Subject:平成15年6月26日     (一)/:西尾幹二(B) /H15/06/27 07:24

 畏友小堀桂一郎君から一週間ほど前葉書で、『日韓大討論』を受け取り、少し読んで「印象の強い一冊と感じた」と寸感が寄せられた。儀礼的挨拶はこれで十分すぎると思っていたが——貰った本の返礼をするほど困難なことはない——今日もう一度葉書があり、「前略『日韓大討論』讀了しました。確かにこれは劃期的な對話にて、しかも全篇、意見の齟齬はあってもいかにも清々しく讀めることに感心しました。韓國語版への彼國内での反響が如何出るか、期待と共に興味津々です。」とあった。ありがたい追記だった。

 私は20日に、連載「江戸のダイナミズム」⑫「本居宣長とニーチェにおける『自然』」を脱稿し、22日午前中にやっと校了をはたし、疲労困憊だった。先月の〆切り日も時間の綱渡りで、明け方4:00まで仕事をして、睡眠薬を嚥んで正午に起き出し、また机に向かうという追いこみの生活が5日くらいつづいたが、今月はさらに手際が悪く一週間もこういう日がつづいた。そして21日にはとうとう昼夜逆転し、午前9:00にねて、午後3:00に朝の眼覚めを迎えるという始末である。この間に大学教養学部時代のクラス会があったが欠席となり、粕谷君に前日電話をして、友人達によろしくとの伝言をたのんだ。

 こんなことをしていたらいつか失調する。分かっているが、今のところ仕方がない。「江戸のダイナミズム」は大きな弧を描いて少しづつ終結部へ向かっている。私の予定は、17〜19世紀における三つの文化圏の古代への遡及、西洋古典文献学と清朝考証学(清末の春秋公羊学を含む)と江戸の儒学・国学における古代憧憬の共通点と相違点を示すことで、三つの世界像における「神」の問題を比較する作業である。宣長の漢意(カラゴコロ)批判と徂徠の朱子学批判(脱孔子)は、キリスト教の「神」を超えて、初期ギリシャ時代の「自然」(physis)へと向かうニーチェやハイデッガーの洞察と相似形をなしている、と見ている。西洋と日本には固定した「神」の観念を打ち壊していく精神の運動があった。しかも日本のほうが100年は早い。中国史にはそれがない。清末まで儒学は動かない。

 余りにも大きなテーマだから、「江戸のダイナミズム」でさしあたり試みているのは、アウトラインを描くだけである。私は自分のやっていることの危険な大胆さを知っている。

 回が進んでも次から次へと新たな疑問が生じ、約束の達成の残り回数もせいぜいあと3回くらいなので、焦っている。容易に安眠できない理由はこれである。で、昼夜逆転した21日にへとへとになっていたら、『逓信協会雑誌』元編集長の池田俊二さんから、『日韓大討論』について便箋3枚の感想文が届いた。大変に正確な読みで、面白い内容だと思ったので、ここに掲げる。

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 新聞廣告も大小織りまぜて何度も出てゐますし、産經抄にも採り上げられたので、賣行き好調なのでせうね。

