10月28日(一) 草柳さんの追悼会

 10月26日(土)6:00東京会館にて「大蔵忌」と名づけられた草柳大蔵さんの
追悼の会があった。葬式はなかったのでこういう会になったのだろう。遺影に献花し
て、別室の立食の席に移った。森繁久弥さんとかいろいろ名士が来ていた。秋山ちえ
子さん、辻井喬さんが挨拶をなさった。主治医による病状の経過報告があった。難病
といわれる肺炎の特殊症例であったらしい。

 私は7月26日付の「日録」を草柳夫人に手紙を添えてお届けし、お花もご仏前に
お送り申し上げ、夫人から丁寧なお便りをいただいていた。草柳先生は歴史教科書運
動に期待していたこと、これから自分はどうやって生きていけばよいのかと考えてい
る、などご文面にあった。追悼の会席で私は夫人に近づいてご挨拶を申し上げた。
「先生のご病床のお姿を見ていないので、お亡くなりになられたことが今でも信じら
れず、想像もつきません」と申したら、「その方がいいのです、元気でいたときの姿
だけどうか覚えていて下さい」と仰有った。同じ日、山本夏彦氏も逝く。氏も「つく
る会」の一番最初の呼びかけ人の一人だった。

 衰滅、という言葉が思い起こされる。私もやがてそうなる。24日軽井沢でスズメ
バチに刺され、救急車で病院に運ばれた。茶色いスリッパをつかんだとき、そこにと
まっていたらしい。痛いと思った瞬間には間に合わない。不可抗力だった。病院で注
射をしてもらった。スズメバチは二度目に刺されたときがこわい。呼吸困難になり、
死ぬことも多い。4日たった今でも私の左手ははれている。夏の軽井沢で蜂のとぶ大
空の下でゆっくり昼寝もできないのか。人生にひとつでも新たな制限のできるのはい
やだ。気が重い。

 草柳さんの追悼の会でたまたま講談社専務の田代さんと会う。田代さんは私の処女
作を出版してくれた、長いお付き合いの方だ。彼は登山家で、私の赤くふくらんだ左
手を見て、心配そうに言った。「二度目がこわいんですよ。じつは自分は少年時代に
頭のてっぺんをスズメバチに刺された。それで山に行く度に素肌を出さぬようにし
て、とても気をつけている。」

 日々の時間の流れの中でじつにいろいろなことが起こる。時はどんどん過ぎてゆ
く。肉体は刻一刻と滅びていく。「人は生きているのではなく、一呼吸一呼吸、死を
先延ばしにしているにすぎない」とはショーペンハウアーの言葉である。

 北朝鮮拉致問題、核開発、チェチェン反乱の劇場の悲惨事件、石井代議士刺殺など
など、この3〜4日間にも事件は相次ぐ。しかし、日本の安全保障と拉致事件の行方
は、29日のクアラルンプールの日朝会談までしばらく小休止である。今後の推移は
北がどう出るかにかかっている。

 新潟県柏崎市に小池広行さんという方がいて、こしひかりの新米を送ってくださっ
たのでお礼の電話をすると、拉致問題解決のための「救う会」運動をずっとやってき
た彼は、蓮池さんご兄弟とは同じ高校の同窓生どうしであるとのことだった。私が
「日録」の話を伝えると、今日彼から次のようなFAXが届いた。

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 昨日はお電話ありがとうございました。早速ホームページを拝見しました。これで
先生とのコミュニケーションが図れそうです。(まだ全部よんでいませんがこれから
感想なんかもアップしたいと思います)

 蓮池透さんは今日から出社しているとのことで何回か電話したのですが不在でし
た。先生のホームページのURLを添付してメールを出しておきました。(透さんも
きっと勇気づけられることでしょう)

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 これで私が蓮池ご兄弟に伝えたかったこと、10月24日付「日録」に述べた、帰国
による5人の被害者の北における条件の変化ということについて、きちんと理解して
いただけるだろうと思う。蓮池透さんは明敏な方だ。私の旧著『全体主義の呪
い』(新潮社)を、小池さんを介して届けたいものだと思う。読んでいただけたら、
なにかお役に立てるのではないかと考える。

私が1992年に、東ドイツ、チェコ、ポーランドで聞き歩いた「後期全体主義」の
現実よりも、北朝鮮の実情はひどい。北朝鮮は単なるスターリニズムという問題だけ
ではなさそうだ。儒教国家、李氏朝鮮以来の根深い問題も抱えている。


10月28日(二)

10月26日、草柳さんの追悼会が終って8:00から新宿で、『親日派のための弁
明』の著者金完燮さんと会食した。金さんは日本に到着した直後で、ソウルからでは
なく、第三国から来た。3週ほど前にソウルの彼の女性秘書から私に電話があり、こ
の日の会談となった。

美少女といってよいようなまだ若い女性秘書を通訳にして話しははずんだ。私はどう
いう背景であの本が出現したかを知りたかった。呉善花さんは親日家になるのに16
年かかっている。『親日派のための弁明』は韓国世論の中から突如現れた一つの偶
然、単なる「突然変異」なのだろうか、それとも、韓国の世論の底流に新しい変化が
生じていて、その中から必然的に現れたのだろうか。もし後者なら第二、第三の金完
燮さんが今後現れる可能性があるということになる。

しかしこの点はどうもはっきりは分からなかった。彼には二人の妹さんがいて、その
妹さんの二人のご夫君を混じえ、『親日派のための弁明』に示されたような新しい認
識が討議され、展開されて、結実したものだという。しかも妹さんお二人のご家族
は、彼も含めて、いま第三国への移民を計画しているというのである。私はなにか狐
につままれたような思いがしないでもなかった。

金さんは今後、韓国と日本と第三国とを往ったり来たりするという。第三国は家も広
くて安い。「コスモポリタンですね」と私が言うと「何処にいても原稿は書ける。」
「日本語を学ぶ気はありますか。」「あります。」「読むためですか、喋るためです
か。」「両方の目的のためです。」とさらりと言ってのけられた。

私は「思想というものは自分の生きる風土や歴史から切り離せないものではないです
か」とよほど口から出かかったが、言わなかった。

ひとつは若さということもあるだろう。何でもやればできるというこの自由な生き方
は羨ましいとも思った。すると金さんはこんなことを仰言った。「日本人は今お金を
持っています。それならなぜもっと外国で暮らそうとしないのですか。日本のお金で
外国で暮らすほうが有利ではありませんか。」

彼から見て日本人には不思議な点がたくさんあるらしい。日本に来て、日本人が韓国
人よりももっとひどい「戦後病」にかかっているのを知ったのが一番大きな驚きで
あったようだ。

しかし外国を知るということはそんなに簡単なことではない。日本に関してあまりに
簡単に結論を出されるのも困る。さりとて、彼のように外から思いもかけない発想
で、なにものにも囚われない自由なことばが日本に向けて無遠慮に発せられるのもま
たわれわれには有益なのである。