橋本進吉のこと(一)
 

 
 
橋本進吉のこと(一)
             西尾 幹二 H16/03/31(Wed)09:55 No.84


 学者の書いたものに感動するなどということは滅多にないのに、橋本進吉の場合だけは違っていた。全12冊の著作集のうち少しづつ買って——日本書房という水道橋の古書店からである——いま6冊ほど入手した。「國語學概論」「文字及び假名遣の研究」「國語音韻の研究」「上代語の研究」「國語音韻史(講義集一)「國語學史・國語特質論(講義集四、五)、の6冊である。

 全部読んだわけではない。あちこち拾い読みであり、まだ手のついていない1冊もある。が、私は魅了されつづけた。文章がいい。明晰で無駄がない。それでいて奥深い。専門的に過ぎていて私に分らない個所もあるが、分るところはとても良く分る。文学史などいくら探っても理解の及ばない日本の言語文化の流れが、一本の太い筋を通して叙せられているように思えた。

 契沖の万葉研究に日本の近代の国語学が礎石を置いて、宣長という巨大な山容を乗り越えて、昭和の橋本進吉に至った言語解析の一本の太い流れである。契沖仮名遣いから上代特殊仮名遣いに至る、江戸の国学の発見の紆余曲折と橋本による再発見のドラマは、たしかにじつに劇的である。

 私は今度「江戸のダイナミズム」第17回で、このプロセスを垣間見た。実体験したわけでも、研究分析したわけでもない。文字通り垣間見ただけである。それでも興奮を禁じ得なかった。なぜ今までこんな世界があるのに知ろうともせずにうかうか過ごしてきたのだろう。途中で有坂秀世という戦後早くに夭折した天才の存在を知った。遺書と言える『国語音韻史の研究』(増補新版)も大枚をはたいて手に入れた。

 694ページに及ぶ一人の天才の残した足跡を辿る余力は今の私にはない。これを読みこなして使えるレベルの学力が私にないし、「江戸のダイナミズム」はそこまで踏み込んで記述することを目的範囲のうちに入れていない。書棚を飾っていつか使える日があるかなァと、大著を眺めては、凄い精神のドラマが演じられたのだとそのつど感銘を新たにしている。

 橋本進吉といい、有坂秀世といい、私の今までの知見の範囲に入ってこない未知の世界であった。しかし、いつどんな出会いがあるか分らないものだとつくづく思う。年をとっても、何が起こるかわからないのだと思った。3年前に契沖の全集も安い出物があったので買っておいた。5万円程度だった。賀茂真淵全集はまだ手に入れていない。使わないで終わるだろうと思っていた契沖全集がまさか今度こんなに役立つとは思っていなかった。

 私より8歳下で停年を迎えた大学教授の某氏が、昨日電話で、死ぬまでにやれる仕事の範囲はもう分かっているので、関係してこない本は重要な意義のある本であっても今回処分する、と言うので吃驚した。「それは違うのじゃないですか。」と私は遠慮がちに言った。「人間の関心はどこへ向かうか分りませんよ。私は5年前には江戸の思想にこんなに関心を持つとは思っていなかった。私は気の多い、斑気のディレッタントにすぎないからかもしれません。だから専門を固定しないで、集まった本はできるだけ捨てないんです。いつ使うことになるか。人生の残りはたとえどんなに少くても、新しい出会いが起こらないとは限らない。捨てた本にはもう二度と出会えないんですからね。」

 私はいかなる専門家にもなれないディレッタントで人生を終わろうとしている。橋本進吉のような大業をなし遂げた専門学者、有坂秀世のような限られた時間に一領野で自己を燃焼し尽くした天才をみると、敬意だけでなく嫉妬も覚える。私の人生は何だったのだろうか。私は視野の狭さだけを嫌った。たえず自分を駆り立て、自分の羅針盤を自分で動かし、変えようとしてきた。同じ階段を二度歩むようなことは精神に対する侮辱だと思ってきた。

