今月の私の仕事
今月の私の仕事についてご報告させていただく。
「愛国と靖国——追悼・坂本多加雄」(48枚)は『諸君!』新年号に書いたの
で、あと一週間ほどで店頭に出る。最初の10枚は病気報告、次の14枚で告別式と
靖国追悼懇をめぐって問われる日本の政治と言論界の問題、残りの24枚で坂本多加
雄氏の遺した思想と行動の軌跡等について、それぞれ書いた。主に取り上げた著作
は、『日本は自らの来歴を語りうるか』『象徴天皇制度と日本の来歴』『明治国家の
建設』『知識人』『歴史教育を考える』etc.
死んで初めてその人の姿がくっきりと見えてくるとよくいわれる。私は先に死なれ
て、今度あらためて著作を次々と読んで、著作の中に、52歳で業半ばにして逝った
人の激しい息づかい、切ないまでの急いで生きた足取りが感じられる。予想よりも
ずっと大胆な思想家であった。静かな思索家と思われていた彼の、静かで緻密な思索
の奥の、思いもかけぬ飛躍的な独断、思い詰め方、切り込み、そして逆説的な転調!大
量の本を次々と読み、読書中毒のような読み方で、知識を呑みこみ、またそれをあわた
だしく吐き出しているような本もある。例えば『知識人』。哲学と歴史、学問と政
治、認識と行為の矛盾の中に身を置いて、その矛盾を構造的に説き明かした問題作も
ある。例えば『象徴天皇制度と日本の来歴』。
読みながら何度も、彼に電話して、「君、ここでなぜこの言葉を使ったの?」「こ
こについては僕は一寸違うんじゃないかと思うけど」「あの本に少し外れたこんなエ
ピソードが入っていて面白かったよ。」などと話しかけたくなった。生きているうち
に何故もっと本気で読んで、こういう風に問題にしてあげなかったんだろう。生きて
いるうちになぜ彼の思想について彼と討議しなかったのだろう。そんなことばかりを
考え、私は葬儀からずっと今日まできた。
人はなぜ考え、書くのだろう。私自身も分らない。私の書いたものも、誰がどう読
んでくれるのか、分らない。すべてが空しい、といえば勿論いえなくはない。
今日知人と電話していて、次のようにいわれた。経済畑の人で、滝田洋一という方
の『日本経済 不作為の罪』(日本経済新聞社)という今よく売れている新刊の中
に、日米構造協議時代の私の発言を取り上げ、当時このようなことを洞察していた人
は西尾以外にいなかったろう、とたった今読んでびっくりしました、と。私は知らな
いし、私の手近にある種類の本ではない。私は瞬間自らが死者になった後のような感
覚を味わった。こんな洞察をしていた人は亡き西尾幹二氏以外にいなかったろう・・
・・・
平成14年11月24日(二)
From:西尾幹二(Date:2002/11/26
09:13
電話口の知人の言葉を聞いていて、『日本経済 不作為の罪』には私の旧著『日本
の孤独』(PHP刊、1991年)の中の次の文言が取り上げられているのだと思っ
た。まだ確かめてはいない。
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日本の消費者のためになるありがたいことを(米国という)外国の方から言いだし
た、それだからこそ、警戒しなければならないのではないか。いずれは日本が自分で
やらなければならない大事なことを、日本がやる前に外国からやれと指摘された、あ
るいは命令された、それだからこそ唯々諾々と従うのではなく、日本の意志でいった
んは拒否すべきなのではあるまいか。
日本にとってたとえ良いことでも、外国の意志で行えば、それは悪いことにもなる
のではないか。言うまでもなく、自国を裁く基準を外国に委ねることになるからであ
り、自国を不正、外国を正義とする尺度を内外に許容することになるからであり、そ
の結果として、他の外国がこの手に乗じて、同じ圧力による譲歩の形式を日本に期待す
るようにもなるからである。
私に言わせれば、これはほとんど外交上のイロハである。国家意志をそなえた普通
の国家が真っ先に警戒することである。ところが日本では外務省が率先して外交上の
理性に反した行動をする。繰り返し言っておくが、私は米国が悪意で行動していると
は思わない。まだ善意も親切心もある。だからこそ怖いのである。自分の正義とする
尺度を米国が無限に信じようとしている証拠だからである。
