Subject:平成15年6月7日  /:西尾幹二(B) /H15/06/07 17:16

 日録感想掲示板に私には大変に印象的な投稿がのった。

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/[258] 読みやすい /投稿者:吉之助 /2003/06/07(Sat) 00:48

「壁の向うの狂気」をほぼ全部読み終わりましたが...・・・略・・・

 難しいテーマもいくつかありました(とくに第七章)が、500ページを越える分厚さにもかかわらず、非常に読みやすい本でした。

 こういう話を引用する人はあまりいないと思うけれど、20歳のときに「このままではいけない」と一念発起して英語、日本語を勉強し始めたチェコの大学講師のエピソードが、自分にとっては感動的でした。とくに「外からの要請ではありません。内からの欲求で」英語を学び始めたという彼女の言葉は胸を打ちました。

 「学力低下」を扱う本が臆面もなく書店の店頭を飾っている今日の日本は、ほんとうに(学習の)自由を持て余して、それをムダにしてしまっている人があまりに多すぎるとしかいいようがありません。

 むろん「どのような体制下でも、精神的に自己を向上させる人間もいれば、そうでない人間もいる」(西尾)のは確かですから、西側自由主義社会は腐敗していると言うことはできません。

 どんな体制下でも「このままではいけない」と感じる力。これが大事ですね。


 それにしても第11章の「未来のわれわれ自身を襲うかもしれない新しい全体主義」とは何なのでしょうか?非常に面白いテーマです。

 かといってそれが何なのか、自分には分かりませんが。

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 20歳のときに一念発起して「英語、日本語を勉強し始めたチェコの大学講師」とは、カレル大学日本学科のズデンカ・シヴァルツォヴァー女史のことである。彼女は大統領の随行員として日本に来たこともある。『壁の向うの狂気』第9章「埋められぬ断層」に大略次のように書かれている。

 彼女は内気で控え目な外見の中に強い意志を秘めた女性である。チェコはもと教育立国で、戦前の教育制度はとても良かった。彼女の小学生時代(1948〜56)には良い先生がまだたくさん残っていたが、共産化した1948年から教員養成がダメになった。次第に、学校で教育を受けるとかえって悪い結果になった。「一度壊れた教育が元へ戻るには莫大な時間を要する」という彼女のことばに、私は日本の教育のことを言われているような気がして、ギョッとなった。

 けれども、原因は共産主義的全体主義にあり、日本の教育が壊れてしまったのとは理由を異にする。

 心ある家庭では、学校がダメでも、正しい歴史の知識だけは伝えようとしてきた。「学校で言っちゃあいけないよ」と口止めされ、親から秘かに教えられた事柄がどれほどあったか。ピルゼンまでの地域をヒトラー・ドイツから解放したのは米軍の力だったが、教科書には書かれていない。チェコ全土は赤軍の力で解放された、と学校では教えられていて、迂闊なことは口にも出せなかった。

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 わたしは少女時代、とても未来が恐かったのを覚えています。このままではいけない、と必死に自分に言い聞かせました。20歳になってから、突然英語を学ぶことを思い立ちました。本当に突然なのです。英語が自分の不安を解消する唯一の方法だと、個人的に直観し、後はただもう夢中でした。教えてくれる人を探して、個人指導を受け、それからテキストもないので、米国大使館の図書館に行って、勉強しました。外からの要請ではありません。内からの欲求です。そうしなければダメになると思ったからです。わたしは人一倍負けず嫌いなので、自分が確信を持てないで、他人の言いなりになって、他人の考え方に振り回されて生きるときに、自分がどうなるかが恐ろしかったのです。自分を守るために、アメリカやイギリスの雑誌を読み、放送を聞いて、情報を得ることが必要でした。言葉さえ出来れば、それは可能でした。しかし米国大使館の図書館へ行く者は、秘密警察に写真を取られ尾行されていました。

 わたしが日本語を学ぶようになったのはさらに後です。25歳で大学に入学し、英語を学ぶ傍ら、新たに日本語を勉強し始めました。ノマーク先生という素晴らしい日本学者がおられ、その影響が大きいのです。当時あのような状況下での日本語の学習は、一種の試練でした。日本語は本当によほどの努力がないと学べません。毎日漢字を覚え、忘れないようにするのは、並大抵の努力では済まないのですが、それだけに人間の性格が試され、精神力が問われたと言ってもよいでしょう。自分の内側からの本当に強い関心のない者は、途中でばたばたと諦めていきました。日本語は人間を試験にかけてくれたのです」

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 シヴァルツォヴァー女史の挙措のすべてから、真摯で、清冽で、そして強靭ななにかが発していた。外見的に温和しそうにみえるこの小柄な中年の女性のどこにこれだけの情熱が秘められているのだろうか、と私は思った。

 拙著の読者のひとりが、わずか7ページで紹介したこのエピソードの重さに気がついてくださったのはうれしい。第5章「恐怖の遺産」の、拉致された長男をさがし求める老婆の悲劇よりも、シヴァルツォヴァー女史の押さえた、静かな語りの中に、かえって時代の苦難と政治の悲劇は印象づよく写し出されているのかもしれない。「他人の考えに振り回されて生きるときに、自分がどうなるかが恐ろしかった」ので、「自分を守る」ために孤独な英語の勉強を始めたという説明に、のっぴきならぬ切実さが感じられる。「自分を守る」という衝動は生命力である。

 今日の日本の教育状況との比較に関するこの方の感想も的確で、ありがたい。悪い環境下ではときにこのように強い人間が育つ。しかしあまりに悪い環境下では、どんな人間も育たない。(今の北朝鮮にシヴァルツォヴァー女史は存在するだろうか。)他方、あまりに恵まれた環境下では、弱い人間ばかりになってしまう。けれども、あまりに恵まれた環境下であっても、それに負けない人間は必ずいるはずである。そしてそれが一番の本物なのだ。豊かで、自由で、恵まれた環境下で、すべてを与えられ、すべてを吸い上げて大きく育つ。それが教育というもののあるべき理想の姿であると私は思う。