 私も強い刺戟を受けました。日韓併合につき、先生は否定論、金さんは肯定論ですが、これは得をした方が肯定、損をした方が否定するのは當然ですので、結局意見一致してゐることになるのでせうね。ODAと同じ愚行とは全く同感ですが、金を出す日本の側で、「ばかだよ、この國は」と言ふのと、貰ふ方で、江澤民の如く「評價する」とのたまふのが、正常な感覺、反應で、その反對を言ふのは狂ってゐるのでせうね。「日本の戰後社會も、アメリカ占領軍による破壊がかなり役立った面があります」と「李朝末期の朝鮮はなにもなかったので、徹底的に破壊されればされるほどよかったわけです」も意見一致ですが、「ただ、破壊はプラス面もありますが、別のマイナス面も生みます。たとへばアメリカによる日本の破壊は別のマイナス面も生んでゐます」は當然で、韓國の反日が如何に滅茶苦茶なものでも、我れら日本人がアメリカを憎むのと同じやうな合理的根據、たとへば「併合によって韓國の民族心が心理的に傷つけられた」やうなことは若干あるはずで、それを一切ないとする金さんの所論は少々極端に過ぎるのではないでせうか。「朝鮮は民族を考へずにきた」も同樣で、我れら日本人に比べ、「民族の誇りや神の自由」よりも「生活向上」を上におく性質が強いのは間違ひないにしても、前者を全く考へなかったとするのも言ひすぎではないでせうか。アイデンティティが確かめられないから、「つまり不安だから、大昔までつながってゐると強引に言ひたがるのでせうか」といふ先生の問ひに、あっさりと「その通りです」と答へてゐるのは、90%以上眞理だと思ひますが、「韓國人のアイデンティティはもともとありません」とまで簡單に片づけられるものでせうか。「日本の子どもたちの漢字教育は四萬5千字餘りの康煕辭典に開かれてゐるべき」は、私が福田恆存や先生から學んだ、絶對に譲れない考へ方ですが、金さんは「人類は分業社會ですから、専門家たちが各分野を極めて、新しい簡單な言葉で解説してあげればいいことです」とまるで金田一京助みたいなことを言ってゐますね。その淺薄な文化觀やラングーン事件についての見方などからして、この人は韓國の進歩的文化人ではないかなどと疑ってみましたが、しかし韓國における「反日」が嘗ての日本に於ける「反米」のやうなものだとして且つ後者がマスコミの99%を占めてゐたことを考へると、とてもさうは言へません。1%に屬する人ですね。端倪すべからざる人物だと思ひました。ただし「知的に正直」であることや「論理的で、合理的」なことはよく分かりました。日韓の基本的な違ひを色々と考ヘさせてくれる、異色のエキサイティングな對談ですね。

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 私はたまたま昼夜逆転の翌日曜日は仕事の後の骨休め、少し誰かと話をしたくなっていた処なので、池田さんに電話をした。彼は荻窪、私は西荻窪と隣り町である。このあいだ散歩中に小さな感じのいい焼鳥屋を見つけて、一度行ってみたいと思っていたので、早速に明日どうですかと彼を誘った。


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Subject:平成15年6月26日     (二)/:西尾幹二(B) /H15/06/27 16:26

 「吾作」という焼鳥屋だった。池田さんは最初から焼酎、私はいつものように〆張鶴の吟醸である。

 「韓国の歴史教科書が古代史から一貫して『日本に文化を教えてあげた』のオンパレードで、中国の服属国だったことも正直に書かないで、偽造だらけだったと今度の御対談本でよく分り、教えられました。ですが私にいわせると、日本の教科書も扶桑社版以外は自国の否定面のオンパレードで、偽造だらけなことは同じで、しかも同じインチキなら、自国を善玉にしようとする韓国のほうがよほど正常じゃないでしょうか。」と池田さんは言った。

 「成程、そういう言い方もできますね」と私は答えた。「しかし日本人は謙虚に振舞うのが美徳だと思っていて、韓国の教科書のように、自分を偉ぶって語ることを自ら決してしないし、してはならないと思っている人が多いんですよ。そこまでは正しいし、一つの礼節だと私も思うんですが、日本人の妙なのは、それなら韓国が謙虚に自分を描かないで『日本に文化を教えてあげた』の無恥厚顔のオンパレードを、醜悪とみなし、これを断じて許さない、拒否する、というのであれば話は分るんです。しかしそうじゃあない。日本人が謙虚に振舞うと図に乗って傲慢になる韓国人を内心では不快に思っても、教育や外交の場でしっかりことばに出してその醜悪を言い、是正を求める、という堂々たる態度を欠いているんです。そこに日本人のだらしなさと、勘違いがあるんですよ。」

 「もう一つ面白かったのは『日韓大討論』のまえがきです。金さんはまえがきで年長者の西尾先生にしかるべき敬意を示す挨拶を行っています。これは韓国人の正常さですね。」

 「そういえば、私は最近日本人の私より若い人からこの種の丁寧な対応をされた覚えがありません。今の日本ではややもすると若い方の人が傲慢で、馴れ馴れしく、私の世代の者が若い頃、年長者に対した接し方とは全然違いますね。」

