2004年10月29日

むかし書いた随筆(一)


お 知 ら せ

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』
10月29日刊 青春出版社330ページ ¥1600



★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ

意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。

★ 福田恆存歿後十年記念—講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(会場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の 丸公園内)

 特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「蘄田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03−5261−2753〈午後5時〜午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)


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 むかし書いた随筆(一)

 このあいだ友人とカウンターで酒を飲んでいたら、しきりと私の名を口にする人が少し離れた席にいる。気にしないでいたが、気にならないでもない。1時間ほどしたら、先方がやはり二人づれで、帰ろうと立ち上がる。その拍子に一人とひょいと目が合った。

 「西尾先生ですね。」「はい。」「いやあ、さっきからそうだと思っていました。たいてい読んでいます、先生の本は。」「ありがとうございます。もうお帰りですか。」「江東区から来ました。友人のところへ遊びに来たのです。」と、彼は相棒を指さして言った。

 それから席を代わってもらって少し話しこんだ。有名な商社——たしか日商岩井——にご勤務のかたである。そのかたが言うには、私には随筆の才能があるそうで、もっとたくさん随筆を書いてくれという。

 「そう言われても、注文がないと書けないんですよ。ジャーナリズムは私を保守論客ときめつけて、それ以外の活躍をさせてくれません。」「でも、何と言ったかなァ。お見合いのことを書いた面白い随筆がありましたよね。」「あゝ、あれね。」

 私は17年前に『婦人公論』に書いたある随筆を思い出していた。読んだかたもいるかもしれない。最近の新しい読者は知らないだろう。これからしばらく私の「むかし書いた随筆」にお付き合いいただきたい。

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*** 女の夢男の夢 ***

 私の家で一人の若い女性と一人の若い男性が出会った。女性の方は私がむかし若い男性であったとき、地方都市で知り合ったある家族のお嬢さんで、当時は十歳ほどの、快活で利発な小学生だった。私はそこの家族がもう使わない離れに下宿していた。離れは何千坪という宏壮な屋敷の一角にあり、地方の素封家の住居らしい静かな、やや鄙(ひな)びた庭が拡がっていた。私が勤めから帰って来ると、彼女は六つくらいの妹さんと一緒に離れに遊びに来て、取り留めのないお話をしたり広い庭の中で私の周りをくるくるとび跳ねたりした。まだ世に出ない鬱屈した青年の無聊を慰めてくれた彼女には、私が東京に戻って以来、もう十五年も会っていなかった。その間、女子大を卒業し、立派な婦人に成人していることは風の噂に聞いていたが、私は自分の仕事にかまけていたし、向こうもはにかんでいて、出会う機会はずっとなかった。

 ある日、まるで忘れていた思い出がふと甦ったとでもいうように、御母堂から私信があり、田舎にいるとなかなか本人の望みの人物に出会えないので、何処(どこ)かに心身ともに立派な、見識と将来性とを具えた——そう文字通りに書いて来たわけではないが、およそそういう意味になる——男性はいないものか、という依頼を受けた。私には早速一人の青年の姿が思い浮かんだ。私のところに出入りしている、真面目な、堅実な仕事に就いている一人の青年だった。礼儀を弁(わきま)えた、しかも会っているとどこか心の温かくなる、今どき珍しいタイプの青年だった。彼はどうだろうか、という私の問いに、家内も賛成したので、私は彼を口説いて段取りをつけ、事は急速に運んだ。

 私は元来、お見合いなどという他人の運命に関わることをする柄ではないし、そういうことを道楽とする年齢でもない。私も家内も他人の生活にお節介するのをできるだけ慎みたいと、つねづね自戒している。だからこの一件はまったくの例外だったし、気紛れだった。それだけに事柄が順調に動きだすと、私はにわかに落ち着かなくなった。どう考えても、私の一つの無責任な思い付きから発した選択で、賽子(さいころ)が投げられ、この先どうなるか分らないが、ともかく運命が展開し始めている。そのことが私の気を重くした。お二人ともに私の生活圏に関係のあった男女であるだけに、いわば彼らの人生の軌跡は、私という人間において交叉する、そのことだけでも大それた重大事だが、それを私が気楽にお膳立てし、演出家よろしく、面白おかしい舞台まわしをしきりにしている。何ともはや軽率な行動であった、となぜか私は後悔し始めていた。若いお二人がともに相手に好意を持った内意が伝えられると、私の気持ちは逆にはずまず、これでいいのかなァと思い直していた。

