トナカイの置物
 
 
 
トナカイの置物 (一)
             西尾 幹二  H16/03/21(Sun)11:11 No.79


 だいぶ前に山椒庵に私の気に入ったことを書いてくれた人がいる。

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Subj:割り込み失礼! /From:森英樹 /H16/01/08_22:15_/No:401

>M78さんへ
割り込んで大変失礼ですが西尾先生の著作で僕が印象に残っているのは次の三冊です。
1:『ソ連知識人との対話』中公文庫
2:『行為する思索』
3:『知恵の凋落』
以上3点です。余計なお世話かもしれませんが軽く解説します。がこれ等の本は現在は僕の手許にはありません。
1は先生が旧ソ連から招待された時の感想文みたいなものです。保守派知識人にありがちな先入観無しに御自分が受けられた印象を書かれております。この本は僕の記憶が定かならば光を失った田中美知太郎氏がお弟子さんに読ませていた本です。ドストエフスキーとトルストイの受容の現状や革命後の絵画及び芸術への言及、市民が意外に道徳的な事、コニャックでベロベロに酔った話等読んでいて飽きません。
2,3は先生の評論から随筆まで含まれています。現在は絶版かもしれません。僕のお気に入りは「トナカイの置物」という随筆です。ちょっと三島由紀夫論には納得出来ませんけれどもどちらかの本で確か小林秀雄と福田恒存に言及しています。僕が二人の名を知ったのは多分この本が切っ掛けです。
西尾先生の随筆は本当にハッとさせられる事が多く中学生の頃の僕の頭脳を散々刺激しました。本当に随筆が上手く書ける人は非常に少ないと思います。福田恒存は個人的には随筆が詰まらなかった(笑)。1は特に先生が思った事を非常に素直に書かれていて気分爽快になる本です。失礼致しました。

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 「トナカイの置物」は『知恵の凋落』(1989年刊)に収めされている。知らない人も多いと思うので、ここに再録する。感想なんか要らない。楽しんで読んで下さい。

 尚、冒頭に出てくる「火の子」は新宿の場末にあった文壇バーで、毎夜、作家、評論家が屯ろしていた。

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 トナカイの置物——加賀乙彦とソ連の旅

 酒場には普通常連がいる。「火の子」の常連にどういう人がいるのかよく知らないが、私をここへ最初に連れて来てくれた作家の加賀乙彦と高井有一の二人が常連であることは、まず間違いないようだ。

 それは私たち三人が同時にソ連作家同盟の招きで訪ソし、しかも今までのケースと違って期間を倍にしてもらい一ヶ月も共に旅行して、帰国した直後の、昭和52年秋であったと思う。

 「火の子」といえば私はこの二人を思い出し、しかもこの店の記念号を出すからなにか酒の話を書けと言われれば、私はこの二人と一緒に旅をしたときの酒の話、つまりアルメニア共和国のコニャックや、グルジア共和国のチャチャや、ロシア共和国のウォッカの話を書かざるを得ないのである。

 以下しばらく私的な無駄話をおゆるしいただきたい。

 バイカル号で横浜を出たその晩から酒盛が始まった。船の食堂で出たのはブルガリア産のワインで、名前は忘れたが、私たちはレッテルのデザインだけは覚えていた。それでキエフの食料品店で同じワインに再会したときには大変に嬉しく、私たちは早速に買い求めた。それほど旨かったのである。しかも安かった。「安いね」を連発していたのは高井さんだが、普段よほど高価な酒を飲んでいるものと見える。

 私はこの旅を通じて高井さんの酒豪振りを知り、加賀さんの酒を張子の虎、つまり見掛け倒しであることを知った。旅はモスクワ、サマルカンド、タシュケント、トビリシ、ロストフ、ヤルタ、キエフ、レニングラード、そして再びモスクワの順で歩いた。どの町でも作家や詩人に次々と会わされ、社会主義国の文学のあり方などという結構な講話を拝聴するのが常だったが、ロストフだけはまったく例外だった。私たちを待ち構えていた二人の物語作家は、徹頭徹尾アルコールのお附合い以外に関心がない。陽気で、気さくで、ディスインテリで、従って二泊三日の間、知的な討議はまったくなかった。元軍人のコンダコフ氏は軍記物の歴史小説を書いているが、無口の大男で、手の甲に刺青などして凄味があるのに、これがいたって気の優しい男で、私たち三人分のトランクをポーターのように軽々と両手にかかえて運んでくれる。もう一人のペトロ—ニ氏は何から何まで前者と対照的であった。小柄で、お洒落で、ちょこまか動き、甲高い声で賑やかに喋りまくる。女好きを公言し、61歳で、「恋とコニャックはいつでも足りない」が口癖であり、日本の作家の年収ばかりが気になって仕方がない。彼の過去の経歴は飛行士、今はSF作家。『地獄の美人』というのが出世作だそうで、地獄からやって来た男がさまざまな恋の冒険をする内容だそうだが、「私はこの物語の主人公に似ているのですよ」と両手をひろげてうれしそうに告白するのをみれば、水準は推して知るべしというものである。この男がロストフ作家同盟の副議長という要職にある。社会主義文学に栄光あれ!
 
