このあと福地惇「日本の大陸政策は正攻法だった」、北村稔「日清戦争—中華秩序の破壊」、平間洋一「日露戦争—西洋中心史観の破壊」、三浦朱門「明治大帝の世界史的位置」、入江隆則「日清日露の戦後に日本が直面したもの」、田久保忠衛「ボーア戦争と日英同盟」・・・・・・という具合につづく。
私は全体の総論を書く必要があるので、明治を離れ、あえて「新・地球日本史」の中心部分ともなる1930年〜45年の頃のテーマ、及び現代のわれわれのそれへの意識を語った。題して「日本人の自尊心の試練の物語」である。新聞でお読みいただいた方も多いと思うが、ここに再録させていたゞく。
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——歴史に学んで自己を改められるか——
先の大戦で日本が中国大陸にさながら泥沼に入りこむように深入りして、抜け出そうにも出られなかった状況について、われわれはここ半世紀、「あれは失敗だった」「ああせずに、こうしておけば良かった」「日本人は道を誤った」と反省と悔悟の声を上げることしきりであった。
勿論、日本は近隣国とは干戈(かんか)を交えないほうが良かったに違いない。地球の裏側に回って戦争をしかけたり植民地を作ったりすることが日常茶飯事であったのが20世紀の前半までの世界だった。日本はその仲間入りはしなかったし、できなかった。それならいっそのことどことも戦争をしなければ良かった。否、欧米とは戦っても、中国とだけは戦わなければ良かった。そう考える人が今の日本にはことのほか多い。
自分の過去の失敗や踏み外しを反省することはもとより悪いことではない。けれども反省したからといって現在の自分がほんの少しでも利口になったといえるのかどうかは、まったく次元を異にする別の問題である。歴史に学んで自己を改めるとか同じ歴史の過ちを二度と繰り返さないとか、よく人はそういう言葉を簡単に口にするが、人間は過去において失敗や過ちを犯すつもりで生きてきたわけではない。成功と正しさを信じて生きていたのである。従ってそのときの心の真実をもう一度改めて蘇らせ、同じ正しさを再認識し生き直さない限り、それが失敗や過ちであったかどうかさえ分かるわけがない。
過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。
例えば、いま日米韓の三国は金正日の国をソフトランディングさせたい、なるべく禍(わざわい)を自国に及ぼさないで解決したいと考え、この国の生き延びを許してしまっている。日米韓それぞれの事情があって自由に動けない。ことに日本は無力である。その結果、拉致された自国民を救出できないばかりか、北朝鮮の人民が日々飢餓にあえいで惨死しているのを黙視している外ない。日本人は自分の道徳感情に従って自由に行動できない現実を目の前に見ている。
われわれはいま本当は重大な過誤の入り口に立っているのかもしれない。できるだけ平和的に解決しようとする思いが大きい余り、朝鮮半島への今後一世紀の経路を間違え、とんでもない運命を選択しようとしているのかもしれない。それはずっと先になってみなければ分からない。しかし人間はつねにそのとき最善と思う道を選ぶ。今度の件もどうなるかは分らないが、それなりの成功と正しさを信じて、日本人は新しい政策を選ぶであろう。
かつて中国大陸に泥沼にはまるように行動した悪夢のような選択を今の日本人はしきりに「反省」するが、呼べども叫べどもどうにもならなかった、手に負えない厄介な世界があの当時の大陸だった。過去の日本の間違いを正すことにおいてすこぶる自由な今の日本人は、それなら目の前の政治の選択においても間違いがなく、自由で賢明であり得るのであろうか。
人はいつの時代にも不自由で、見えない未来を日々切り開いて生きているのではないのか。
朝鮮半島という、われわれがいくら声を張り上げて叫んでも言葉の届かない、手に負えない世界を前にしている今の日本人と、大陸政策で批判ばかりされてきたかこの日本人と、不自由という点で原理上どんな違いがあるというのだろう。
勿論、過去の日本は軍事進出していた。今の日本は資金投与の方法以外に他国を少しでも動かす方法を他に知らない。そのように行動の種類は異なっているが、力の行使という点では同じであり、しかもその力がもたらす結果の見通しの不透明という点では、きわめてよく似ているのである。このようにいくらこうしたいと自分で思ってもそうできない現実はいつの時代にも存在する。
(8/14誤字修正)
2004年08月14日
日本人の自尊心の物語 (二)
——100年経たなければわからない——
ことに対中援助の実情を見る限り、戦後の日本は泥沼にはまりこんで身動きできない戦中の日本にある意味で似た状況に陥っているようにみえはしないだろうか。三兆円にも達するといわれる外務省管轄の対中ODA(政府開発援助)とは別枠で、大蔵省が管轄してきた旧日本輸出入銀行を通した中国向けのアンタイドローンというのが存在する。これらがどうやらODA総額を軽く上回るほどの不気味な巨額をなしているらしいことを最近われわれに教えてくれたのは、古森義久氏の『
日中再考』であった。
