2004年09月06日

林健太郎先生のご逝去 (一)


 林健太郎先生が8月10日にご逝去された。このことは知っていたが、私は東京に不在で、今日やっとご霊前に赴き、1月に訪れたあの同じ家でご焼香をすませた。奥様が喪服でお迎え下さった。犬が飛び出してきた。1月にお別れしたときも犬が迎えてくれ、送ってくれたものだった。何もかも同じだった。ただ、先生だけがいない。

 東京大学が主催する正式のご葬儀は9月13日である。奥の座敷に、ご遺骨が置かれ、「瑞光院浄譽祥学健徳居士」と記された仮のご位牌の前で香が煙を上げていた。少し高く掲げられた遺影は、横向きで、やや笑っておられる。いいお顔である。

 「お幾つのときでしょうか」
 「72歳のころ、参議院議員のころです。」

 西洋史の弟子の九里幾久雄さんと私が連れ立って1月25日に先生をお見舞いしたのはムシが知らせたのだろうか。享年91歳、いつこうなってもおかしくはなかった。私たちが訪れた日先生は和服を着替えて、待ちかねるようにして私たちを迎えて下さった。「あの日は朝からいつ来るのか、いつ来るのか、と待ち遠しそうでした。あんな楽しそうな様子は最近なかったのですのよ。」と、奥様は思い出すように仰言った。

 何日か後に私は「九段下会議」の宣言文の載っている『Voice』3月号を届けたが、先生にはそのときはお目にかかっていない。ご関心を寄せてくださったようだが、それがどの程度のものかは分らない。

 ご夫妻はあれから二度ほど歌舞伎座に芝居を見に行っているそうである。肺炎で二、三度の入退院を繰り返しもした。近所のお医者さんが点滴に毎日ご自宅に来て下さることになり、入院生活は止めた。永年住み慣れた趣味のいい和風の家で療養する決心をした。あと1、2年は大丈夫ですよ、とお医者さんは言っていたそうである。

 7月の末に先生は異様に「生きたい」と何度か仰言った。今思えば死期が近づいた予覚に違いない。庭先の木立ちに梵字が見えるとも言った。死の一週間ほど前に、突然、福田恆存先生の名前を一日に何度も口にしたという。良きライヴァルであったお二方のことである。何を思い出されたのか分らないが、自然なことである。

 昨日は遠山一行氏が、明日には村松英子氏がご焼香にお出でになるとか、そして、数日前に福田先生のご子息の逸さんが見えたとき、うわ言のように名を呼んだ一件を奥さんが伝えた。「そうですか、帰ったら母に報告します。」と逸さんは言って帰ったそうだ。

 8月10日の午前2時ごろ先生は奥様の手を握り、満面に今まで見せたこともないような笑顔をみせ、それから寝たままの姿勢で両手を堂々と行進するときに人がする大きく振る振り方をしてみせ、黙って指で上を指さした。「あら、鼠でも天井にいるかしら」と奥様はごまかすように言った。

 そして先生は静かに夜の眠りに入った。翌10日の午前10時ごろ少し具合が悪くなった。お医者さんを呼ぼうとしたが、10時は診療所の診察時間ですぐにはこられない。お昼過ぎにかけつけてきてくれた。点滴を脚にしていたので、その作業に入ると、奥様には先生の首の血管の鼓動が止まっているようにみえて、あわてて叫んだ。医師は脈をとり、居ずまいをただして「ご臨終です」と言った。

 深夜のあの仕草が「自分は天に行くときが来た」という奥様への合図であったことは今にして明らかだといえる。

  
Posted by nishio_nitiroku at 14:16

2004年09月08日

林健太郎先生のご逝去 (二)

 ご遺骨の前で、私は奥様と1時間ほど先生の思い出ばなしを交した。林先生はすべてにわたって淡々として、怒った顔もみせないし、悲しそうな顔もあまりしないし、愚痴ったり、ぼやいたり、弱音を吐いたり——そういうことがまったくない方だったという点で考えが一致した。

