Subject:平成14年7月22日
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/18
12:09
北欧から帰って、体力減
退した最初の一週間に、私は
なんという数多くの課題を背負っているのかと、自分でもよく病気しないものとあらためて思う。
『諸君!』の「江戸のダイナミズム」⑨の問題点を解決して返却する間もなく、私は大小三つの文章を相次いで書いた。いづれも旅の前に〆切りが確定していて、覚悟していたのである。
『文藝春秋』に「オヤジ」という題の一ページのコラム(3枚)がある。私の父についての感想を書いてほしいといわれて、他の人の父親像を語った文章が二、三参考例として送られてきた。自分の父については、心の中にある子供時代の思い出以外に、私に書くことはない。『わたしの昭和史』①を知る方には重複になるが、3枚弱という短さにまとめると、また違ったイメージを与えるかもしれない。以下に紹介する。
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運命の逃避行 『文藝春秋』2002・9月号コラム「オヤジ」より
私の父は兵役に行くべき世代なのに、行かないですんだ。強度の近視と若いころ肺結核をわずらった病歴のためだったようだ。これは私の少年時代を特別なものにした。戦争の激化する時代、空襲と疎開の時代を私は父の庇護のもとに育ったからである。
父は仕事で東京に残り、母が私と兄を連れて最初水戸へ疎開した。父はたびたび家族のもとに来た。昭和二十年七月十七日深夜、日立市の工場群が米英戦艦八隻その他による激しい艦砲射撃を受けた。一時間に40センチ砲弾870発が撃ちこまれ、大音響は北関東全域にひびき渡り、東京にも届いた。小学校四年の私はその日腹痛と下痢で発熱していた。ろくな薬もない時代だった。父は私を背負って、家族四人で郊外の農家をめざして逃げた。
大音響が艦砲射撃と分かったのは数日たってからで、普通の空襲とは違う、異様な光と地の底から湧きあがるようなズシーンという音は、東京で空襲馴れしていた父をも戸惑わせた。雨が降っていた。私は父の背にしがみついて、砲弾の恐怖よりも腹痛で気も狂わんばかりだった。父は私が重くて何度も地面に下ろした。負けてなるものか、と私は思った。こうして私の最初の戦争体験、アメリカとの戦いは、何と父の背中の上でなされたのだった。
米地上軍の鹿島灘上陸と水戸市の空襲は時間の問題と思われた。父は新聞の伝える艦砲射撃の射程距離を地図上にコンパスで描いて、家族をその外へ連れ出す決心をした。目的地は茨城鉄道(今は廃線)の終点から那珂川を越えて、野口村という栃木県に近い未知の村だった。父は急いだ。荷物を鉄道輸送するには一ヶ月待たされる状況だった。近村の馬車曳きを口説いたが、明日空襲されるかもしれない水戸市に近づくものはいない。父は東京から運んでいた木製の風呂桶をやるからという約束で、馬車曳きに荷物を託した。いかに物資の乏しい時代かが分かるだろう。一家が鉄道の終点駅に着いてみると、家財道具が駅前広場に野ざらしになっていて、風呂桶と馬車曳きの姿だけがなかった。父はその夜、橋桁の下で寝てもよいとの意志で行動したのだ。水戸市が全焼したのはそれから四日後だった。私共の住んでいた水戸の家には27発の焼夷弾が直撃していた。一家は間一髪難を逃れたのだった。
野口村で我が家は農家の間借りをしたが、役場と小学校のある村の中心部から5キロも離れた山間部の農家を父は選んだ。何故なのだろう。父の存命中に理由を聞いておくべきだったと悔やんでいる。米地上軍が来襲したら役場のある村の中心部が真っ先に狙われると予想していたからではないだろうか。家族を安全な場所に置いて、父は東京に引き返した。八月十五日を家族三人は山奥で、父は東京で迎えた。
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原稿が届いた頃、『文藝春秋』のM氏から電話があり、かなり長い話になった。M氏によると、日本を襲ったのは空からの爆撃、空襲だけだと彼は思っていたのに、艦砲射撃があり、加えて米地上部隊の侵入があり得ると本気で信じられ、警戒されていた事実に驚いたらしい。たしかにあの時代のあの切迫した不安はもう完全に忘れられている。ノルマンディー上陸作戦に比すべき米海兵隊の日本への上陸地点はいろいろに予想されていた。九十九里浜、相模湾、南九州の海岸日向灘が噂されていたが、茨城沖の鹿島灘もそのうちの一つだった。日立の艦砲射撃以来、鹿島灘はがぜん現実味を帯びていた。父の取った措置はそんな空気の中で、家族を守る先手を打つ果敢な行動であった。
