2004年08月30日

ネットの憂鬱  (一)

 日朝会談の「空白の十分間」について、最初に言い出した中西氏のテレビの日付がはっきりしなかったので、私が「緊急公告」という形で広く情報を募った。その結果、6月17日の日付のヒントを与えてくださった人がいて、われわれが「密談」のキーワードで引いて、時間帯を当て、3分20秒のテレビの録画が入手できた。そこから出所が日刊ゲンダイであると判明し、オリジナルの原文も手に入った。日刊ゲンダイの原文は「緊急公告」(四)に全文掲載されている。

 ひょっとするとこれ以外の活字もテレビ番組も他にあったのかもしれない。中西さんが見たのと同じものかどうかも分らない。東京と京都はそれなりの距離があるので、時機がこないと確認できない。

 私が実行するのはここまでで、この結果から新たに何かを引き出すのはマスコミと公安警察の仕事である、とも私は記した。本当に私は、事情が特に変わらない限り、ここで終るのである。

 つまり私は「空白の十分間」の実在についても、密談があった可能性についても、あり得ることと疑ってはいるが、必ずあったと断定はしていない。断定するにはまだ材料が少し不足である。得られた情報を私は尊重するが、過大評価はしていない。そういう書き方をしている。

 私は単に材料を提供したにすぎない。「吉之助」さんという方が応援掲示板次に次のように書いて下さったのが私の今の気持ちに近い。

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今回の「空白の10分間」問題に関して、西尾先生が如何わしい「日刊ゲンダイ」をソースに用いていることを心配されている方が少なからずいる。もちろん、ぼくはまったく心配していない。他にまともなソースがないのだから仕方がないと思うのである。後でもっと信頼できるソースが出てくるようなことがあれば、それをまた利用すればよいのである。「日刊ゲンダイ」を基にすることはマイナスのイメージを与えるだろうけれども、「空白の10分間」に対して国民の注意を喚起するためには止むを得ないのではないかと思う。

研究はなんでもガラクタのような素材から始まる。その中から本質を抉り出したり、それをスタートに波紋を広げていけばよいのである。

「サヨク」だとか「ウヨク」のレッテル貼りを恐れている人の気がしれない。レッテルを貼ることくらい、誰だって、機械にだって出来る。レッテル貼りしかできない人、世間の評判を気にしているような人は軽蔑しておけばよいのである。


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 まったく同感である。しかるに日刊ゲンダイを用いて、首相を批判するのは左翼と同じだとか、西尾が予断を持って猜疑するやり方はありもしない従軍慰安婦をプロパガンダした反日派の手法とそっくりだとか、妙なことを言い出す人がわっと出てきて、私は大変に当惑している。何を言われているのかさっぱり分らないのだ。これについては、同じく応援掲示板の2210番「もう一度こちらに再掲します」で「無頼教師」さんが懇切に、論理的に説諭しているので、そちらをお読みいただきたい。

 勿論、事柄の初めに小泉首相への疑惑がある。日朝再訪を境に朝鮮総聨に接近し、北朝鮮への土下座外交の度合いを高めた首相の態度急変への心配がある。この心配は多くの人が共有している。そこから「空白の十分間」への猜疑が生じたのであって、なにもないところに批判的感情が起こったのではない。これは全体状況からきていることで、やむを得ない。

 それでも私は「空白の十分間」の実在と密談の可能性を決して断定していない。私は慎重に扱った。しかるにネット上ではこの対応が分らない人がどっと出現した。まるで地下から急にわき上がったかのごとく、文章の体をなさないヒステリックな、人を小馬鹿にした高飛車なもの言いがあふれ、Comments欄の書きこみ欄を閉じてもなおTrack Backに書きこみはつづき、応援掲示板に氾濫し、この掲示板の正常な運営を不可能にし、管理人は急遽、論争用のトコトン板という新造の舞台を提供したほどである。

 私はそうまでして受信の努力をする必要はないのではないかと考えている。言論人のホームページはだいたい発信のみである。一方通行である。書きこみ者からの受信をここまで尊重する管理人は当「日録」以外には見出しがたいのではないかと思う。

 今後どうすべきかは管理人の裁量に委ねられているが、私は実名を隠蔽して無遠慮な言葉遣いが礼を欠いた書き込みを次々と乱発するひとびとに、現代のある病理を見る思いがして、これは一体何だろうかと訝しんでいた。ゲバ棒学生が覆面で街頭デモをした35年前の光景を思い浮かべた。すると面白いことに、次のような絶妙な分析をなさる人も現れた。