 「世の中にはとかく礼儀を欠いた人がいるでしょう。」と奥様は仰言った。「夫と一緒にいて、言葉づかいなどでずい分失敬なものの言いようをする人に出会って、私は女だから『あの方ずい分失礼ね』なんて言うでしょう。すると林は『そうかねぇ』とひとこと言うだけで、全然気にも留めないみたいでした。」

 ここに林先生の生き方の一つの姿が表現されているようにさえ思えた。

 「先生は君子なのです。小人ではないのです。君子ということばがピッタリだなァ。前からずっとそう思っていました。」

 「でも、林には一対一でお附き合いするお友達がいませんでした。会合には行きますが、飲み友達というようなものがなく、学者ってこういうものかなァ、と思っていました。」

 奥様が結婚されたとき先生は65歳だった。もう少し前には酒場をはしごする生活もあったはずである。私より上の世代、例えば村松剛氏あたりとはそういう附き合いもあったのではなかろうか。

 けれども西洋史学会の関係者が林先生を敬遠したことは間違いない。九里さんも言っていたが、西洋史も8割はマルクス主義史学者である。先生は若いころ東大の中枢に入っていたから、比較的被害は少なかった。「差別」はされない代わりに「敬遠」された。

 先生はだから雑誌『自由』の福田恆存、竹山道雄、平林たい子、武藤光朗、関嘉彦、木村健康といった諸先生と交流を深め、『文藝春秋』『中央公論』のもの書き仲間と人間関係を深められたのであろう。私もそのグループの一番若い末席にいたのだった。林先生は若い私の書いたものもよく読んで下さっていた。

 あるとき葉書が来た。イスタンブールの街に屯する浮浪者の群れを形容するのに私が「いぎたない」と書いたのを見とがめて、「いぎたない」は寝姿にしか使えないとわざわざ注意して下さったことがある。先生が思ったことをパッと実行して下さった親切な指摘である。

 「『国民の歴史』を林はとても熱心に読んでいましたのよ。あの部厚い本を何日も何日も前にしていました。」と奥様は仰言った。ありがたい話だった。生前、読後感を聞いておくべきだったが、先生は多分ことば少なにしか感想を仰有らなかったであろう。そういう方なのである。素気ないのである。それが先生の持味である。拙著に強い関心を寄せて下さったという奥様の言葉だけでもう私には十分で、もし当時お目にかかっていたら、「あゝ、あれは面白かったです。」というくらいの感想しか返ってこないことが目に浮かぶのである。

 先生はテレビ出演が嫌いだった。講演もあまり得意ではない。文章を書くことがすべてだった。飾りのない、論理的で、冷静な文章、つまり「素気ない」文章だった。「絶筆は何ですか」とうかがったが、これから調査しなければ分らない由。もうだいぶ執筆から遠ざかって久しい。先生のお宅にはインターネットはもとより、ファクスもコピー器もない。原稿用紙に手書きし、取りにきた編集者に直接渡すという、昔からの懐かしい伝統的方法で生涯の活動を貫かれた。

 雑誌『自由』の新人賞——林先生は審査員のお一人——で論壇にデビューした私は、あの当時の知的に潔癖な反マルクス主義の知識人の偉大な先輩たちの跡を必死に追いかけて歩んできて、今最後に残ったその偉大なひとりを失い、言いようもない喪失感、自分の青春時代の大きな部分を失ったような思いに襲われている。

 一日も早く『わたしの昭和史』を再開して、筆を伸ばしあの時代にまで書き及ばなくてはいけない、と思った。資料は揃っているのである。

 13日の増上寺の本葬に私は行かない。葬儀委員長の名を聞いて憤慨した。南京虐殺の犠牲者は中国が100万人と言っているから100万人が正しいと論文に書いた人物である。なぜ林健太郎の葬儀委員長をかゝる人物が担当するのか。もうそれを知っただけで、行く気になれない。

 先生は社会的位階が高くなるにつれて、かえって孤独になった。そのしるしのように思われる。先生は独立独行の思想家で、愛弟子に取り囲まれるということはなかったのである。

 けれども先生は葬儀委員長が誰であろうと、「あゝ、そうかねぇ」と言うだけで、多分全然気になさらないであろう。


誤字修正(9/8)  
Posted by nishio_nitiroku at 09:24