Subject:平成15年6月12日 /:西尾幹二(B) /H15/06/12 17:23

 一昨日から自分のパソコンでハンドルネームの自由な書きこみを見つけて、読むことができるようになった。今までは管理人Bさんにファクスで、限られたものを任意に送ってもらっていたのである。パソコンで辛うじて文字は打てるが、まだ不自由で、メールもできない。やっと特定の板を読めるようになっただけだ。

 新・正気煥発掲示板で、アル中流・乱暴さんが「日録」の書物化を「ちょっとみっともない感じ」と評し、「抜け目がない」と否定的に語っているのを見て吃驚した。

 インターネットの掲示板にハンドルネームで自分の意見を書き散らしている人が、自分の書いている文章の内容に自信を持っていない。だから他人の書くものも同じように無責任な放言だと思っている。自分たちが書いているインターネットの気侭なお喋りと私の文章が同じだと頭からきめてかかっている。

 私が「日録」でつねに良質な文章を書いていると自負しているわけではない。けれども、私は最初から書物化を前提として「日録」を始めた。私のペン字を打ちつづけて下さった管理人Bさんは良く知っておられる。途中で何度かこれでは一冊の本にならないのではないかと私が迷い、疑い、不安をBさんに告げていた。ことに前半においてそうだった。9月17日の小泉訪朝のあとそんなことを考えなくなった。夢中で毎日の世界と日本のことを追い始め、かえって迷いがなくなった。

 私は物書きのプロである。だから無料で原稿は書かない。それが「日録」を開始する前に私がBさんの誘いにしばらく応じず、迷った理由だった。しかし、一冊の立派な本に仕立ててこれを出版すれば、プロの名誉は保たれる。本にしたいと手を挙げてくれる出版社が必ず出てくるだろう、と確信していた。私はそういう文章を書いてきたつもりだからだ。もし一年間の文章がガラクタなら、本には絶対にならない。編集者の選球眼はそんなに甘くない。私の球はストライクゾーンに入っていたのである。

 勿論、相互に連関のない文章の束であるから、一冊にまとめるに当り、削ったり、補ったり、並べ換えたりして、ある程度の調節を施した。しかしあまりに人為的な手を加えることはしない。毎日のそのときどきの気分や感情が残っているほうがいい。荒削りの薪の束を一本の縄でくくったような無作為のつくり方である。削ったのは、「つくる会」の本部発行の告知文や催しものの案内や他人の本の長すぎる引用などで、自分の文章はたとえ推敲不十分な、未熟なものでもそのまま残した。

 その結果、自分で一読して、私の他の著作よりも、過去一年のそれぞれの時点でのマスコミの空気や国民の総意や私のそれへの批評が記録されていて、今は数多くの考え方がいかに忘れられたかを知り、逆にそこに興味をかき立てられる。ことに「拉致」をめぐる激変の歳月と重なっている。風の吹くままにいかに世の中が揺れ動いたかが分るし、その中で動かないものが何であったかも自ずと明らかになっている。「拉致家族」と「救う会」は動いていないし、それとほぼ同心円をなす「つくる会」と私の言論観察記も動いていない。

 北欧旅行に始まり、草柳大蔵さんの死とみかんの花咲く丘、坂本多加雄さんの死と靖国問題、金完燮さんとの出会いとシンポジウム、朝まで生TV大晦日の出演とイラク戦争、国連安保理の問題、そして不安定になりだした東アジア情勢などがなにかと話題になっている。その中から幾つもの評論が誕生した。雑誌や新聞に発表された公論は、インターネットの中で準備された思考を蒐めてつないだ場合もあるし、公論が先に出されて、インターネットの中に持ち込まれ、再論され、深められた場合もある。従って、今日までの「日録」は次の四冊の本、『日本の根本問題』『壁の中の狂気』の120枚の追加解説、『日韓大討論』、藤岡信勝編『つくる会が問う日本のビジョン』と切っても切り離せない関係にある。

