Subject:平成15年6月8日 /:西尾幹二(B) /H15/06/08
15:41
坂本多加雄さんが亡くなられて、半年以上が過ぎた。12月21日に行われた「偲ぶ会」の模様、とりわけ私の挨拶の文言を「日録」に出そうと思っていたのだが、一番忙しいときで不可能だった。「日録」の単行本の製作途上にいまあり、あの日のビデオを見て、12月21日の出来事の記録を作成した。これを単行本に入れるので、遅くなったが、ここに再現する。あらためて坂本さんの御霊に哀悼の意を表する。
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平成14年12月21日の「日録」
冷たい雨の降りしきる今日、永田町の星陵会館では午後二時から、「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われた。高橋史朗氏の司会で始まり、まず田中英道氏、三浦朱門氏の主催者代表挨拶があった。本日の主催は「新しい歴史教科書をつくる会」と「民間憲法臨調」である。
田中氏は「つくる会が常識を大切にする、壮士風ではない」会の性格形成に、坂本さんがいかに貢献したかを語った。三浦氏は歴史は物語りだと言った坂本さんは、歴史を現在の枠で見るのではなく、それをつくった当事者たちの意図、目的、課題に即して見ようとした点を評価し、坂本さんは「国士ともいうべき人」と語った。
来賓の中川昭一氏は「あのいかがわしい靖国懇談会」(というお言葉を使った)のさ中に、ただ一人まともと言っていい戦いをした坂本さんへの感動を述べ、拉致帰国者が家族、故郷の風景、日本の歌で日本人としての心を甦らせた最近起こった出来事に触れ、「日本人の心を取り戻す」ことに深く貢献した坂本さんの急逝を悼んだ。
そのあと坂本さんの講演「日本の知識人」のビデオ上映が20分ほどあった(講演全体は『「つくる会」が問う日本のビジョン』に掲載されている)。
追悼の言葉は私、西修氏、藤岡信勝氏、芳賀徹氏、中島修三氏の順で次々と述べられた。ビデオを速記し、以下私の挨拶をできるだけありのままに再現する。
いまの坂本さんのご講演は6月8日で、それからみなさんのお手元の袋の中にある三つのご文章の、最後の雑誌のご論文は7月27日に書かれています。今の録画上映されたご講演の6月8日からかれこれ30日か40日たったところで急激に悪くなられ、そしてさらに2・3週間ほどした8月3日に、あと三ヶ月だという余命告知を坂本さんご自身がお受けになっています。ですからいまのビデオのご映像は、悪くなる3、40日前のもので、思えば切ない、何ともいえない、奥様のお気持ちをお察しするに余りある画像であったと思います。人の命の儚さ、無常、そして切実で、痛烈な人生の軌跡をここに思う次第であります。
よく言われることばでありますが、死んで初めてその人の姿がくっきりと見えてくる、そういうことばがございますが、私は彼に先に死なれ、このたびあらためて次々と著作を読む機会を得ました。そしてご著作の文章のリズムに——やはり現代では52歳の死は夭折ですからね——いわば業半ばにして、仕事の絶頂期に逝った人のはげしい息遣い、切ないまでの、急いで生きた人の足取りが感じられました。
坂本さんは予想よりもずっと大胆な思想家であったのだな、という思いをあらためて致しました。普通、静かな思索家と思われていた彼が——つくる会の会合では付和雷同せず、さりとて独断専行もなさらず、同調的で、しかも意志的で、責任感もお強かった。その彼が、じつは静かなたたずまいとは別に、非常に緻密な思索の奥に、思いもかけない飛躍的独断——これはご文章の世界について申し上げているわけですが——、論議上の思い詰め方、切り込み方、逆説的な言葉の転調、そういうものを、私は今回読み進みながら、何度も何度もくりかえし感じました。あぁ成程、早く逝った人らしい、そういう言葉遣いだったんだなァ、とあらためて思った次第であります。大量の本を次から次へ読み、読書中毒ではないかという読み方で、知識を呑みこみ、慌ただしく吐き出しているような著作もございました。かと思うと、学問と政治、哲学と歴史、認識と行為といった相反する概念の矛盾の中にあえて身を置いて、その矛盾を構造的に解明しようとしたご著作もありました。代表作『象徴天皇制度と日本の来歴』はさしづめその一つです。
坂本さんは歴史は物語りであり、来歴であると仰有いました。坂本さんならではの大胆なこの規定は、歴史教科書の世界では有効で、ありがたい思想でしたが、よく考えてみますと、とてもきわどい危ない思想でもあるのです。なぜなら歴史が民族の物語りであり、来歴であるなら、国境を越えた歴史の客観性、普遍性を否定してしまっているのですから。あくまで自分の生きている共同体の幻想だけが歴史であると断定しますと、人類の歴史というものは何処かへ行ってしまいます。その矛盾、その危機を、彼は最初から意識しておりまして、無知でそういうことばを弄したわけではないのです。
彼はハイデガーを使ってこの矛盾、危機をどう乗り超えるかを説明しています。ハイデガーを使う人というのはどうも危ういところがある。いつでも死を思うというところに立ち還る。人間が人間としての本来のあり方、本来的自己に立ち還る、そこに死のモチーフがあるのですが、坂本さんは日本の歴史が死を思うことが二度あったと言います。19世紀の初頭と昭和20年です。日本人はそれぞれこの時期に、自分たちの「来歴」を思い出した。それがつまり、「国体」という観念です。
歴史は必ずしも物語りではないのかもしれませんが、坂本さんはあえて物語りであると承知して言おうとする。歴史はフィクションだと言ったら大変なのです。そんなことはいえない。そこで、そのきわどい矛盾を乗り超えるために、行動が必要になった。政治行動が必要になった。学問と行動、認識と実践を結合しないと学問も認識も前に進まない、そういうタイプの学者だったんです。
書斎の人でありながら、そこだけでは完結しない。物静かな思索家でありながら、思考の論理に飛躍があり、思いのほか大胆だった、と先に申し上げたのはこのことであります。
本を読みながら私は彼に電話をかけて呼びかけたり、質問してみたり、何度もしてみたくなりましたが、しかし彼はもういません。
彼に逝かれて、ふとつまらない断片的なことが思い出され、あぁ、と思うことがあります。いつでしたか、会議の席のとなりか何かでしたが、彼が「先生、停年になられて、気楽でたのしくていいんじゃないですか」というので、「いや、毎日家にいるんで女房から嫌われてたいへんなんだよ」と答えますと、坂本さん、首をこう上にあげて、アハハと笑いました。ついこのあいだの話です。その笑い方がありありと思い出されます。こんなささやかなことが思い出されると、悲しくて、つらくて・・・・・
最後にもうひとつエピソードをお話します。坂本さんが私のある本の文庫本の解説を書いてくれたことがあります。すると、彼はですね、当該の本のほかに私の別の関連する本を二冊、あえて関連づけて二冊、つまり一冊の本の解説を書くのにつごう三冊読んで書いてくださったんですね。坂本さんはそういう人なんです。そういう男だったんです。篤実で、誠実な人でした。
私につづいて四人の挨拶があった。そのあと参列者代表による献花がおこなわれ、大伴家持の作歌、信時潔の作曲による「海ゆかば」が参列者全員によって斉唱された。
海ゆかば 水漬くかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
つづいて遺族代表、令夫人坂本彩也子さまのご挨拶があり、司会の閉式の辞のあと、参列者全員による献花が行われ、散会した。外は冷い雨がなお降りつづいていた。