10月30日 坂本多加雄氏の死
10月29日8:18に坂本多加雄氏が逝去した。やはり来たか、と思った。じつ
は「日録」には書けないので伏せていたが、私は25日(金)19:00 に彼を大塚
のガン研病棟に見舞った。これが彼を見舞った最初であり、最後であった。一番近い
友人の中島修三弁護士ご夫妻は別として、友人の中で会ったのは私が最後だった。
なぜそんなに友の病床へ行くのが遅れたのか。ひとつには余りにも病気の進行が早
く、もうひとつにはご本人が一貫して病身の自分を人の目にさらすまいとしたからで
ある。今思うと、こんなにも早く悪化するとは彼自身にしてからが信じがたく、つい
9月ごろまで再起可能であると思っていたのではないか。誰でも病醜はみせたくな
い。しかし、10月20日すぎて心境が変わったのかもしれない。23日に西尾に会
いたい、とにわかに中島さんを介して伝言があった。私は軽井沢から帰ったその足で
彼を見舞ったが、そのとき死期を覚悟していたのではないだろうか。
彼はさいごのさいごまで頭脳明晰だった。私に会って、教科書や靖国追悼懇のこと
を話したかったのであろう。29日に伊藤哲夫さんに会いたいと連絡していたらし
い。これは叶わなかった。靖国追悼懇の後事を心配し、伊藤さんを介し、安倍官房副
長官あたりに伝言を託したかったのではないか。しかし29日朝、心臓が止まった。
余りに突然の彼の訃報を新聞で知って、驚いたかたが多かったと思う。「つくる
会」の理事のなかでさえ彼が病気だったことを知らない人がいた。知っていても、ま
さかこんなに死が迫っているとは誰も知らなかった。私自身は、坂本さんが5、6月
に体調不良とは聞いていた。しかし7月13日「つくる会」総会の議長役をこなされ
た。靖国追悼懇はやはり5、6月に熱論が交され、坂本さんは孤軍奮闘だった。靖国
の代替施設は要らない、と正面切って正論を吐いていたのは彼ひとりだったのだ
(『諸君!』10月号拙論参照)。病気がそんなに急速に進行していたとは、夢にも
考えられなかった。
聞けば、昨年10月に大学の集団検診で精密検査を求められ、本年1月まで放置、
そこでガン告知があり、追悼懇参加はたぶんその後であったと思う。何を考えておら
れたのであろう。伊藤哲夫さんは昨日「自分はまったく知らず、追悼懇のことで何度
もお会いし、飲み会にまでひっぱり出していた。嗚呼何たること!と今は思います
よ。」
私は8月に2度電話し、8月10日ごろの最初の電話できわめて落着いた正常な応
答を受けた。8月末にもう一度お電話をしたら、上の空で、そそくさと電話をお切り
になるので変だなぁーと思っていた。
医師から奥様には8月初めごろ、月末までもはやもたないとの宣告があった由であ
る。奥様が親友の中島弁護士夫妻に苦衷を訴えられたのはやっとこの段階である。わ
れわれ友人が知る由もない。9月を通じて苦しみは激化したようだ。自宅療養であ
る。つまり、入院あるいは手術はもう不可能であると判定されていた。夜眠れないと
いう苦悩がつづいたようだ。夜中、半狂乱状態になったと夫人は語る。私が見舞いに
行ったときも「20日間眠れなかったんですよ」と仰言っていた。
10月になってガン研の病棟があいて入院し、医者の力で眠らせる処置がとられ
た。しかしいっさいの「治療」は行われなかった。14日に藤岡信勝氏が知人を介し
て丸山ワクチンを入手し、病床に見舞う。関係者が何人か訪れたが、人に会うのは疲
れるというのでみな遠慮した。いちばん気心がしれている高森明勅さんに会いたい、
というので彼はとんでいった。
山口県の片山雅子さんという方に私が岩国の講演会(10月5日)の折にお会いし、
末期ガンに効能のある民間療法の施術者である片山さんに窮状を訴えた。片山さんは
坂本さんの病床にはるばる山口から二度赴いて下さった。効果は明らかにあり、少し
体力を回復した。私は良かったと思った。「今ガンと闘っているのです。これで何人
もが救われているのです」と彼女は言った。少なくともこれを始めて病気の進行は止
まった、と医者も言った。ただ施療中に悪臭を発する。体内の悪いものを出すからで
ある。28日に病院側は民間療法の継続を禁止した。29日朝亡くなった。
私に会いたいと23日に言ってきたのはなにかの覚悟のしるしであったのかもしれ
ない。私は病床でたいした話がなにもできていない。あぁ、あれも言っておけばよ