 出版がきまったとき、インターネットで「日録」を読めるのだから本を買う人はいないだろうと心配された。出版と同時に蓄積されたサイトを消去する案もあった。管理人Bさんが抵抗した。しかし出版側は消去の必要は必ずしもないと寛大だった。理由はインターネットの読者と本の読者とは別だという判断からである。その代わりに、インターネットを連想させる文字は本の表紙にも使わないし、本の帯にも、あとがきにも出さないという約束である。出版は出版、インターネットはインターネット——それぞれ別の原理で動いている別個の世界だ、というのが出版サイドの主張だということをお伝えしておきたい。

 私は一冊の本になるのを前提に「日録」を綴ってきたと申し上げた所以である。ハンドルネームでは書いていない。

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Subject:平成15年6月13日    /:西尾幹二(B) /H15/06/14 07:54

 インターネットにおける意見交換とハンドルネームの使用に関する昨日の私の発言に対し、本日までに「日録感想」「勝手支部」「正気煥発」の各掲示板にきわめて大きな反響があったのを本日、自分のパソコンで拝読した。

 ハンドルネームは匿名でも仮名でもなく、強いていえばペンネームに近いもので、責任ある人格表現を伴っているというご主張——無責任な放言であればネット上の仲間のみんなに無視され、淘汰されるから——は勿論成り立たない考えではない。ペンネームに身分証明は必ずしも必要とは私も思わない。イザヤ・ベンダサンがとうとう〈山本七平らしい人物〉ということで最後までわからずじまいで終わったことを思えば、ペンネームとハンドルネームは原理的に同質であると考えることに十分に理がある。

 私はハンドルネームで書かれた文章がすべて無責任な放言になるとは思っていない。掲示板で責任ということをかなり問題にした人がいたが、一般マスコミの署名入りの欄にも無責任きわまりない文章が氾濫していて、文章に責任など期待できない時代である。あまりこの際、社会的な責任意識を問題にする必要はないだろう。インターネットの掲示板は管理されていて、過度に外れた発言は排除されているようだから、外の世界よりも無責任な内容の文章は少ないように思える。

 ただ、私が今までの短い、浅いお付き合いで知ったのは、むしろ逆で、外の世界の冷い風が吹いてこない安全さの危うさである。なんとなく仲間うち、身うちの馴れ合い、分かり合った者同士の肌暖め合うこそぐり合い、仔猫のじゃれ合い、仔犬の噛み合いっこのような生温かいムードが感じられ、むしろそこに、インターネットにおける意見交換の問題性が感じられるのである。

 一口でいうと、発言のひとつひとつはなんの危険にも賭けていない。危険に身をさらしていない。もし「責任」ということを問題にするなら、社会への責任ではなく、自分への責任である。別のことばでいえば、自由の愉しさに満ち溢れているようにお見受けする。

 この点で非常に意味深い分析をしているのは、「正気煥発」掲示板の管理人さんの「インターネットが生み出す新しい世界」である。この方は、これまでに考えられなかった人間関係がインターネットによって切り拓かれたことへのよろこびを訴えている。

 今までの社会生活で得られたのとはまったく違う人間関係の世界がインターネットによって目の前に広がった。それは「言葉だけで自分を表現し、言葉だけから相手を判断してできあがる人間関係」である。

 このことは私のような文章上の自己表現を職業にしている者は毎日実行し、判断し、避けることのできない世界であるが、文章上の自己表現を仕事にしない一般の市民生活者は、インターネットによって初めて革命的な経験をしつつあるといえるのであろう。

 市民生活者は職業上のそれぞれの自己表現の形式をもっている。あらゆる職業は自己表現を伴う。子育て中の主婦も、子育てという自己表現を行っている。けれども、もっぱら言葉によって、言葉のみを手段とした自己表現は他のあらゆるものとは別で、恐らく今はじめて経験する新鮮さがあるのであろう。「正気煥発」の管理人さんは、今まで、読書を通じての受け身の自己表現しか知らなかったが、まったく新しい言語による自由な自己表現のよろこびを知った、と次のように語る。

 「(今までは)自分の心の様子を人前に見せないひとりだけの孤独な世界でした。ところ  がインタ—ネットの出現によって、言葉だけの人間関係が自由自在に展開できるように  なったのです。いわばむき出しの心、素っ裸の心を出し合った人間関係です。」

 人間同士のより自由で、より深い関係へのこの期待は正当であり、ハンドルネームがどうのこうのという次元の問題をこえて、インターネットの交流に生き甲斐を見出している多くの方々の心を捕え、魅了している問題の原点なのではないかと思う。この方の指摘と自己発見の正確さに敬意を表する。

