『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(五)

 

 私が「朝日カルチュアーセンター」で講義するという珍しい経験をしたのは、昭和51年(1976年)10月~52年6月の期間だった。

 私のこの時期は、ちょうど40歳代に入ったころで、『ニーチェ』二部作の製作過程にあった。今でこそ各地にあり、珍しくないカルチュアーセンターは、朝日新聞社が初開講して、成人教育――まだ生涯教育ということばは使われていなかったように思う――の新機軸として脚光を浴びていた。私はそこで、もちろん翻訳を用いてだが、『ツァラトゥストラ』を読んで欲しいと依頼された。

 竹山道雄訳(新潮文庫)、手塚富雄訳(中公文庫)、吉沢伝三郎訳(講談社文庫)、氷上英広訳(岩波文庫)という四つの文庫本を用意させ、一回に一、二節ずつ読んだ。原文を使用できないのはまことに不便だった。

 一ヶ月もしないうちに手塚富雄訳だけが残って、他は捨てられた。教室でみんなが他の三つは読んでも意味がわからない、と言ったからである。

 教室に集まったのは20歳代後半から70歳代までの20人くらいだった。私には不思議な印象だった。年齢も職業もまちまちな人々が、特別利益にもならない企てに長期参加する。会は二度延長され、九ヶ月もつづいた。

 職業も学歴もばらばらだった。団体役員、高校教師、私大事務局勤務の女性、教科書会社のOL、紙問屋の若主人、一級建築士、通信機器メーカー技術者、書道家で立っているご婦人、などなどじつに多種多様な顔であった。けれどもみな成熟した大人で、しかもニーチェが好きなだけにどこか世間ずれしていない純粋なところがあり、そしてまたそのおかげでどこか孤独な一面をも宿していた。

 じつは「ツァラトゥストラ私評」の副題をつけた私の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)は、この講義の中から生まれたのである。

 以下にご紹介する大西恒男さんは一級建築士で、そのときの受講生の一人である。今は京都のお寺の修復工事で設計を担当する芸術家のような仕事をしている。参禅の経験も積んでいる。

GHQ焚書図書開封3.4を読了して

朝日カルチャーセンター「ツァラツストラを読む」受講生 建築士 大西恒男

戦後6年もたって生まれたものにとって、親が控えめに話す切れ切れの体験と戦後作成された戦争を扱うくつかのドラマなどによって先の大戦のイメージはかなり限られていました。世界平和が自明の合い言葉になっている現在でもその実自分は何をすればいいのか分かっていません。

テレビで見る戦争を扱うドラマなどで口角泡を飛ばすシーンなどは最初から結論が分かっている創作者の手腕であって、会社での会議のようにもっと言葉が切れ切れであったり、だれかがときには横やりを入れたりして結論が出てくるのが我々の日常だと思います。野球のナイトゲームの観覧のように決してリプレイのない状況に似て、何かに気を取られゲームのいいところを見逃しているうちに周囲の反響により大きなヒットが分かるような迂闊な状況もドラマではない本当の現実には多くあったと思います。

「焚書図書開封3」で引用され・解説されている第1章の「一等兵戦死」から第3章の「空の少年兵と母」までを読了して、戦後に作られた作家の創作ではない戦争ルポルタージュに魅せられました。淡々とした文章の中に暖かい慈愛があり、横に置いていたティッシュの箱を涙と鼻水でしばらくはなせませんでした。戦後の考えでドラマ化された戦争とはずいぶん違うというのが感想です。少しほっとするような人間味を味わうことが出来たからです。

 GHQがこのような本を焚書にした意味合いが全く分かりません。私の父世代の日本兵には節度や人情があったのでは何か都合が悪いのでしょうか。そこまでしなければいけない理由がよく分かりません。・・よくぞここで取り上げてくださったと感謝しております。

 「焚書図書開封4」の国体論はタイトルを見たときにはこの本を最後まで読みきれるかどうか正直に言いますと少し不安でしたが、丁寧な解説があったので無理をせず読了いたしました。日本の長い歴史を生き抜いた宗教としての「皇室」も理解できたように思います。
複眼の視点で捉えられた6・7章 杉本中佐の「大義」もわくわくして読んだものの一つです。西尾先生は戦闘と禅についてつながるものかどうか少し疑問をお持ちですが、江戸城の無血開城に大きな働きのあった山岡鉄舟は剣・禅・書の達人であったようです。生死を超えたところに身と心を据え自己を空じ尽くしたところに活路を開くという意味ではやはり大きなつながりがあったのではないかと思っております。

