10月6日(一) 「岩国での講演」
10月5日山口県岩国市の水西倶楽部(柏原技術振興財団)で「日本人の自己回復」とい
う題で予定された講演をした。しかし、このところ日本は拉致問題と北朝鮮の一件を
除いて聴衆は関心を示さないとみて、おおよそ以下のような話をした。以下はある雑
誌にたのまれて書いた一文で、講演の内容とはぴったり同じではないが、大略このよ
うな方向の内容の講演であった。
バスの中で刃物を振り回した17才の少年がいた。北朝鮮の行動はこれに似ている。
バスの中で乗り合わせた乗客は遠巻きにして、できるだけ刺激しないようにするか、
誰かが取り押さえて刃物を奪うか、どちらかしかない。今までの長い歳月、日本は遠
巻きにして刺激しないようにしてきた。そのため、拉致事件の不幸を日本国民は見て
見ないふりをするほかなかった。今度はじめて取り押さえて刃物を奪おうという思い
切った方向へ一歩踏みこむことになった。しかし刃物を奪ってくれるのはアメリカで
ある。日本が自分の身の危険を冒してするのではない。他人だのみである。
東北アジアは北朝鮮というバスジャックに襲われた地帯である。17才の少年を押さ
えるにもそれなりの覚悟、そして武具の用意が必要である。憲法ひとつ改正しないで
きた日本のこの無力はすべて自分の逃避のせいである。情勢の変化がなければ、外か
ら機動部隊はバスの中に踏みこんでくれない。情勢の変化をもたらしたのは紛れもな
くアフガニスタンの空爆であった。短時日でアルカイーダを掃蕩した米空軍のハイテ
ク武器の威力をじっと息をこらして見つめていた人々がいた。金正日であり、江沢民
であり、そしてプーチンである。
日本の国内で賛否両論に分かれた小泉首相の訪朝を、直後からいっせいに拍手で迎え
たのは江沢民であり、プーチンであり、そして韓国大統領の金大中であり、国連の事
務総長などであった。注意深く今後の推移を見守りたいと判断を留保しているのがア
メリカである。小泉訪朝はアメリカのイラク攻撃の態勢に水をさした形になった。し
かしこれから始まる米朝協議の地ならしの役に立ったともいえないわけではない。ア
メリカも小泉外交が成功であったか否かは、今後の展開にかかっていると考えてい
る。
(二)
北朝鮮のやったことはまことに埒がない。大韓航空機爆破、アンサン廟爆破、韓国大
統領官邸襲撃、核開発疑惑、生物化学兵器大量保有疑惑、日本列島を越えたテポドン
の発射、ノドンミサイルの配備、麻薬覚醒剤密造密輸、偽札製造密輸、工作船侵入と
工作員潜入、朝銀経由で流れた巨額不正融資、そして北の国内では、何百万人か分か
らないほどの数え切れない大量の餓死者の出現、一方、「喜び組」とかに示される金
一族の享楽三昧な生活——やりたい放題、勝手放題とはまさにこのことを指している
のである。
二十世紀〜二十一世紀の世界にこんな出来事が起こったとはほとんど信じられないほ
どに桁が外れている。周りの国々、ことに日本と韓国はよくも我慢し、許容してきた
ものである。今さらながらわれわれは、問題解決を先送りしてきた自分たちの煮え切
らなかっただらしなさといい加減さに自己嫌悪を覚えている。拉致事件のニュースで
堰を切ったように日本の国内に噴き出した感情は、ただの怒りではない。同胞を見殺
しにしてきた自分への苛立ちもあるが、これほど悪辣なことをされて何もできないで
きた無力感へのやり場のない自分への痛憤である。そしてもう同じことをこれ以上さ
せてはならないという思い詰めた気持ちも、このことから必然的に国内に急速に高
まっている。拉致事件の究明と解決なくしては国交正常化はあり得ないという首相の
宣言を始め、広く同じ国民的声が高まっているのは、その現れである。
しかしよく考えてみると、これは簡単なプログラムではない。犯罪事実の全面的解明
と拉致犯人の処罰とかいうような言い方を政府をはじめ多くの要人が口にするが、そ
れをやれば責任の追及は間違いなく金正日その人に向かわざるを得ない。金体制を倒
し、金正日を国際法廷の場に立たせることができるなら勿論それが一番いい。民主国
家になった北朝鮮への巨額援助なら日本の国民も納得しよう。けれども、現体制のま
まで、拉致事実の解明をするといっても、なにほどのことも出来まい。拉致犯罪は北
朝鮮の国民には片鱗も知らされていないからだ。
じつは、信頼できる韓国人から聞いたが、日本の首相と対座した金正日の挨拶のこと
ばが今回はほんのわずかだが電波に乗った。韓国語には目下の者にぞんざいに言う言
い方があるそうである。「おぉ、お前が日本の首相だな、よく来たな」というような
威張った表現だったらしい。それを通訳が「よくお出で下さいました」と言いかえたの
だった。
北朝鮮の国内向けのことばである。国内の権威さえ守られれば、外国にはどんな無作
法をしても構わない、むしろ少し悪者ぶって空威張りしてみたい——それが金正日の
本音であろう。国際的にもはやそういう虚勢が成り立たなくなっていることを北朝鮮
の国民が知らなければ、すなわち国外のテレビ・ラジオなどの情報が国内で開放され
なければ、あの国は決して新しく動きださない。問題はどうしてもひとつそこにある
ようである。
われわれはいぜんとして動かない冷たい壁を前にしている。世界の情報を流しこん
で、内側からこわれるようにするか、さもなければアメリカの武力で外側からこじあ