かった、と切実に思う。「靖国追悼懇での孤独な闘いはとても立派だった」と私が言
うと、「あゝ、感謝しています」と、例の『諸君!』論文のことを念頭に置いてのご
挨拶だった。私はといえば、問われて、自分の病気中の体験を語ったり、つまらぬム
ダ口で、大切な時間をうかうか過ごした。
彼は一センチでも背を上に起こすことがもう苦しくて出来なかった。鼻に酸素吸入
具をさしていた。胸に重しを乗せられているような苦しさ、ガスがたまり水がたまっ
ているのを抜きたいが抜けない苦しさを訴えた。民間療法も身体を動かさなければな
らないので、つらそうだった。痛みはない。重圧の苦である。私も身に覚えがある。
坂本さんは死と抵抗して何かするくらいなら、このままじっとして、運命に身を任せ
る甘美さにひたっていたかったのかもしれない。人は極限的な苦しみの中では、苦し
みと戦う意志をさえ損なわれ、苦しみを愛することで、苦しみと和解しようとするの
ではないだろうか。
10月31日
10月29日坂本さんの逝去の日の午前中、私は医科歯科大で二本抜歯し、血がなか
なか止まらず、口にガーゼをはさんだまま、御茶の水の中島修三弁護士の事務所に昼
頃に辿り着いた。坂本多加雄さんのご遺体を自宅に運ぶ現場から、中島夫妻が私に相
談があると言って、かけつけてきた。
私は「つくる会」が葬儀を主宰する立場ではない旨の私見を述べ、2〜3ヶ月以内に
思想的精神的同志が相集う「偲ぶ会」をつくる会主宰で行ったらどうだろうか、その
ときには坂本さんを陰に陽にいじめていた学習院大学の同僚や政治学会の学者メン
バーをいっさい招待する必要はないだろう、と語った。坂本さんは学習院大(ここも
左翼学者が多い)の中では浮いている存在だった、と中島さんも言う。「学生が〈先
生はつくる会のメンバーだったんですね、失望しました〉と面と向かって言うような
大学だったらしいですよ。」
私は歯の出血が止まらないまま、時間があいたので、上野の都美術館「狩野探幽展」
を見に行った。しかし寝不足もあり、体調不良で、朝からのストレスもあって心が鎮
まらない。少しうす暗い館内で立って歩くのもつらい。美術館でよく居眠りをするこ
とがあるので、ベンチに坐って目を閉じたが、気が立っていて今日は眠れない。狩野
探幽はとんだ災難だ。江戸初期の幕府おかかえのこの大画家は、城や寺院の襖や屏風
の大画面でよく知られ、体制安住の画家として不評も久しかったが、とてもそんな簡
単にきめつけられる相手ではない。いいな、と思う絵が何枚もある。しかし今日は疲
れていてダメだ。そこへ携帯電話が入って、話し出したら館内の係員に制止させられ
た。
携帯電話は産経の渡辺さんからで、坂本多加雄氏の追悼のコメントの依頼だった。6
:00から「つくる会」の理事会なので、直前に事務所で落ち合って、渡辺さんに口
頭で感想を語った。それが次の内容である。
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学識もあり、洞察力もある優れた知識人だった。あまりにも早く逝った。今思えば、
病気が彼の身体を急速にむしばんでいたのは、靖国神社の代わりの追悼施設を審議す
る懇談会で一人正論を主張していた五月、六月のことではなかっただろうか。
坂本さんはつくる会創設の最初の四人のメンバーの一人で、教科書のかなりの部分を
執筆した。しかし実は、彼の専門の明治維新前後は他の執筆者が書いた。彼の当初の
原稿は批判されたのである。専門家でありすぎるため教科書の記述になじまない、
と。
だが、ここからが坂本さんのすごい所だった。近世や戦後史など自分の専門でない分
野を進んで担当した上、全体の完成度を高めるため献身的で、協力的であった。私は
彼に人間的に負けたと思った。
「一番男らしいのは坂本さんだ」。当時の編集者のこの言葉がすべてを表している。
(産経10月30日)
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10月30日13:30に、高森明勅さんから思いもかけず長文のファクス便りが届
いた。坂本さんの死のショックで、彼も心の中に貯まっていた思いを突然に語りだし
たものらしい。
この文章は私のことを誉めてもいるので、高森さんに電話で承諾は得たものの、公表
するのはあまり正当ではない。しかし教科書執筆の数多くのドラマの、秘せられた最