「ドイツ大使館公邸にて」の反響(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

  ドイツ大使公邸にて 感想文

 西尾先生が日録に連載されていた随筆、「ドイツ大使公邸にて」が完結した。

 この随筆は、大使館での魅力的な会話と、先生の若い頃からのドイツとの触れ合いが交互に展開し、最後にドイツ大使が書かれた三島由紀夫論の紹介と、その感想で閉じられている。

 先生の随筆で来年が日独交流150周年にあたることを知った。私は何一つきちんと勉強したものはないが、若い頃からドイツ・オーストリアの音楽を聴き、少しばかりのドイツ文学を愛読してきた。新婚旅行の行先もドイツ・オーストリアを選び、人気抜群のイタリア、スイス、フランスは訪れなかった。旅程を定めない旅だったのでその街が気に入れば連泊し、次の行き先は宿泊先で地図を拡げて決めるという呑気な旅であった。

 どうしても訪れたかったのは、フュッセンとウィーンだった。フュッセンで、ルートビッヒ二世が建てたノイシュバンシュタイン城をこの目で見たかった。

 フュッセンの地に立ったとき、「ルートビッヒ、貴方は壮大な浪費をしてバイエルンを困らせましたが、100年かけて充分元を取りましたね」、とこころの中でつぶやいた。

 夕食に入ったレストランでは、となりのテーブルで家族連れが食事をとっていた。突然小さな女の子が泣き出して、母親がどんなになだめても一向に泣きやまない。そこで私達が折り鶴を折って女の子に手渡すと、ピタリと泣きやんだ。 「これは飛びますか?」と母親に聞かれ、「飛べないけれど、日本では幸福のシンボルです。」と説明した。作り方を教えて欲しいといわれ、周囲の客も交えて即席の折り紙教室を開いた。

 幸運にもウィーンではウィーンフィルの演奏会を一回と、国立歌劇場のオペラを二回鑑賞することができた。

 オペラの演目は「ボリス・ゴドノフ」と「トロヴァトーレ」で、今でも我が家にはその時持ち帰ったボリスの演奏会ポスターがパネルにして飾ってある。

 もう30年ほど昔、赤坂の東京ドイツ文化センターでドイツオペラのフィルム上映会があった。8㎜と16㎜のフィルムでドイツオペラの名作を上映するという催しで、入場料は一作品500円であった。

 ボツェック・薔薇の騎士・天国と地獄・魔笛・タンホイザー。魔弾の射手、これがその時観た作品である。

 C・クライバー指揮によるバイエルン国立歌劇場の「薔薇の騎士」では、上映終了後満員の観客から盛大な拍手がわき起こった。この作品はそれから15年後、同じ指揮者によるウィーンオペラの来日公演でも観ることができた。カーテンコールの東京文化会館は、ホールの壁が吹き飛ぶのではないかと思えるほどの拍手と歓声に包まれた。帰りにアメ横の居酒屋に入ると、オペラ座のメンバーが先客として飲んでいた。私は彼らに冷や酒をおごった。

 今さらベートーヴェンやカントでもない、という大使館側の教授の言葉は私には少し悲しかった。それは日本が、フジヤマ・ゲイシャによってイメージされることとは違うかも知れないが、ドイツの若者にとっても自国の偉大な文化は過去のものとなってしまったようだ。

 ドイツ人が土偶の造形に現代日本のアニメキャラクターを連想したというのは、驚きであった。土偶の持つカリカチュアは、信仰と切り離せないものだと思う。誇張されたセクシャルな部位には、命を宿すことへの限りない感謝があり、それは豊饒への祈りにも通じるものであろう。縄文の土偶や火炎土器は、最古でありながら前衛的であり、弥生のスマートで均整のとれたものに較べて、一段と新しいイメージがある。

 弥生の均整がバッハであるとするならば、縄文の過剰はワグナーかストラビンスキーに近いように思う。あるいは能と歌舞伎といってもいいかも知れない。とこんな妄想を縄文人が聞いたら、私達がドイツ人の発想に驚いたように、びっくりするだろうか。