(『日本の孤独』96ページ)
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たしかに私は生涯かけてアメリカに対しても、ドイツに対しても、こういうことを
言いつづけてきた。中国や北朝鮮に対してならば、私でなくても、他の人でも今なら
言えるだろう。じつは今月、次のようなことも起こったのである。
月刊誌『正論』12月号巻末の投書欄「編集者へ、編集者から」の402ページ
に、会津若松市の米山高仁さん(医師49歳)から、次のような詰問状が寄せられ
た。
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「新しい歴史教科書をつくる会」に創立以来加わっている者として、『テロ戦争』
に対するわが国の米国への対応について、小林よしのり氏と西尾幹二氏が意見の対立
を深めたことに心を痛めている。
私が、小林氏と西尾氏との討論に触れて最初に感じたのは、明治初年の攘夷と欧風
化の対立と同様であると言うことだった。
絶対的な攘夷思想を抱き、欧風化された鎮台に戦いを挑み、参加者の大多数が自刃
して果てた神風連の乱を少し詳しく調べた私の目には、小林氏の言説は平成の神風連
に見える。
一方、不平等条約改正と我が国の独立自存のために、我が国三千年の国風を変えて
でも欧風化し、国力を蓄えた上で攘夷を果たそうとした大久保利通の深謀遠慮は西尾
氏の言動に重なって見える。大久保の最終目的たる攘夷は、しかし、彼の後継者達に
は十分には理解されず、拝欧主義に堕してしまったことは、森鴎外の短編小説にも著
わされている。
もし、西尾氏とその支持者が、大久保亜流の拝米主義者でないと言うならば、小林
氏が突き付けた、「もし米国が中共の肩を持ち、総理大臣の靖国神社参拝をやめ、新
しい歴史教科書を検定で不合格にすべきだと言い出したらどう対応するのか」と言う
詰問に誠実に答えて欲しい。「仮定の質問に答えられない」程度に想像力がないな
ら、小林氏の創造力に敵うまい。
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先述のとおり、つねづね外国のにがさ、日本の甘さを言いつづけてきた私に対し、
よくこんな気楽な評語を投げつけるものだと思う。米山さんは私の著作内容をほとん
ど何もご存知ないのだろう。通り一辺の知識で、問題をあっさり単純に黒白に分けて
言っているのだろう。
私でなくても、私の今までの普通の読者なら、こんな莫迦々々しい読み違えは決し
てしないし、決して許さないだろう。未知の経済評論の世界の人が10年も前の私の
片言を拾って、きちんと読んでいるかと思えば、「つくる会」創立以来の会員で、思
想的に身近であるべきはずの人がこんな読み方しかできない。世はさまざまである
が、こういう読者ばかりとは思えないものの、私自身は疲労を感じ、無常を覚える。
書くことは他を説得することである。他を説得することは他を征服することであ
る。説得できないのは敗北を意味する。片々たるアジテーションに踊らされるレベル
の読者は説得の価値もなく、放って置いてもいいとは思うものの、今回は『正論』新
年号にて米山高仁さんに反論することにした。
はじめ投書には投書で応じる積もりだったが、18枚ほどにもなり、編集長は6ペー
ジ立ての一本の論文扱いに仕立ててくれた。題して「一投書者にすすめるアメリカへ
の複眼——『反米』も『親米』もないということ——」。ご関心のある向きは、雑誌
が出てからご一読いただきたい。
私は10年前の日米構造協議だけでなく、FSX次期支援戦闘機問題のブッシュ
(父)政権のやり方に今でも腸が煮え返る思いをしている(前述『日本の孤独』参
照)。それで今新刊の前間孝則著『日本はなぜ旅客機をつくれないのか』(草思社)
をせっせと読んで、私の怒りの正当さを確認しているところである。まず足許を固め
ることから始めるべきだ。
話は変わるが、辞書みたいな分厚い本の『日本の論点2003』(文藝春秋)が1
1月初旬に出ている。私の担当テーマは、論点15「日韓の歴史共同研究は可能か」
で、私の寄稿文は題して「日韓共同研究の無益——外交は歴史認識の違いを棚上げに
してこそ成り立つ」であることも、あわせてご報告しておきたい。