 私はこのまま話が沙汰止みになればよい、とにわかに思ったり、いやせっかく私に近寄った二人が自分の周辺からまた遠い処に行ってしまうのは面白くない、と思ったりじつに我儘な感情のたゆたいの中に揺られていた。そばで私の心の動きをじっと観察していた家内が、「あなたは嫉妬し始めているのよ」と言ってのけたので、私はまたあらためてぎくり(傍点)としたのだった。言われてみれば慥(たし)かにそうかもしれなかった。かつて十歳であった明朗な少女は、本当にいいお嬢さんに成人していた。顔立ちもいいし、気品もあり、生活に対し地味で手堅い考えを持っていた。財産家なのに、小遣いを制限されて育った、持ち物なども華美をできるだけ避けた心配りが滲み出ていた。「あれだけの方はそうはいないわよ」と家内もわけ知り顔に言った。確かにそうだった。十五年振りに再会して、私はかつての童女がこんなに美事な婦人に成長していることがにわかに信じられなかった。

 私は、まるで私自身が永年捜しつづけていたタイプの女性にようやくめぐり会えたのではないか、とさえ思え、何度か彼女がわが家に出入りするうちに、なにか陶然とする感情が胸中を包み始めるのを感じた。私はこれはいけないと思った。若い二人の動きがどうなろうとも、この際私自身は意見らしい意見は言わないのが正しい態度なのだと思った。しかし、そう思いながらも、私が推薦した男のことを力不足ではなかったか、などつい口走ってしまう自分を、私はじつに嫌味な人間だと思わずにはいられなかった。私はこのとき彼が失敗することを望んでいたのだった。

 三ヶ月ほどしてこの話は突然破談になった。女性のほうからの一方的な拒否通告だった。誰でも結婚を決める前にはあれこれ考え、最大限のエゴイズムを発揮するものである。この控え目なお嬢さんも、その点では決して控え目ではなかった。相手の学歴とか、収入とか、財産とか、そういうものに彼女は決して欲張りではなかった。ただ、多くの若い女性がそうであるように、彼女もまた、自分の期待(傍点)そのものに対して欲張りだった。見るからに男らしい人がいいと言う。それでいてやさしい人がいいとも言う。これは難しい。安定した生活を望みたいと言う。それでいて型通りの面白味を欠いた人間は厭だとも言う。これはある意味で矛盾である。男の夢も同じで、私にも覚えがあるが、結婚前に女性への要求は過大になり勝ちである。だから彼女の気持ちも分らないではなく、私の推薦した男は、要するに彼女の夢と幻想のお相手には到底なれなかったというだけのことであろう。彼が悪いわけではない。厳密に考えると、彼が失敗したわけでもない。彼女が勝手に独りで踊っていただけである。そう考えると、私は彼に同情的になった。そしてなぜ彼がもっとうまく立ち回れなかったのかと腹立たしく、私は彼の失敗を内心自分が望んでいたということなど、身勝手にも忘れてしまっていた。

 もうあれから何年経つだろう。このお嬢さんも今では二児の母である。

初出『婦人公論』1987年2月号


  
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2004年11月01日

むかし書いた随筆(二)


 

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***やさしさと弱さ***

 テレビ番組で新婚カップルに、プロポーズの言葉は何でしたか、とアナウンサーが質問すると、たいてい「僕と結婚して欲しい」「僕について来て下さい」の男性主導型の答えが多く、「二人で人生を一緒に歩もう」というような男女間の対等と共同の姿勢を示した答えはめったに聞かれない、これは非常に困ったことだ、とある婦人評論家が、近頃の若いカップルに疑問を呈していた。すなおで従順な女を喜ぶ男の身勝手が、結局女を一本立ちの人間にしないで、駄目にしているのだ、と彼女は言いたいのである。

 しかし私に言わせれば、これはまったく逆に考えることもできるのではないかと思う。

 やはりテレビでよくやる若い男女の番組を見ての感想なのだが、女性はどういう夫を望むかと聞かれると、たいてい「やさしい人」「誠実な方」と答えるようである。私にはどうにもよく分からない答えである。まるで雄々しい男性像を望む若い女性はいないかのごとくに見えるからである。