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2213 くだらない意見は無視しましょう abc 2004/08/29 00:14
男性 会社員 43歳 O型 広島県
 ソースロンダリングとか右とか左たかそんなに大事な事ですか?
本当に大事なのは「空白の10分間」の「事実性の検証」であり、それを前提とした小泉首相の「売国奴体質の検証」なのではないですか?
くだらない事に時間を費やすのは止めましょう。以下トラックバックよりコピペ

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2004-08-27
よくわかりました
私は小泉首相にも空白の十分間にも基本的に興味はありませんが、今回日録で一般に情報を募った経緯はよくわかりました。
一言でいうと、インターネットの良さと悪さが両方出た一件だと思います。

現在のインターネットは匿名かつ無料での利用が基本になっていて、こうなると、専門的知識のある方や地位のある方はなかなか積極的に参加するというわけにはいきません。名前があるというだけで
卑怯な不満分子たちから標的にされ、対価もえられないわけですから。
一方で、インターネットは専門的知識を必要としない、しかし見つけにくい情報を得るには非常に便利ですね。

たとえば、このような品物はどこで売っているかとか、こんなソフトフェアはないかといった程度の小耳情報、つまり金銭的には無価値だが、誰にきけばよいかわからないような情報は、テーマ別掲示板などで尋ねるとたちどころに分かります。

日録での「空白の十分間」についての協力要請も、最初は愚にもつかない書き込みばかりだったのでダメかと思いましたが、結局は2、3日中に番組名や元記事の簡単な内容までわかったわけですから、うまくいった方だと思います。しかし、同時に、ふだんはここには書き込まないようなネット空間の病人のような人たちをも引き付けてしまいました。

この人たちは、現在インターネットを一番利用していると同時に一番大きな問題ともなっている、ひきこもり系のネット中毒者たちです。
彼らの多くは、職場に適応できなかったり、学校を放棄してしまったり、あるいは精神的に病んでいるような社会的不適応者です。残念ながら、
現在のインターネット上の匿名掲示板はこの種のひきこもり系の人たちによって、その80%が書き込まれています。
彼らにとっては、ネットはボロボロになった自尊心をバーチャルに癒す空想界であると同時に、外の世界、現実世界とつながりを維持するための唯一のパイプでもありますから、そこへの傾倒の仕方は尋常ではありません。

日録にしろ、他のまじめ系サイトにしろ、大半の閲覧者は識者の見解をただ有難く傾聴しているだけで、なかなか書き込むところまではいかないものです。(私ももう1年以上日録を見ていますが、先日
書き込んだのが最初です)しかし、ひきこもり系利用者にとっては、もともと失うものがないですし、することもなく1日中どこか相手をしてくれるところを探して、書き続け、垂れ流し続けているわけですから、どうしても、掲示板の類いはこの種のチャット的、意味のない会話やつぶやきで占められることになってしまいます。

今回は、問題となる番組の情報が得られたまではよかったのですが、小泉首相に関するテレビ報道という誰でも書き込みやすい話題だったため、見識もなにもないネット中毒者たちの書き込みが普段にまして多かった。ここで、西尾先生が、このひきこもり系たちの病理的な異常さを政治的な意図をもった異常さと読みちがえてしまったのがまずかったですね。あるいは、そういう風にミスリードした「自称
ネットの事情通」の方にも問題があります。

上記の人たちは、現実界での復讐戦を誓っているわけですし、もともと人格的にも問題がありますから、一人でなりすまして何人分の記事を書くなど朝飯前です。掲示板でAの意見に、賛成者80反対者30と見えても、実際に書き込んでいる人の数は賛成2反対20だったりするのはごく普通のことです。このネットの弊害はどこでも問題となっていて、なんとかこれを除去する方法がないか思案されていますが、技術的な工夫を必要とするので、まだ手軽な妙案はないようです。

ひきこもり系のネットお宅たちにとっては、自分たちのクズ言説の山が、高名な知識人である西尾先生の反応、これは負であれ正であれ彼らにはいっしょです、を引き寄せたわけですから、狂喜乱舞の有り様です。
彼らは、実生活では誰にも相手にされず、生まれてこの方、えらい人とは1度も口を効いたことがないわけですから、この喜びようが尋常でないのはある程度理解できます。しばらくは彼らの興奮が、ここにも汚い罵倒となって表われるでしょうが、これも可哀想な人たちへのお年玉だったとして甘受するしかないでしょう。

