7月25日(一)八木秀次氏のこと

 

私が八木秀次さんに最初にお目にかかったのは、平成7年(1995年)の春先か、あるいはもう少し前の頃ではなかったかと思う。伊藤哲夫さんが主催している日本政策研究センターの談話会があり、私は講師をたのまれて、一座の談話を行った。テーマを覚えていないし、何を話したのかも勿論まったく覚えていない。伊藤さんに昔の記録を調べてもらえば、日時とテーマも正確に全部分かるだろうが、まあそれはどうでもいい。

 

車座に囲んだ15人程度の会であったと覚えている。そのときの席にいたまだ若いひとりが八木さんだった。八木さんは鋭い質問をした。質問の内容をこれまたまったく覚えていない。日本国憲法の歪みが革命国家フランス模倣に由来することに関連する話題ではなかったかと思う。私はすでに5年前に「フランス革命観の訂正」(Voice1989年8月号)を書いていた。この論文は後に『国民の歴史』の「西洋の革命より革命的であった明治維新」の章の原型をなしている。

 

けれども私は憲法学に関する知識を持たない。私が漠とした疑問を抱いている憲法学者樋口陽一に対する批判を八木さんが口にした。私は詳しく知りたかった。憲法は素人だが、何でも私は知りたがり屋なのだ。しかも私と考え方が近い人が持っている未知の知識に関する限り、私の知識欲は貪婪であり、見境がない。私は家に帰ってから八木さんに電話をした。基礎から教えて欲しい、と。

 

私と八木さんとの交流が始まったのはこの日からである。彼は私の欲求を知って、樋口陽一の著書や論文のコピーを数多く送ってくれた。さらにまた会って憲法学会の狂った方向について説明してもらった。私と八木さんとは怒りを共にしていることが直覚された。彼のデータや情報の提供は誠意があり、献身的であった。私は深く感謝し、その無私に感動した。

 

ちょうどその頃はオウム真理教の不安や関心が高まっていた時代だった。『諸君!』(平成7年10月号)に、「政教分離とはなにか」を私は書いた。この最後の小節は「憲法モデルをフランスに置く弊害」とあり、樋口陽一の『近代国民国家の憲法構造』への批判が展開されている。この小節での考え方の骨子とデータの提供者は八木さんである。

 

つまり、私より30歳以上も若い彼だが、私は八木さんの師ではなく、八木さんが私の師なのである。

 

彼は当時まだ無名だった。しかしその頃から論文が注目され始め、あっという間に世間に知られるようになった。この数年の彼の成長はめざましい。保守系の憲法学者はこれから特に貴重な存在である。自重し大成してもらいたい。彼の大成に日本の未来がかかっている、とあえて言ってよい。もし彼が挫折するようなことがあれば、日本の憲法つくり直しの道も挫折するのである。

 

今から38年ほど前、私は福田恆存先生のお宅にお教えを乞いによく伺っていた。私がドイツに留学する報告をした日に、先生は「君が帰ってくるころに、仕事がし易くなるようにしておくよ」と謎めいたことを仰言った。日本文化会議の設立が考えられていたのだと思う。左翼一辺倒のマスコミをある程度きれいに清掃しておくよ、というくらいの先生一流のユーモアのこもった決意であったかと思う。

 

私は八木さんに、「君のために仕事がし易くなるようにしておくよ」と断固として言ってあげたい。福田先生がそう言ってくださったが、私の人生において仕事は必ずしもし易くならなかった。左翼一辺倒のマスコミは相変わらずで、千年一日のごとくである。「幻想は切っても切ってもあとから湧いてくる」というのも福田先生のことばだった。私も今同じ心境である。人々はなぜ現実の悪にそのまま耐えられないのか。なぜ悪をむなしい善の見取り図にすり替えたがるほどに弱いのか。欲求不満を自由と錯覚し、不必要な希望を休みなく未来にいだきつづける人々の幻想を、「切っても切ってもあとから湧いてくる」状況の継続に私はほとんどもう疲れた。八木さんが仕事のし易くなる状況をいっぺんに作り出してあげられない私の無力を私は噛みしめ、彼にゴメンナサイと心の中で言っている。