 ケルンでは一年おきに世界最大のカメラと写真用品の展示会が開かれる。私はカメラ店に勤務しており、15年程前、運良くこの展示会を見学する機会に恵まれた。ただ、その当時も今も世界のカメラのほとんどは日本が原産国であり、そういった意味ではわざわざ日本からドイツまで「Made in Japan」のカメラを見に行く必要性はまったくないといってよかった。ドイツが小型カメラを発明した聖地であることは揺るがないのだが。

 初日に展示会の見学が終了したところで許しをもらい、私はツアーから離脱した。こうして二度目のドイツと、東欧の短い一人旅をする機会を得た。

 この時は旅程のほとんどを東欧に割き、チェコ、ハンガリー、ルーマニアを駆け足で回った。数年前に冷戦が崩壊し、旧共産圏にも簡単に旅行ができるようになっていた。私はこの時、共産主義の墓参りをするような気分でいた。

 ベルリンの壁が崩れて間もなく、新宿の路上でベルリンの壁の破片が売られていた。何の変哲もない石の混じったコンクリートのかけらで、偽物かも知れないが私はそれを1,000円で買った。今でも書棚に置いてある。

 この時L・バーンスタインがフロイデをフライハイトに替えて演奏したベートーヴェンの9番シンフォニーは、CDやDVDにもなったが、いつかいつかという内に聞き逃してしまった。

 当時テレビ番組で聞いて今でも大変印象に残っている言葉がある。それは旧東独の老婆がインタビューに答えたもので、彼女は「自分が生きている内に壁が壊れるなどということは考えたこともなかった。もうこの先の人生で何が起きようと、私は驚くということはないであろう。」と語った。

 来年の日独交流150周年の催事が、実り多いものになることを願う。私もその内のいくつかに是非足を運びたいと思う。そして西尾先生がおっしゃったように、ドイツが生んだ偉人についてもきちんと紹介されることを祈りたい。職業に関係することでいえば、今から170年前にフランスで発明された写真術は、ドイツで小型カメラが開発されたことで、大衆の手に行き渡った。この時生み出された要素は、基本の部分では現在も変化していない。85年前のデファクトスタンダードが今も通用する珍しい分野ではないかと思う。

 かつてある仏文の教授が、「日本人はドイツを拡大鏡で見ている」、と話されたことがあった。少なくとも私はそうなのかも知れない。それでも、ほんの少しであれ、若い頃からドイツの芸術に親しんだことが、私の人生に大きな彩りを与えてくれたことは間違いない。

   浅野正美

「ドイツ大使館公邸にて」の反響

 「ドイツ大使館公邸にて」と題し六回にわたって書いた拙文は、久し振りにのんびりした随筆スタイルで記したせいか、評判が良かった。あれは面白かったですよ、と声をかけてくれる人が何人もいた。友人たちからもメールの感想文が届いた。ドイツ大使の三島由紀夫論がとりわけ一番関心を持たれた。

 眼のご不自由な足立さんもいつものように音声器で読んでくださっていて、次のような感想を寄せてこられた。

 私が最も興味を持った点は、西尾先生がご指摘されたこと、すなわちドイツ大使が、”ナショナリスト””ナショナリズム”には”敵”としての外国が存在するものであるのに三島由紀夫にはそれがそんざいしていないという指摘でした。

 実は私は2月に二つのグループが別々に拙宅を訪れ、酒と食事をともにして議論したことを思いだしたからです。

 一つのグループは北京時代の部下達でありもう一つはジャカルタ時代の部下達でした。

 その中で、戦後の占領軍の”検閲”や”焚書”について話が及んだ際に、この問題を我国自身の問題であることを放擲して、「アメリカが悪かった。」として今日の状態をアメリカの責任にして終わるならば、そのことは韓国人や中国人が総てを日本の責任にしてしまうことに等しいのではないか、という議論が出てきたことです。

 これは重要なことであり、我国が本当に自立してこれからも予想されるあらゆる困難に立ち向かうためには必要なことであると感じた次第です。

 三島のナショナリズムに特定国を”敵”としていないことはそれ自体日本の”国体”につながることであると私には思えるのです。

    足立誠之

 足立さんのいつものお言葉には感服するのが常だったが、今回は一寸違うのではないかと私は思った。銀行時代のお仲間は反省好きの日本人の典型で、自分を道徳的に清廉に保てば国際社会に生きる上でも支障はない、まず自分の誠実を起点にせよ、と日本社会に自省を求める「あぶない善意の人」ではないかと私は思った。自分を主張できない日本人の弱さの代表例ではないかとさえ思ったが、いかがであろうか。

