慰めと感謝 (一)
/H15年10月10日11時45分
私はいま軽井沢の山荘に来ている。今夏は、八月に暖房を入れていると聞いて、夏の真っ盛りには来なかった。九月末にやっと来て、今またわざわざ来ているのは、書籍搬入のためである。昨日から屋内の片づけに取り掛かっている。
部屋を片づけていたら平成6年(1994年)8月20日の新聞が出て来た。「戦後一番暑い夏」と書かれていて、「平均で2度高く、39℃以上も30回」とある。あぁ、こんな夏もあったんだな、と思う。 明日運送会社の倉庫にあずけておいた大型ダンボール37箱の本が届く。半端な量ではない。軽トラック一台分である。大学の研究室に置いてあった本を、停年で、調布の運送会社の倉庫に置きっぱなしで2年半が経った。もう限界である。 本当は軽井沢に本を移動したくなかった。冬期に使えない。夏期にもいざというときに役立たない。東京にすでに二つの書庫を持っていて、もうこれ以上はいくら何でも新しい書庫を用意できないので、背に腹は替えられなかった。 書庫でいつも羨ましく思うのは司馬遼太郎のそれである。彼は個人図書館に近いようなスペースの書庫を備えていて、専属の司書を傭っていた。執筆計画を立てると、たちまち司書が机の上に複数の参考資料を揃えてくれたそうである。 司馬のように自分の本が売れなければ、とうてい真似のできない話である。けれども、誰でも本の置き場には頭を痛めているはずである。私のケースを紹介しておくと、5年前に私は地下1階、地上2階(各階25坪)の家を建て、地下の25坪の大半は私の書斎と書庫に当てられている。それで足りずに他に60㎡のマンションを全戸書庫にしている。それでも大学研究室に貯まった本が入らない。 明日軽トラックで運びこまれる37箱の約3分の2はニーチェ文献である。私は『ニーチェ』の第3部、第4部を書きつづけることをまだ諦めていない。その37箱の中には本だけでなく、私がミュンヘンの図書館でマイクロフィルムに収めた19世紀のヨーロッパの書籍、ニーチェが勉強した証拠のある約120冊分(周辺関連文献を含む)のコピー刷りの仮綴本が存在している。 私は現代ヨーロッパの新しいニーチェ研究に興味がない。ニーチェが学んだ本、彼が読んだ本、彼がそれで考えた本——研究はそこから踏み込むべきだというのが私の壮大な計画だった。日本人の外国研究は外国のレベルを追い抜かなくてはいけない。『ニーチェ』第3部、第4部の準備はできているのである。しかしかって私は挫折した。人生で最もつらい、悲しい挫折だったといってよい。 外国研究だけして生きていける環境が日本にはない。私の『ニーチェ』続稿を掲載してくれる雑誌は日本にはなかったし、今もない。多くの専門家に惜しまれながらの中断だった。(ちくま学芸文庫『ニーチェ』第2部の巻末の同書への批評集をご覧いただきたい)。勿論私の執念の不足に一番の原因があるのだが。 それでもまだまだ未練があるので文献は捨てられない。明日軽トラック一台が静かな緑につつまれた山の一軒屋に入ってくる。その箱の蓋をあけ、本を取り出し、並べるのは私の仕事である。書棚は八畳二側面全段を開けたが、きっと足りないだろう。二階にも運びこむことになるだろう。 これらの文献から、第3部、第4部を立ち上げる切っ掛けが得られるかどうか、私にはもう分らない。私は68歳である。日本の歴史であるとか現代の政治であるとか、余計なことをしすぎてきた。もう世間から離れて、完全に孤独な10年間の著作活動は得られないものだろうか。 私はやりたいこと、やるべきことが余りに多すぎる。身体と年齢がもう追いつかないところへ来ているのに、自らそれを顧みない。何歳まで生きるのかを考えていない点で私は痴愚である。 ある親切な人が、先生はもう大学へ行っていないので、学生や中年の大人を集めてニーチェ講義をしてくれないか、そしてそれを本にしてはどうか、と言ってこられた。同じようなことを政治思想で言ってくださる人はもっと数が多い。日本の指導者をつくる西尾塾を建ててほしい、などと。 後者については、少し違った形で(私個人の名においてではなく)計画は進んでいるが、ニーチェ講義に関しては、これを言ってこられた方に、私は丁寧にお断りをした。思想家ニーチェの研究に関する限り、私は次の順序で仕事をしたいと考えているからである。 (1)ツァラトゥストラの翻訳(新潮文庫) (2)私のニーチェ論集成(筑摩書房) (3)『ニーチェ』第3部、第4部(筑摩書房又は中央公論社) (4)私の単独訳ニーチェの著作集(全15巻)・・・・・・(出版社未定) というような、具体的プログラムはできあがっているので、他のことをするつもりはないのである。もとより、これでいくと、他の分野もあるのだから、私はあと200年くらい生きなければならないかもしれない。 その親切な方は手紙をよこして「良く分りました。200年お待ちします」とユーモラスに返事を書いてきた。 ところが、じつは必ずしも200年という話でもない。軽井沢にくる当日の10月8日に、懸案だった中央公論社との話し合いが終わって、中公クラシックスから私のニーチェが二冊本で来年1月と3月に出版されることに決まった。第一巻が『悲劇の誕生』第二巻が『ギリシャ人の悲劇時代の哲学ほか』と若い時代のニーチェに限られるが、上記計画(4)は少しづつ蓄積されていくのである。 中公クラシックスの第一巻は私の30歳のときの、第二巻は40台の仕事の再刊だが、今回の機を利用して、小篇をいくつか新訳することにした。そのうちの一篇「われら文献学徒」のコピーを今度携えて来て、寒い、寒い軽井沢で昨日から炬燵に入って、どう訳そうか久し振りの翻訳に心おどらせつつ、丁寧に読み始めている。そのうち(4)の夢はきっと実現するに違いない。
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