も重要な事実の一つでもあり、この機会に広く世間に知らせておいた方が良いように
思えるので公表する。自分で一年かけて書いた原稿が犠牲になったのは高森さんも同
様なのである。
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西尾先生
高森
昨日はお疲れさまでございました。本日、産経の坂本先生への追悼の談話を感銘深く
拝読いたしました。
苦心の坂本原稿を大量に没にされた件については、かつて小生が坂本先生に「よくご
辛抱いただけましたねー」と申し上げたことがあります。その時、坂本先生は一言
「大義だよ」とポツリとお答えになりました。その時の印象が坂本先生のことを思う
たびに、最も鮮やかに浮かび上がってまいります。“大義”といういささか時代が
かったセリフを日常の場面でごく平静に口にでき、それが何ら奇異な感じを与えな
かったことに、坂本先生らしさがあったと思います。
但しあの件については、小生にとってもう一つ印象に深かったことがあります。
こんなことを直接西尾先生に申し上げるのは初めてであり、気の引けることでもあり
ますが、何人かの方には既に話してまいったことです。
それは小生の原稿も含めて“没”の決断を下された西尾先生のご判断のみごとさであ
ります。
小生から拝見いたしまして、西尾先生はとても他人の気持ちとか名誉を思いやり、重
んずる方だと考えております。又、人は誰しも身近な人間と穏やかに付き合いたいと
考えているはずです。そのことを思うと、あの時、ただ「よりよい教科書をつくる」
「ご支援下さった方々の期待にこたえられる教科書をつくる」という一点を最優先さ
れ、ご自分が人から悪感情を持たれても、ドロをかぶってもよいとのご覚悟であの処
置をされたことは大変な英断であり、大きな勇気を必要としたに違いありません。そ
こに小生は西尾先生の「無私」を感じました。坂本先生の「男らしさ」と西尾先生の
「無私」のどちらか一つが欠けても『新しい歴史教科書』の素晴らしさは大きく損な
われていたと思います。とりとめもないことを書きました。
以上
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じつは、ご両名の名誉のために言っておくが、ご両名は水準以上の立派な原稿を書い
たのである。ただ余りにも「教科書」にとらわれ、形式的でありすぎた。勿論、これ
をそのまま採用した方が検定は通り易く、採択にももっと抵抗がなかったかもしれな
い。けれども、既存教科書と差異が小さければ、昨夏のような歴史観論争を国内に巻
き起こし、歴史学会に衝撃を与えることはできなかったろう。一万人の会員から何の
ための運動だったかとクレームをつけられても困る。いったんこれを白紙に戻さない
と会員に顔向けができない、と私は思った。その結果のにがい決断だった。ご両名は
どれくらい私に怒りを抱いたことであろう。どれくらい憎んだことであろう。悪いの
は私である。申し訳ない。坂本さんにはとくに申し訳ない思いがする。
合掌。
11月3日(一)
11月2日10:30より、東京文京区護国寺にて、故坂本多加雄氏の告別式が行わ
れた。お通夜は11月1日午後6:00より同じ場所で挙行された。お通夜は約30
0人、告別式には約700人ほどが参列した立派なお葬儀であった。
お通夜には衆議院議員中川昭一氏がお出でになり、お浄めの席にも長時間いて下さっ
て、私もお目にかかった。早い時刻に福田官房長官が車で斎場まで乗りつけ、お焼香
だけそそくさとして帰ったそうだ。坂本さんは官房長官の主催する「追悼・平和のた
めの記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(略称・追悼懇)の委員であった。
祭壇の遺影はなかなかいい。いつ頃の写真だろうか。私も自分のときの写真を考えて
おいたほうがいいな、などとふと頭に浮かぶ。
祭壇の花環の列に恒例の通りの名札が並ぶ。政治関係者、政治家も何人かあり、産経
社長はもとより各出版社の社長名、学習院大学の院長と学長と各学部長と女子学習院
の学長などが主であるが、神社庁や神道政治連盟の名もある。「新しい歴史教科書を
つくる会」の木札も下壇左右の隅につつましく立っている。
葬儀委員長は元中央公論編集長の粕谷一希氏。粕谷氏は60年代の左翼平和主義の嵐
