大阪シンポジウム (一)
 投稿者:西尾 幹二 投稿日:2004/02/03(Tue) 10:22

 


 2月1日(日)14:00〜18:20大阪メルパルクにおける、『国民の文明史』シンポジウムは、東京にひきつづき再び1100人を越える盛会となった。よくこれだけの人が参集したものと思う。アンケートをみると、関西だけでなく、全国各地から来ている。

 パネリストは主役の中西輝政氏のほかに、加地伸行、松浦光修、西村眞悟の各氏に私。進行上の取りきめとして、東京の場合と同じく、中西氏の基調講演のあと、最初にひとり各10分の「書評」をしてもらい、休憩をはさんで、こんどは各自5分間の範囲で、ご自分が文明史を書くならこうなるという簡単な見取り図を掲げてもらうことにした。そのあとで、中西氏に寄せられた感想や批判をまとめて氏に反論してもらう段取りでのぞんだ。

 4時間を越えるシンポジウムの流れの全部を不確実な私のメモで再現するわけにもいかないので、ここでは私の第一、第二発言に限定して、記憶から消えないうちに記録しておきたい。

 第一発言・・・・・
 私は「書評」を述べる。

 さきほど加地先生が剛速球投手のようにときにワンバウンドしたり、暴投もあるが、ストライクがきまりキャッチャーミットにドスッと落ちるときのような小気味のいい発語がこの本にはたくさんあると仰言った。同感で、私の選んだ直球ストライクのいくつかの例を挙げておく。

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 P.230 戦争自体はたしかに大きな悲劇で終わったが、それによって日本の「文明的な魂」は深いところでバランスを回復することができた、と文明史的な観点からは言うことができよう。それなしに、昭和40年代まで、戦後のほぼ20年間の日本にはたしかにあった、そして高度成長への道をしっかりと支えた、日本人のあの深い「魂の落ち着き」は説明することができない。この点でも、「昭和の戦後」の20余年は、明治と本質的に似た時代であったといえるのである。

 P.248 明治のキリスト者の多くは、日露戦争に支持を表明していた。それは、政治というものと皇室崇拝や日本は神の国だということを、きちっと分けて考えていたからである。魂の次元に関わらない限り、自分の生まれた、自分の属する国の文化や体制を受け入れ、そのことに感謝するというのは、どの宗教であれ、いちばんまっとうな立場だということは、文明を超えてあてはまる。

 P.423 いまの日本の問題は、モラルであって、システムではない。日本はどこまでいっても深い意味で、官民一体でなければならず、そのシステムをもしアメリカ型に根本から変えると、とんでもないことになってしまう。この「火を見るよりも明らかな」文明論的事実を、直視するときが必ずこよう。

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 ところで、以上のような表現はすべて本の後半からの引用である。前半は読みにくい。第2部第5章215P.からにわかに面白くなり、躍動感に満ちてくる。そう思った人は会場の中にも少なくないだろう。

 東京シンポでも同じ感想を述べた。縄文と弥生という二項組み合わせのフレームワークを歴史に当て嵌めている無理があるからと言ったが、今度読み直して、理由はもっと簡単な処にあると分った。

 ご本は最初に文明論とは何か?というテーマ設定を長々と論じ、150ページをこれに要し、いよいよ日本の古代史の叙述に転じ、設定された図式を叙述に当て嵌める段になると、余りに量が少ない。古代史と中世史で50ページていどである。(第4章「縄文」と「弥生」の日本文明史148~214P.)そして明治以降が残りの260ページを埋める。古代史と中世史が大上段をふりかざしたテーマ設定の大きさに比して余りに短い。前半が息苦しく、無理が感じられる理由はそれである。

 ご本はそういう意味で量が多すぎるのではなく、この3倍くらい書かれるべきで、(笑声あり)、今のところはデッサンといってよい。

 古代史に関し、一例をあげる。律令が7世紀に制定され、公地公民の理念がたちまち在地豪族によってむなしくされ、三世一身の法や懇田永年私有令などで無効になっていく。律令は輸入思想であり、土着化し、日本の地方文化に吸収されるのに時間がかかり、律令国家がそれなりに定着し日本化するのには3、400年かかったといわれる。ご本にはこのプロセスを「縄文化」といって、他ではマイナスに仕立てた記号で表記されている。けれども、一方ではこれはご本が唱えている日本の「地下水脈」に触れる動きであり、いわゆる「換骨奪胎」の一例でもある。プラスの記号でも述べなくてはならないので、「縄文化」のもつ両面が、当然もっと長く丁寧に、歴史の複雑な相に触れて論述されるべきである。「縄文化」の二面性を他にももっとはっきり分るようにしてほしい(165P.)