 しかし他方、もうひとつの側面をこの方でさえ見落としていることに私はいま注意を促したいのである。今までの市民生活になかった「言葉だけの人間関係」の自由のよろこびは、たしかに新発見だと思うが、——しかしいつか気がつくと思う——そこにおいても人間は孤独であり、不自由であり、危険と隣り合わせに生きているという事実を片ときも見落としてはなるまい。

 例えば、立居振舞いが立派で、礼儀正しく、仕事もよく出来る人物が言語認識において非常に貧しいというケースがある。この人が政治や歴史に関してきわめて愚かな認識を抱いていることがインターネットの交信で分かったとする。友情や婚約もこわれるかもしれない。知らない方が良かったということになる。

 私は『新しい歴史教科書』の序に、「歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えたかを学ぶことなのである。」と書いた。東大文学部を出たある40代の大学教師がこれを理解することができなかった。私に向かって、この文章では過去の歴史の罪を覆い隠すことになるといって非難してやまなかった。私は「歴史を学ぶのは」と書いたのであって、「道徳を学ぶのは」とも「政治を学ぶのは」とも書いていない。しかしこの区別がわからない。そういう人がいるのである。

 「歴史は裁判であってはならない」というこの単純な事実がよく分かっている若い女性がいたとしたら、上記の男性に対し、百年の恋もさめるであろう。

 言葉による認識とはそういうものである。もしインターネットによって、自らがこうした思想表現にも精を出すようになったとしよう。言葉による自由な自己表現のよろこびを知ったのはいいことだが、それは必ず各自の一般の市民生活、職業生活、家庭生活になんらかの形ではねかえってくる。影響してくる。いい内容だけが影響してくるとは限らない。逆のマイナスの作用も起こり得る。

 一般の市民生活、職業生活、家庭生活をAとし、インターネットの生活をBとして、AはA、BはBと切り離し、はっきり区別できると思ったら間違いである。もしBの言語による自己表現のよろこびが深いものになり、内容の濃いものに発展していくなら、人間を見る目は変わり、社会の別の側面を別の角度から眺めるようになり、複眼を得る代わりに、Aの生活にも今までとは異なる要素が入ってきて、思わぬ利益もあれば、思わぬ不利益もこうむるようになるであろう。

 言葉は危険な刃である。言葉を弄ぶことは劇薬を扱うにも似ている。

 私が拝読するかぎり、現今のインターネットの書きこみによる人間関係の開拓は、そのレベルにまでまだ達していないのではないか。ただ「正気煥発」の管理人さんの仰有るように、そういう方向が意識されていることだけは確かであるように思われる。

 それはなぜか。自分の表現が他人からどう見られるかの危険意識が十分に働いていないからである。

 大学の教員の昇格に、研究業績の数が条件とされることはご承知であろうが、レフェリー(審判)のついた研究誌にのった論文のみが数として計上される取りきめになっている。マスコミのどんなつまらぬ雑誌にも、編集者という関門がある。編集者もレフェリーである。売らんかなのあくどい商法の雑誌でも、ばかにしてはいけない、そいういう雑誌であればあるほど売れない文章は、第一関門で落とされる。

 だれも自由に生きていない。思う存分に書きたいと思っても書けない。文章のプロも欲求不満にのたうって生きている。人間は孤独である。プロもアマもない。

 インターネットの書き込みの、ハンドルネームの書き手たち同士が、自分の知識と思想のすべてをさらけ出し、四つに組んで、論争し合ったことがあるだろうか。えんえんと一年かけてでも論争し合う根気を示した人がいるだろうか。

 生きることは危うい。書くことはもっと危うい。自己表現のよろこびは、人生を豊かにもするが、毒することもある。そこまで考えて書くべきではないか。いや、書くことによろこびを覚え始めた人は、大なり小なりそういう危険地帯にすでに足を踏み入れているのであるが、ただ、そのことにまだ気がついていないだけである。


 尚、上記の反論としての書き込みは歓迎するが、それへの返事は、雑誌〆め切りの都合上、20日より後になることを予めご諒解いただきたい。