 アメリカ占領軍の「検閲」や「焚書」は比較を絶した悪であり、ナチスや旧ソ連の一連の外国政策に匹敵するレベルである。また戦後韓国人や中国人が総てを日本の責任にして責め立てる慣例も、やはり世界に例の少ない戦略めいた政治謀略の匂いがある。不正直とか嘘つきとか恥知らずといったモラルの問題では必ずしもないことにわれわれは気がつき出している。

 最近のアメリカや中国の行動は日本をかつて苦しめたルーズベルトと蒋介石が握手した時代の再来を思い起こさせるものがある。日本人の善意や誠実で立ち向かうことは泥沼にはまった戦前の失敗をかえって繰り返すことにならないだろうか。

 同じ坦々塾のメンバーの池田俊二さんの次のコメントに私はむしろ説得されている。

 三島が外なるhostile enemyを見てゐないといふ大使の説が先生の「心に一つの衝撃の波紋を投げた」のはもつともです。私も意表を突かれました。

 たしかに三島はあまりにも内省的、自閉的、自虐的であつたかもしれません。しかし彼に外のenemyが見えてゐなかつたとは思はれません。アメ公、露助、チヤンコロ、鮮公、その他のあらゆる惡意は自明の前提だが、そんなことに言及する暇がないほど、、あらゆる現實を見ようとしない「現代日本の腐敗と空虚」に對する彼の怒りがあまりに強かつたのではないでせうか。

 但し「腐敗」といふやうな高級なものがあるとは、私には思へません。「空虚」もあまりぴったりしません。これまた適切な言葉でないかもしれませんが、一言でいへば日本人の「劣化」の方がいくらか當つてゐるのではないでせうか。

 怒りを忘れた日本人の「劣化」があまりにひどく進行しているので、三島由紀夫は怒りの持って行き場がなく自決したのだという考え方は大筋において当っていると思う。日本民族に向けられた「諫死」である。

 三島には敵がいなかったのではない。敵は自明の前提であった。彼が死んで40年近くになり、敵はようやくはっきりとその姿をわれわれの前に見せ始めているように私には思える。トヨタ問題といい、捕鯨妨害問題といい、中国人流入問題といい、外国の対日心理をめぐる情勢は第二次世界大戦前とそっくり同じになってきている。

 たゞそれに気がつかないのが、池田さんが言う日本人の「劣化」である。その劣化の原因について、彼は福田恆存の言葉を引いて次のようにつづけている。

 

 その原因は、「漱石のうちにはヨーロッパ的な近代精神と日本の封建意識と兩方がせめぎあつてゐて、前者がけつして後者と妥協しなかつたことに大きな苦しみがあつたのです」「兩者がめつたに妥協できぬといふことこそぼくたち日本人の現實なのであります」(福田恆存による角川文庫版「こころ」の解説)と言はれてゐる、その「現實」に妥協どころか、少しも向合はず、全て曖昧に、だらだらと過して來たことではないでせうか。

 先生の、日本と西歐の近代はパラレル、むしろ、多くの點で日本の方が先んじてゐたとの御説には教へられ、共感しました。しかしながら、世界を制霸したのは西歐の近代で、日本のそれではありませんでした。そこに遲れて參加した日本の、向うさまに合はせんが爲の努力は眞に涙ぐましいものでした。ところが、2代目、3代目に至ると、合はせる、合はせないといつた意識すらなくなり、萬事ずるずると來た結果が今の日本のていたらくでせう。その根本を深く憂ひたのが、福田恆存であり西尾幹二である――私はそのやうに考へてをります。

 「自民黨が最大の護憲勢力だ」(三島由紀夫)、「今の自民黨は左翼政黨である。その代議士の大部分は福島瑞穂なみ」(西尾幹二)、どちらも、根本を見失つた、あるいは見ようといふ氣力さへない現状を見事に言ひ當ててゐる
と思ひます。

