学者とイデオロギー (一)
 投稿者:西尾 幹二 投稿日:2004/02/12(Thu)10:47


 
 
 1月25日(日)林健太郎先生をご自宅にお見舞した。お住居は私の家の近くである。1913年お生まれであるから今年90歳になられる。ガンは進行しない。この点は心配要らないが、倒れて骨折して、車椅子でないと外出がお出来にならなくなった。

 西洋史のお弟子さんである九里幾久雄氏と同行した。2年前までは奥さまと毎月一回歌舞伎を欠かしたことがなかったそうだ。6〜7年前までは、外国旅行を楽しんでおられた。今は家に閉じこもりきりである。杉並の井草八幡の森に道ひとつへだてたお住居にも巨樹が家を囲むように聳えていた。

 少し悲しかったのは、この10年の時局の変化がもう余り判らないと仰言ったことだった。イラク戦争も話題になり得ない。私は言った。「先生が家永三郎と闘った時代には、文部省が健在で、日教組と対決していて、伝統的思想を守る柱でした。しかし今は文部省が当てになりません。薄められたマルクス主義の牙城なのです。」

 「大学入試センター試験」の「第二次大戦中の強制連行」を正答とする例の世界史の問題の大きな文字に拡大したコピーを持参した。先生にそれをお見せした。奥さまが急いで眼鏡を掛けて上げようとなさると、手で振り払い、「こんな大きな字なら読めるのだよ」と抵抗なさったのが、なぜか微笑ましい。

 九段下会議の「緊急政策提言」のところだけをコピーした一枚も持っていった。今の日本の現実をお話したかったからである。じっと読んでいてご関心をお持ちになったようだった。「国家解体宣言」の6人の署名者の中で、先生が名前を知っていたのは、私のほかは、中西輝政氏ひとりであった。「志方俊之氏とはどういう方ですか。」「昔でいえば陸軍大将になった方です。」

 しばらくお話して、大部時間がたってから、また6人の署名者の名の上に目がとまった。「これはみんな東大の先生がたですか」のご下問にはオヤッと思った。世に論者はたくさんいるが、羅針盤の針の振れない人は少数である。そういう相互評価の基準で仲間として相寄った背景を説明した。別に9人の編集者もメンバーを構成している旨私は語った。声明文の本文は持って行かなかったので、帰りぎわに先生はわざわざ「『Voice』3月号が出たら届けて下さい」と仰言った。並々ならぬ関心をお持ちになった証拠である。

 座談の大半は奥さまを交えての歌舞伎の話だった。歌舞伎と文楽は政府援助がなければこの先もう持たないだろう。主役はともあれ、脇役を育てていくのが大変だ。先生には影響力があり、政府への働きかけに期待したい、とは私だけではなく奥さまのお言葉でもあった。宇野信夫が西荻窪のこの界隈に住んでいて、生前ご夫妻とお付き合いがあったというのは初耳だった。「へー、どの辺ですか。」と私は自分の散歩道を思い浮かべながらお尋ねした。

 先生は和服姿に着かえて私たちをお迎え下さった。奥さまも和服中心の生活で、外国旅行もぜんぶ和服でお通しになった、とか。和服は維持と収納が大変だ、という女性一流の話もうかがった。奥さまが上等なお着物を調達することに先生は寛大だったそうである。「でも、日舞は一流になるには莫大なお金がかかるので、諦めたんです」と奥さまは付け加えられた。どれくらいかというとビルが二つ建つくらいだというから大変な額である。

 奥さまははきはきした明るいご性格で、先生の晩年はお幸わせである。私は自転車で西荻窪の界隈をお買い物などに活発に走り回っている奥さまに何度もお目にかかり、立話をしていて、そして今日のご訪問になった。

 先妻の孝子夫人は同行した九里さん(つくる会理事)が学生であったときの先輩に当るらしい。「先生は結婚前、学生たちと一緒の旅行にあの方をお連れになりましたよね」と九里さんが少し冗談めかしていうと、先生は「いや、学生の一人として学生旅行にあの人が参加しただけなのだ」と若い日のことを淡々と語った。

