向けている。例外は産経、読売で、時事通信社も北海道新聞などの冷淡なこの動きに与していない。11日に同社札幌支局の杉本一郎氏が言っていたが、今回のご来訪を北海道新聞はわざとのように小さく扱ったそうだ。他の全国紙の北海道版がそれなりに大きく扱ったのに、お義理のように5センチ四方の単純報道で、しかも陛下は「・・・・へ行った」「・・・・を訪問した」の敬語抜きの表現であったという。「北海道に産経新聞が入っていないというのが致命的なんですね。」と同氏は言っていた。同じ意見は別の日、札幌市局長の中村隆二氏も言っていた。
北海道新聞のシェアーは9割を越えるはずである。その影響はこの地ではきわめて大きい。時代おくれの旧社会党系の弁護士が札幌市長に当選したのも記憶に新しい。労組的思考が「保守化」し岩盤のように硬い土地柄なのだ。
それでも、国民一般の皇室への敬慕の念を叩き潰すことはできない。旭川空港の街道に500mも並んだ車列が空港周辺の交通を混乱させたあの日の出来事は語り草となっていたが、どの新聞にも載らなかったのかもしれない。当「日録」が後代に残す唯一の記録となるのかもしれない。
文字に書かれなかったことは永い時間を経過するとなかったことにされてしまう。逆に間違った報告もくりかえし、訂正されずに書かれつづけると、いつしか歴史事実になってしまう。中国に自国民にとって有利な歴史が残り、モンゴルにとって不利な歴史が記されがちであるのはそのせいである。日本の国内にもこの秘密を知っている執拗で、怪しげな勢力が頑健に生存しつづけていることは、悲しい事実だが、忘れない方がいい。
旭川の時事通信社内外情勢調査会で、「アメリカ政府に問い質したきこと——北朝鮮問題と安全保障」という題で話をした。講演はいつもは立ってするのだが、腰の痛みに配慮してもらって、坐椅子が用意されていた。痛みは少し残っているが、昨日病院でしてもらった巾広のコルセットが腹部を締めていて、安心感がある。
会食の際、座席の前に自衛隊の旭川第二師団長がおられた。私が素人の防衛論をするのはやや羞しい。しかし持論を遠慮なく語った。今回その内容は省くが、文学者である私がなぜ安全保障に強い関心を持つかの理由を話の合間に思わず告白したのは、「将軍」を前にしていたせいかもしれない。
防衛は生命力の問題である、と私は語った。どんな場合にもつねに極端な最悪を想定して、そこから理論を組み立てるのが安全保障の真諦である。生命力の弱い人間にはそれができない。いつでも楽天的に、問題をいい方向に解釈して、先送りして、危機を見ない人がいるが、それは弱い人間の常である。恐ろしいもの、悲劇的なものを、見つづける力は強い人間以外にはできない。幕末から維新期にかけて日本は生命力が強かった。戦慄的な場面を想像力をもって心内に描き出す勇気をもつ人が少なくなかったからだ。だから危機を先読みし、問題から逃げないで生きる人間が多数輩出した。今の日本は丁度その逆の状態になっている、等々。——
終わって師団長がお一人残られてご挨拶して下さった。イラクには今どの隊が派遣されるかきまっていないが、自衛隊はイラクに行けばきっと立派にやりますよ、と仰言っていた。