 

今私は彼とある新しいプログラムをスタートさせている。伊藤哲夫さんや中西輝政さんや西岡力さんや志方俊之さんや遠藤浩一さんもそこに加わっている。志は「押し返す保守」である。それくらいまだ不利な状況にある。みんなの力で愚かな「幻想」を根っこから打ち滅ぼしてしまいたい。彼のために仕事のし易い状況を作ってやれないで、私の人生もまた終わるのかもしれない・・・・・そのうち日本も沈没するかもしれない、そんな暗い予想さえ抱く。

 

 

7月25日(二)

 

さて、金完燮氏と私との対談本『日韓大討論』について、『正論』8月号で八木さんが書評をしてくれた。彼も論壇人になったことに私は万感の思いがある。感謝をこめて、掲載したい。

 

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儒教に呪縛された国と「お人好し」の国

 

本書の著者の一人、金完燮氏は前著『親日派のための弁明』(草思社)において、韓国側には市民革命を起こして李王朝の封建体制を打ち倒す力がなく、日本による韓国併合は市民革命の役割を果たしたもので韓国の近代化のために有用であったとの斬新な主張を展開した。同書は日本でこそベストセラーになったが、韓国ではその出版のため、金氏は死刑や無期懲役に相当する外患誘致煽動罪で拘束され、閔妃の後裔から告訴されて死者名誉毀損罪という近代法を全く無視した罪名で約70万円の罰金刑を言い渡されてもいる。

 

このように書けば、金氏の論は韓国でも突飛なものと受け止められているように思われるがそうではない。本書によれば、韓国では10年以上にわたって、経済学者を中心に「植民地近代化論」なる学派が形成され、朝鮮総督府を日帝の弾圧機構ではなく、古い李氏朝鮮を代替した近代的な国家だったとする論文が相次いでいるという。金氏は学者たちが保身のために自分たちだけで通用する難しい学術用語を用いていたのを誰にもわかる言葉で語ったというのだ。

 

このような「植民地近代化論」が韓国で展開されるのは、李氏朝鮮が小中華主義から本場の中国以上に固陋な儒教社会に陥り、近代社会への脱皮が自力では不可能だったとの認識が彼らにあるからである。

 

儒教は生活全般を統制する宗教で、李朝末期には国民の7割にも達した両班階層は仕事もせず、税金も払わず、軍隊にも行かない。長男は12代前まで、ちょっと位の高い家では20代前まで、先祖の命日に祭祀を行う。つまりしょっちゅう法事というわけで他に何もできない。これに限らず韓国社会は儒教にがんじがらめにされていた。この儒教の呪縛を破ったのが日韓併合であり、これが市民革命の役割を果たして近代化に寄与したというのだ。

 

対する西尾幹二氏は、金氏の植民地近代化論を是認しつつも、日韓併合は韓国には福音であったかもしれないが、日本にとってはしないでもよい親切をして痛手をこうむった。南下するロシアに対する安全保障のためだけなら、併合は不必要で、保護国のままにしておき、資金と兵力は南満州に注ぐべきだった。日本側の併合論には韓国を「他者」と見ず、日本と同祖や親類だとする政治的な甘さと心の不用意があった。この底抜けの「お人好しさ」は現在の日本外交の不手際にも通じている。かつての「韓国の日本化」は今や「日本の韓国化」となってブーメランのように還ってき、教科書問題で韓国が日本の内政干渉を堂々とためらいもなく行なって、日本が抵抗できなくなっている要因であると応じている。

 

このように両氏は日韓併合について、これまでの見解を覆す新たな視点を提示する。その他、金氏の韓国人にとって歴史が明らかなのは李氏朝鮮までで、そのためアイデンティティが希薄であり、過剰なナショナリズムはその不安定さに由来するなどの説は興味深い。ただ北朝鮮に関する認識など現代政治に関する同氏の議論は頂けない。