時代が今とは違う (一)
 

 

 時代が今とは違う (一)
              西尾 幹二 H16/05/06(Thu)17:18 No.87


 水間政憲さんという方がいる。『正論』によく書く方で、最近筑紫哲也のニュース報道への批判書を出した。

 先日どさっと文書を送ってきた。『百人斬り訴訟を支援する会』会報第1号がその中にある。

 訴訟のことは知っていたが、こういう支援の会があり、会報まで出していることは知らなかった。第2号になにか書いてほしい、といわれ、滅多にしないことだが、今回は「時代が今とは違う」という小論を書いた。

 水間氏に義理もあってのことだが、それだけでは勿論ない。裁判には関心を持っている。稲田朋美弁護士が戦争を知らない世代なのによくがんばっていることも知っている。ある意味でとても重要な裁判である。

 会のことや、会報について知りたい方は、「百人斬り訴訟を支援する会」℡、03−3271−0262に連絡されたし。

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 時代が今とは違う

 昭和17年2月15日シンガポール陥落の報は日本だけでなく、世界中を揺るがせた。同盟国ドイツ、イタリアは歓呼の声を挙げ、イギリスは狼狽、アメリカは沈黙、他の国々は計画中の日本との外交断絶を次々と見合わせる方針を発表した。あっという間に日本軍に席捲されたイギリスの不甲斐なさに、アメリカは失望をあらわした。イギリス海軍は少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツの艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。

 戦争の行方は分らなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。戦争を終ってしまった結果から判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分らない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。

 日本がドイツ、イタリアのほかにタイと同盟していたことは知られているが、ブルガリアが当時の日本の同盟国のひとつであったことは案外に知られていない。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(2月17日付夕刊、16日発行)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出される。ベルリン支局からの「英軍の降(かう)伏には随(ずゐ)分ブルガリアもびっくりしてゐるだらうね」の問いに答えて、

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 ソフィア前田特派員 もちろんだ、最近こんな話があるよ、ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番のりの兵隊に送ってくれといふんだ、山路公使は面喰ってお志だけは有難く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に禮を述べて歸らせた、また北ブルガリアのオレチヨの町民は1万5百レワの金を蒐めてこれをシンガポール一番乗りの勇士に贈ることにしたなどといふやうにブルガリアの心からの喜びは聴いてゐて全く気持ちがよい。

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 戦勝はまるでオリンピックの勝者に対するように、じつにあっけらかんと祝福されている。マラソンの一着、二着が報ぜられているかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」という表現から私が思い浮かべるのは軍事技術がハイテク化した現代戦争ではまったくなく、むしろ、敢えていえば、『太平記』や『平家物語』に近い戦場の光景といってよいであろう。

 日本人の戦争意識が時代遅れだったからではない。東ヨーロッパのブルガリアから「一番乗りの勇士」へ捧げる金品が届けられているのであるから、世界中どこもみな戦争に対する意識は同じようなものであったと考える方が自然だろう。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたと思うが、たしか戦後そんな名を冠したアメリカ映画があったように思い出される。
 

 

 時代が今とは違う (二)
              西尾 幹二  H16/05/07(Fri)12:04 No.88

 19世紀ー20世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中で、どの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事であった。列強とよばれる国々は、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と各国の新聞紙面を飾っていた。

 各国は簡単に銃をとり、一寸したことで感情を高ぶらせて、戦争に訴えることを考えた。19世紀末、イギリスとアメリカがすんでのことで戦争になるという局面さえあった。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。大国イギリスは調停案を持ち出したアメリカを相手にしなかった。アメリカはまだそんな役割を果せるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰されたのだった。

 列強は自尊心のためにはときとして自己犠牲をいとわなかった。日本の戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、自尊心がからんでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。

 それゆえ1945年までの出来事をそれ以後の価値観や尺度で計ってあれこれ裁いてはならないのである。あの時代にはあの時代に特有の感覚や意識があった。「百人斬り」は戦意興揚のための新聞の見出し用のキャッチワードであったにすぎまい。当時は誰も特異なこととは思わず、忠勇武勲譚として、これを歓迎し、この行為に勇気づけられた。

 戦争に負けて局面はがらりと変った。

 「百人斬り」は昭和12年に東京日々新聞(いまの毎日新聞)によって創作された虚報であった。けれども野田毅、向井敏明の二少尉はこれがために昭和22年になって逮捕され、南京軍事裁判にかけられた。このとき毎日新聞は虚報であったことを知っていながら証言せず、二人が銃殺刑に処せられるのを傍観した。

 さらに朝日新聞の本多勝一記者が捕虜の気まゝ勝手な殺人行為であったと誇張して、二少尉ご本人だけでなくご遺族の名誉をも傷つけた。

 幸いなことに昭和12年当時の事実を知るカメラマンがご存命で、近く法廷で証言してくださるそうである。故人と遺族の名誉を回復する新しい展望が開けることを期待している。
 
 


 時代が今とは違う (三)
              西尾 幹二  H16/05/08(Sat)11:57 No.89


 大東亜戦争開始の4年も前の新聞の戦意興揚記事を戦後2年もたってからむし返したことには、明らかに政治的意図がある。報復意志がある。中国側の政治行動といってよい。

 政治的報復には正義も理性もなにもない。敗戦国は涙を呑むしかない。悲しい運命である。けれども、日本人が報復者と一緒になって、同朋を侮辱し、苦しめる挙に出るのだけはどうしても許せない。

 戦争をオリンピックのように報道した日本の同じ新聞が、戦後は今度は戦勝国の側に立って、かっての敵国の立場から、時と所を替えて再びはしゃいで、大騒ぎしたことも許せない。

 シンガポール一番乗り、二番乗りの兵士に金品を贈ろうと遠い東欧の人までが強く日本を支持した時代の大きな嵐の中に日本人は立っていたのである。あの時代の感覚と意識を今の時代の物指しで扱ってはならない。ましてやこれを犯罪にしようとする日本のあらゆる愚かな思いつき、自国侮辱心理、歴史への無感覚、他国の政治意図が見えない暗愚、利敵行為、そして、そうすることで自分を道徳的に美しいもののごとくに思いこむ一部の日本人の国家解体をもたらす自己錯覚がなによりも私には許せないのである。