 世の中には福田恆存の弟子と言いたがる評論家がごまんといて、最近新全集が出てまた増えているので、私をそう呼ばないで欲しいと池田さんにあえてお願いしておくが、それはともかくここで言う「劣化」、現実と向き合わずに全て曖昧に万事ずるずるときた日本人のていたらくの正体について、最近『正論』4月号で、私は多少とも新しい分析をほどこした。45-46ページにかけての「日本の保守とは何であったか」について語った部分である。興味のある向き注意を払ってほしい。

 三島の1970年のクーデターに「敵」がいなかったという例のテーマをめぐって、平田文昭さんがさらに一歩踏み込んだ展開を示唆して下さった。

 ドイツ大使公邸にて六 の簡単な感想です。

三島は、自民党以上に昭和天皇こをそ最大の護憲勢力、と考えていたでしょう。
彼はクーデターの成功を考えたでしょうか。
成功するということは、昭和天皇が認めるということです。
それが可能と彼は考えたでしょうか。
もし三島に、絶望のかなたの「夢」がもしありうるとしたら、
自衛隊の決起以上に、天皇が認めることが、それなのではないか、とさえ思えます。
こういうことを世の三島論はいいませんね。

先生の『三島由紀夫の死と私』をまた読み返しました。

 三島が死によって覚醒を求めた相手は自衛隊でもなければ自民党でもなく、むしろ昭和天皇であったのではないかという大胆な見方である。『英霊の聲』をみればそのことは明らかだが、たしかに誰も触れようとしない。そしてそのことは日本人が万事だらだらと曖昧に生きているうちに少しづつ予想もしなかった不気味なかたちになって国民の前に姿を現わしつつある。GHQの蒔いた種子(皇統を断絶させようとする)が大きく育って皇室をゆさぶっている不安については、ついにテレビでさえ公然と語られるようになった(3月7日テレビ朝日のサンデープロジェクト)。

 加えて亀井静香金融大臣が「天皇は京都にお住いになったら」と言い出した。平田さんは先の文につづけてこんなことも言っている。

このところ、皇室の京都還幸論が言われだしています。
発信源はおそらく佐藤優です。
佐藤優が最初というのではなく、彼が影響力をもつ議論を展開した、
或いは、
佐藤優という伝道者を得ることで、この論が影響力を持ち出した、
という構図とみています。
これは偶然か企図されたものかはわかりませんが、
(私は国際的な状況の反映の可能性は捨てきれません)
妙な政治状況があって、これがこの論に幸いしています。
この論をなすものは、みな南朝派です。これも興味深いところです。
このところ、私のなかでは
南朝擁護論、皇室の京都還幸論、唯祭祀主義ともいうべき考えかた
への疑義がどんどん大きくなっています。
これらの思想との対決は、日本の歴史の過去にも、形を変えて
(という意味は南北朝以前からということですが)
ずっと続いてきたようにも考えております。

 私は必ずしもよく分らない内容にまで筆が及んでいるので、いつかもっと明確に書いてもらいたいが、われわれは『保守の怒り』においてすでにこのテーマを取り上げている。天皇を文化の象徴化に限定する幸福実現党の京都遷都論への批判を私もあの本で語っているが、佐藤優氏には言及していない。

 平田さんは最後に次のように書いている。

ウルトラナショナリズムが、きわめて極端な種類のナショナリズムというのは
考えさせる指摘でした。
ナショナリズムというと、どちらかと言えば、ナチズムを連想させるような観念になった観があります。
パトリオティズムでなく、ナショナリズムの語を使ったときに、
三島とナチの対比が現ドイツ大使の念頭になかったはずはないと思います。
だからこそ、外敵なきナショナリズムが奇異にみえたのではないでしょうか。

まとまりませんが、取り急ぎしたためました。
坦々塾では日録の先をうかがえるのではないか、と期待しております。

平田 拝

 3月6日(土)に坦々塾が行われ、私はそこで「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」と題した報告をした。いづれここでも紹介されるであろう。

『GHQ焚書図書開封 3』感想

 「ドイツ大使館公邸にて」(六)がまだ書かれていないのですが、必ず完結させます。少し待って下さい。その前に次を掲示します。

 未知の方から『GHQ焚書図書開封 3』に対してこれまでもたくさんのお手紙をいたゞいています。あの本の中の「空の少年兵と母」に言及されていることが私にはうれしく、ご本人の承諾を得て感謝をこめてご紹介します。

