Subject:平成15年7月27日             

From:西尾幹二(B)

Date:2003/07/28 14:37

 小熊英二という人の『〈民主〉と〈愛国〉』という、注を入れて966ページにもなる大著に、手応えのあるしっかりした反論をして欲しい——『江戸のダイナミズム』連載は一回休んでもいいからぜひ——と『諸君!』編集部に依頼されて、私はしばし思案した。気が重かった。連載がこういうことで遅れていくのも厭だし、好きになれそうにもない人の膨大量の文章を読み通さねばならぬのもいかにも鬱陶しかった。

 

 別の会社のある編集者は「西尾先生が相手にする本じゃないでしょう。相手を喜ばせるだけですよ。」と何度も言った。つくる会の関西のある理事は、「先生のお立場ならお断わりになってもいいのじゃないですか」とも言った。私は数日間煮え切らないでいた。

 

 小熊という人は1962年生まれだから、私の息子の世代である。息子の世代の保守論客に名乗りを上げてもらいたいと思った。『〈癒し〉のナショナリズム』という彼が女子学生をつかって書かせた「つくる会」批判本があるということは聞いていたが、読む気にはなれない。前にも言ったが、私は教科書に対する批判本のたぐいをいっさい読まないできた。私は左翼から何をいわれても気にならない人間で、面倒臭いことや煩わしいことはもういやなのである。

 

 けれども、編集部から送られてきた『〈民主〉と〈愛国〉』は、「戦後」を囲いこんで、進歩派の言論を詳しく跡づけ、これでもかこれでもかと引用文を重ね、共感と賛意をこめて当時のマスコミを再現している本である。それも量的にただごとではない。読者層は量に圧倒されている。「あの男は何となく権威づらし始めますよ。量に気押されて脱帽してしまうマスコミ関係者は多いですからね。」という声もあった。「案外に評判がいいんですよ。」という人もいた。終戦(1945)から安保(1960)をへてベトナム反戦運動あたりまで、つまり私にとっての青春でもあったあの時代の言説の虚偽をつまびらかに知って、切り捌ける人は西尾くらいしかいない、などと煽てる友人もいる。なにしろ『諸君!』新編集長が熱心に言ってこられた。そうか、そういうことならやろうか、という気持ちにだんだんなった。

 

 けれども女子学生の書いた本は相手にするつもりはなかった。もし言及するとすれば、「お嬢さん、つまらぬ先生から手を切りなさい。」ぐらいの厭味を言ってやろうかな、と思ったが、実際には真正面から切りこむ正攻法で書き出したので、そんな軽口を叩くことはしなかった。

 

 私は『〈民主〉と〈愛国〉』をざっと流し読みして、どう対応すればよいかすぐに分かった。直ちに戦略を立てた。すなわち小熊英二という著者を論述の対象にしない。彼が崇め奉っている存在を追求し、究明すればよい。具体的にいえば丸山真男、大塚久雄、竹内好などだが、主として最初の二人である。しかもこの二人がしきりと唱えた「主体性」と「近代性」の神話を完膚なきまでに叩き潰せばよい。

 

 二人はともに西洋近代への依存度が高い。外国文化に依存しているのに「主体性」を言うからおかしい。丸山真男はナチスにもソ連にも共感できた戦前型の全体主義体質の人間であることを証明した。大塚久雄はイギリスを基準に日本のすべてを裁定しているのに、イギリスの文献をちゃんと読めてもいない学者失格者であると論及した。

 

 こういう風にいえば、西尾は何を言い出すのだろうと、ここまで読んできた方々にはさぞ吃驚されるであろう。まあ、拙論「〈癒し〉の戦後民主主義——憐れな、余りに憐れな懐かしのメロディー——」(『諸君!』9月号)の仕上がり具合を見ていただきたい。

 

 小熊英二氏は1960年代(昭和35~40年ごろ)まで日本がほぼ「情報鎖国」であったことを知らない。彼は戦後という閉ざされた一時代を囲いこんで特権領域にしている。しかし、戦後の前には戦争の歴史があり、戦前がある。戦後の後には高度経済成長を経て現在に及ぶ30年余の歴史がある。歴史は前にも後にもつながっている。そのことを彼は念頭に置いていない。

 

 彼も戦争の時代を意識してはいる。けれどもつねに戦争を「負」の記号でしか語らない。日本が戦争をせざるを得なかった運命を自らの運命として生きた日本人の過去が簡単になかったことだと思っている人である。そういう人は戦前、戦中を思い出すことはできまい。戦前、戦中を正確に思い出すことができない人は、戦後を正確に語ることもできまい。

 

 論文の終わりの方で私は竹山道雄の昭和22年の「樅の木と薔薇」というエッセーの一部を引用している。竹山が戦後、夜半に襲われた不安と恐怖について取り上げ、考察している。戦争が終ったことは頭で分かっても、身体は別の反応をするのである。人は戦争中はむしろ快活で、戦後に不安に襲われた。子供の私でさえ記憶がある。戦後の「解放」神話はウソである。米占領軍は決して解放軍ではなかった。ここのあたりの叙述は微妙なのでどうか丁寧に読んでほしい。

 

 今月は例の「つくる会」の「重要発言」(一)〜(五)があって、心がそれにとらわれていて、前に進めない。雑誌の〆切りは20日と分かっていて、準備に時間もかかり、準備のさ中に「リライト問題」のコメントが目を奪い、追加書きもあり、まことに落ち着かなかった。論文は〆切り日の7月20日に書き出した。編集部はさぞ大変な迷惑をしたことであろう。

 

 例によって、前の方のゲラの校正をしながら後の方を書きつづけるという綱渡りで、25日夕刻に最終稿をファクスで送った。この日はさみだれ式に、一時間に一枚づつ送るという異常事態だった。

 

 約束の60枚をどんどん越えた。しかしこの段階では20ページとってあるページ数はもう変えられない。結局活字の大きさを一段落とし、一ページの行数を増やすことで約70枚を押しこむように掲載してもらった。今は活字を拾うのではなく、ワープロだからこういう芸当もできるのである。しかも7月は31日まであって、30ではない。この一日の差が私にとっても、編集部にとっても救いだった。

 

 疲れは二日めの今日の27日にかえってどっと出て、日曜日の午後横になるや1時から4時ごろまで熟睡してしまった。