私はあの最も苛酷で困難な時代に、両親からこの上なく暖かく、強く守られて育ったのである。
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Subject:平成14年7月23日 (一)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/19
09:12
父の思い出を書けといわれると、57年も前の夏の出来事につい思いが及んでしまう。私の世代の宿命だとは必ずしもいえない。私の宿命にほかならない。
この夏私は三つのプログラムで、あらためてあの戦争と戦後をめぐる新しい問いを、日本の国民世論に訴えることにした。かねて予定していたプログラムがちょうどこの時期に三つ出揃い、私は「まえがき」「あとがき」その他の文章を北欧から帰国後8日めの今日までに、全部書きあげ、関係者にファクスで送った。これは時間的に例のない厳しい条件下に行われた。その三つをまず説明し、関係文書をひとつづつ公開していきたい。
三つのプログラムの問いの内容が共通していることは題目から想定されよう。
(一)『犯したアメリカ 愛した日本——いまなお敗戦後遺症——』
三浦朱門・西尾幹二 KKベストセラーズ8月9日刊
対談本
(二)『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか』
西尾幹二+路の会 徳間書店8月25日刊
二十人の大討論本
討論参加者 西尾幹二 大島陽一 井尻千男 宮崎正弘 高森明勅 遠藤浩一
尾崎護 田中英道 西岡力 片岡鉄哉 小浜逸郎 藤岡信勝
黄文雄 萩野貞樹 小田村四郎 東中野修道 高橋史朗
石井公一郎 小田晋 呉善花
路の会とは何であるか。八年に及ぶ会の歴史も巻末に紹介してある。路の会は徳間書店がスポンサーになっていた勉強会で、上の方々の他にざっと十人いて、地味な討議を毎月一回重ねてきた。「新しい歴史教科書をつくる会」のいわば母胎である。この会の全容は今ようやく世間に明らかにされる。
(三)新しい歴史教科書をつくる会・夏の祭典 第二部シンポジウム
『今、あらためて問う!日本人はなぜ敗戦の打撃から立ち直れないのか』
パネリストは西尾幹二、草柳大蔵(小堀桂一郎)、中西輝政、遠藤浩一、牛村圭。
今ここでは、7月23日までに仕上げられた(一)(二)の本の「まえがき」を紹介することにしよう。(一)の「まえがき」は西尾、「あとがき」は三浦朱門氏である。(二)は両方ともに西尾である。ことに(二)の「あとがき」では、「『路の会』の歴史と未来」と名づけた会のいきさつ説明を行っているが、これは後日機会があればあらためて取り上げたい。ここでは(二)は「まえがき」のみを再録する。
二つの本の「まえがき」を読んでいただければ、ニューヨーク同時多発テロ以来日米関係に関し、先の大戦の性格分析を踏まえた私の考え方と新しい問題意識をあらめて明確に提出している事実をお認めいただけるであろう。勿論、そのあとで二つの本の内容を直に手に取って読んでいただくにまさることはない。
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Subject:平成14年7月23日 (二)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/20
16:53
『犯したアメリカ 愛した日本』
三浦朱門・西尾幹二対談本 KKベストセラーズ刊 まえがき①
アフガニスタンへのアメリカの空爆がまだ盛んなころ、本書の企画が編集部から私たちのところへ持ちこまれた。病院や学校などへの誤爆もあって、アフガニスタンは悲惨な状況であった。アメリカ憎しは高まり、星条旗を焼いたり、ブッシュ大統領の人形を燃やす現地の画像がテレビに流れた。世界中いたるところで起こる見慣れた風景である。その後パレスチナでも、韓国でも、世界各地に似たような反米行動が激発している。