 この「淡々と語る」スタイル、少し素気なく、感情を混じえずに、事実を事実として悪びれずに語るスタイルが林先生の文章にも現れている流儀である。こうした話題に今の奥さまも同席して、終始ニコニコして聞いておられる。

 九里さんは政治的に少しきわどい質問をした。正確なことばではないかもしれないが、こんな質問だった。「先生は自分がむかしマルクス主義を信奉したということを少し過剰に言いすぎる傾向はないでしょうか。先生は党員であったわけでもなく、先生の歴史研究は最初から実証主義で、マルクス主義の匂いなんか全然ありません。普通の人なら心の中の信条だけであったら、知らん顔して、内心で清算してやりすごしてしまうのに、先生はわざと自分の過去の心にこだわってみせるのはなぜですか。」

 先生に会ったら生存中の証言として聞いておきたいと九里さんがつねづね心掛けていた質問であったらしい。先生のこれに対する答はまことに「淡々とした」ものであった。戦時中、自分はマルクス主義が正しいと思っていたことは事実だから、その事実を語っていただけで、こだわっているわけではない、と。

 先生は隠したり誤魔化したりする必要を認めない人なのだ。正直だ、というのとは少し違う。今をうまく生きるために過去の自分を人前に取り繕う人が世には多いが、そういう必要を認めないほどに自信をお持ちだということである。

 30年ほど前に私は先生とたびたびお会いしていて、先生が自分に対する静かな確信の揺るぎない持主であることをよく知っていた。全共闘の学生にとり巻かれて本郷の教室に篭城したあの有名な事件も、先生の「淡々とした」、感情的にならない、素気ないご気性をよく反映している。同僚の中世史家堀米庸三先生について、あるときそっと私に、「堀米君は私に張り合っているからダメなんだ」と少し見下すようにポツリと仰言った。林先生は自信家だなァと思ったものだった。

 参議院議員を二期12年つとめられたころ私は先生から離れていた。それよりだいぶ前、私の結婚式のスピーチで先生が若い私について「西尾君はきわめてプライドの高い男」と言ってくださったことばは今も忘れない。

 『諸君!』が少し前にアンケートで第二次大戦の開戦日にあなたはどう思ったかを各界有名人に問うた企画があった。そのとき林先生は、たしかこう仰有っている。日米という二大資本主義国が衝突して、これで帝国主義の時代は終わる、シメタと思った、と。

 今の時代にこんなことを保守系の雑誌にわざわざ書く人はいない。昭和9年に共産党は解党し、昭和16年に共産党員の多くが国家主義に転向して、開戦礼賛派になっていた、そういう時代の話である。日本に厳密な意味でのマルクス主義者なんかは地を払っていたのである。

 しかし林先生は若い日、ともかく自分で自分をマルクス主義者であると自認していたその「事実」をいまさら隠す必要もなく、さりとてそれにあえてこだわるわけでもなく、素っ気なく、「淡々として」回顧している。シメタと思ったのは若い日の心そのものであったのだ。それ以上でも以下でもない、ということなのだろう。

 午後の2時から4時45分までお邪魔して、先生がお疲れになるのを心配し、われわれは辞した。室内にはマルチーズが跳びはねていた。
 

 

 
学者とイデオロギー (二)
                西尾幹二 日:H16/02/14(Sat)09:45 No.61


 九里さんと一緒に林健太郎先生の自宅を辞去してから、西荻窪に予約しておいた例の居酒屋吾作に彼を招待した。

 九里さんには「つくる会」の理事になっていただいた。日本史の歴史家が近寄ってこない教科書改善運動に、たとえ西洋史がご専門でも、歴史学者が参加してくださったのはありがたいことなのである。