 私は池田さんが面白いところに気がついていると思った。表紙にキムワンソプとルビが振ってあるのを彼は見とがめて、「どうして韓国人には原語の音を使うんでしょう。今では中国人は徐々に日本語よみになっていますよ。これはやっぱり遠慮でしょうか。」

 「朝鮮民主主義人民共和国といちいち言った遠慮と同じたぐいでしょうね。」

 「あれはついに最近言わなくなりましたよ」

 「そうそう。新聞テレビはなぜ今言わなくなったか、あるいはなぜ今まで言ってきたのかの明瞭な理由説明をして欲しいですね。」

 われわれは焼鳥をかじって、チビリチビリやりながら話しつづけた。

 91ページを開いて、池田さんは金さんは少しおかしいのではないかと言い出した。そこにはこう書いてあった。

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西尾

 日本の戦後社会も、アメリカ占領軍による破壊がかなり役立った面があります。
  ・・・中略・・・
 ただ、破壊はプラス面もありますが、別のマイナス面も生みます。たとえばアメリカによるの日本の破壊は別のマイナス面も生んでいます。それは文化が変わったことです。今の日本がダメになった精神面の原因のひとつです。そういう意味では朝鮮も同じではないでしょうか。日本の大衆文化の開放を韓国が恐れているのは同じ理由によるものと思われます。




 そうではないでしょう。日本は文人国家でしたし、李朝末期の朝鮮は中身はなにもなかったんので、徹底的に破壊されるほどよかったわけです。朝鮮総督府の報告を見ると、日本の官僚達も朝鮮社会を支配する儒教を問題視していて、「儒教との戦争をしているのではないか」と言っています。儒教思想を壊さなければ教育ができなかったので、それをなくすためにものすごく努力しました。

 金泳三大統領の決定で、95年にソウルにある日本総督府がこわされてしまいました。東洋最大の建物で芸術的価値も高く、巨額の資金と10年間という歳月をかけてつくったものなのに、それが景福宮を隠しているという理由だけで壊してしまいました。

 朝鮮総督府が景福宮を隠すように建てられた理由を考えてみると、日本人たちは朝鮮王朝から韓国人を隔離しようと、わざと総督府で景福宮が見えなくなるようにつくったのだろうと思います。韓国から過去を断絶させたかったのでしょう。総督府は、王族と人々を断絶させるためにあったわけです。

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 「ここまで言えるでしょうかね」と、池田さんは金発言にある種の不自然さを感じているようだった。

 「僕が韓国の民族主義を守る立場に立ってものを言っているような場面がむしろ何度もあったでしょう。」

 「そうそう。それが変なんですよ。金さんのここの発言——こうあっさり言っていいのかなァ。」

 小堀桂一郎氏が同書を「清々しく読める」と言ってくださったのとは違うなにか不思議なものを私も、池田さんも敏感に感受していたのだった。


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Subject:平成15年6月26日     (三)/:西尾幹二(B) /H15/06/29 07:48
 池田さんとの間で次にアイデンティティという事柄の日韓の相違が話題になった。また、このことばが日本語に訳せない不思議さについても語り合った。

 「西尾先生と金さんは台湾と朝鮮がともに日本と違ってアイデンティティの危機があるという話題を交されましたが、台湾には王朝がかってなく、朝鮮にはあった。とすれば朝鮮にはアイデンティティはあるはずではないですか。それを金さんはしきりにないという。そこが分らない。李氏朝鮮までの歴史は分っているが、それ以前は不明であるという。あそこの話もとても奇異な印象を与えますね。」

 「別の人から聞きましたが、韓国はまだ国民国家になっていないらしい。同姓国家である。個人は国家を尊重せず、自分の属する同族のみを尊重する。儒教朱子学が数百年も前の先祖の起源にこだわる生き方を強いていて、近代国民国家になりきっていない、と。」

 それにしてもアイデンティティというこの舌を噛みそうな用語はどうしても日本語に移せない不思議な運命のことばだと私はかねて考えている。強いて訳せば「自己同一性」だが、IDカードは使えても、「自己同一性」は生活に使えない。

 がんらい日本は古代から自然発生型の国家で、近代になってすでに余りに国民国家であることが自明の理でありすぎて、アイデンティティを意識する必要がまったくなかった。必要がなかったから、ことばも誕生していなかったのであろう。欧米系の言語に「留学」に当ることば、日本人が用いている意味での「国際化」に当ることばも存在しない事情とほぼ釣り合っている。