私たちのところへ企画を持ってこられた編集者の佐藤尚宏氏は三十八歳で、まだ若く、戦争も敗戦も知らない。氏によると、半世紀前の日本が受けた惨劇はアフガニスタンやパレスチナの比ではなかったはずだ。全国主要都市を総なめにした空襲や原爆というはるかに悪虐で非道な扱いをアメリカから受けたはずなのに、日本人は戦争が終わったとたんにコロッとすべてを忘れ、水に流してしまった。これはいったい何だろう。自分はつねづねずっと不思議に思ってきた。どうにも理解しかねる。戦争が終わったらあっという間に旧敵国への恨みを忘れてケロッとしている日本人の戦前と戦後の「落差」の大きさの謎を解いてもらえないだろうか、という質問を携えての依頼であった。
私はそのとき次のようにまず言った。日本が足かけ五年にわたって戦った日米戦争は、国民の経済力、技術力、教育、学問、道徳、宗教、その他すべてを挙げて戦った「総力戦」で、これはアメリカの側においても同様であった。近代世界になって「総力戦」を戦って敗れた国は日本とドイツしかない。それ以前にも以後にも例がない。「総力戦」では敗者は国民の末端にいたるまで道徳的責任が問われるが、例えば日露戦争で敗北者のロシア国民の道徳的欠陥が裁かれたという話はきかない。逆に朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの二十世紀後半の戦争は、勝者なき終結であり、どちらか片方が首都を占領し、指導者を処刑し、憲法を変え、教育制度を勝者のつごうに合わせて一新した、というような日本に起こった規模の事例はひとつもない。第二次大戦はその前にも、後にも起こらなかった巨大スケールの近代戦争であり、敗戦であったのだ。私はそう述べ、アフガニスタンやパレスチナの反米運動のごときをこれと比較するのはスケールが違いすぎて無理ではないか、とまず編集者に口頭でご返事した。
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Subject:平成14年7月23日 (三)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/21
23:06
『犯したアメリカ 愛した日本』まえがき②
さらにまたこうも言った。戦争は双方に戦意がなければ決して起こらない。アメリカには対日戦争をしかける長い戦意の歴史があった。しかし自分からは手を出さず、日本に先手を打たせようとした。日本はまんまとその罠に嵌ったといえる。したがって日本人は「自分が仕掛けた戦争だから、原爆まで落とされても仕方がないのだ」とはなから思いこまされてしまった。いつだったか米倉斉加年という俳優がNHKで原爆被災の物語を朗読して、反戦平和の教訓を述べ、日本は自分が仕掛けた戦争だから悪いのは過去の日本と日本の歴史であって、誰をも恨めないのだと語っているのを聞いたことがあるが、これが平均型の一般人が永く強いられ、馴らされてきた考え方であったろう。
しかし私がそう答えても、編集者の佐藤氏はいぜんとして釈然としない顔をしておられる。アメリカへの敵意喪失にはたしかに見かけよりも数多くの複雑な理由がいろいろ絡んでいるように思える。あらためて私はこんなふうにも考えてみた。戦後、経済的にもアメリカ市場に頼らなければやっていけなかった日本経済は、生きていくためにはいきがかりを捨て、たちまち従順にならざるを得なかった。これはいちばん分かり易い理由であろう。しかしもっと直接的な次の理由もある。日本人は空襲と原爆が代表する破壊に打ちのめされたということだ。十七,八世紀以来アジア各国はすでに起ちあがれないほどの侮辱を受けてきたが、日本は明治以来必死に抵抗し、西力東漸の難を免れ、したがって白人文明に自分の高いプライド、自尊心を傷つけられたというだけの理由で、アジア各国のできないような戦争をする気力を保持し得ていた。しかし欧米はそれをもついに許さなかった。唯一の抵抗者である日本を叩き潰さなくては、西から東へ押し寄せた暴力のエネルギーは止まるところを知らなかった。日本が戦後無力となったのは「武」による「侮辱」の帰結である。