知らぬ間にどんどん増えた援助の実体は中国国民に感謝されていないし、知らされてもいない。これで道路や空港を整備した北京がオリンピック主催地として大阪を破り、毎年の援助額程度で相手は有人宇宙衛星を飛ばして、日本を追い抜いたと自尊心を満たしている。それでも日本は援助を中止できないという。そのからくりがどうなっているのかは素人には分からないが、まさに泥沼に入り込むように簡単に足が抜けないのが、今も昔もいつの世にも変わらぬ、日本から関与する中国大陸である。いま競って企業進出している産業界も、付加価値の高い上位技術で利益をあげ、有卦(うげ)に入っているが、やがて戦中と同じ「手に負えない」局面にぶつかる日も近かろう。
朝鮮半島も中国大陸も、昔から日本人には理筋の通らない、面倒な世界でありつづけた。日本を「倭奴」とか「東夷」といって軽く見て、欧米人の力には卑屈に屈服しても日本人の力には反発し、恭順の意を表さない。
こうして今のわれわれが依然として半島にも大陸にも「手に負えない」ものを感じ苦しんでいるのだとしたら、先の大戦での日本の政策や行動をどうして簡単に「あれは失敗だった」「ああすりゃ良かった」「手出ししなければ良かったんだ」など小利口に批判することができるのだろうか。
窪地に水を流し込むように、日本を含むあの時代の国際社会は競って中国に兵力を投入した。日本を含む今の世界各国の企業が、窪地に水を流し込むように、競って資金を投入しているさまにも相似ている。今の産業界にも「手出ししなければ良いんだ」とうそぶいて、小利口ぶりを発揮する企業があれば見たいものだ。日本経済が今これで上向きになっているのだから、進出企業は聞く耳を持つまいが、だとしたら成功と正しさを信じた軍の華北進撃を批判しても、当時の軍に聞く耳がなかったことは、いかんせん止むを得ぬことではなかったのか。
今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で無我夢中で、我武者羅(がむしゃら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。
われわれは過ぎ去った昔日の行為を、現在の感覚や判断であれこれ同義的にきめつけて、「反省」しても、さして意味のないことにもっと深く思いを致すべきだろう。過去に対する現在の人間の自由な批判は、むしろ横暴で、傲慢(ごうまん)で、浅はかであることを肝に銘じておくべきだろう。
「歴史を学ぶ」とは歴史の失敗に関する教訓を、現在のわれわれの生活に活用するというような簡単で分かりやすい話ではあるまい。失敗かどうかさえも本当のところはよく分からないのだ。そんなことをいえば現在のわれわれの生活だってすでに失敗を犯し、取り返しのつかない選択の道を潜り抜けているのかもしれない。
ある人は大東亜戦争は侵略であり、犯罪であるという。別のある人は愚行であり、過信の結果であったことだけは間違いないと反省する。負けた戦争は成功とはいえないから、後者に一応の理はあるが、どれが本当のところ正しかったかはあと百年経ってみなければ分からない。
——不可解な19〜20世紀前半の世界——
大東亜戦争の開戦間もない昭和17年(1942)2月15日のシンガポール陥落の報は、日本だけでなく、世界中をあっと驚かせた。日本の同盟国ドイツ、イタリアは歓声をあげ、イギリスは狼狽(ろうばい)、アメリカは沈黙、他の国々で日本との国交断絶を計画していた国は次々と見合わせる方針を発表した。電光石火日本軍に席巻されたイギリスの不甲斐(ふがい)なさにアメリカは失望の意をあらわにした。イギリス海軍はその少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツ艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。
戦争の行方は分からなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。終わってしまった結果から戦争を判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分からない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。
19−20世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中でどの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事で、列強とよばれる国々では、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と罷り通っていた。
各国は簡単に銃をとり、一寸(ちょっと)したことで感情を高ぶらせて戦争に訴える計画に走った。故高坂正堯氏によると、19世紀末にはイギリスとアメリカがすんでのところで戦争になるという局面さえあったそうだ。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。調停案を持ち出したアメリカを大国イギリスは相手にしなかった。アメリカはそんな役割を果たせるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰(ざた)されたのだった。