 しかしそれはひょっとすると一つの階段さえ見出すことができなかった人間の嘆きのあがきだったのかもしれない。

 橋本進吉の文章の魅力については、今ここで詳しくは書けない。『諸君!』5月号の「江戸のダイナミズム」は、題して「万葉仮名・藤原定家・契沖・現代仮名遣い」で、橋本の一文をかなり長く引用しているので、そこで味読してもらいたい。ただし、当該論文は現代仮名遣い否定論では必ずしもない。現代仮名遣い否定論に対する否定論に、初めて根拠を与えようとしている論文である。世にまだ少なからずいる旧仮名書きからヒステリックな反応が起こる可能性がある。

 この方面の人々はことあるたびに私を非難していると聞く。私の側からの言語文化史に裏づけられた初めての反論である。

 私は果てしなく増えていく蔵書に音を上げている。家族からも怨まれている。自宅に大きな書庫があり、自宅とは別に60平米のマンションがひとつ本で埋まっている。それなのにさらに最近スライド式の本棚を一つ買った。今やっている仕事の関係書が卓上・卓下・卓横に乱れて始末に負えないからである。執筆している目の前に関連本を集めて、並べておく本棚が必要になったのだ。

 しかし3月30日の今日、地下室の外にあるオープンスペースにこれとは別に物置きを設置させた。私の新しいアイデアである。というのも最近買ったスライド式の本棚は万葉集や古事記や本居宣長の関連本でいっぱいになっている。

 が、「江戸のダイナミズム」は終結に向かっている。万葉集や古事記や本居宣長は今は必要だが、やがて書庫の奥に仕舞うときがくる。少し先に新しい課題が嵐のように迫っている。それは現代史に関する大著で、今のうちに資料あつめを活発に開始しておかなくてはならない。

 そこで、物置きを用意しておくというアイデアを思いついた。物置きといってもドアを開ければすぐ目前の位置にあり、私の机から5メートルの距離である。物置きには現代史関連の文献をどんどん集中させて、整理しておく。「江戸のダイナミズム」が終わったら、選手交替である。物置きの中の現代史に関するニューフェースの選手たちが私の机の周りに登場する仕組である。

 物置きを設置してくれた職人がたった今帰ったところだ。私は埃りの入らぬようにスキ間にテープで目張りする作業をこれから始める。

 「江戸のダイナミズム」はこのあと3回ていどで終わるだろう。書けばいくらでもエンドレスに書けるのだが、20回を越えることは雑誌のほうが許してくれまい。今は特別に寛大に扱われ、5月号では17ページも与えてもらい、過去最高の分量である。誰か他の人の論文が落ちている。これ以上は多分限界である(編集部は黙っているけれども)。

 夏以降に次の仕事が企画から実行段階に入る。私は可能な限り便利な執筆環境をつくりたい、と考え目の前の文献の集中場所を二つに分けることを思いついたわけなのだ。しかし、ふと思ったが、橋本進吉の生きた時代の研究環境は恐ろしく困難で、不便で、苛酷であった。便利を求める私は、なぜか根本的に間違ったことをしているのではないか、という後ろめたさを覚えた。その不安な気持ちは必ずしも今うまく説明できない。彼の時代にコンピュータはない。すべての万葉仮名の分類はカード書きこみとその整理に始まる。根気のいる地味な作業だったに相違ない。
 

橋本進吉のこと (二)
            西尾 幹二  H16/05/10(Mon)09:25 No.90

 
 私が高等学校に入学したのは昭和26年、まだ日本は食糧難で、生活物資も乏しかった。
 
 私が合格したのは都立小石川高校(旧制府立五中)で、文京区・豊島区・板橋区・北区を一つののグループにした第五学区の中では難易度が最も高かった。ただし戦災で府立五中時代の旧校舎を失って、私が入学した頃の校舎は、むかし何に使われていたのかもよく知らない暗い、古い戦前の鉄筋コンクリートのいかつい建物であった。
 
 池袋から出て数寄屋橋へ向かう17番の路面電車があった。これは文京区の真中を抜けて西銀座に至る。今は地下鉄丸の内線が走っているのとほぼ似た路線上を、当時はいわゆるちんちん電車がゆっくり走っていたのだ。私はこれに乗って毎日通った。
 