 私たちはドン河を見たくてロストフに来たのだが、彼らの酒のペースに引き廻され、散々な目にあった。最初の日ワインの試飲室で八種類ものこの土地自慢のワインを味わった後で、車でドン河畔に出て、夜風に吹かれながらワインの壜を次々と回し飲みした。空になった壜をペトローニ氏はえい! と掛声を挙げて、暗い水面に投げ込んだ。こういう不作法なことをするのは要するに彼以外にない。
 
 翌日もまた一日酒が出て、夜はナイトクラブへ案内された。ソ連のナイトクラブには傍に侍ってくれる女性がいない。フロアショーもあるにはあるが、辛うじて肩と素足を出した女が踊り、音楽が鳴る。それだけである。健全そのものである。戦前の日本のキャバレーだってもっと大胆だったろう。だからわれわれはショーには関心がなく、もっぱらコニャックばかり飲んでいた。ホテルに戻ったときには前後不覚だった。しかも翌朝は八時半の飛行機でヤルタへ向かうために空港へ車を走らせたが、車の中でも私は眠っていた。空港にはコンダコフ氏とペトローニ氏がちゃんと私たちを送るために待っていてくれたのには驚いた。彼らは元気一杯で、二日酔いでもなんでもない。そして元飛行士のペトローニ氏は空港内の勝手を知っているので、来賓室へ私たちを案内し、そしてそこでまたもや盃を出してウォッカを満々と注いで、さあ別れの盃を! というのである。二日酔いの私にはもう手が出なかった。ワインならまだしも、ウォッカに口をつける自信はもうまったくなかったのだ。するとこのとき、手を出し兼ねていた私と加賀さんを差し置いて、よし私が受けましょう、とばかり高井さんが盃をとり上げ、一息でウォッカをぐいっと飲み干したのだった。彼のおかげで私たちは、早朝送りに来てくれた二人に対し失礼にならずに済んだ。思いがけないときに、黙って、思いがけない実力を発揮する高井さんらしい所行ではないだろうか。私は大いに感心し、彼の酒を信用する気になったのである。
 
 ウォッカは人間を激昂させるなにかを持っているようだ。普通の酒とは少し違う。これを飲んでいると、ある瞬間からにわかに人が変ったようになる。しかも、突然走り出したいような衝動に人をかき立てる。ドミートリ・カラマーゾフがウォッカに激発されて、唐突に馬車を駆って走る場面があったように思うが、ウォッカ、それもロシア産のウォッカを飲まなければ、この気分は分らないのかもしれない。
 
 サマルカンドの夜は暑く、中空に月があがっていて、印象深かった。ここはイスラム圏だが、この夜私たちはロシア産のウォッカを飲んだ。公園の中の幅広い通りの左右に、南国の樹々が黒々と並んでいた。夜の散歩中に私たちはこの大通りをにわかに走り出した。なぜだか分らない。二キロぐらいの距離を無我夢中で走った。人通りはまばらだった。行き止まりがロータリー風の木立になっていた。誰もいなかった。私たち三人は息せき切ってそこへ駆け込んだ。頭は空っぽだった。身体を動かし足りなかったのかもしれない。私と加賀さんが、これもまったく突然なのだが、さっと取組み合って相撲を取った。柔道何段かの彼には適わなかった。私は倒れたが、同時に加賀さんを掴んで放さなかった。彼は水溜りの中にどっぷりころげ込んで、躰中が泥だらけになってしまった。
 
 帰国後、文芸家協会ニュースに加賀さんは次のように書いている。
 「高井氏には驚いた。彼は百メートル先の所に行くにもタクシーを用いるほどで、まして走るなどという努力のいる状態を極度に嫌う人だ。それが全速力で走ってたちまち見えなくなった。ウォッカのせいだ。あの二人は狂ったと思っている私が、その直後西尾氏を柔道で投げとばしてしまった。インチキな外刈をかけたら、倒れる筈のない西尾氏が倒れてしまい、湿地帯に転げこんだ。私はあんまり弱すぎると文句を言った。が、自分も泥だらけで、しかも突指をしてその痛みに唸った。」
 
 加賀さんは私も水溜りで汚れたように書いているが、お気の毒に、じつは泥んこになったのは加賀さん一人だった。そのあと痛い、痛いと言っていたのも彼の方で、まことに可哀想なことをした。彼は試合に勝ったのだが、勝負には負けたのである。(さて、彼はどう言うだろうか?)
 