 「日本史学者は遅れている」は昔から西洋史学者林先生の皮肉の言句であった。先生のお宅でも思い出すように私はその当時の話をした。「日本史学者と国文学者は外国語が読めない。西洋コンプレックスがマルクス主義に呪縛される原因の一つだった。」は先生の持論の一つであった。

 実際、西洋に近い学問の徒からマルクス主義による洗脳は融けていった。すでに1960年頃に、心ある西洋研究の徒にとってマルクスは退屈な存在だった。日本の歴史と国文学の研究家が遅れている図は今も変わらない。共産党直系の永原慶二のような日本史家がいまだにボスであり、同じく小森陽一のような国文学者が大きな顔をしている日本研究の分野こそが蜘蛛の巣城なのである。

 「私の見るところ、つくる会に脅威を感じている人は、朝日から日共まで幅が広い。最初は軽くみて侮っていたんですよ。」と、九里さんはご自身の観測を語った。「彼らはつくる会を最初単純に右翼だと思った。かびの生えた皇国史観の残党だと考えたのです。」

 われわれはかき鍋をつつきながら語った。彼はつづけて、「朝日から日共までの勢力は知識人世界にはまったくこわいものがなかった。ノンポリ中間派はじつはみな自分たちをこわがって、その軍門に下っていると思っていたし、思いたがっていた。彼らの知性は狭いので、新しい歴史の胎動がみえない。つくる会は軍国主義者だと宣伝することで簡単に叩き潰せると思った。ところがだんだん時間が経つとそうではないと分る。一筋縄ではいかないことに気がつく。しかし彼らの知力では、これが何だか分らない。いま暗中模索しているんでしょう。例の小熊英二はダブルスパイみたいな存在ですね。」

 九里さんは私より歴史をめぐる言論界を長期間にわたって観察してきた。「石母田正という古代史学者が日共系の歴史学者たちの総本山でしたね。」「岩波から『日本古代国家論』の二部作は最近も再刊されましたね。」と私は自分の書棚を思い出しながら言った。

 九里さんはこれに対し、「『歴史と民族の発見』という石母田の本があって、あれが左翼の聖書でした。岩波文庫にまで入っているんでびっくりしますよ。この石母田と理想的な師弟関係を結んできたのが、網野善彦です。彼は火炎瓶闘争時代の日共党員で、その後挫折感も味わい、苦労もしたんでしょう。学会の主流からは逸れたが、結局は中世史学会で仕事を重ね、有能だから次第に盛り返し、学会マスコミの実権を握りました。今では時代の寵児のような顔をしていますね。政治史中心ではなく、民衆生活史みたいなものをとり入れ、歴史の叙述の方法を変えたようなことを言っていますが、アナール学派の真似です。どうせ学会はまた政治史中心に立ちもどり、そう永つづきしませんよ。」

 「私の知人のドイツ史家が、何をやっているかというと、ドイツの政治史でも経済史でもない。一地方の農業協同組合の歴史みたいなもので学位を取った。」「そうです。今はみんなそういう方向です。」と九里氏は肯いた。

 私はこう言った。「全体が見えないから部分にこだわる。しかしじつは、全体が本当になくなったと思っていない。薄められたマルクス主義に立脚した全体像に安住して、漠然として思い描いた全体は旧態然たるものです。それが不安だから、地方の農業協同組合の歴史なんかを細かくやる。そういう構図でしょうね。」

 拙著『国民の歴史』が永原慶二や網野善彦にいかに打撃を与えたかということに話は移った。永原は刊行後すぐに私に書簡を寄越したが、私は返事をしなかった。網野は対談や座談会で、自分たちが生涯かけてやってきたことを一冊の本で踏み潰されたと、くりかえし、しつこいほどに語ったようだ。追跡している田中英道氏から詳しい情報をときどきもらったが、私自身は二、三を散見した程度である。一度誰かが『国民の歴史』をめぐる網野発言を集めて整理してくれるとありがたい、と思っている。