19世紀末にアメリカはまだ実力のない新興国だった。太平洋の緒戦でイギリスがシンガポールを落した1942年までに、イギリスからアメリカへの覇権の移動が徐々に進んでいた。イギリスの歴史教科書は、「第一次世界大戦で世界に二つの大国が出現した−アメリカと日本」と書いた。ガイアナとベネズエラの国境紛争があわや英米戦争になりかけたのは、アメリカの覇権獲得までの小さな途中劇であるが、イギリスに負けまいとする若いアメリカの意地のドラマでもあった。
20世紀前半まで、このように列強は自尊心のためとあらばときとして自分を危険に陥れる冒険をいとわなかった。大東亜戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、日本人の自尊心が絡んでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(17日付夕刊)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出せる。
「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれといふんだ。山路公使は面喰(めんくら)って御志だけは有難(ありがた)く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に礼を述べて帰らせた」と、同盟国ブルガリアの歓喜の声を伝えている。まるでオリンピックのマラソンの一着、二着が報ぜられたかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」から私が思い浮かべるのは現代の戦争ではなく、むしろ、あえて言えば、『太平記』や『平家物語』に近いといってよいだろう。
自尊心、功名心、忠勇無双−世界中どこでも当時戦争に対する国民の意識は同じようなものだった。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたはずだ。例の「百人斬り」も、勇者を讃(たた)える戦意高揚の武勲譚(たん)で、戦後になってこれをことごとしく問題にする方がおかしい。
ことに対中援助の実情を見る限り、戦後の日本は泥沼にはまりこんで身動きできない戦中の日本にある意味で似た状況に陥っているようにみえはしないだろうか。三兆円にも達するといわれる外務省管轄の対中ODA(政府開発援助)とは別枠で、大蔵省が管轄してきた旧日本輸出入銀行を通した中国向けのアンタイドローンというのが存在する。これらがどうやらODA総額を軽く上回るほどの不気味な巨額をなしているらしいことを最近われわれに教えてくれたのは、古森義久氏の『
日中再考』であった。
知らぬ間にどんどん増えた援助の実体は中国国民に感謝されていないし、知らされてもいない。これで道路や空港を整備した北京がオリンピック主催地として大阪を破り、毎年の援助額程度で相手は有人宇宙衛星を飛ばして、日本を追い抜いたと自尊心を満たしている。それでも日本は援助を中止できないという。そのからくりがどうなっているのかは素人には分からないが、まさに泥沼に入り込むように簡単に足が抜けないのが、今も昔もいつの世にも変わらぬ、日本から関与する中国大陸である。いま競って企業進出している産業界も、付加価値の高い上位技術で利益をあげ、有卦(うげ)に入っているが、やがて戦中と同じ「手に負えない」局面にぶつかる日も近かろう。
朝鮮半島も中国大陸も、昔から日本人には理筋の通らない、面倒な世界でありつづけた。日本を「倭奴」とか「東夷」といって軽く見て、欧米人の力には卑屈に屈服しても日本人の力には反発し、恭順の意を表さない。
こうして今のわれわれが依然として半島にも大陸にも「手に負えない」ものを感じ苦しんでいるのだとしたら、先の大戦での日本の政策や行動をどうして簡単に「あれは失敗だった」「ああすりゃ良かった」「手出ししなければ良かったんだ」など小利口に批判することができるのだろうか。
窪地に水を流し込むように、日本を含むあの時代の国際社会は競って中国に兵力を投入した。日本を含む今の世界各国の企業が、窪地に水を流し込むように、競って資金を投入しているさまにも相似ている。今の産業界にも「手出ししなければ良いんだ」とうそぶいて、小利口ぶりを発揮する企業があれば見たいものだ。日本経済が今これで上向きになっているのだから、進出企業は聞く耳を持つまいが、だとしたら成功と正しさを信じた軍の華北進撃を批判しても、当時の軍に聞く耳がなかったことは、いかんせん止むを得ぬことではなかったのか。
今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で無我夢中で、我武者羅(がむしゃら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。
われわれは過ぎ去った昔日の行為を、現在の感覚や判断であれこれ同義的にきめつけて、「反省」しても、さして意味のないことにもっと深く思いを致すべきだろう。過去に対する現在の人間の自由な批判は、むしろ横暴で、傲慢(ごうまん)で、浅はかであることを肝に銘じておくべきだろう。