 ワイン、ウォッカと並んで、私たちがソ連でよく飲んだのはアルメニア産、またはグルジア産のコニャックだった。ホテルの自室で、食後、ほとんど毎晩寝るまで飲んだ。西欧の町のように夜外出する機会が少なかったせいでもある。この二種類のコニャックの芳香は忘れ難い。味覚も勿論である。レミーマルタン以上と私は思う。ソ連市民には恐ろしく高価で——食料品店で見たが日本円にして一本五千円ぐらいしていた。序でにソ連人の月収は六、七万円である。——特権階級以外には手が出せないだろう。われわれにしても一本五千円ならそうそうは飲めない。ところが外貨を持つソ連の特権階級と外国人旅行者のために開かれている例のドルショップで、同一のものが二千円くらいで買えるのである。それで、後にも先にもこんな経験は二度と出来まいが、私たちはほぼ毎夜、ソ連ご自慢のこの銘柄酒を、ためらいもなく飲むというソ連人民に対するいささか侮蔑的な所業に及ぶことが可能となったのであった。
 


トナカイの置物 (二)
                西尾 幹二 H16/03/23(Tue)12:29 No.80

 
 レニングラードで私たちは有名なペトロパヴロフスク要塞を見学した。帝政時代の政治犯収容所として名高い要塞監獄である。ドストエフスキーも一時収監されていた場所である。展示室には囚人が当時身につけた、手の出せない拘束衣とか、鉄の足枷などが吊下がっていた。『宣告』の作者は熱心に見学し、通訳を介し質問などをしていた。彼は独房をしげしげと覗き込んでいた。手の届かぬ高い窓からの微かな光が、房内の暗鬱さを一層深めていた。
 
 その夜もまたグルジア産コニャックの宴であった。ホテルの部屋に備えつけのテレビには、しきりにレーニンが登場していた。革命60周年記念の年であったせいか、テレビにはよくレーニンが映っていた。レーニンは典型的な若禿げで、偉くなる人間はみな毛髪をなくすものなのだと、加賀さんはしきりに自己納得のための弁説を展開していた。そんなことを喋っているうちはまだしもよかった。何時間ぐらい経っただろう。ベッドやソファーに、三人は思い思いの形で姿勢を崩し、コニャックの盃を重ねた。というよりコニャックのいわばコップのみにも等しかった。加賀さんが突然なにかものを投げた。小さなものだったが、テレビの向うへ飛んで行った。そんなことが暫くあった。私はおやと思った。高井さんも妙な顔をした。しかしまだ異変に気がついてはいなかった。われわれは普通の調子で坐っていた。
 
 さらに暫くして、加賀さんが立上がった。ロシアのツァーリズムについてひとしきり弁説した。ペトロパヴロフスク要塞監獄の印象がよほど強烈だったのに違いない。加賀さんは「俺は皇帝(ツァー)だ」といきなり、思いがけない言葉を口にした。それでもまだ私たちは冗談だと思っていた。酔っているには違いないが、こういう紅潮はつねづねのことだった。それから加賀さんは自分の靴、帽子、万年筆、私のカメラ、鞄、買物包、高井さんの上衣、シャツ、靴下、何でも手当たり次第に、空いている壁の下に持って行って、次々と並べ始めた。室内にあるものは誰のものであれ、もう彼には区別がつかなかった。しかしそれらを整然と並べることにかけては、不思議なことに乱れがなかった。しまいに彼は私のトランクを開き、中味を全部出して、壁に立てかけて並べ始めた。
 高井さんがようやく起き上がって、おいどうしたんだ、止めろよ、と大きな声を上げた。加賀さんは「俺は皇帝だ」と再び言った。「見ろ、こいつらは囚人たちだ。」、そう言って壁に整然と立てかけて並べたいっさいの物を指さして叫ぶのだった。
 
 言葉で妙なことを言っているうちはまだ安心なのである。異常が行動に出始めて、しかも本人が自らの行動の異変に気がつかなくなったときには、錯乱が始まっていると言っていい。当のご本人が精神医学者であろうがなかろうが、それは同じことである。
 
 この夜のそれ以後の経過を私も覚えていない。ともかく翌朝、私たちはベッドが三つ置いてある同じ部屋で眼をさました。高井さんが「お前はゆうべえらいことを仕出かしたんだぞ!」とベッドの中で、隣の加賀さんに話している声で、私は目がさめた。加賀さんは昨夜自分がしたことを何一つまったく覚えていなかった。高井さんから説明を受け、昨夜のままの室内の状況を見て、はじめて事態を理解したのだった。ありとあらゆるものが壁の下に並べて立てかけられ、その列は壁の角で曲って、さらにL字型に長く延びていた。
 
 加賀さんは翌日は二日酔いがよほどつらかったらしい。予定されていた市中見物を一人だけ途中で切り上げてホテルに戻った。
 
 午後遅くなって、私はエルミタージュからの帰り道、ホテルで寝ていたはずの加賀さんが元気を取戻して街を歩いている姿に出会った。彼はばつの悪そうな顔をした。そして、昨夜の出来事で壊してしまった、私が買っておいた骨細工の精巧なトナカイの置物を弁償するのだと言って、その同じ品を捜そうとして見つからず、街中を歩き回っているのだった。私は気の毒になって、いいのにと言った。しかし正気の戻った彼は責任感が強かった。
 
 私の家の戸棚の上には彼がこのとき弁償だと言って買ってくれたトナカイの置物がまだ置いてある。私は他人へのプレゼントのつもりで買った品物だったが、加賀さんのこの日の記念のために、この置物を自分のためにとっておくことにしたのだった。トナカイの脚の折れた置物は、ひょっとすると加賀さんの家の何処かにまだあるのかもしれない。