 17番のコースの界隈には女学校がたくさんあった。豊島丘女子高校、御茶ノ水女子大附属高校、跡見学園高校、竹早高校(府立第二高女)、淑徳学園高校などだ。
 
 知らない高校の生徒には男女ともにお互いに無関心である。けれども同じ中学から女子高校に進学した女生徒に対しては、無関心ではいられない。が、たまに電車の中で出会うと羞しくて、遠くから会釈する程度で、あえて近づかない。
 
 映画『青い山脈』が大ヒットしたのは昭和24年である。公明な男女交際というような流行語がとびかっていた時代だが、現実には二人きりで会う機会があっても、男の子と女の子は1メートル以上は近づかなかった。
 
 高校1年で私が出会った女の先生は二人いた。一人は年輩の漢文の先生で、もう一人は大学を出たばかりの若い数学の先生だった。私は解析Ⅰをこの方に習った。お名前を橋本先生といった。国語学者橋本進吉教授のお嬢さんだと誰いうとなくクラス中に伝えられた。高校一年生でも、橋本進吉の名を知らぬ者はいなかった。
 
 橋本先生は早口で必要なことをきちんと語るが、無駄口や冗談はけっして口にしない。またあまり笑顔をみせることもなかった。大きな声も、感情を露にした声も、私の記憶の中にない。いつもグレーのスーツをきちっと着こなし、お化粧をしない清楚な美しさをたたえていた。
 
 表情を抑えて控え目だが、生徒が怠けることを決して許さないような厳しい雰囲気もあった。叱責口調もほとんどない。けれども、生徒たちは叱られる前に、居ずまいを正してやるべきことをきちんとやる。そうしないと女の先生だから、傷つけてはいけないという気持がある。女の先生だから本当は生徒たちはもっと甘えたいのだが、それも許されそうにない。
 
 橋本先生にはどこか翳りがあった。なんとなく沈んだ、暗いトーンがあった。ほとんど毎週のように小試験が行われた。わら版紙を四半分に切った小さな紙が配られ、一題か二題かが出され、10点満点の答案が返却された。学期末にはこのほかに大きな試験もあった。
 
 5段階表示の成績簿の評価が、毎週行われる小試験の集計の結果をどの程度反映しているのか、私は当時はあれこれ考えたものだった。復習に近い小試験に私は強かったが、応用問題の多い大きな試験には弱かったからである。
 
 友人の中には公式を見るだけで未知の問題をたちまち解明する者もいた。そういう友人は普段勉強もしないで良くできる。私は数学の才能のなさを実感した。その友人は東京工業大学に進学した。クラスの大部分が一流大学に入学した。当時の小石川高校は日比谷、戸山と並ぶ有名進学校だった。私立高校はまだ頭角を現していなかった。
 
 橋本先生が生徒の前でご父君について話したことは一度もない。私たちも橋本進吉の名を意識したのは入学時だけだった。
 
 文系の私自身にしてからが、橋本進吉に正面から向かったのは「江戸のダイナミズム」の必要からである。50年前の教室風景が重なって、上代特殊仮名遣の発見と実証のための教授の研鑚の日々と、解析Ⅰにおける橋本先生と私たちの触れ合いの日々とはそう遠くないのだとあらためて思い直した。
 

 

 橋本進吉のこと (三)
              西尾 幹二  H16/05/12(Wed)09:03 No.91


 『國語學史・國語特質論』の解説を大野晋氏が書いている。大野氏は橋本進吉の直弟子である。昭和17年の秋、大野氏は研究室で先生から、「君が大学卒業後、兵役に行くかどうか分らないが、もし兵役に行かない場合は、自分の一代の萬葉假名の研究を手傳ってくれまいか。自分は来年停年になるが、停年になったらこの研究に専念したいと思っている」と告げたそうである。
 