「歴史を学ぶ」とは歴史の失敗に関する教訓を、現在のわれわれの生活に活用するというような簡単で分かりやすい話ではあるまい。失敗かどうかさえも本当のところはよく分からないのだ。そんなことをいえば現在のわれわれの生活だってすでに失敗を犯し、取り返しのつかない選択の道を潜り抜けているのかもしれない。
ある人は大東亜戦争は侵略であり、犯罪であるという。別のある人は愚行であり、過信の結果であったことだけは間違いないと反省する。負けた戦争は成功とはいえないから、後者に一応の理はあるが、どれが本当のところ正しかったかはあと百年経ってみなければ分からない。
2004年08月16日
日本人の自尊心の試練の物語 (三)
——不可解な19〜20世紀前半の世界——
大東亜戦争の開戦間もない昭和17年(1942)2月15日のシンガポール陥落の報は、日本だけでなく、世界中をあっと驚かせた。日本の同盟国ドイツ、イタリアは歓声をあげ、イギリスは狼狽(ろうばい)、アメリカは沈黙、他の国々で日本との国交断絶を計画していた国は次々と見合わせる方針を発表した。電光石火日本軍に席巻されたイギリスの不甲斐(ふがい)なさにアメリカは失望の意をあらわにした。イギリス海軍はその少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツ艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。
戦争の行方は分からなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。終わってしまった結果から戦争を判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分からない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。
19−20世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中でどの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事で、列強とよばれる国々では、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と罷り通っていた。
各国は簡単に銃をとり、一寸(ちょっと)したことで感情を高ぶらせて戦争に訴える計画に走った。故高坂正堯氏によると、19世紀末にはイギリスとアメリカがすんでのところで戦争になるという局面さえあったそうだ。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。調停案を持ち出したアメリカを大国イギリスは相手にしなかった。アメリカはそんな役割を果たせるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰(ざた)されたのだった。
19世紀末にアメリカはまだ実力のない新興国だった。太平洋の緒戦でイギリスがシンガポールを落した1942年までに、イギリスからアメリカへの覇権の移動が徐々に進んでいた。イギリスの歴史教科書は、「第一次世界大戦で世界に二つの大国が出現した−アメリカと日本」と書いた。ガイアナとベネズエラの国境紛争があわや英米戦争になりかけたのは、アメリカの覇権獲得までの小さな途中劇であるが、イギリスに負けまいとする若いアメリカの意地のドラマでもあった。
20世紀前半まで、このように列強は自尊心のためとあらばときとして自分を危険に陥れる冒険をいとわなかった。大東亜戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、日本人の自尊心が絡んでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(17日付夕刊)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出せる。
「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれといふんだ。山路公使は面喰(めんくら)って御志だけは有難(ありがた)く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に礼を述べて帰らせた」と、同盟国ブルガリアの歓喜の声を伝えている。まるでオリンピックのマラソンの一着、二着が報ぜられたかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」から私が思い浮かべるのは現代の戦争ではなく、むしろ、あえて言えば、『太平記』や『平家物語』に近いといってよいだろう。
自尊心、功名心、忠勇無双−世界中どこでも当時戦争に対する国民の意識は同じようなものだった。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたはずだ。例の「百人斬り」も、勇者を讃(たた)える戦意高揚の武勲譚(たん)で、戦後になってこれをことごとしく問題にする方がおかしい。
2004年08月19日
日本人の自尊心の試練の物語 (四)
——米国は日本攻略を策定していた——