『GHQ焚書図書開封 3』感想

兵庫県芦屋市 山村英稔

 西尾先生はじめまして。

 「GHQ焚書図書開封3」読ませてもらいました。
当シリーズは1、2作目も読ませてもらいましたが、今回の三作目は戦前の我が国の人たちが堂々と生きていた事に非常に感銘を受けました。

 特に第三章の「空の少年兵と母」では、19歳の少年が国のために命懸けで戦っていたのに対し、今の自分は社会の何の役にも立たず何と情けないと、今までの自分の自堕落な生き方に反省しきりでした。

 「侵略」という言葉の使用時期や焚書の実態について書かれた第十章は知らない事ばかりで非常に勉強になりましたが、中でも「国体」についての焚書に関する内容が印象に残りました。

 「国体」という言葉については、自民党政権の森総理の時代に、総理が記者に対し「国体」という言葉を使い発言したところ、朝日新聞が、総理が少し前に「我が国は天皇中心の国」という発言をしていた事と結びつけて「『国体』は戦前の天皇主権の時代に使用されていた言葉で、その言葉を今使うという事は、戦前の天皇主権時代に戻りたいという、総理の復古主義的考え方の現われだ」と激しく非難をしていたのを覚えています。

 GHQが「国体」に関する本を多く没収していた事を考えると、森総理が「国体」という言葉を使っただけで激しく総理を批判した朝日新聞の姿勢は現在もGHQの教えを律儀に守っている事の証明だと思います。

 「あとがきに代えて」で西尾先生は、昨年8月のTVの戦争特集番組が「戦争の悲惨さ」しか言わず、アメリカ軍の非道について全く触れなかった事への不満を書かれていましたが、僕も全くの同感です。

 少し前になりますが、「東京大空襲」で被害に遭われた方が裁判に訴えるというニュースがあったので詳しく内容を調べたところ、訴える相手は空襲を行った加害者のアメリカでなく、当時の我が国政府であったので、この様な訴えをしても加害者のアメリカは全く反省しないので、全く無意味な裁判だと憤慨した事を覚えています。

 訴えた人は自分が経験した被害を公式の場で訴えたかったという様な発言をされていましたが、これでは残虐非道の無差別爆撃で大虐殺を行ったアメリカは悪くなく、悪いのは戦争を起こした我が国の政府であるという広島の原爆碑と全く同じ考え方になってしまいます。

 訴えた方も恐らく、被害に遭われてから暫くはアメリカを憎んだと思いますが、戦後TV・新聞等がアメリカの非道には触れずに、戦争が悪で、その戦争を起こした我が国が悪いという内容の発言を繰り返し見聞きしているうちに、段々と影響を受けて、TV・新聞等と同じ考え方になったのではと思います。

 現在、TV・新聞等の我が国における影響力は絶大で、多くの人々はTV・新聞の発言内容を信用しており、戦争についても、戦争未経験者は戦争についての知識を自分で調べる事なく、TV・新聞のみから得る人も多いと思います。

 そのTV・新聞が戦争について反日、自虐的な発言に終始していれば、世論もその影響で反日、自虐的になる事は避けられません。今のTV・新聞が反日・自虐的なのは、GHQの政策、特に言論の自由を奪った検閲と出版の自由を奪った今回、西尾先生がシリーズで書かれている焚書が大きな影響を与えている事は言うまでもありません。

G HQの検閲・焚書についてはGHQの占領終了後に、その政策の全容や我が国に与えた影響について徹底的に調べあげた上で、我が国の立場から戦争や戦前の諸政策を評価する事が必要不可欠であったと思います。しかしながら、その様な研究を本格的に行ったのは僕が知る限りでは江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が最初で、江藤氏の後を継ぐ様な著作は今まであまり出ておらず、GHQの占領政策については、まだ本格的な研究がなされていないというのが現実だと思います。

 僕は江藤氏の著作を20代前半に読んで大きな衝撃を受けましたが、そのおかげで、その後、TV・新聞等の反日・自虐的な発言を見聞きしても、彼らがGHQの代弁者として発言していると理解できたので、発言に惑わされず反日・自虐的な考え方にならずに済みました。

