Subject:平成14年7月26日         (三)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/09/15 17:45

 7月22日の段階で、私たちは草柳大蔵先生のご病気は知っていたが、そろそろご
快癒されているころとばかり考えていた。

 6月23日付で私は先生にお手紙をさし上げていた。少しご病気がちのお知らせを
奥様から事務局あてにいただいていたので、お見舞いの手紙であって、8月までには
間があるのでどうかよろしくという内容である。

 7月23日に事務局長は、上記の拙文をファクスで送るとともに連絡かたの電話を
お入れした。奥様が出てこられて、先生は楽しみにしておられたが、シンポジウムの
出席はやはり難しいと、硬い声で仰言られた。「やはりご無理のようですよ」との電
話連絡を私は受けて、友人の小堀桂一郎君にすぐに連絡をした。失礼ながらと申し上
げ、代役をおねがいし、即日快諾していただいた。その段階ではまだなにも知らな
かった。

 会が草柳先生の訃報を知ったのは本日(26日)夕刻、新聞の夕刊を通じてであっ
た。新聞によると、22日午後一時半にはすでに永眠されている。奥様は電話で伏せ
ておられたが、どなたにもそのときはお知らせになっていなかったらしい。

 ご病気ではなく死亡だという事実を私は事務局から電話で伝えられ、「えっ」と一
瞬声にならない声を発した。まさか、という思いだった。シンポジウムを楽しみにし
ておられたと聞いていたので、どうして? とにわかに考えがまとまらない。

 シンポジウムの行方のことはもう小堀君の好意で解決しているから、そういうこと
ではない。人の死はいつも不意打ちである。まさかあの先生が、と思うのはもう数年
はお目にかかっていないので、ご病気中のお姿を知らないからである。いつもスマー
トで、上品で、穏やかで、しかし礼儀に厳しく、健康保持に一家言のある元気だった
お姿しか目に浮かばないのである。

 私は今でもニコニコ笑っている長身の先生のご様子しか思い出すことがどうしても
できない。
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Subject:平成14年7月26日         (四)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/09/16 15:57

 草柳大蔵先生と私とでは年齢だけでなく、関心領域や気質が違いすぎて、交流など
多分なかったであろうと考えている人がきっと多いと思う。ところが必ずしもそうで
はないのである。人間は外からの一見では分らない。

 草柳先生は社交的で、世間智に富んでいて、つねに紳士である。それに反し、私は
狷介で、反世間的で、どちらかというと孤独を好むタイプと思われているであろう。
事実、その通りなのだが、だから互いに交際しないというものでもない。

 先生は礼儀に関する本を書いている。それを贈られて、なぜか私は叱られているよ
うな気がして恥しかった。他人の家を訪ねたときに、応接間にその家の主人が現れる
まで、たとえ家人からどうぞといわれてもソファーに坐ってはいけない、立って待ち
なさい、などといったことが書かれていたように思う。私はとてもダメだと思った。
礼儀作法の類は苦手な人間なのである。

 若い頃、母が私によく言ったものだ。お前をちゃんと躾けたつもりだったが、どう
も困ったことだ、銀行員になったあのA君をみてごらんなさい、あんな風にきちんと
した人間になって欲しかった、などと友人のA君と比較されたりして散々だった。お
昼まで寝ていたり、友だちをつれてきて夜明かしして議論したり、そんな文学部の学
生が母はどうも嫌いらしかった。

 草柳先生に会うと私は母に叱られた頃の自分をつい思い出してしまう。しかし先生
は嫌な顔ひとつされず、寛大で、優しく、それだけで私には救われる思いだった。

 たびたびお目にかかったのは東北テレビの日曜番組で、先生が司会をなさり、各界
の人とのインタビューを試みるトークショウの折である。先生は二週に一回仙台を訪
れ、そのつど二人のゲストを迎えて、二週分を録画してお帰りになるのである。私は
普段会えない珍しい人、例えば女優の山本富士子さんのご主人とゲストとしてご一緒
させてもらったこともある。録画が終わって酒席があり、さらに夜の仙台のナイトク
ラブに案内してもらえるのも楽しみだった。スポンサーは東北電力である。
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Subject:平成14年7月26日         (五)
From:西尾幹二(B)
Date:2002/09/17 21:41

 先生は人を楽しませる談論風発の士であり、おいしい酒、贅沢な料理に目がない。
またそれを遠来の客と享受することをこのうえない快事と心得ておられた。

 仙台に浦霞という有名な酒がある。そこから出ている「禪」という名酒を教えても
らったのも先生からだった。

 最近はこの名も知られてきたが、今から15年ほども前のあの時代にはまだ珍しい
名だった。先生は口に含むと女性の白い玉の肌のような感触のお酒ですよ、と仰有っ
たのを覚えている。こんな言い方をしても少しもいやらしくない。

 「西尾さん、日本料理はなぜ未発達なのかわかりますか」とあるとき尋ねられた。
「?・・・・」「それはね、日本には生の食材が豊富で、手を加えないのが一番おい
しいと思われているからですよ。」「否定的な意味で仰有っているのでしょう。」
「そう。フランス料理はワインとともにグツグツ長い時間かけて煮込むんですよ。だ
から料理としてははるかに発達している。」

 草柳先生はそういえばイタリア料理、フランス料理がお好きで、ワイン通でもあっ
た。そんなことを断片的にいま思い出すと、死去されたことが信じられない。先生は
講演の旅先に運動シューズを携行し、朝、ホテルの回りを歩く。そのときの歩き方や
歩幅についても独自の考えがあり、薀蓄を傾けて語られた。あのときの、立ち上がっ
て実際に歩いてみせたお姿がつい昨日のことのように思い出される。死によってその
人の人生のすべてが終るというのは、一体どういうことなのだろう。

 正月ごとに世田谷の草柳邸にお招きいただくようになった。30人ほどの編集者を
中心とした集まりに入れていただいた。そのときも主にワインだった。一年かけて集
められたヨーロッパの上等なワインの栓が次々に抜かれ、ふるまわれた。ホスト役の
先生はみなに杯が行き渡るかどうかをたえず気にしていた。

 先生は都雅の人だった。聴き上手で、人の気をそらさない方でもあった。私には真
似できない人生の達人でもあった。
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