の中で保守思想界を守り育てたという名編集長の伝説のある方で、永井陽之介、高坂
正尭、山崎正和氏らを世に送り出した人だ。私の『ニーチェ』も粕谷氏が『歴史と人
物』の編集長になって、そこで連載されたのが皮切りで、私の恩人でもある。粕谷氏
は退社後、小出版社を経営するかたわら評論家としても活躍している。坂本多加雄さ
んとも勿論ご縁があるようだ。
10:30 読経が始まる。お通夜のときには途中で読経を切って、坂本さんの講演
の録音テープを流した。つくる会歴史文化塾の6月講演(「知識人」をめぐるテー
マ)からの一節だった。本葬ではこれは行われない。本葬の司会は、坂本さんの研究
仲間の、政治学者 御厨貴(みくりやたかし)氏である。
読経が10分ほど進んだところで、司会者から最初に、皇太子殿下が学生時代に坂本
先生に世話になったお礼のお言葉が伝えられている、と報告がなされた。
そのあと弔辞が始まった。1人3分で4人という約束だが、私をふくめ3分を守った
人はいない。3分は原稿用紙3枚と聞いていたが、私は5.5枚ほど書いて行った。
しかし書きことばはそのまま耳で聞いて分かりにくいことが多い。私は読む前にずい
ぶん修正した。例えば「靖国の代替施設」とはいわず、「靖国神社の代わりをなす施
設」と赤字を入れた。「分かりやすさ」——それは私の常の心掛けなのだ。
弔辞は研究者仲間代表として北岡伸一氏、学習院大学代表として法学部教授の坂本孝
次郎氏、三番目が私で「故人がこの数年間参加した新しい歴史教科書運動を代表し
て」というような紹介であった。四番目が門下生代表の杉原志啓氏。
私自身は北岡伸一さん以外は知り合いではない。時計をみていたら北岡さんは7分
だった。私もこれなら少し長くなってもまぁいいや、という気になった。北岡さんは
弔辞の中で、つくる会運動に参入した坂本さんの行動を「畏敬と不安」をもってみつ
めた、と複雑な言い方をした。
司会の御厨さんと北岡さんと坂本さんは東大法学部の三羽鴉といわれたそうだが、坂
本さんが教科書改善運動に参加しようとしたとき、学者仲間は止めさせようとみな猛
然と反対したそうだから、あるいはこのご両名も止めさせようと努力した人々なのか
もしれない。しかし坂本さんは迂闊に運動に手を染めたのではない。平成8年12月
の「つくる会」起ち上げを宣した最初の記者会見があってから、しばらくした頃、
「これは10年戦争だよ」と印象深い決意のことばを語った人がいたが、それは坂本
さんだった。
私の弔辞を以下に掲げる。
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弔辞
坂本多加雄さん、貴方の独特な早口の語りことばの音声が、まだ耳の底に残っていま
す。最後にお目にかかったのはお亡くなりになる四日前で、貴方は病床で身体をもう
起こせなくなっていましたが、最後まで意識がはっきりし、頭脳明晰でした。それだ
けに、ご自身の死への接近、刻一刻と近づく死の跫音を、錯乱もせずに意識されてい
たに相違なく、その意識の消滅の瞬間を、いかばかりの恐怖で意識されたことであり
ましょう。私などに想像もできませんが、迷信めいたことの一切嫌いな潔癖な日本の
知識人らしく、澄んだ知性のままの死の迎え方であったと言ってよいのかもしれませ
ん。
坂本さん、私が貴方の著作を最初に読んだのは八年前、『日本は自らの来歴を語りう
るか』と題した本の新聞書評をしたときでした。この本のあとがきで貴方は、あるア
メリカ婦人と話をしていて、彼女が自分の父はパールハーバーの奇襲によって戦死し
たと語ったとき、一瞬どう返事してよいか戸惑ったという体験を述べておられます。
貴方はアメリカ婦人に単に人間として、個人として挨拶すればそれで済むかと考え、
はたと立停まって、このとき次のように考え直します。「そのようなコスモポリタン
のような態度で通すことは、私には何か軽薄なような気がした。この世に『日本人』
という言葉があり、『アメリカ人』という言葉がある限り、われわれは単なる『個
人』としてではなく、否応なく『国民』として出合う局面がある。」
アメリカ婦人にどう述べたかは書かれていませんが、坂本さんは、過去を単に反省せ
よ、などという浅墓なことを言っているのではありません。つづけて次のようにも言
います。
「ドイツの過去の反省の仕方の徹底性が例として引かれるが、ドイツはナチ支配の1