 今回の西尾先生のシリーズを読んで僕と同様の経験をする人が一人でも増えれば少なくともその人たちに関しては今後、反日・自虐的にならないと思うので、その意味においても、今回、西尾先生がGHQの焚書についてシリーズで書かれたのは非常に価値がある事だと思います。

 今後、我が国が自尊心を取り戻すだめには、我が国の歴史を我が国の視点で書いていく事が必要で、そのためには、GHQの占領政策の全容を明らかにし、我が国のマスコミが今までいかにGHQの立場で発言していたかを明らかにする事が必要不可欠だと僕は思います。

 今回の西尾先生の当シリーズに刺戟されてGHQの占領政策全体についての研究が進み、その実態と我が国に与えた影響が明らかになる事により、GHQの占領政策についての著作がより多く出版され、その事により少しでも多くの人々が、その内容について理解する様になれば、自然と我が国の自尊心も少しずつ回復していく事が出来ると思います。

 今回は、当書の「あとがきに代えて」を読んで、僕も普段からTV等の戦争番組を観るたびに同じ事を考えていたので、どうしても西尾先生に一筆書きたいという気持ちになったので、こうして手紙を書かせてもらいました。長文で乱筆、乱文になってしまいましたが読んでもらえれば幸いです。

ある哲学者の感想

 12月12日に『保守の怒り』をめぐって坦々塾で3時間もかけて討論した。みな異口同音に認めたのは平田文昭氏の、思いもかけない発想に満ち溢れた強靭な思索力と鋭い現実分析力だった。新しい思想家の誕生を見る思いがした。しかし討論会は「保守」概念をめぐってやゝ迷走し、肝心な論題になかなか踏みこめなかった。

 数日後に坦々塾の会員ではない人で、昔からの友人の山下善明さんから『保守の怒り』の読後感が届いた。山下さんは明星大学教授、哲学がご専攻である。ドイツの出版社から、ドイツ語で書かれた立派な哲学書を出されている方だ。

 以下に、いかにも哲学者らしい独特な解釈に基く読後感を紹介する。「保守」概念に一石も投じている。平田さんがどう思うかは聞いていないが、私はこの考え方に共感している。

西尾幹二先生へ

前略失礼します。
『保守の怒り』読了しました。

 私は先回の総選挙でも自民党に投票しました。ところが鳩山新首相によりますと、今度の選挙は「民主党の勝利ではなく国民の勝利である」のだそうです。自民党に投じた私は、非国民、反国民ということになります。そしてこの度御両名の「怒り」に触れました。正に踏んだり、蹴ったりです。

 農家の次男坊として田舎を離れてしまった私は、ずっと「農家の長男」に頼らんとして、自民党に投票して来ました。その一代目が岸~佐藤、二代目が三角大福中でした。竹下、小渕、森はまだしも二代目の名残りでした。そして三代目が安倍、福田、麻生でした。鍬も鋤も持ったこともないこの三人。(鈴木、小泉は漁師の息子ですが、小泉は博奕打ちに身を俏しました。海部、宮沢などは養子の一言でいいでしょう)

 平田氏も同じ考えのようです。氏は言う「自民党に言いたい。共産主義を退治したのは成長と分配に配慮した経済政策と智恵のある政治であって、つまり民に飯を食わせ、その家族に墓、正月とお彼岸を守ったからです。・・・勝利は堅実な政策と国民の常識と勤労によって勝ち取られたのです。」(P.270)

 「国民の常識と勤労」は敗れて、今や非国民、反国民となりました。「墓、正月とお彼岸を守る」ものとて無く、今やそれらは打ち捨てられました。守る「長男」はいなく、荒れるがままになりました。西尾氏は自分よりはるかにラディカールだと言うが、平田氏は決してラディカリストではない。そのradixを農にもつ氏が、どうして急進主義者でありえよう。平田氏が「もの言わぬ、しかし堅実な日本人生活者こそ、そしてそれこそが保守ですが、ぎりぎりのところで皇室を支えているのです。」(P.234)という時、堅実な日本人生活者と皇室を余りに短絡したか。いいえ。氏も言うが如く「この瑞穂の国を治める君主たるべきものであるという神勅によって皇室は存在している」(P.153)のですから、堅実な日本人生活者、「墓、正月とお彼岸」を守る農民民草は、まっすぐ天皇に絡がっているのです。