 全体としてこうした未整理が目立ち、「縄文化」で表現されているものの内容観念とそこにこめられている著者の意図が歴史事実に必ずしもうまくフィットしていない叙述にたえまなくぶつかり、読者を苛立たせるのである。

 余りに少い分量に大きなテーマの設定がなされていることに原因があり、いち早く気づいて直させるべき編集者の責任もあるように思う。

 さて、「文明論」ということを少し考えてみたい。
 



Re: 大阪シンポジウム (二)
 西尾 幹二 - 2004/02/07(Sat)11:12

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 ヨーロッパ・キリスト教文明の時間観念はイエスの誕生から最後の審判までの直線形式であり、これは進歩の観念を生み出し、ヘーゲルやマルクスの思想の前提でもある。この時間観念が挫折したのは、19世紀までのヨーロッパの自己相対化(地球上の他の地域にも同格の文明があるとの認識)がかなり進んで、そこへ第一次世界大戦の惨劇が起こったときである。ヨーロッパは自己の文明に絶望した。

 シュペングラーの「西欧の没落」は1918年に、トインビーの「歴史の研究」は1934〜39年に公刊され、20世紀前半の二度の世界大戦の契機と固く結びついている。どちらも循環史観とよばれ、時間は直線ではなく、円環形式で考えられる。すなわちさまざまな文明が発生し、勃興し、頂点に達し、やがて没落する。それがくりかえされる。ローマ帝国がモデルになっている。円環をなしたさまざまな文明が地上に出現し、消滅したように、ヨーロッパ文明も同様な経過を辿る。

 20世紀に入って、キリスト教的時間観念がこのように懐疑されたため、時間はギリシアやインドの循環する観念、ピュタゴラスや輪廻に表現されているような円環として表象され、それが歴史に適用されて文明論になったのだ。けれども、シュペングラーもトインビーも自己の文明の危機意識の表現には成功したものの、中国やイスラムやインドなどの他文明をうまく説明することができなかった。

 この段階でヨーロッパの文明論的解釈の試みは終わったと私は考えている。面白いことに、文明論は歴史の表現とはいえないからだ。なぜなら歴史は変化を前提とするが、文明論は各文明に固有の構造に着目し、無変化を前提とするからである。

 文明論は古代から現代までの一文明の同一特徴や、固定した構造に着目する。縄文や弥生がくりかえされるという中西文明論もその例に漏れない。わかり易くいうと金太郎飴を思い出していただきたい。どこを切っても同じ顔が出てくる。構造主義とはそういうものである。マルクス主義が終わった後に構造主義が流行したのには必然性がある。

 変化や事件の一回性を前提としない同一構造の回帰性、同じパターンのくりかえし、すなわち周期性を前提とした文明論は、果たして歴史になり得るだろうか。中西氏はご本の中で日本人論を否定している。「タテ」社会とか「甘え」の構造とか「縮み」志向とか「イエ」意識とか、いろいろあった日本人論は、典型的な金太郎飴であり、そこには歴史がない。

 だから中西氏が日本人論を否定していることには同意できる。けれども日本文明論と日本人論とはどこでどう違うか。互いに非常に似ているのではないだろうか。

 東京のシンポでも言ったが、文明論はどうしても宿命論、運命論にならざるを得ない。その理由は、今述べた特性に関係している。平安時代も江戸時代も300年つづいた「縄文化」の困った自足停滞の時代であり、平成の15年もそうだというお話であるが、だとすると同じ構造の回帰性に着目することになり、平成の「自足停滞」もこのあと280年つづくことになるのであろうか。

 じつは今度ご本を読み直して中西氏ご自身が書中でこの矛盾に気がついて、歴史の中にはバクチの要素があると指摘している(298P.参照)。バクチは運命としての文明に対する人間の意志の働きかけであるのか、しかしそれも歴史の中から運命として出てくるものなのか、判然とはしない。蘇我氏に対する大化改新、平家に対する源氏の勝利、薩長という関が原の敗者の復活——いずれも開明的国際派に対する地方土着の文化、「地下水脈」からの力の発現であるとみなされる。

 運命としての歴史とバクチとしての歴史は、中西史観の謎を解くキーワードと読んだが、そこが誰にも十分に分かるように、理論的哲学的に説明されていないのが同書の最大の問題であるように思ええる。

 本の後半が面白いのは、文明論の固定した物指しを著者が置き忘れて、自由に暢び暢びと語りだしているからである。
 
 