ペリーが浦賀に来航した19世紀中葉、アメリカはまだ当時の一等国ではなかった。アメリカが大国の仲間入りをしたのは1898年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有して以来である。ほぼ同年にグアム、ウェーク、サモアを抑えた。アメリカが「モンロー宣言」を出したのは1823年だったが、南北戦争(1861−65)が片ずくと、太平洋に対しては遠慮のない進出を開始し、この宣言をアメリカの孤立主義の声明と解釈することはできない。
南太平洋にじりじりとアメリカが北上し勢力を押し広げていくこの時期は、日本が日清・日露の戦いに向かい勝利を収め一等国に名乗りを上げる時代にほぼ相前後する。
アメリカは20世紀初頭にハワイからグアム、フィリピンを結ぶ線を新国境と定めた。イギリスは西太平洋におけるアメリカの支配を認めて、その水域から英艦隊を撤収した。極東におけるイギリスの関心は日本ではなくロシアだった。イギリスは第一次大戦よりも前に世界に手を広げ過ぎたことを意識しだし、軍事力、財政力の限界に気がついた。中国における自国の権益を維持するのに、イギリスは日本の軍事力に依存する必要さえ感じていた。日英同盟(1902)はイギリスの利に適(かな)っていたのである。
しかしアメリカはそうではなかった。アメリカはロシアを脅威とはみなさず、むしろ日露戦争後の日本の大国へのめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていた。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対してアメリカの上院はベルサイユ条約を批准しなかったし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させその後日本を追い込む戦略に余念がなかった。
われわれ日本人は太平洋でのアメリカとの衝突を顧みるとき、先立つ世界史の大きなうねりを再考する必要がある。ヨーロッパとアジアで起こった覇権闘争はまったく性格を異とする。ドイツが引き起こした戦争は、欧米キリスト教文明の「内戦」にほかならない。ヒトラーは欧米文明の産み落とした鬼っ子である。宗教史的文脈で考えなければ、ユダヤ人の大量虐殺の説明はつかない。
それに対し太平洋の波浪を高くしたのは、一つには同時期に勃興(ぼっこう)した若き二つの太平洋国家・日米が直面した“両雄並び立たず”の物理的衝突である。二つには、白人覇権思想と黄色人種として近代文明を自力でかち得た日本民族の自尊心をかけた人種間闘争の色濃い戦争である(昭和天皇は戦争の遠因にカリフォルニアの移民排斥問題と、ベルサイユ会議における日本提出の人種差別撤廃法の米大統領による理不尽な廃案化をおあげになっている)。
歴史家はいったいなぜ自国史を説明するのにファシズムがどうの帝国主義概念がどうのと、黴(かび)の生えた「死語」をもち出したがるのか。歴史を見る目は正直で素直な目であることが大切である。
大東亜戦争は起源からいえば日英戦争であった。イギリスの権益は日本の攻撃でアジア全域にわたって危機に陥れられたからだ。しかるに実際に日本の正面に立ちはだかったのはアメリカだった。そこに鍵がある。ヨーロッパ戦線ではアメリカはどこまでも“助っ人”だった。しかし太平洋では“主役”だった。なぜか。
当時日本軍がアメリカ本土の安全保障を脅かす可能性がないことは、情報宣伝局は別として、アメリカ政府はよく分かっていた。ハワイは当時アメリカの州ではない。日本軍が米大陸に最も接近したのはアリューシャンの二、三の島を占領したときだが、それとて約四千キロ離れていた。アメリカはイギリスの“助っ人”という程度をはるかに超え出て、全面関与してきた。明らかに過剰反応である。
日露戦争の日本の勝利以来、アメリカは日本を標的とし始めた。日本がちょっとでも動き出せば叩(たた)き潰(つぶ)そうと待ち構えていた「戦意」の長い歴史が存在した。
アメリカの目的は最初から明白に日本の攻略であり、太平洋の覇権であった。
ペリーが浦賀に来航した19世紀中葉、アメリカはまだ当時の一等国ではなかった。アメリカが大国の仲間入りをしたのは1898年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有して以来である。ほぼ同年にグアム、ウェーク、サモアを抑えた。アメリカが「モンロー宣言」を出したのは1823年だったが、南北戦争(1861−65)が片ずくと、太平洋に対しては遠慮のない進出を開始し、この宣言をアメリカの孤立主義の声明と解釈することはできない。
南太平洋にじりじりとアメリカが北上し勢力を押し広げていくこの時期は、日本が日清・日露の戦いに向かい勝利を収め一等国に名乗りを上げる時代にほぼ相前後する。
アメリカは20世紀初頭にハワイからグアム、フィリピンを結ぶ線を新国境と定めた。イギリスは西太平洋におけるアメリカの支配を認めて、その水域から英艦隊を撤収した。極東におけるイギリスの関心は日本ではなくロシアだった。イギリスは第一次大戦よりも前に世界に手を広げ過ぎたことを意識しだし、軍事力、財政力の限界に気がついた。中国における自国の権益を維持するのに、イギリスは日本の軍事力に依存する必要さえ感じていた。日英同盟(1902)はイギリスの利に適(かな)っていたのである。