 よく考えてみれば、男のやさしさなどというのは、なにか事が起こるまでは裏に隠れているのが普通なのであって、いかにも外見上やさしそうにみえる、表面的なやさしさは、人生の危難に出遭えば、たちまち女への残酷さに一変してしまわないとも限らないだろう。

 ただのやさしさ、みかけの誠実さは、人間としてのどうにも救いようのない弱さの表れかもしれないのである。男が女を駄目にしているというのなら、みかけの「やさしさ」「誠実さ」を求めたがる若い女性が、今の男を駄目にしているのだと言えないこともないだろう。男女は相関関係なのに、なんでも男のせいにするのはおかしいし、女性がとかく自分の失敗までをも男のせいにしたがるのは、女性が一本立ちの人間になっていないなによりもの証拠のように思える。

 こういう男女が結婚して、いざ子育てという段階になると、互いに都合のいいことは全部自分のせいにし、具合の悪いことはみな相手のせいにして、そういう調子で何年も経るうちに、妻はただ愚痴だけをこぼし、夫は聞かぬふりをして妻の攻撃をかわすだけの、一種独特な、あの不正直な「家庭」という城が出来あがるのである。

 子供は父親をいっこう尊敬せず、母親をできるだけ利用しようとする、「甘え」を武器としたずるい性格を手に入れるようになるであろう。お父さんがしっかりしてないから子供がこんな風になった、もっと厳しくしつけて下さい、とよく夫を責める妻がいる。しかし父親らしくさせるのは、母親の毎日の態度なのである。

 お父さんの職業や収入をいつもお母さんが口ぎたなくののしっているような家庭であれば、子供もやがていつしか父親を軽んずるようになるだろう。しつけなどできるものではない。

 そういう家庭に限って、親子の断絶だなどと大げさに言いたがる。なにか事件が起こって、急にわが子の気持ちがさっぱり分からんなどと言いだすが、両親は子供にだけ正直であることを要求して、つねひごろ自分の方は子供に対してさほど正直であろうとしなかったことに、まるで気がついていないのである。

 いけないのは、なんでも相手に責任をなすりつける、人間としての弱さである。男にも女にもこの弱さはあるが、母親は子供という愛の対象を得ると、この点救いがたい弱さを暴露しがちである。女はたしかに愛において強く、深いが、自分の愛していないものに対しては不公平になりがちである。男だって愛によって盲目にもなるが、自分の敵をも公平に評価する目は、女よりはいくらかましだと、私はつねづね考えている。


初出(現代「ずいひつ『父親たち』(5)人間としての弱さ」)『ベビーエイジ』1978年9月号
  
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2004年11月04日

むかし書いた随筆(三)




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*** 私は巨人ファン ***

 私は巨人ファンである。そういうと怪訝(けげん)な顔をする人が多い。ことに大学の研究室や講師控室や出版社の編集室などでそう告白すると、呆れたという顔をする人さえなかにはいる。巨人ファンは知識人、教師、編集者の世界では少数派である。肩身が狭いのである。だから、あまり口外しないようにしている。阪神ファンや中日ファンが大学の建物の中で大口を叩いているとき、巨人ファンは鷹揚(おうよう)に構えて、にこにこ笑って、気に掛けていないというような顔をしていなくてはならない。

 巨人が優勝しそうな強いシーズンにはことにそうである。しかし、今シーズンの後半のような、負けがこんできて惨めなときでも、あまり巨人のことは話題にしない方が良い。私の口惜しさを回りの誰も分かち合ってはくれないので、精神衛生上にはなはだ良くないのである。阪神ファンなどは、チームがあんな救いようもない状態でも、ファン同士は結構気脈を通じていて、互いに同情し合い、いちゃいちゃし合っているので、救われている。これに比べ巨人ファンはつねに孤独である。

 巨人ファンの中でも、原のファンだとでも言おうものなら、驚かれるくらいでは済まない。完全に軽蔑されるであろう。幸い私は原の格別な贔屓(ひいき)筋ではない。昨年の日本シリーズで西武に敗れたのは、本塁送球を怠ったクロマティのせいだと思われているし、私もそれを否定しないが、原が打つべきときにきちんと打っていれば、否、三回のチャンスにせめて一回打っていれば、巨人の優勝だった。