大阪シンポジウム (三)
                   名:西尾幹二 H16/02/08(Sun)19:22 No.58


 私の第二発言は次の通りである。

 日本人の心の美しさが他のパネリストからしばし強調されたので、私は日本人の心の弱点を少しとりあげて、考えてみたい。

 日本人は他国の悪が見えない。先ほどどなたかが、親が子に「人を瞞すくらいなら瞞されよ」と教えている国は世界広しといえども日本しかないと言ったが、「人に瞞されるくらいなら先に瞞せ」というのが世界のほかの大半の国の智恵である。

 中西さんのご本で私が流石と大変に感心したのは、20世紀におけるイギリスの東南アジア支配の狡智についての観察と分析である。イギリスは17〜18世紀にはオランダ、フランスとアジアで覇を争ったが、20世紀に入ると、逆にオランダ、フランスを仲間に引きこみ、一国単位ではものごとを考えない方式で、アジアを統治しようとした。アメリカまで植民地経営に誘いこんだ。イギリスがスポンサーシップを発揮したのは、アジアを一つにさせないためである。そうお書きになっている。

 植民地アフリカとインドのことはかなり知られているが、東南アジアについては日本の西洋史家の研究は進んでいない。オランダ語を勉強する人がいないからだと言う人がいるが、中西氏が英語でこのように全貌をつかんでいるのだから、語学の問題ではない。

 さて、自分が日本文明の歴史を書けばどう書くかという第二発言のテーマも、私の場合、外が見えていて見えず、見えないようで見えている日本人のこの特性に関連している。

 日本文明は長期にわたる縄文文明を基底にもち、多様な外来のものをつみ重ねてきた重層文明であるという『国民の文明史』の趣旨は、私の『国民の歴史』の基本のモチーフと重なり、同じ考え方である。1000年単位で歴史を考えるというのも同一である。

 ただ私は、もし自分が文明の歴史を書くなら、文字のない漁労と森林と岩清水の民が外から刺戟を受け応答するこの国の受身の歴史は、幾変転したのではなく、大きくいって二つの波、古代中国文明と西洋近代文明の大波を受け、反応したことにほぼ尽きるという風に書くであろう。

 古代中国文明と西洋近代文明のどちらに対しても、わが民族は非常に長い時間にわたって沈黙し、すぐに反応せず、ゆっくり内部から湧き上がるものと外からの刺戟とを混ぜ合わせ、発酵するのを待って徐々に対応したと思われる。古代中国文明に対しては久しい「沈黙の時間」があったことは『国民の歴史』で叙述した通りである。弥生の時期が500年遡るという最新の学説とも符合する。

 西洋近代文明の波が到来したのは16世紀である。が、やはりすぐには飛びつかず、「鎖国」の時間を持った。どちらの文明に対しても半分薄目を開けて眺め、深呼吸して、時期が来るのを待った。

 二つの外の文明を鏡にして自己を確立するパターンは、二つの憲法に、聖徳太子の十七条憲法と明治の欽定憲法に、表現されている。しかし今のわれわれは外にどんな文明の鏡ももっていない。新しい日本国憲法が容易に結実しないのは、外に自分を映し出し、自分を化粧し直す鏡をもはやもっていないせいである。

 われわれは今、未曾有の国難に直面している。アメリカが古代中国や近代西洋にとって替わる鏡というのでは、あまりに情ない。しかし現実の日本は途方に暮れている。二つの大波が去って次の波が現れないからである。

 日本文明はどこまでも受身なのである。私は「貯水池」のような文明と書いた。陸を越え、海を渡り、世界中のあらゆる文物がさいごに辿り着く貯め池であり、ここから外へ水が流れ出したことはないのである。

 日本人に外国の悪がとかく見えないのもこの特性に関係していると思う。遠い外つ国に善きものがあるという七福神信仰がまずあって、謙虚に理解しようとする。悪しきものを拒む外光拒否感情もあるが、裏に回って悪しきものを理解しようとまではしない。ここに日本人の長所と弱点がある。私はそう語った。

 著者中西氏は私の第一、第二発言に対し、多分第一発言のほうを意識してのことと思うが、学者というものは自分の考えに固執し、それに合わないものがあると抵抗する。一般の読者はもっと素直である、困ったものだ、というような言い方で私に反論した。

 『国民の文明史』を読んで私のこの日の発言を吟味し、どうお考えになるかは、本稿の読者の皆さんの判断にお任せしよう。少くとも第一発言での私の中西氏への忠告は、これから著作をつづける氏にとって有益で、参考にしていただける内容であったと私は信じている。
 