以上、いわずもがなのことだったかもしれませんが、日録を閲覧している普通の利用者には、一般人でblogを作り、なんの内容もない日記を公開するという自己満足をやっている人が少ない、したがって通常の利用者によるトラックバックが付きにくい、たたただ中毒者の汚い煽りだけが貼付けられるというのは、わかってはいても先生も気持が悪いだろうと思い、書かせていただきました。応援掲示板のトラックバック版ということで。
この件はこのまま無視して、もう差し支えないでしょう。
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 フーム、そうか、成程と私はなんとなく得心がいった。圧倒する奇妙な小泉擁護の書き込みを、私がある人のヒントもあって、政治的マニピュレーションと思ったのが間違いだったのかもしれない。勿論、小泉サイドからの揺さぶりという疑念をまだ捨て切れてはいないが、この異様な雰囲気の全体は、上記の引用文の言う通り、政治的対象ではなく、病理的対象であると考える方がずっと分り易いのかもしれない。

 インターネットの裏の世界がどういうものかを考える切っ掛けにはなった。「日録」の管理人はこういう目に合ってもまだけなげに、彼らと対話が出来ると信じ、正常なルールを彼らに守らせることができると思い、むしろこの世界のルール——そんなものはないように見えるが——に自分を一生懸命合わせようと努力している。

 それがうまく行くのかどうかはしばらく様子を見守るしかない。


脱字修正(13:02)  
Posted by nishio_nitiroku at 11:21TrackBack(0)

2004年09月01日

ネットの憂鬱 (二)

  この「日録」には「応援掲示板」というものが附属サイトのような形で併設されている。「日録」は管理人が交替して、それを前後に、前期と後期に分れている。前期にも読者からの受信を受けつける感想掲示板があった。
 
 後期の感想板は前期に比べて制約が少なく、自由度が増しているが、書きこまれる感想文のレベルが高くなったとはお世辞にもいえない。
 
 管理人は一生懸命、ルールを確立し、秩序をつくろうとしているが、間違いなくレベルダウンは起こっている。管理人の誠実な対応、一途な努力とはあくまで別である。

 短文の応酬が多く、以前にあったじっくり腰を据えた論考が少なくなっている。そこへノイズが入ってくる。

 「日録」はたしかに曲り角にきていると思われるので、今日はそのことを書いてみたい。昨日次のような文章が「応援掲示板」に出ていた。

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2270 掲示板について
天下の無法松 2004/08/30 22:29

掲示板に書き込みながら、このようなことを書くのは矛盾していると思われるでしょうが、真面目なサイトには掲示板は設置しない方がよいかと思います。なぜならば、掲示板は必ず荒らされるもので、そのことによってサイトの作成者の信用度を落とすからです。メールを受け付けるのは必要でしょうが、掲示板を荒らす人間はその自分の意見を陳述することによってそのサイトの信用度を落とすことが目的ですから、できましたら、掲示板は最初からしない方が良かったのではないかと思います。今のインターネット世界は性善説から性悪説に基づくものに変化してしまっているからです。現在のインターネット世界では冷静な意見の交流などいう悠長なことは絶対に期待できません。


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 ここで述べられていることが私には正論だと思われる。できれば今からでもこのようにしたい。「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」というのがあり、私は愛読しているが、宮崎氏は発信するだけで自由受信を受け付けない。たまに「読者の声」がのせられるが、届いたメイルの中から宮崎氏が選んで、気に入ったものだけ掲示し、一寸でも不愉快に思われるものはすべて廃棄して、載せないらしい。
 
 だから彼の「読者の声」には宮崎氏を見下すようなもの言いや、宮崎氏への反発から書いた文章や、無遠慮な礼を欠く文面はひとつもない。読者の文章も、誤記や間違いを彼が直してのせるらしい。編集権が自分にあるからである。

 多分これが理想的形態だろう。サイトの原作者の「安全保障」がまず何よりも大切だ、という考えがこの形態の基礎にある。

 今回の「空白の十分間」をめぐるノイズのことだけを言っているのではない。従来礼儀正しいもの言いをしてきた「日録」の常連さんが、突然私に向かって高飛車な口のきき方をし始め、戸惑うケースにもたびたび会う。匿名ないしハンドルネームだから起こる唐突な関係破壊である。