 王監督時代を通じ、原と江川に頼って、肝心なところで落とした試合がいかに多かったか。巨人の四番打者は、毎年三冠王が期待されるような本物のスラッガーでなければいけないし、巨人のエースは七、八年で二百勝をクリアーする本格派速球投手でなくてはいけないのである。そういう意味で私は、今の巨人ではなく、王、長島、金田時代の巨人のイメージを守りつづけている懐古派かもしれない。

 しかし、ファン心理というのは不思議なもので、一度なると、取り替えがきかない。よくあちこち浮気するファンがいるが、ああいうのは贋物(にせもの)である。まして、巨人が負けさえすれば嬉しい。あとはどこが勝っても構わないという、いわゆる「アンチ巨人」派という人種がいるが、あれは野球ファンとは言い難い。「アンチ巨人」派はインテリと称する連中に多い。あまり深く考えずに反権力・反政府の方向を何となく「正義」と看做(みな)すあのばからしいインテリ心理と、深層においてつながっているように思える。そして、これが私の身を置く職場や交際社会に、まるでゴキブリのようにごまんといるので、衆寡(しゅうか)敵せず、私はほとんどお手上げである。

 私が巨人ファンになったのは中学生の頃だった。三番青田、四番川上の時代である。川上の赤バット、大下の青バットが子供たちを熱狂させていた時代である。

 私は中学一年のときに“少年ジャイアンツ・クラブ”というファンクラブに入って、写真集などを集めた。ラジオの中継を必死に聴いた。対南海戦で、三対零と負けていた九回裏二死満塁ツースリーで、川上がサヨナラ・ホームランを打った、あのまるで絵に描いたような有名な試合も、私はラジオで聴いていた。そして、興奮して、部屋中を飛び回ったのを覚えている。

 少年の心を燃え立たせた熱い、熱い思い出に、私は一生素直に、忠実でありたいと思っている。インテリぶってわざとお澄まし顔にひねくれてみせるなど、じつに馬鹿げている。そして、原ではなく、川上、長島、王に匹敵する不動の四番打者の出現する日を夢みつづけることにする。


    初出「NEXT」1989年1月号
  
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2004年11月07日

むかし書いた随筆(四)



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*** 子犬の奇跡 ***

 わが家には一歳二ヶ月の雌の柴犬がいる。中学生になった一人息子が犬を飼いたいと言い出したとき、私が一番反対した。世話をするのは必ず私か家内かになる。子供はすぐ飽きる。愛犬家の知人が一日に二時間は飼犬のために割いていると聞いて、忙しいわが身には不可能だと思った。しかし、一度犬を意識すると、不思議なもので、駅前通りのペットショップの前に立ち止まるようになった。立ち止まると、自然に檻の中の子犬が目に入る。私はこましゃくれた犬が好きではない。いかにも犬らしい素朴なのがいい。生後四十日の柴犬の兄妹が組んずほぐれつしているのを目にして、ほとんど衝動的に飼う決心をした。

 しかしそれでも家内はなおためらっていた。小さな座敷犬でないと持ち運びに大変だというのである。わが家では夏になると必ず軽井沢の山荘に行く。車を運転しないわが家の場合、籠に入れて、提げて運べる程度の犬でないと、成犬になってから手に負えなくなるという、いかにも女性らしい実際的な慎重意見だった。

 私は家内をペットショップに連れて行った。檻の中で一番元気のいいのは一匹の雌だった。雄をもしのぐ勢いだった。私は最近の大学に多い、男子学生をしのぐ活撥な女子学生のことを思い出しておかしかった。家内は内懐にその生きのいい雌を抱き上げた。急におどおどと怯えているその小さな生き物の仕草と手触りが彼女からためらいを取り除いた。大きくなったらどうしよう、などと言いながら、彼女は衣服の内側に包むように抱いて、家に持ち帰った。

