スポーツジャーナリストとしてよく知られる二宮清純さんのスピーチを聴いた。話の内容もいいが、話し方も簡潔にして、清爽である。
教科書の会の「前進の集い」と名づけられた記念パーティーの席で屋山太郎氏、櫻井よしこ氏につづいて登壇した。どなたも話がうまいが、二宮さんのうまさはすべてを具体的な場面に結びつけたエピソードの描写の的確さにある。主張だけが抽象的に流れない。
オリンピックの水泳のシンクロナイズドで日本チームは銀メダルに終った。何度やってもロシアチームに敵わない。しかし、本当に敵わないのだろうか、と二宮さんは疑問に思う。阿波踊りを模した日本チームの水中の演技はとても良かったと自分は思う、美の採点はもともと難しいのだ、と熱い調子で仰る。
しかし本当に言いたかったのはその先である。日本の審判は、ロシアチームに10点をつけた。普通ライヴァル国に10点はつけない。9.9でいい。オリンピックのほかの競技でもそうだが、ライヴァル国の審判というものは不公平を前提にしている。両方が不公平を犯す。それで公平になる。日本の審判は公正のつもりかもしれないが、バカみたいにみえた。日本チームのコーチの一人が背後から味方に弾丸を撃たれた思いだと言って怒っていた。unfairだからfairになるということが日本の審判団には判っていない。ロシアが日本に9.9をつけるなら、こちらはロシアに9.8でいいのだ、と言ったところで会場はどっと笑い声を上げた。
これは言いにくい議論である。一歩間違えば鼻白む贔屓の引き倒しになるからである。が、二宮さんが語ると厭味がない。情熱がこもっているからである。世界に対面する日本人につきものの公正気取り、それが人間的弱さに由来することを的確に見抜いているからである。そして、そうした弱さへの怒りが偶発ではなく、蓄積されてきていることがはっきり分るからでもある。
オリンピックで日本は金メダルを16個取ったが、野球、サッカー、バレーといった期待された団体では失敗し、組織の闘いに弱いことを示した。国家への思いが弱いから団体で勝てないのだ、とも氏は語った。しかしこの話よりも、もう何年も前、野茂選手と一緒にアメリカの球場を彼が回ったときの思い出が印象的だった。
日本人が戦時中収容所に入れられた土地で、野茂は大リーガーをバッタバッタと三振に切って取った。老いた日系米人はその昔、球拾いをさせられるだけで、野球の仲間に入れてもらえなかった苦い思い出を語ったそうだ。彼らは日系ではあるが、米国人である。不当に収容所に入れられたのである。目の前で野茂の快投を目撃して、彼らは涙を流していたという。
イチローや松井の活躍で大リーグはぐんと身近になったが、そういえばこの道のパイオニアは紛れもなく野茂選手だったと私もあらためて思い出していた。
二宮さんの話には怒りがあり、愛があり、国への熱い思いがそれと重なっている。
教科書の会は八木秀次さんという息子の世代の会長を得たおかげで、二宮さんのような、今まで出会えなかった新しいタイプの客人を迎えることが可能になった。わが家の食卓に若い客を迎えたときのような喜びがある。
私は懇親パーティーになってから、ソフトボールとノルディックスキーで日本が勝ちすぎたために、日本に不利にルールを改正されたと聞くが、あの話は本当か、と二宮さんに直接尋ねた。彼は、ルール改正の討議の会議に日本のスポーツ連盟の誰も出席していなかったのですよ、と日本人の外の世界への対応のまずさ、人間的弱さに対するあの熱い怒りの表情を再びまたにじませて語った。
しかし私はこうも思った。日本人の弱さに気づいて行動するこういう人がいることが日本人の強さなのだ、と。会場はこの日大変な賑わいで、明日を期待する明るい雰囲気に包まれていた。