 
大阪シンポジウム (四)
                西尾幹二 H16/02/09(Mon)14:58 No.59


 会場に来ていた人で、「日録」感想掲示板にシンポジウム全体の印象をまとめた次の記事があった。

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国民の文明史 投稿者:総合学としての文学 投稿日:02/01(日) 20:44 PC No.702

今日は大阪「国民の文明史」シンポジウムに参加しました。
西尾先生談で西洋の歴史観はキリスト教をベースとした直線的歴史観であり、それは進歩主義・マルクス主義に繋がる者である。そして文明論とは西洋人自身の西洋の歴史観に対する異論であり、相対的でループの歴史観であること、そしてその営みは後へ続かなかったことを知りました。
加地先生談で中国の忠孝と日本の忠孝の違いを知りました。
加地先生談等で中国には国家をよくすることが自分自身をもよくするという発想がない。
したがってわが身と我が血族を守るための今だけしか見つめない極度のリアリズムが発
生するとのことです。
しかし西尾先生談等ではまだ日本には国家をよくすることが自分自身をもよくするとの
発想があるのでそれだけ日本はまだましだとのことです。その通りだと思います。
西村先生談によると天皇陛下を直視すると眼が潰れるそうです。私はそんなことはない
と思います。
西尾先生によって天皇の制度と人格について話がふられ、西尾先生が「私には陛下、臣
という概念が無い」と言うと少し怒号が飛びました。よくわかりませんが関西人は関東
人に比べて天皇家とそこから派生される文化に繋がる歴史的文化遺産に親しむ機会が多
いので関西保守は関東保守よりも感性的保守が多いのかもしれません。
我が国の天皇は基本的には王制なのですが、神道なり文化なりが複雑に絡み合うのでな
かなかその学術的定義づけをするのは難しいと思います。
ただ憲法という法規範上で天皇を定義するならば主権を国民に恩賜し国家の象徴となっ
たというのが一番素直な解釈ではないかと思います。
後大正7年まで新聞に漢詩の投稿コーナーがあったという事を知りました。漢詩は俳句
の如く庶民に根付いていたものが、学校教育に委ねられ今それさえも絶えそうだとのこ
とです。確かに私も大学受験の時に漢文を勉強はしましたが春秋戦国時代等の赤裸々な
リアルポリティックスな文章を読んだ記憶はありません。

以上非常に有意義なシンポジウムでした。

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 天皇に関する私の発言は、正確には、「私には陛下に対し臣西尾という意識はない」と言ったのである。「臣とは下臣ということだ」ともつけ加えた。

 またこうも言った。「日本の天皇の制度は神話に直結している。他国に例がない。近代科学の出現によって、神話は危機にさらされている。鴎外も漱石もこのことで悩んだ。明治以来、このことで苦しまなかった知性ははい。キリスト教や仏教の方が護教論的理論を発達させている。」

 「藩屏を失ってしまった皇室はあまりに気の毒である。皇族をいろいろな場所に引き出す宮内庁のやり方は間違っている。戦後マスコミにさらされている皇室は神秘性を失っている。」

 「制度としての天皇と人格としての天皇の二つがある。私は前者であるべきだと考えている。天皇がどういう方であろうと、制度としての天皇でわれわれは満足し、支えられるべきなのである。しかし現実には、昭和天皇のなき後に、この国の急激な衰退をみると、人格としての天皇にわれわれはやはり左右されている面があるのかなと考える。この点は多分皆様も同じように考えておられるだろう。」

 以上念のために申し添えて置く。

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   <付記>

 2月10日『Voice』3月号が発売される。九段下会議が雑誌に軒を借りたかたちであるから、巻末に地味に扱われているが、同会議の「国家解体阻止宣言」は一冊の中で最も充実した文章として輝いているはずである。

 3月10日にはネットにも掲載可能となる。またパンフレットを数千部作成し、3月10日以後に、主だった政・官・財・地方団体に撒く予定である。

 当日録の読者はぜひ『Voice』3月号を読んで、宣言末尾の要領に従い、i日録感想板ではなく、当ネットの「九段下会議(オピニオン掲示板)」に積極的に投稿していただきたい。ハンドルネームのままでよいが、住所、氏名、年齢、できればご職業を管理人にまで分るようにしておいてほしい。

 話変わるが、船橋西図書館焚書事件の控訴審第二回公判は、1月26日に行なわれた。判決の出る結審は3月3日にきまった。

 先に弁護団は原告西尾の証人出廷を求めていたが、裁判長曰く「西尾さんの意見は『正論』論文も裁判所提出の陳述書も全部読んで、参考に致しますから、証人出廷までは必要ないでしょう」という返答で、後は裁判長任せとなった。