 子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。

 ミミは最初足許も覚束なく、行動範囲はわずか一平方メートルていどだった。顔が可愛いというのでもない。口許がまっ黒で、不細工である。何という珍妙な顔だろう、狸の子みたいだ、と私は言った。いつか外に出すつもりだったが、季節も寒いので、しばらく室内で飼った。やがて家中を走り回るようになるのに多くの時間を要さなかった。スリッパをくわえて廊下で暴れる。洗濯物置場から下着や靴下を引っぱり出すのには弱った。屑入れ箱は何度叱ってもひっくり返した。階段を昇りたくても、最初昇り方が分からず、恨めしそうに見上げていた。三段ほど昇って、用心している期間がわずか一、二日で、あっという間に最上段まで駆け上がれるようになった。私は犬の成長の早さに驚いた。六ヶ月で初潮を見た。最近は食べ物が良くなったので、昔の犬より早いのです、とペットショップの人が言ったのも、人間世界のことを言っているように聞こえて、おかしかった。

 予想どおり息子は犬の世話をしない。家内にはもとより、私にも相当の負担が掛かってきた。毎日の散歩は私の課題、というより義務になった。運動不足の身には決して悪いことではない。私は勤務のない日には、時間の許す限り、犬と歩く。朝起きると、必ず近所の井草八幡宮の境内から善福寺川沿いの道を約三十分歩く。犬は一回の散歩では満足しない。夕方、もう一回連れ出し、しばしば一時間歩く。

 途中で犬好きの人によく声を掛けられる。まだ子犬の頃は道往く人から可愛いと言い寄られ、私は得意だった。帰ると家内に、また今日も誉められたよ、と報告した。路上で若い女性たちに取り巻かれることもあった。彼女たちはミミの周りに群がって、なでたり、抱き上げたりした。私はもとより悪い気がしない。

 ミミはこうして誕生日を迎え、成犬になった。そして、一つの奇跡が起こった。母犬は十五キロほどの中型犬だが、ミミは一年たっても八キロを超えない。大型の猫とさして変らぬサイズである。一体どうしてこういうことになったのだろう。いかなる遺伝のなせる業であろう。ミミは今でも私の膝の上にのる。柴犬は小型の方が良いのだ、と聞いて、大満悦である。勿論、今夏も山荘には手提げ籠に入れ、汽車に乗せて連れて行く。


  初出 時事通信社『内外情勢』1994年5月号
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追記:

 「子犬の奇跡」の後日談をお伝えします。ミミはいま11歳の老犬で元気ですが、体重が8キロ超えなかったのは3歳まででした。その後妊娠し、3匹の子をもうけてから、ブクブク肥って、遺憾なことにいま13キロもあり、運ぶのは容易ではありません。仔犬はもらわれ先で「モモ」「リリ」「ヤヤ」と名づけられてそれぞれ元気です。


11/8加筆修正  
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2004年11月09日

むかし書いた随筆(五)



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*** ミュンヘンのホテルにて ***

 最近世界の名だたる豪華ホテルの案内書を企画したので、貴方の推薦できるホテルの名前と内容を報せてほしい、というアンケートがある出版社から舞いこんだ。そう言われてみて、私は人に紹介できる豪華ホテルに泊った覚えのないことに気がついた。一流めいたホテルになら泊った覚えもないではないが、名前も忘れてしまったほどどれも印象に残っていない。

 私の好きなホテルは小じんまりした清潔なミニホテルである。ミュンヘンにはよく行く。必ず泊るのが「オペラ座そばのホテル」という名の、裏小路ぞいの目立たぬ宿である。値段が安い。一泊百マルク前後、現在のレートで七千円弱である。安ければ通例、設備が悪い、バスが付いていない、調度が壊れたりしている、中心街から遠く、交通不便である、などの欠点のあるのが普通だ。ところがこのホテルは入口が小さく、地味なのに、内部は一流ホテルに負けない良い設備で、バス付きであり、しかも名の示す通り、バイエルン州立歌劇場横の大通りから一本奥へ入った小路にあり、じつに足の便がいい。

 オペラの前売券を買う時間の余裕がなかったときや、ふらっと今晩オペラでも見ようかと思いついたときなどに、私はAbend Kasse(当夜券前売り場)に並んで、大急ぎで、その夜の切符を手に入れる。それから開演までには大抵一時間くらい間がある。劇場の前の店でコーヒーを飲んで待つしかない。