しかしアメリカはそうではなかった。アメリカはロシアを脅威とはみなさず、むしろ日露戦争後の日本の大国へのめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていた。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対してアメリカの上院はベルサイユ条約を批准しなかったし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させその後日本を追い込む戦略に余念がなかった。
われわれ日本人は太平洋でのアメリカとの衝突を顧みるとき、先立つ世界史の大きなうねりを再考する必要がある。ヨーロッパとアジアで起こった覇権闘争はまったく性格を異とする。ドイツが引き起こした戦争は、欧米キリスト教文明の「内戦」にほかならない。ヒトラーは欧米文明の産み落とした鬼っ子である。宗教史的文脈で考えなければ、ユダヤ人の大量虐殺の説明はつかない。
それに対し太平洋の波浪を高くしたのは、一つには同時期に勃興(ぼっこう)した若き二つの太平洋国家・日米が直面した“両雄並び立たず”の物理的衝突である。二つには、白人覇権思想と黄色人種として近代文明を自力でかち得た日本民族の自尊心をかけた人種間闘争の色濃い戦争である(昭和天皇は戦争の遠因にカリフォルニアの移民排斥問題と、ベルサイユ会議における日本提出の人種差別撤廃法の米大統領による理不尽な廃案化をおあげになっている)。
歴史家はいったいなぜ自国史を説明するのにファシズムがどうの帝国主義概念がどうのと、黴(かび)の生えた「死語」をもち出したがるのか。歴史を見る目は正直で素直な目であることが大切である。
大東亜戦争は起源からいえば日英戦争であった。イギリスの権益は日本の攻撃でアジア全域にわたって危機に陥れられたからだ。しかるに実際に日本の正面に立ちはだかったのはアメリカだった。そこに鍵がある。ヨーロッパ戦線ではアメリカはどこまでも“助っ人”だった。しかし太平洋では“主役”だった。なぜか。
当時日本軍がアメリカ本土の安全保障を脅かす可能性がないことは、情報宣伝局は別として、アメリカ政府はよく分かっていた。ハワイは当時アメリカの州ではない。日本軍が米大陸に最も接近したのはアリューシャンの二、三の島を占領したときだが、それとて約四千キロ離れていた。アメリカはイギリスの“助っ人”という程度をはるかに超え出て、全面関与してきた。明らかに過剰反応である。
日露戦争の日本の勝利以来、アメリカは日本を標的とし始めた。日本がちょっとでも動き出せば叩(たた)き潰(つぶ)そうと待ち構えていた「戦意」の長い歴史が存在した。
アメリカの目的は最初から明白に日本の攻略であり、太平洋の覇権であった。
2004年09月10日
日本人の自尊心の試練の物語 (五)
日本人の自尊心の試練の物語(新・地球日本史より)の続きを掲載します。
(一)〜(四)まではすでに掲載しています。それらをお読みになっていない方はこちらを先にお読みになり続きをご覧ください。
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——一度指した駒は元に戻らない——
昭和16年12月8日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。
「12月8日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。
もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。
二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。
当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。
開戦の日、私は満6歳5カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば8、9歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。
今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。
間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。
昭和19年には6月にB29による本土空襲が始まった。7月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。
子供心にもそのことは分かっていた。
(一)〜(四)まではすでに掲載しています。それらをお読みになっていない方はこちらを先にお読みになり続きをご覧ください。
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——一度指した駒は元に戻らない——
昭和16年12月8日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。