否、そうではない。戦後の敵意喪失の理由はもっとはるかに簡単なことだ、とそういう考え方もあるだろう。日本人はもともとアメリカを憎んでなんかいなかった。戦前アメリカ人を自分の眼で見た日本人さえ少なかった。憎悪とか敵意とかいう具体的感情から戦争に起ち上がったのではない。アメリカが真の敵ではなかった。むしろアメリカこそ日本を叩くチャンス到来とばかりに過剰反応したのではないか。日本人は理不尽な経済包囲で追い込まれ、堪忍袋の緒が切れて、浅野内匠頭のように松の廊下の刀傷に及んでしまったにすぎないのではないか。日本人の戦争は抽象的理念的な性格のものであった。本土で地上戦が行われなかったことも、この性格に拍車をかけた。空襲は空から降ってくる巨大な自然災害のようなものだった。国民はあの戦争をまるで暴風雨に耐えるようにして耐えたのではないか・・・・。
などなどいろいろな理由は挙げれば尽きないのであるが、いずれにしてもこれはさらに具体的検証を必要とする問題であるに違いない。私は企画を持ってこられた編集者の提案は実行可能な内容だと考えるにいたった。それにしても私は小学校四年で終戦を迎えた世代で、ろくに戦争を知らない。三浦朱門先生は私より約十歳上である。やや年令の離れた世代の者二人をぶつければ響き合う音色も良くなるだろうと考えた編集者は、人選もなかなか心得たものであると思った。
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Subject:平成14年7月23日 (四)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/22
17:35
『犯したアメリカ 愛した日本』まえがき③
平成十四年四月九日〜十日、私達はホテルグランドヒルに一泊して、十時間近くにわたって討議を交わした。
本書のテーマをもう一度確認するため、編集者佐藤氏が私どもに提起した問いをここに、念のため氏が表現した通りに掲げておく。
「わが国は第二次大戦で、八十万の民間人がアメリカの無差別爆撃・原爆投下、それに地上戦で殺されました。その多くが女、子ども、年寄りなどすなわちいわゆる無辜の民であり、その数からしてももはや『大量殺戮』とさえ言ってもいいでしょう。もちろん当時の日本人は、敵国アメリカに対してこの上ない恨みの感情を持っていたはずです。
しかし、日本の戦後は空気がまるで変わってしまいます。
まさに日本中がアメリカ一色、上から下までアメリカ至上主義になりました。いまではアメリカに当時の恨みをぶつける人なんて聞いたことがありません。これがお隣韓国・朝鮮人でしたら決して同じようにはならないでしょう。これはいったいなぜでしょうか?日本人の精神性の妙?それともGHQの巧みな統治政策? ???」
二人の討論がこの問いに十分に答え得たか否かということは、もちろん読者のご判断に委ねるほかはない。ただこの問いの提出者が意識しておられたに相違ない問題の範囲をはるかに越えた、具体的で珍しい、今までに多分聞いたことのないさまざまな事実やものの考え方が次々と紹介されて、問いに対する答えになっていたかどうかは別として、若い人にはたいへんに興味深く、知らない時代への知見を広めることに役立ったのではないかと考えられる。
しかも、佐藤氏のこの問いの後半における「日本中がアメリカ一色」であることは、現代政治における深刻な現実である。われわれ二人はおそらくこの点への懐疑はじゅうぶんに述べることができたと思うが、適切な処方箋やうまい解決策を唱えることはまったくできなかったのではないかと考える。ただ、討議の最後に三浦先生が出された国家間のディペンデントとインディペンデントの相互関係への説明は、問題への十分な示唆になり得たのではないかと思う。
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Subject:平成14年7月23日 (五)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/23
21:31
『犯したアメリカ 愛した日本』まえがき④