 そのたびに私は瞬間ギュッとし、ほんの数秒だが心が乱れる。過日のような表立ったデタラメな罵詈雑言よりも、信頼していた常連さんの変貌ぶりのほうが心に響く。そして、たびたび起こるとストレスになる。

 そんなわけで発信中心の宮崎式にしてしまいたいという思う気持ちは私には強い。
 
 しかし宮崎氏にそれが出来、私に出来ないのは、タイピングを自ら私がしていないこと、管理人に全権を委任していることにある。
 
 そして、今ひそかに恐れていたことが起こりつつある。管理人の長谷川さんと私との間で、インターネットに関する考え方の相違が次第にはっきりし始めていることである。長谷川さんは翔さんという人に応じて、同じ30日に次のように書いている。

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>翔さん
いらっしゃいませ。
そうですね、ネットからこの匿名性がなくなったら
ネットの意味がなくなると私も思います。

今まで世の中のうるさいもの、恐いものにおびえ
本音が口に出せなかった人々に、発言の場が与えられた。
だからこそ、マスコミを批判も出来るし、
情報が自由に飛び交うことが出来るようになりました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。


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 上記の考えは長谷川さんがいつも仰言ってきたことで、私にも格別耳新しい言葉ではない。けれども今あえて私から言わせてもらうなら、私が「日録」をつづけ、自分の思想を発信しているのは、「本音が口に出せなかった人々に、発信の場を与え」、彼らが「マスコミを批判し」「情報が自由に飛び交うようにする」ためではない。そんなことは私には関係がない。そういうことは何処か別の場所でやってほしい。
 
 長谷川さんのこの考え方の中には、私の「安全保障」という見地が欠けている。最近明らかになったのは、「日録」の周辺の書き込みがやや2チャンネル化し始めていることである。ルール無き無法地帯に少し似てきている。
 
 長谷川さんはそこにもルールがあると思っている。そもそもインターネットにルールがあると信じている方である。そしてそのルールを私に守らせようとしているが、これは少し違うのではないか。悪貨が良貨を駆逐する混沌がほの見えている。管理人がいっさい削除しないでいると、弱腰につけ入れられ、振り回される恐れがある。異質なものは取捨選択して別の板に移動するだけでなく、頭からはねてしまう必要もときにあるのではないか。
 
 ただそのような管理方式のことは長谷川さんの常識にお任せしているのだから、私からとやかく言える義理ではない。やりいいようにやっていただくしかないのだが、私は匿名の無法者の、自分から先に予断で私を誹謗しておきながら、私の一般への呼びかけに予断があるといってバカ騒ぎするたぐいのしつこい論難は読みたくもないし、許容する気もない。
 
 私がかつてどんどん削除したらいいというと、長谷川さんは書き込みを削除することは「負ける」ことだと仰言った。ここにインターネットに対する思い入れの度合の違い、価値観の違いが現れている。いったい何に「負ける」というのであろう。

 最初に引用した「天下の無法松」さんの仰言った、掲示板を荒らす人間はその自分の意見を陳述することによってそのサイトの信用度を落とすことが目的」だという観察のほうがはるかに正しいのではないか。

 私は前から言っていることを繰返すが、匿名者の私への批判や批評はここではいっさい認めない。日本の社会や文明や私以外の者を批判するときはここでの匿名が許されてもいいと思う。

 けれどもここは「西尾幹二応援板」と銘うっている以上、私に対する匿名の暴論、非難、誹謗の類はあるべきではない。もしどうしても私を批判したい、批評したいという人の強い動機は認める。そういう場合には、覆面をぬいで、実名を出し、職業、地位、身分、勤務先等を公開して、そのうえで堂々と私を批判してほしい。勤務先が必要なのは虚偽報告を防ぐためである。その場合にはComments欄を使ってもいいし、応援掲示板に遠慮なく書いていただいてもいい。

 匿名で書く者の自由はあっていいが、制限される。外の社会を批判するのは自由だが、この板で匿名のままに私を傷つけようとする者は趣旨に反し、資格停止であり、私は許容しない。さもないと受信の掲示板を設けること自体が間違いということになろう。

 何度もいうが、匿名でないなら批判者は対等であり、自由である。  
Posted by nishio_nitiroku at 07:15TrackBack(0)