「12月8日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。
もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。
二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。
当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。
開戦の日、私は満6歳5カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば8、9歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。
今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。
間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。
昭和19年には6月にB29による本土空襲が始まった。7月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。
子供心にもそのことは分かっていた。
2004年09月13日
日本人の自尊心の試練の物語 (六)
戦争が終わって不思議なことが起こった。各地で相当数の日本人が自決したが、内乱はなかったし、大量の集団自決も起こらなかった。米軍進駐が始まっても国民生活は平静で、波乱がない。
「愛国心」の象徴だった国民服が姿を消す。「夷狄(いてき)」の言葉であった英語が氾濫(はんらん)する。「国体」と相いれないはずのデモクラシーが一世を風靡(ふうび)する。あっという間だった。北海道から鹿児島までの主要都市には民間人殺戮(さつりく)を目的とした執拗(しつよう)な絨毯(じゅうたん)爆撃があったし、二個の原爆投下がありながら、アメリカへの復〈心は燃え上がらなかった。
これを奇蹟(きせき)としたのは英米など連合軍の側であった。血で血を洗う国内の殺戮混乱なくして日本の降伏は治められまいと、恐怖と緊張をもって上陸した占領軍は、あっ気にとられた。天皇の詔勅の一声で、たちまち林のごとく静かに、湖のごとく冷たく、定められた運命に黙然と服する日本国民の姿を見た。
占領軍はこの静かなる沈黙にむしろ日本人の内心の不服従を予感した。敗戦の現実に対する日本人の認識の甘さが原因だと読んだ。戦争の動機に対する自己反省の不足が、内的平静さの理由だとも考えた。日本人は白旗を掲げたが、敗北したと思っていないようだ。日本人に「罪の意識」を植えつけなくてはならぬ。現に『タイムズ』はそう論じた。南京とフィリピンにおける日本軍の蛮行という占領政策プロパガンダが、新聞やラジオを使って一斉に始まるのは、終戦から三カ月程経ってからであった。
日本国民の内心の「不服従」はある程度当たっているかもしれない。大抵の日本人はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連という主たる交戦相手国に「罪の意識」を抱かなかったし今も抱いていない。日本の戦争が一つには自存自衛、二つにはアジア解放であったことを戦後のマスコミの表にこそ出ないが、あの時代を生きた日本人の大半はよほどのバカでない限り知っていた。
たとえ歴史の教科書に、平和の使徒アメリカが侵略国家の日本を懲らしめるために起ち上がったのがあの戦争だという「伝説」が語られていても、米ソ冷戦下で、アメリカの庇護に頼っている日本人は、まあ仕方がない、好きなように暫(しばら)く言わせておけよ、という二重意識で生きていて、本気にはしていなかった。
戦後の経済復興をなし遂げたモーレツ社員、産業戦士はみなその意気込みだった。まさか自分の子供の世代が、日教組の影響もあって、この大切な二重意識を失ってしまうとは思わなかった。子供たちが教科書にある通りに歴史を信じ、日本を犯罪国家扱いする旧戦勝国の戦略的な“罠(わな)”にまんまと嵌(はま)って、抜け出られなくなるなどということはゆめにも考えていなかった。
1985年頃から日本の社会には右に見た新しい世代が呪縛(じゅばく)された「第二の敗戦」というべき現象が発生し、今日に至っている。
けれども、問題は戦争が終わってすぐの日本人の「林のごとく静かな」あの無言の不服従の不明瞭な態度にこそ「第二の敗戦」の主原因があるのではないかと、私は最近、やはり「第一の敗戦」の敗北の受けとめ方への日本人の言語の不在をあらためて問題にしなくてはならぬと考えている。
なぜ日本人は戦後もなお自己の戦争の正しさを主張しつづけなかったのか。不服従は沈黙によってではなく、言語によって明瞭化されるべきではなかったのか。アメリカへの異議申し立ては、60年安保のような暴徒の騒乱によってではなく、日露戦争以後のアメリカの対アジア政策の間違い、たとえ軍事的に敗北しても日本が道義的に勝利していた首尾一貫性の主張によって理論的になされねばならなかった。民主主義はアメリカが日本に与えたアメリカの独占概念ではなく、古代日本に流れる「和」の理念の中により優位の概念が存在することの主張を伴って教導されなくてはならなかった。
これこそが今後わが民族が蘇生するか否かの試金石である。