 つくる会は軍国主義者の集りだから簡単に潰せると思ったら、どうもそうではない。この会の奥の院には昭和史の大御所の伊藤隆先生もいる。永原や網野にとって『国民の歴史』に痛い所を突かれて、邪魔であるだけでなく、つくる会の存在自体が気懸かりでならないのは、時代の変化の波が遅れている日本史学界の岸辺にも激しく打ち寄せている音を聴き落とせないからに他ならない。彼らはだからいささかムキになっている。
 
 

         学者とイデオロギー (三) 2004/02/16(Mon)15:43


 九里さんはウーロン茶、私は〆張鶴から芋焼酎のオンザロックに移った。

 『国民の歴史』(平成11年10月)から教科書採択(13年8月)にかけての歳月に、網野善彦の一世一代の大事業が二つ行なわれた。講談社の『日本の歴史』シリーズ全26巻と中央公論社の『日本の中世』シリーズ全12巻である。

 学会の総力をあげた大企画全集は一朝一夕にはできない。関係者の長い時間をかけた計画の実現であろうが、それでも、講談社版の第一回配本の網野善彦「『日本』とは何か」は平成12年10月刊で、『国民の歴史』に当てつけるような、日本人意識を打ち壊す内容が散りばめられている。丁寧に読む者にはすぐ分る露骨な対抗意識を剥き出し、日本という統一体は存在しないということを書きつづけていた。

 一方『日本の中世』全12冊のうち政治史は二冊ぐらいで、「異郷を結ぶ商人と職人」「女人、老人、子ども」「都市と職能民の活動」「村の戦争と平和」など、ここでもアナール学派踏襲の網野の民衆生活史叙述、国家観の否定、日本人のアイデンティティの破壊のイデオロギーによって形成されている。

 これらの二つの全集で中軸を担っているのは網野を始めとする共産党直系の確信犯左翼である。しかし全部をそうするわけにはいかない。ノンポリの中立派で、篤実な学者風の人を散りばめる。講談社版には誰がそうだとは私にも全部は分らない。『日本の中世』の場合には、第1巻「中世のかたち」を書いた故石井進が中道の役割である。この全集の編集は網野善彦・石井進の二名になっている。中道の人は全集がいかにも公平中立で、知的に公正な学問的客観性を持っているかのごときイメージを世間に与えるのに寄与している。しかし実際には、網野たちの野望を世に知らしめるのが主目的である。

 マスコミの世界におけるこの中立的立場の人を私たちは昔から「オトリ」と呼んでいる。石井進が「オトリ」であることは紛れもない。これは私の観察であって、九里氏の見解ではない。九里氏にとり石井氏は旧友なので、口を緘して語らない。

 出版社も左翼も中立を仮装したい。三分の一ていど「オトリ」を使えば、読者は全集の全体を中立的なものとしてイメージし、好感する。それが左翼の狙いである。自分の意を通す手段である。

 しかしよく考えていただきたい。これが可能になるのは、出版社に信頼されている中立の立場の篤実な学者、すなわち石井進のような人が、左翼をものすごくこわがっているという心理状況があらかじめ存在していなくてはならない。網野を恐れているから網野のごとき隙だらけの歴史家の軍門にあっさりくだる。九里さんは「彼がこわがっていたのは事実だ」とポツリと語った。つくる会について話題にしたとき、石井さんは「あんまり近づかない方が安全だよ」とだけ九里さんに忠告したそうである。私が直観し、予想していた通りである。

 共産党に今でも寄り添うような学者——つくる会反対で赤旗に連名で署名した——が歴史の学問をリードするのは当然であるという観念が、ソ連が崩壊した後でも、日本史学会の中立派の人々をも支配している。中立派の人々は羊のようにおとなしい性格の人が多いのだ。それになにかをたしかに恐れている。
 