2年間を徹底的に糾弾することで、いわばそれをドイツ史の例外的逸脱とし、ドイツ
の歴史全体を救済しているのではなかろうか。」
坂本さんはあらゆる人間が自国の歴史を背負っていて、コスモポリタンとか世界人と
かいって逃れられない宿命があると仰有っているのですが、それを単に言葉にしたの
ではなく、行動を通じて表現しました。そこがポイントです。教科書運動もその一つ
ですが、ここでは靖国懇談会のことについて触れておきたいと思います。
坂本さんは病を得てから、靖国神社の代わりの追悼施設が必要か否かを審議する政府
主催の懇談会の委員をお引受けになり、孤独で勇気ある戦いをなさいました。私がそ
れを知ったのはだいぶ経ってからで、懇談会の論議内容がホームページで公開され、
坂本さんがただ一人敢然と正論を吐いているお姿、今思えば痛ましい、しかしそれ自
体は雄々しい足跡を拝読することができたときです。
この懇談会は、関係者に失礼をも顧ずに申し上げれば、国民の眼からみて余りに常識
外れに思える論議内容でした。なにしろ靖国神社にとって代わる新しい施設を作っ
て、そこでは南京虐殺の犠牲者も追悼さるべきではないかとか、北朝鮮工作戦の工作
員も立派な軍人であるなら祀られてしかるべきであるとか、国民の常識を逆なでする
ような論議が平然と展開されていました。とりわけ懇談会全体をとり仕切る立場の人
が、靖国神社は一民間の宗教施設にすぎず、国の宗教施設としては存在していない、
だから靖国神社の性格はいっさい議論しない、存在しないものを議論しようがない、
といったレトリックを弄して、はじめから「靖国は不必要、代わりとなる施設が必
要」ときめつけた論を展開していました。これに対し、坂本さん、貴方は単身敢然と
鋭く反対する論陣を展開なさいましたね。貴方はこう言いました。「国の追悼施設は
今まで存在した、それは靖国神社であって、かつても今も靖国神社である、なにも変
わらない、代わりとなる新しい施設は必要ない」と。
坂本さんのこの認識は特別偏ったものではなく、国民の常識のラインに近いもので
す。靖国の代わりをなす施設を作ろうという考え自体が、中国や韓国の顔色をうかが
う政治的な偏向であって、その場しのぎの、自分の国の歴史への無責任な態度です。
坂本さんは日本人として、日本の歴史の連続性を重んじたごく当たり前のことを述べ
たにすぎません。それが会議の席で、孤独な戦いになるのは、そもそも会議の委員の
選び方に間違いがあり、好んで曲学阿世の徒が選ばれ、坂本さんがひとり苦悩を深め
ざるを得なかったのは、思えば痛ましい限りです。坂本さんがこの会議のストレスで
病を重くしたことは疑いを得ません。
しかし坂本さんは使命感を持っていた人でした。ときに「大義」ということばを語る
人でした。彼が次第に重くなる病を押して守ろうとしたこの国民的常識を、私たちは
何としても大切にし、支えていき、おかしな方向へどんどん崩れていくこの国の崩壊
をくい止めねばなりません。
この国の主権を守っているのは政府でも、外務省でもありません。例えば横田めぐみ
さんのお母さんのような心ある個人なのです。
坂本さんもその一人です。
坂本さん、ありがとう。私たちが衣鉢を継ぎます。
平成14年11月2日
西尾幹二
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4人の弔辞が終って、弔電が披露され、つづいて参列者のお焼香が行われた。12:
00少し前に出棺準備が始まり、葬儀委員長と坂本さんのお父様のご挨拶があった。
11月3日(二)
予想した通り、葬儀委員長の粕谷氏の話は長い。長い話をしたがる人で有名なのであ
る。坂本さんとの因縁、全学連はなやかなりしころの「土曜会」という保守抵抗派学
生団体の思い出などを氏は語った。そういう話には私も静かに耳を傾けていたが、氏
はつい口が滑るというか、長い話をするのが好きな人特有の、多弁の中に本音をチ
ラッと出してしまうというか、思わず妙なことばを口走っていることに私は気がつい
た。
私の弔辞の内容は前述の通りである。会場にはつくる会賛同者だけでなく、神社関係
者も、靖国を尊重する人々も多数つめかけている。大学関係者だけで成り立っている
葬儀ではない。むしろ木の札を出している大学の管理者たちは名札だけ出して必ずし
も参列していなかったのではないかと私は観察している。そういう中で葬儀委員長