 ところが、件(くだん)のホテルに泊ったときには、劇場から至近の距離なので、自室に戻って、一風呂浴びて、服装を整えて——ミュンヘンでは今でもオペラには男性が黒衣正装、女性が長衣正装ときまっているー—、おもむろに心の準備をして、出かけることができる。オペラを見る前のこの一寸した気持ちの調節はとても大切である。ことにワーグナーなどは腹ごしらえをしておかないと、途中で空腹になって困ることがある。私はホテルの自室にバナナやクッキーを用意しておく。まずこれを食べ、髭をそる。ワイシャツを新しくする。

 こうして気持ちを整えて、やっと開演十分前に自室を出ても、それで充分に間に合うこのホテルの便利さは、私のミュンヘン滞在にはいつも欠かすことのできない快適さの条件である。

 あるとき、フロントで、前夜舞台に見た巨体のバリトン歌手が、メイドと無駄口をきいているのに出会った。今夜ミラノへ飛んで、明後日はベルリンだと、彼は大きな声で喋っていた。そういえば、フロアで金髪長身のソプラノ歌手に出会ったこともある。ホテルの従業員は、歌手たちにとてもなれなれしい態度で接している。

 そうだったのか、ここはオペラ歌手たちの常宿だったのだな、と私は合点がいった。私にこのホテルを最初に紹介した日本人の友人が、ここは旅なれたドイツ人のいわば“ミュンヘン通”だけが知っている穴場のホテルで、外国人観光客には知られていないが、結構人気が高く、だから予約は早めに手を打つ必要がある、と教えてくれたのを思い出した。

 ドイツ人は無駄な出費を極力惜しむ。安くて、しかも内容がいい、そういう所に人気が集中する。ブランド名で商品を買ったり、見栄(みえ)で豪華ホテルを選んだり、そういうことはたしかに少ない。彼らがイタリアや南スペインへ大挙して出掛けて行くのは、南国の太陽への憧れもあるが、諸物価が安いというのがじつは最大の動機である。しかも、その安い外国に諸物持参で、バンガローで自炊してホテルに泊らない。それがドイツ流儀である。一流のオペラ歌手といえば、高収入で、どんな豪華ホテルに泊っても不思議ではない、と人は思うが、そこがさすがにドイツ人である。

 「オペラ座そばのホテル」はこのように実質本意で、ドイツ人の趣味に適う宿だが、さりとて貧弱なのではない。ホテルと同経営の附属レストランは高級料理店である。ワインも料理も超一流だし、ボーイもお仕着せをつけ、メイドも優雅で美人が多い。私は民族衣裳をつけてサービスする一人の若い娘さんに注目していた。ドイツ女性に例の少ない、溢れんばかりに笑顔をたたえた愛嬌の良さが気に入っていた。北ドイツ女性は概して突慳貪(つっけんどん)だが、南ドイツの女はやっぱりいいな、と心のなごむ思いがしていた。

 一昨年(1992年)春のことである。ドイツは交通ゼネストを経験した。もう何十年としたことのない大規模ストライキである。統一のために旧西ドイツ市民が強いられた金銭的犠牲に対する償いを求めてのストであって、旧東ドイツの各州はこのストに参加していない。ミュンヘン市街はたちまちゴミの山に埋もれた。私はフランクフルトへの旅を諦めた。空港も閉鎖されて、帰国の日程さえも脅かされかけていた。しかしオペラ劇場はなにごともないかのごとく毎晩開かれていた。ホテルの高級料理店も、毎晩客で賑わっていた。民族衣裳の美人の娘さんの笑顔にも、私は夜ごと接することができた。

 激しいストは間もなく終った。私のミュへン滞在も終わりに近づいていた。ホテルのフロントの男と激しかったストのその後の混乱について話を交わした。そして私は、かの娘さんがストの期間中、市外の村から片道三時間もかけた徒歩通勤でホテルに一日も休まずに通ったのだという話を聞かされた。郊外へ抜けるS電(バーン)が止まったからといって、ホテルの活動は止まらない、と男は言った。私は、このホテルの質実さを支えているのは、お客さんの好みだけではない、例えばこの娘さんの健脚であり、けなげさでもある。「なるほど」と、なにかが分かったような気がして、ひとり呟いた。


  初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号
  
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