 
学者とイデオロギー (四)
                  西尾幹二 H16/02/19(Thu)09:29 No.63


 九里幾久雄さんとの寒い日の会談は、酒杯を重ねながら静かにつづけられた。

 東大に加藤陽子という昭和史の教授がいる。われわれは伊藤隆先生のお弟子筋だと聞いて、期待していた。彼女の書いた講談社現代新書は評判が良かった。しかしながら、山川出版の高校教科書が平成14年用検定でいっきょに劣悪化した。加藤氏が執筆人に加わって影響力を発揮して以来のことである。いったい何が起こったのか、われわれは訝しんだ。

 加藤氏本人がどこまで関与してのことか分らない。弟子に任せるとか、編集者任せにしてあとをよく見ないというような無配慮が教科書の世界には往々にしてあるらしい。が、いずれにしても責任は免れない。かくて、秦郁彦氏の糾弾を浴びた。彼女はシマッタと思ったかもしれない。

 九里氏はここから先は推理だが、とことわって、面白いことを言った。「いずれも伊藤隆先生との関わりから出た心理反応ではないでしょうか。自分はあれこれ揣摩憶測している。伊藤先生は走りすぎた、と加藤は考えた。<私は違う>と彼女は言いたかったのではないでしょうか。伊藤一統といわれることからの免罪を求めて、「世間」に対する顔向けで、山川教科書をあえて左寄りに過激にしたのではないか。左翼に対する加藤の挨拶ですよ。加藤がいかに左翼をこわがっているかということの証拠です。野蛮な勢力にたえずサインを送り、自分はあそこまで右じゃない、といいつづける。つくる会はいいシンボルにされているんですよ。」

 うがった見方ではあるが、あり得ない話ではない。「私は伊藤先生に、加藤陽子は先生の後継者といわれていますが、そう考えてよいのですか、と聞いたことがあるんですよ。」と九里さんは言葉をつづけた。「ウーンと言って、先生は黙っていました。少なくとも左翼じゃない、とは思っているようですが、『まあいい方で』という言い方で、十分な弟子だとは考えていなかったようです。伊藤先生の後継者といわれることは、加藤、伊藤の両者のどちらにとっても不満なのですね。」

 基本構造は左翼に対する恐怖を前提としている。保守的思想の持主でも、気楽な場所では「俺は保守反動だ」などと勇ましいことを言う人が、実際に行動するときになるとたえず気兼ねし、自分は中道だという広告宣伝をつづけるのである。これはじつは戦前からの日本の知識人の習性で、日本を戦争に導いたのも知識人の現実からの逃避、文化主義的かくれ蓑が原因している。欧米知識人にはない性格である。

 歴史学会だけではない。インテリの世界が大体そうである。今でも、例えば『諸君!』に書くことをこわがって逃げる人が少くない。『諸君!』に書かないことを宣伝して歩いて、自分を無害ないい児です、どうか使って下さい、とマスコミに言って歩いているみたいな人物もいる。NHKが採用するのはほとんどそういう人たちである。

 NHKは偏見の巣窟である。昔は必ずしもそうでなかったが、全共闘世代がディレクターになって以後、つまり平成と言う時代に、ほとんど朝日新聞に似てきている。NHK自体が露骨な左寄りの思想を述べることは、ないわけではないが、少ない。ただNHKはなにかをこわがって左翼に気兼ねする逃げの姿勢で、文化全体を歪めている。

 NHKに受信料を払う必要はない。私自身はもう10年より以上、支払い拒絶をしつづけている。この波が広がることがNHKを反省させる唯一の力である。
罰則はないので、何を言ってきても「放送内容が許せない」と言って拒否すればよいのである。私は竹島と尖閣の正しいドキュメント番組をNHKが流し、国民に警告してくれたら受信料支払いを再開することにしている。

 つくる会の理事に伊藤隆先生が決して座を降りないでおられるということは、大変に心強いし、パワーの泉の一つである。私たちの役割は大衆教化活動ではない。法灯を提げつづけることに尽きる。

 以上自分とつくる会の社会間に占める位置を記した。楽観は許されない。