は、「最近は時代がにわかに険しくなってきた。憲法改正や靖国問題など、人々が声
を大きくする時代になってきて嘆かわしい。坂本君は言うべきことは言い譲らない人
だが、他方、自分の立場と違う人に対しては寛容で、相手の立場を認める人だった。
それが言論の自由というものを大切にする社会のあり方で、相手を頭から否定してか
かるという風潮は困ったことだ。」
中国や韓国の意向に動かされて、靖国をなくし代替の追悼施設を作ろうというのは一
つの「野蛮な力」なのであって、これに対し「寛容」や「譲歩」があり得るのだろう
か。「頭から否定してかかる」以外にどんな対抗方法があるだろうか。坂本さんはこ
の点で立派だった。一歩も譲らなかった。こういう問題には中間の妥協点はない。靖
国を国の追悼施設として認めるか、認めないかの二つに一つしかない。「寛容」を
もって「譲歩」できる余地はない。相手が「非寛容」な力そのものだからである。北
朝鮮の政権を認めることのできないのと同様である。つまり、私の弔辞の直後に粕谷
葬儀委員長がわざわざこういうことばを述べたのは、何かを含んでのことであろう。
私はすぐそう察知した。単なる厭味なのではなく、私への意図的な面当てではないだ
ろうか。と同時に勘ぐれば、『諸君!』10月号の私の山崎正和否定論が念頭にあっ
てのことであろう。
それにしても、憲法改正や靖国問題などで時代の空気が険しくなって嘆かわしいとい
う言い方はないだろう。やっと問題の入り口に近づいてきて、喜ばしいというべきだ
ろう。粕谷氏は私の恩人ではあるが、今回に限らず、氏の言動をみていてしみじみ思
うのは、日本のかっての保守指導者というのは、単に共産主義者ではなかった、とい
うだけのことなのではなかろうか。日本の未来をどう切り拓くかに構想力がない。
出棺があって落合の火葬場に行って、再び護国寺に戻って、14:30から先取りし
た初七日法要があった。そのときもまた葬儀委員長はひとこと言いたい、と挨拶の言
を述べた。しかし聴いていて私は再び気分が悪くなった。東京の斎場にはなんでも青
山と護国寺と何とかと三つあって、護国寺は二番目に大きく、人が集まらない学者の
葬儀にはつかわない。清水幾太郎さんだって、誰々だってつかわなかった。今日参列
者が多数あるのをみて、坂本君は大家になったんだ、52才で大家だったんだ、学識を
慕ってこれだけの人がくるのはたいしたものだ、と、葬式を講演会かシンポジウムと
間違えるような不謹慎な話題を提供した。
学者の葬儀を多数とりしきってきた元編集長らしい話題といえばいえるし、坂本さん
が大家であったことを認めるのに私も大いに賛成だが、今日の参会者が多数になった
のは、葬儀委員長が必ずしも好意をもっていないつくる会、日本会議、神社本庁など
日本の保守系団体の巾の広い支持層の熱い思いが結集しての結果だということを考え
ると、彼のことばは支持層を軽んじる前のスピーチと重ね合わせるなら、参会者に対
しいささか失礼にならぬであろうか。
中央公論がまだ権威であり東大法学部を金科玉条とした時代の学者・言論人の権威主
義的幻想の亡霊を見ている思いだった。それに比べると坂本さんのお父さまの、葬儀
場での挨拶は胸を打つものであった。
お父さまは訥々たる言葉で、一語一語を区切るようにして語った。つい涙が出るの
で、型通りに短いご挨拶にさせていただきたい、と言いながら、語りだすと、ゆっく
りとした口調で長く語り、半ば涙声になりつつも、いうべきことをきちんと仰言っ
た。つくる会に息子は最初から参加していた。成果があまり出なかったこと(採択の
ことだと思う)に、息子はじつは失望し、たいへんに苦しんでいた。靖国懇について
は、職責をさいごまで果たせなかったことが、彼には残念でならなかったと思う。息
子の病気は思いもかけぬ結末だったが、つくる会支持者のかたがたの彼を救おうとす
る熱い思い、民間療法その他みなで知恵と力を出し合って、何とかしようとして下
さったことご支援には御礼のことばもありません、とさいごはくず折れるような涙声
であった。
老いて唯一人っ子に先立たれ、それも優秀な誇りとなるべき子に先に逝かれたご両親
が、見ていて気の毒でならない。お母様に私は「お淋しくなりますね。」と言った
ら、「えゝ」とひとことポソリとお言葉にしただけで、後は下を向いておられるばか
りだった。