三浦先生と私は丁度ほぼ十歳の差がある。戦前・戦中・戦後を語るにこの差は決定的な差であり、さりとて言葉が通じなくなるほどの致命的な差ではない。微妙な差といっていい。今度、先生と対談させていただいて、気がついた二人の共通点のひとつは、ともに十代の政治を蔽っていた“時代の通念”のようなものに、大声を出さずに、秘かに反抗的であったことだ。十代というのは敏感な年代である。十代で気がついた公的社会のうそ、したがって“公言”を許されない真実の洞察が二人にあり、じっと黙って抱えて生きてきた点で、真実の内容は異なるのだが、私は三浦先生と行を共にしていたという実感をもつに至った。その点で三浦先生の、戦前から戦後、昭和五(一九三〇)年から昭和三十五(一九六〇)年ごろまで日本は完全な「情報鎖国」であったというご指摘は大変重要な歴史判断であり、これから歴史を考えるうえで貴重な参考になる。とかく戦前と戦後との二つで区切る習慣が行われているが、しかし昭和三十五年ごろまでは前時代に属し、盲目的な思想の抑圧が支配していて、十歳もの差がある、私と三浦先生の青春を戦中から戦後への一時代がつつみこんでいるのである。
三浦先生はつねにユーモアを忘れぬ人である。そして謙虚な人である。私のほうが当対談でもついたくさん喋り過ぎて、恥をかいた。亡き母が「口開けて五臓をさらす蛙哉」とむかし私を窘めたことばをつい思い出す。先生が戦時中の中学で軍事教官に大胆に日本の銃の質問をしに行った勇気ある行為を、今まで小説の中で他人の振舞いとして描いていたが、ここでは正直に自分の出来事であったと報告しておきます、という仰有り方に、氏の慎ましい、控え目な、つねに客観的であろうとする作家らしい個性が感じられる。具体的な話の多い三浦先生と、議論の多い私と、ここにも作家と批評家とのコントラストをきわ立たせた一面があるといってよいだろう。
この本ではたくさんの発見があったが、作家三浦朱門が奥様との若き日の出会いのエピソードをつい語ってしまった、というのも滅多に手に入らない貴重な発見といってよいだろう。
なお私の発言部分は、『わたしの昭和史 少年篇』①②(新潮選書)とかなり重なる部分があることをお許しいただきたい。ただし同書はさしあたり十六歳までで中断しているので、それより年上の叙述部分は当然別である。
数多くの認識を新たにしつつ、本対談はともあれ一定の成果をあげて成立した。読者の寛大なるご理解とご評価を期待する思いは切である。
平成十四年七月二十二日
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Subject:平成14年7月23日 (六)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/24
21:03
『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか』
路の会 徳間書店刊 まえがき①
日本が体験した第二次世界大戦、すなわち大東亜戦争(太平洋戦争)は、いまだにくりかえし、時代と文化を考える際の私たちの意識から離れたことはない。大学生や高校生のなかには戦争の有無さえ知らない人が出て来ているそうだが、六〇年も経てばそうなるのも当然だと思う反面、今の日本が置かれている国際環境を考えれば、この亡失はあり得ぬ話である。
日本とアメリカの関係はいま政治、外交、軍事、経済のあらゆる局面の深部に及んでいる。それは対等なパートナーという呼び名から、属国という最悪の蔑称にいたるまで、そのときどきの状況に応じいろいろに変形して使われている。戦勝国と敗戦国との歴史の爪跡がここに影響を与えないはずはない。ことにソ連の脅威がなくなり、日本がアメリカに恩を売れるカードを一枚失って、さらに中国と朝鮮半島がいくら叫んでも日本から言葉の届かない、扱い難い、不可解な「謎の大陸」となって以来、日本は薄氷を踏む思いの歩みを強いられている。
「謎の大陸」とうまく一定の距離を保つためには、日本はアメリカへの依存度をさらに強めなくてはならないのではないか、という思いを抱く人がふえている反面、最近では逆に、アメリカとの依存関係からいっぺんに解放されてしまおうという短気な反米思想も逆巻いている。いずれにせよ、現実の政策はそのどちらでもない中間に落着くとしても、日本がアメリカをコントロールするのに有利な状況には少しもなっていない。アメリカが日本をコントロールするのに、むしろどうしても有利な状況になってきている。中国と朝鮮半島の関係がむかしと違って日本にとり「脅威」として意識されるようになって以来、ますますアメリカは日本をうまく操れる手段を幾つも手に入れたことになろう。またそのことへの日本側の警戒心も、この国の行動を複雑にするだろう。しかも、中国と朝鮮半島との関係はいわゆる「歴史認識」の問題、大東亜戦争の解釈の問題と切り離せない。太平洋を挟んでアメリカと大戦争をした日本としては、対中国、対韓国とだけでなく、対アメリカとの間でも「歴史認識」の問題を回復させ、創造的に解決しなくては、中国や韓国との関係も理性的に清算されないことがやがて認識されるだろう。戦争が終わって六〇年近くにもなれば、もう戦争があったことなど忘れても当然なのだ、というわけにはどうしてもいかない所以である。