 大野氏は次のように記録している。
 
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 卒業後は、橋本先生が以前に採集された萬葉假名の用例を、一つ一つ校本萬葉集にあたって檢討する仕事をお手傳いした。それは、罫を引いた美濃判紙に、毛筆で用例を書きぬいてあるものだった。その中の最も古いものは、明治年間に書いたものと思しく、早稲田大學で出版した、虗撰本萬葉集代匠記を底本として採録してあった。それ以外のものは、萬葉集の寛永板本を底本として採録し、その丁數で所在が示してあった。橋本先生は、萬葉假名の研究にはカードを使わず、すべてこのように罫紙を綴じて使っておられた。私は、キの假名、コの假名というように順次点檢し、國歌大観の歌番號を朱で書き込み、校本萬葉集によって、本文の異同を注する仕事をした。
 
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 以上は私が解析Ⅰの教室で橋本先生と出会ってからそれほど遠い昔の話ではない。そのころ先生は十代後半の少女であったに相違ない。大野氏はさらにこうも書いている。

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 この点檢の仕事がほぼ終った昭和19年の春、私は病気になり、入院した。そして秋に退院して來ると、その頃は橋本先生が元氣をなくしておられた。電車に乗るのに足をあげると膝が痛いといわれた。目のまわりに、むくみがあった。陸軍士官學校に勤めているお弟子さんたちがお見舞いに食料を差し上げた頃、一時よくなられたが、やがてまた具合が惡くなられた。戦後になって「榮養失調」という言葉が普及したが、橋本先生のはまさにそれであったと思う。
 
 昭和20年に入り、年賀に伺うと、床の上に坐っておられた。そして「ここでもまあいいだろう。今年は寢正月なんだよ。」と言われた。床の脇に小林英夫氏譯のソシュールの『言語學言論』が開かれて置いてあった。その時、「時枝君の考えは、いい所があるけれども、あのまま受け入れてはあぶない。小林(英夫)君などの書いたものをよく讀みなさい。」と言われた。

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 時枝君というのは、有名な国語学者の時枝誠記のことである。橋本進吉はすでに停年になっていたはずで、時枝氏はその後任であった。戦争は末期に近づき、若い女性として先生はどんな生活をなさっていたのだろう。女学生の挺身隊のお一人で、工場勤務などをなさっていたのだろうか。
 
 

 橋本進吉のこと (四)
               西尾 幹二  H16/05/14(Fri)11:44 No.92


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(大野晋氏の解説より)
 
 一月のうちに戦局は次第に惡化して行き、爆撃の危險は近づき、もはや東京は安全を失っていた。先生はようやく研究資料の疎開を考えられた。その頃、私は埼玉縣の蕨町の在に疎開していたので、先生は、萬葉假名の調査の結果などを、私の家に預けてもよいと言われた。私はお引受けした。もし、私の家が廣かったら、先生のご一家をあげてお移ししたかった。しかし、私が親たちと住んでいた家は、二間しかない家で到底それができるものではなかった。

 先生は書庫から、資料を取り出されて、「自分は、この研究を一番大切にして來たものだから、これが一番あとまわしになってしまった。もし、自分に何かのことがあったら、若い人たちの手でこの研究を仕上げてもらいたい。そして、橋本進吉がこれをしとげたいと思っていたということを明らかにしてくれればそれでいい。」と言われた。
 
 1月26日に先生のお宅の附近に爆撃があった。お見舞いに伺うと先生は臥っておられたが、「すぐ近くで大きな音がした。」と話された。あたりは恐怖につつまれていた。
 
 私がその次に先生にお目にかかったのは、その四日のちである。先生は静かに仰臥しておられ、永遠の旅に立たれたあとであった。1月28日の夜、お宅の近くにまた爆撃があり、足に不自由を感じておられた先生は、29日の夜、洋服を召してやすまれたという。先生はそのまま再び目覺められることがなかったのである。
 
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 この日から約半年後に日本は終戦を迎えている。一人の偉大な学者の死は病死ではなく、戦災死といってもよい。

 契沖によって近代国語学の礎が置かれ、本居宣長を経て、橋本進吉にいたる一筋の流れがある。上代特殊仮名遣の発見と宣証は、その結実の一つであった。

 私の目に浮かぶのはグレーのスーツをきちんと着て、唇に紅をさしたのを見たことのない橋本先生の、清楚で、上品で、少し暗く沈んだお姿だった。私が高1の教室で最初に出会ったのは、先生のご父君の死から6年と2ヶ月くらいしかまだ経っていない頃にあたる。