九段下会議 (一) |
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九段下会議 (四) 名:西尾 幹二 H16/03/13(Sat)16:07_No.76 ここで気付くことがある。 国家に必要なことがまったくなされておらず、国民に不必要になりかけていることが過度に唱えられている。それが同じタームで表されている。しかもその符合はいわばぴったり正反対である。 幼稚園児から大学生まで求められている個の確立、自由な意志決定、自主性の涵養、主体性の維持——これらのタームが表明する内容ほど、ほかでもない、国際社会の中でわが国がいま最も必要とし、緊急に要請されていることはほかにないであろう。 幼稚園の保母さんが幼児に求める「自己決定権」を、どうか国家に振り向けてほしい。国家に対して今ほど「自由化」と「個性化」が求められるべき時機はない。符合が内と外とで正反対になっているこの国のパラドキシカルな悲喜劇によく注意の目を向けてほしい。 日本が教育も治安も安定し、生産力の向上に邁進していた堅実でパワフルな国家であることを見失ったのは、そう遠い昔ではない。われわれは今から10〜15年ほど前までの生活感覚を思い出し、とり戻そうと思えばとり戻せるはずである。 ただし、日本をとり巻く四囲の国際環境はがらりと変った。もし判断を間違え、改革の方向をとり違えるなら、「第二の敗戦」だけでは済まない。米中露の谷間の無力な非核平和国家であることに自己満足しているうちに、知らぬ間に友好の名における北京政府の巧妙な内政干渉が、日本の政治権力を骨抜きにし、あっという間に事態は悪化し、気がついたときにはもう遅い。警察権力の内部にまで中国が入りこむ。かくて「第二の占領」を完成し、日本はアメリカに愛想をつかされ、見捨てられるという事態も起こらぬではない。 しかしもう一つあり得る可能性は、日本の二度目の「独立喪失」である。米中対決が深刻化し、受身になったアメリカが東アジアの一角における日本列島を死守する必要から、日本との共闘を誘い、あらゆる援助を惜しまぬ姿勢を示してもなおこの国が中国寄りのまま、優柔不断をくりかえすなら、アメリカとしてはこの土地を放棄しないと決めた以上、「再占領」以外の手はないことになるであろう。 いずれも極端なケースであり、明日起こると言っているのではない。しかし、最悪のシナリオを心の片隅に思い描いて、それへの用意を片時も忘れずに政策を組み立てるのが政治というものではあるまいか。 なぜ国家がここまで「主体性」を発揮し得ないできたかの根本は憲法にあり、信仰のように唱えられてきた戦後の「平和国家」の虚妄にあることはあらためていうまでもない。さらにそれを可能にし、支えているのは歴史否定のムード、間違った歴史認識に端を発する自国の過去の否定の中に道徳を求める、いまだに国民を縛っているばかばかしい謝罪意識である。 社会党左派の村山富一氏が政界のゆるみに抜き打ち的に閣議了解をとった平成7年の「村山首相談話」が、いまだに対中韓外交と歴史教科書を縛っている。近隣諸国条項という不合理もいぜんとして正されていない。 今こそわれわれも必要なのは日本国家の「自己決定権」であり、「主体性の確立」である。子供に向けた「個の主体性」は甘い囁きであるが、今われわれは、苦い、厳しい自己陶冶の言葉としてこれらを再生させ、甦らせなくてはならない。 なにかにつけ「改革」が叫ばれているが、改革というなら国家の大本を改めるのが本筋である。国家の大本は憲法、教育、軍事、そして外交である。郵政や道路の改革が重要だないというのではない。経済の構造改革が無意味だいうのではない。しかし行政や経済構造の改革はどこまでも二次的である。その意味では「小泉改革」は「二次的改革」にすぎない。 経済が悪くなったのは、経済の構造が原因ではない。国家の根本を正さないことが国民の気力を奪い、急変する国際情勢への不適応を招き、経済の不況を招いたのである。原因と結果を取り違えてはならない。 国家は生き物のように一体をなしていて、教育だけ改めれば教育が良くなるわけでもなく、日本外交が主体性を失っているのは外交官の教養の問題だけでもない。国家の政治の基本が決定されていないせいである。 冷戦の終焉より後、国際情勢は日本に待ったなしの緊迫状態を強いている。しかし政治はそれを見て見ぬ振りをし、一日延ばしにしてきた。平成に入って15年間、よく日本は持ちこたえていると思う。だが、それは僥倖にすぎない。わが国は今、深刻な危機にある。 |
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