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Subject:平成14年7月23日 (七)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/08/26
21:32
『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか』まえがき②
本書は日本とアメリカとの歴史関係に一つの新しい認識を示そうとした試みである。その試みをある挑発的な角度から展開した。すなわち「日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか」という本書のタイトルが示す一角度からである。
先の大戦で八〇万の日本の民間人がアメリカの無差別爆撃。原爆投下で殺害された。「大量殺戮(ジェノサイド)」とさえ言ってもいい。しかし、戦争が終わるとたちまち日本人はこの事実から目を背けた。そして日本中が国をあげて当時もそして今も、アメリカ一色、アメリカに学べ式の一方的思想、たえずアメリカを意識する以上にはいかなる他の国をも意識しない一方的な過剰関心を示しつづけてきたし、今も示しつづけている。これは戦後の特殊な現象である。星条旗を焼き、ブッシュ大統領の人形を燃やしてみせる世界各地の過剰な反米運動とくらべてみても、とても不思議な、謎めいた光景である。最近、保守言論界の一角ににわかに湧き起こった短気でヒステリックな反米感情は、アメリカの一極集中に伴う反発であり、突発的な痙攣みたいなもので、国民全体を蔽っているおおらかで、素朴な親米感情が余りに濃すぎるためのある種の反動でないかとさえ思う。それゆえ、「日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか」という、恐らく深層心理からの解明を必要とする、もっと深い、緻密で、民族の心の奥底に宿る根本的な謎の探求がかえって強く求められる所以である。
本書は信頼し合っている言論人が相集って行われた大討論集である。討論の基盤となった「路の会」については、本書の「『あとがき』にかえて」の副題にある巻末の一文で詳しく述べられる。
本書の最初の三章にはそれぞれリードの部分がある。第一章は西尾幹二、第二章は小田村四郎氏、第三章は高橋史朗氏が担当した。高橋氏は数多くの貴重な基礎文献を提示してくださったので、分割して、その一部は「補足資料」として巻末に収められている。リードを担当した両氏はもとより、準備をして熱心に討議に参加し、加筆修正にも努力を惜しまなかった参加者各位へ、心から感謝の念を申し上げたい。
討論と出席者の関係は次のようになっている。
討議は平成一四年二月二七日に第一回(本書の第一〜二章)、同三月七日に第二回(同第三〜五章)が行われた。出席者は発言順に以下、列記する(*印は第一回のみ参加)。
西尾幹二
(ドイツ思想/電気通信大学名誉教授)
大島陽一 (金融論/帝京大学教授)
井尻千男
(日本文化/拓殖大学教授)
宮崎正弘 (現代中国・国際経済/評論家)
高森明勅
(神道学/国学院大学講師)
遠藤浩一
(現代政治・戦後政治史/拓殖大学客員教授)
尾崎 護* (財政・金融/国民生活金融公庫総裁)
田中英道
(美学・美術史/東北大学教授)
西岡 力* (現代朝鮮地域研究/「現代コリア」編集長)
片岡鉄哉* (日米関係/スタンフォード大学フーバー研究所研究員)
小浜逸郎
(家族論・社会批評/国士舘大学客員教授)
藤岡信勝 (教育学/東京大学教授)
黄 文雄
(中国・韓国・台湾研究/文明史家)
萩野貞樹
(国語学/産能大学教授)
小田村四郎 (法律・行政/拓殖大学総長)
東中野修道 (日本思想史・社会思想史/亜細亜大学教授)
高橋史朗
(教育学・戦後教育史/明星大学教授)
石井公一郎 (企業経営・教育/元ブリジストン・サイクル社長)
小田 晋
(精神医学/宝塚山学院大学教授)
呉 善花 (比較文化論/評論家)