思い出の地訪問
 投稿者:西尾 幹二 投稿日:2004/03/08(Mon) 15:17


 
 
 2月28日茨城県の大洗町で講演をした。300人の会場に400人が来て、ロビーや別室のテレビの前に人を集めて、急場をしのいだ。29日付の産経新聞(茨城版)に次のように書かれてあった。
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 憲法や教育に熱弁 大洗の「西尾講演会」に400人

 『国民の歴史』の著者で新しい歴史教科書をつくる会名誉会長の西尾幹二・電気通信大名誉教授の講演会「米中のはざまに立つ日本—外交・防衛・教育」(大洗町主催)が28日、大洗町磯浜町の大洗文化センターで開かれ、約400人が参加した。

 つくる会幹部の講演としては異例の自治体主催行事となったが、小谷隆亮町長はあいさつで、「雑誌『正論』に連載されていた西尾先生の連載『わたしの昭和史』で、先生が町内にある加藤内科の加藤理院長と水戸時代の親友であることを知り、加藤院長を通じて講演会を企画した。町民はみんな楽しみにしていた」と経緯を語った。

 西尾氏は、戦時中に水戸に疎開し、水戸空襲の四日前に御前山村に逃れ、桂村の小学校を卒業して水戸で中学生活を過ごした—という茨城時代の思い出を語った後で、「外交や防衛で日本がだらしないのは、憲法が悪いのではなく、憲法を弁解理由にして何もやろうとしない日本人自身の問題だ」と述べた。

 さらに「教育で自由化、個性化が強調された結果、学校が学校でなくなり、家庭が家庭でなくなり、国が国でなくなってきた。自由や個性は子供たちにではなく、国家にこそ必要だ」と日本の自立を訴えた。

 ジェンダーフリー教育や過激な性教育の実態にも触れ、「大洗の学校でそのようなことが行われたときは、町民は断固としてノーと言ってほしい」と呼びかけた。

 講演の前後には著書のサイン会が行われ、長蛇の列ができた。疎開時代の知人も訪れ、西尾氏と旧交を温めていた。
 
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 以上の記事を書いて下さったのは水戸支局の渡辺記者で、短い中にとてもよくまとめている。心がこもっている。今は水戸支局にいるが、少し前まで東京本社でつくる会を応援してくれていた。水戸にいても問題を決して忘れない。大学入試センター試験の世界史の逸脱問題をいち早く見つけて水戸から私にファクスを送ってきてくれたのは彼である。あの一件はこれで火が点いたのである。
 
 加藤理君は大洗町の教育委員である。平成13年の教科書採択のときの話をした。茨城県庁の方から扶桑社版は今回は見合わせるとの内示があったそうだ。やはりそうだったか。大洗町のの教育長と教育委員長が上からの司令をもってきた。加藤君はこれを拒絶、「俺は西尾のつくった教科書に一票投じたよ。そうしたら私もそうだという委員がもう一人出てきて、この町では3対2で敗れたんだよ。」
 
 夜海浜の松林の中に篝火がたかれた。小谷町長と加藤君と三人で、それを眺めながら酒杯を交わした。ご招待いただいた料亭も、宿泊したホテルも、まだ新しく宏壮である。「大洗は貧乏な町で、ボーナスを出せる企業なんてひとっつもないんだよ。」と加藤君が町の窮状を訴えたのがむしろ不思議である。
 
 「なにしろ病気になっても初診料を払いたくなくて、病院に来ない。健保があったって高い薬は使えない。病院の経営は大変だよ。今日は土曜日で患者が多かった。老人が家族の車で運んでもらえる唯一の日なんだ、土曜日は。」タクシーは高いからという意味である。
 
 翌朝彼がホテルに迎えにきてくれて、水族館に案内された。彼はここの産業医もしている。「入場料が高すぎるんだ。だから人が来ない。家族づれで来て、母子だけ中に入れて、父親は外の車の中で待っている、そんな人が今は多いんだよ。」ちなみに小さな水族館なのに1800円である。巨大なマンボウやエイの泳ぐのをみて、私も楽しんだ。
 
 午前11時半、私の泊まったホテル鴎松亭に、茨城大学附属中学校の男女10人の旧友が集まってきて小さな同窓会が開かれた。みんな車でくるので昼食会はアルコール抜きである。全員が60代の最後の齢である。2ヶ月前には仲間の一人をガンで失った。「この次の同窓会は東京でやろう。この中の誰かのために黙祷なんてことにならないようにな。」と加藤君が言った。
 
 日曜日の一日を彼は私のために用意していた。車で海岸に出た。子供のころ水戸から来て遊んだ夏の日の水泳場は、今は埋め立てられて、車のはげしく行き交う道路と大型トラックの大駐車場になっていた。大洗は北海道の物産を北関東や東京に海路で運ぶフェリーの船着場に改造されていた。
 
 「これだってバカな話なんだよ。海水浴場を潰して、観光を台無しにして、町にはろくな税収も入らないんだよ。」「物産の積み下ろしの度に税がかけられるんじゃないのかね。」と私は聞いた。「そんな法律はないらしい。俺は町の公聴会でたったひとり反対したんだ。この町の連中は先のことがてんで見えない。」
 
 そうだ、昔からこういう話し方をする友だった、と私は少年時代を思い出していた。中学2年のとき私と加藤の二人はBCGの接種に反対して、学校側をてこずらせた。これは自由意志のはずで、強制はおかしいと主張した。「学校の先生たちは先のことがてんで見えない。」と加藤は言った。生意気ざかりの頃である。加藤はそのころからお父さんの関係もあって医学にくわしく、私は母が新聞で得た知識でBCG接種の危険を言い張った。
 
 二人とも言いたいことを言いつづけて歳をとったのである。加藤病院も入院患者をやめて縮小し、今の医療体制に合った経営に変えている。できるだけ暇をつくって夫婦で外国旅行を楽しんでいる。町長に担れかかったが、彼にその気はない。しかし町一番の強力な発言者である。
 
 彼の車で水戸へ出た。弘道館をゆっくり観て、それから私が昔住んでいた家のあったあたり、学校まで通った道などを車で往ったり来たりして探索した。鉄道と路面電車が交差するあたりだったが、どちらもレールを外され、ただの道である。地形は残っている。道の形も記憶にある。しかし、街並はもうすっかり変っている。
 
 昭和25年に水戸を離れてから54年の歳月が流れている。
 
 この日は観梅デーで、偕楽園を最後に訪れた。「観梅を楽しむのは俺も学生の頃に一度来て以来だよ。土地の者は来ないんだ。」と彼は言った。そういえば私の観梅も、多分半世紀以来のことではなかったかと思う。