けるか、二つに一つしかない処にきている。
もしどちらもせずに、金体制を温存して、日本の資金を投入し、問題を再び先送りす
るような「平和政策」を日韓米の三国がとれば——これを米国は欲せず、日本の一部
と韓国が欲している——、事態は希望もなしにさらにずるずると悪化していくであろ
う。
米国の力を借りたあるていどの力の行使、つまりハイジャックされたバスの中への警
官突入が今度こそは必要である。
志方俊之氏によると、米朝協議でアメリカは、北朝鮮が(1)国境から兵をひくこと、
(2)軍事力を減らし韓国と兵力を均等にすること、(3)その分だけ民生に経済力
を回すこと、(4)核・化学兵器、ミサイル製造をしないための国際査察に全面的に
応じること、(5)南北間に数キロ幅の無人緩衝地帯を設けること、等々を要求する
だろうという。受け入れない場合には軍事力を行使する、と宣言するだろう。この冬
のイラク攻撃が避けられない情勢から、「悪の枢軸」に対する制裁計画は着々と進ん
でいるとみるべきだというのである。私はその際日本側の提案として、韓国や日本か
らの電波の自由化、それを受信できるテレビ・ラジオの大量のプレゼント、北の政府
が受信を妨害しないための情報査察の実施をぜひとも要求項目の中に入れてもらいた
いと思う。
(三)
去る九月二十八日「新しい歴史教科書をつくる会」主催のシンポジウムに、金完燮さ
んが登場した。金さんはベストセラー『親日派のための弁明』を出した直後である。
この本で韓国の反日教育にひそむ歴史偽造を徹底的にあばいて、韓国内部から初めて
真実の声をあげた人である。その人が司会から拉致問題をどう思うかと聞かれて、日
本人社会では予想も出来ないような発言をした。
「複雑な思いです。話にくくてとても困る。北の大飢饉による大量死に日本人は関心
を示しませんでしたね。一年で何万人死ぬという北の状況がある。北の人口はもとも
と二千三百万人ですが、今は千三百万人くらいになっているかもしれない。日本では
八人の日本人の死が大変に大きな話題になっている。この数のくい違いを、私はどう
考えてよいか分からない。ただ当惑している。そう申し上げるしかありません。」
ベルリンの壁の崩壊と冷戦の終結以来、地球上では至る処で、「開かれた社会」と
「閉ざされた社会」とがいきなり無媒介に、予備知識もないままに接触するきわどく
も危ない局面が数多く発生している。西ドイツと東ドイツの統合はその最初の代表例
である。外国人労働者の移動も、難民の発生も、PKO問題も、そしてイスラム世界
と欧米世界の対立、そこから出現した昨年9月11日同時多発テロも、みな同じ性格
をもっている。そして西ドイツやアメリカのように「開かれた社会」のほうが深く大
きな打撃を受けるという点でも、これらの事件は共通している。
韓国では六百人近い拉致疑惑が今度はじめて人の口の端にのぼったが、日本より
ショックが少ない。韓国よりも人権と自由が守られている日本のようなソフトな社会
は、受ける傷も、打撃もはるかに大きいことを物語っている。
それでいて日本人は、自らが無差別テロの標的になってもテロと戦うという気迫はな
い。アメリカ人は犠牲が出ても、やられたらばやり返す。テロに屈服する選択肢はな
い。北朝鮮のあれほどの無法の数々を放置してきた日本人を、アメリカ人は同情する
よりも、むしろ理解できないと考えているだろう。
アメリカからみれば、北朝鮮はマイナーな問題である。イラクもいまやそれほど大き
な課題ではない。アフガン空爆で圧倒的パワーを証明したアメリカの軍事力は、中央
アジアの一角を制し、ロシアの南進路をさえぎり、中国の西側に割って入って、石油
の新しいアクセスを得た。それに対し中国は一方的に不利になった。ファイブスタン
諸国はみなアメリカ寄りになった。中露が結束する今までのようなやり方の効果が薄
れた。中国内の各自治区が今まで以上に目覚めた。日米同盟があらためて強化され
た。アメリカとインドの関係が改善された。その分だけ中国は困る。中国包囲網は
着々と進みつつあるかにみえる。
アメリカはいま中国に標準を合わせている。二・三十年後に中国と全面対決するとき
のために、あらかじめいい陣取りをしておく。在韓米軍は中国に突きつけた刃であ
る。倒壊するのは時間的問題である北朝鮮は、眼中にない。いかに損害少なくこれを
片付けるかにのみ関心があり、すでにその点で中国とも取引をしている可能性があ
る。
台湾総統の不用意な発言があったにも拘わらず、江沢民は軍を抑えて、自ら訪米し、
経済関係の維持に必死である。一説には、北朝鮮は中国から原油の支援を絶たれたと
もいわれる。金正日はロシアに飛んで行って、プーチンにすがった。プーチンは日本
から金を引き出せとヒントを与えた。しかしそれをするには拉致問題にケリをつけ、
日本に詫びを入れなければ駄目だよ、とさとしたのであろう。
ピョンヤンに金正日の長男派と次男派の間で対立ないしクーデターでも発生し、内乱
が起こって、この機をつかんで、国連軍の名においてアメリカ軍が一息に北朝鮮を制
圧するというシナリオも今後決してないではない。そのとき中国が黙って指をくわえ
て見ているであろうか。米中両国による北の分割占領だってひょっとしてあり得るか
もしれない。否、既にその話し合いは結着がついているのかもしれない。
これから何が起こっても、もうわれわれは驚かないようにしていきたい。