 そんな話を交し合った後、私はこうも言った。「必要がなく、現実が存在しない処ではことばも生まれない。今の日本でアイデンティティがしきりに言われるのは、国民国家であることに日本人が今になってにわかに不安を覚え始めているからでしょうか。」

 この質問に池田さんの答はなかった。

 「DNA鑑定の結果、人種の純潔の度合は、韓国人のほうが日本人よりも高いという調査結果を読んだことがあります。人種と民族は違うから当然ですよね。日本人は民族的統一性は高いが、われわれの想像以上に人種的多様性に富むのではないでしょうか。」

 「地方ごとに顔つきが違うと思うことがありますよ。東京にいると気がつかないのですが・・・・」と池田さんは応じた。

 「生活習慣、祭り、村の暮し方など昔は本当に地方ごとに違いました。例の東北の『ねぶた』も『かまくら』も今はテレビで全国に知られましたが、昔は神秘的な異風でした。」

 酒の味も今は急速に良質化し、上等になった分だけ、かえって特色を失ったように思う。しかしこれはテレビ時代のせいではなく、戦時と戦後の統制下の一級酒と二級酒の別が撤廃され、同一上昇志向が生じ、競争が単一化した結果ではないかと思う。昔は銘酒の名を聞かなかった栃木や千葉にも、じつに旨い酒が存在するのだ。


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Subject:平成15年6月26日     (四)/:西尾幹二(B) /H15/07/04 14:56

 アイデンティティということばが盛んに使われだしたのは、私の記憶では40年くらい前からである。正確な証明はできないが、第二次大戦後の日本の自己確信の喪失と高度成長による自信の回復と——この二つの相の矛盾と関係があるだろう。しかし一般の生活語としては定着せず、もっぱら評論用語であり、知識人用語である。

 アイデンティティということばの多用が示唆しているほどに、一般の日本人社会はアイデンティティの危機や不安をさして切実に感じていない証拠であろう。もし感じているなら、使い易い生活語になっているはずだし、外国人労働者の導入の必要をきわめて楽観的に唱える人が、90年代初頭につづいて、再びこれほどに増えることは決してないであろう。

 日本人はアジアの孤児だといわれてきた。欧米に顔を向けすぎて、アジアを忘れているという人が少なくない。この半世紀ずっとそんなことを言う人ばかりだった。しかし、中国が強大国として立ち現れるにつれ、中国から寄せられるあらゆる秋波にも拘わらず、日本人は本能的に中国から距離を取ろうとするようになるであろう。そして、そのつど、いかに日本が近代化=西洋化しているか、あるいは日本文明の本来的美質(法治国家であるということ)を顧りみ、いかに日本的近代を達成しているかに思い及ぶだろう。中国型肺炎サーズの事件もそんな自覚を日本人にもたらしたと思う。

 いや、中国の野蛮と非文明がやがて強大な「力」として迫ってくるにつれ、日本は自分のアイデンティティをためらわずに「近代」のうちに求めざるを得なくなるであろう。そして、ポスト・モダンなどという甘ったれたことを誰もいわなくなるだろう。そのときには、アイデンティティということばも、もう誰も使用せず、死語になるであろう。

 しかし、と私はふとこうも思う。達成した「近代」に日本人が照れも恥じらいもなく取り縋らざるを得なくなったときに、じつは「近代の克服」や「脱近代」や「ポスト・モダン」といった言い古されたことばの実践が真に求められるのである、と。

 「ことばの使用と現実の必要とはたいていの場合、つねに逆なのです。」と私は池田さんに言った。「われわれの若い頃、あの戦後の焼跡と闇市の時代に、思想の世界では、ニヒリズムと実存主義が流行でした。けれども、ニヒリズムの正体が露呈し、実存主義が本当に必要なのは、むしろ今のわれわれのこの時代ではないですか。」

 焼鳥と豆腐料理をつつきながら私たちの談論はまだつづいた。お客さんは日曜の夜をたのしむ家族連れもいて、酔漢はいない。「吾作」は住宅街の西荻窪らしい飲み屋だった。
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