 「万世一系」とは、「国土」が万世一系ということです。天皇は「領土」の皇帝emperorではなく「国土」の天皇なのです。しかし「国民が勝利した」今、日本の国土は「日本国民だけのものではない」んだそうです。つまり、「国土」はなくなりました。皇室も民営化されると思います。「旧郵政省のある霞ヶ関の土地。あれは普通だったら絶対手に入らないですけど、民営化してしまえば手に入ります」(P.43 )、皇居のあるあの超一等地も。

 どうして、こうなったのか。

 平田氏は語る、「靖国史観では全戦没将兵は忠勇無双で陛下の万歳を唱えて死んでいった。そこに功績の優劣はない。従軍した戦争はすべて聖戦です。しかし参謀本部や外務省であれば、作戦の得失、用兵の成否、政略の巧拙など、冷酷な検証がなされてしかるべきでしょう。この両者は並存し得るし、しなければならない。左右ともこのことがわかっていない。」(P.241)

 この両者とは何か。それは「戦争」の「戦」と「争」の両者のことです。左は「争」だけ見て「戦」を見ない。右は「戦」だけ見て「争」を見ない。だから「左右ともこのことがわかっていない」。左はただの「争い」反対でしかないのに、平和主義の使徒だと思っている。争いを避けて「相手のいやがることをしない」小心卑劣な「親(シン)」が「和」だと思っている。「国土」の和人が再び倭人になってしまっていることにも気付かずに。

 右はどうなのか。確かに戦は平田氏の言う如く必ず聖戦です。しかしその戦いの美しさに、美談に見惚れてしまっている。左が平和主義の自分に自惚れているのよりは少しはましでしょうが。

 農民なら知っています、自然との「戦い」においてすら自然との「争い」を避けえないことを。平田氏が「保守の人は経済を語らず、語れず、政治の人は経済に疎く」と言うのなら、私は言いたい「保守の人は鍬も鎌も握らず握り得ず」と。

 『江戸のダイナミズム』への私批評(傍線)でも申しましたことを図にしますと。

  自然B(ジネン)「善悪の彼岸」(P.321)
線b________________________宿命「運命」(P.122)

       戦い
歴史・・・・・・・・・・・・・・善悪の渦流
       争い

線a_________________________
  自然A(シゼン)善悪の此岸

 左の人は、争いしか見えませんから、争いを避けて、自然Aに落ちます。そこは善悪の此岸として対立なきところですから、「善人」となれます。中曽根元首相は鳩山を評して「政治は形容詞ではなく動詞でやるもの」と言ったそうですが、「善人」鳩山は、政治家としてどころか、その人生そのものに動詞がありません。

 右の人は折角の「戦い」も、争いなく、従って自然Aもなく宙に浮いています。西尾氏は「60年間論争疲れしているのですが、どうしても最後の一歩が踏み出せないのです」(P.118 )と言いますが、最後の一歩も何もない、そもそも踏み出す脚がないのです。自然A(シゼン)に立脚していないから、自然B(ジネン)に出る動力をもたないのです。勿論自然B(ジネン)は出るところではありません。

 親鸞の言葉で言えば、「善からんとも悪しからんとも思はぬ・・・・・形もましまさぬ故に自然(ジネン)と申し候ふ」でありますから、「ある」ともいえませんから、出るところではありません。しかしそこに出でんとする動力があってのみ、線a,即ち運命、宿命があります。「ゲーテが見た、神と自然が調和した秩序」(P.325)があります。「歴史はすべて肯定、善も悪も含めて肯定されるべきもの」と西尾氏が言う所以のものがあります。線aが見えない限り、「歴史の内側ばかりみて」(P.115)いることになります。思想が見えず、現実が見えず、「現実が見えないから現実と戦う(傍線)こともできない」(P.73)

                                 敬具 
山下善明

 なかなか難しい言葉遣いだが、「戦争」の「戦」と「争」の両者は並存し得るし、しなければならないのに、ばらばらに分離して、左の人も右の人もそれぞれ線aと線bの外に出してしまって宙に浮いている。日本人がこれを克服しまともになるには「農」に立脚した自然への回帰が必要だと仰有りたいのだろうか。少し単純化して分り易く私なりに読み直すとそういうことかと考えてみたが、山下さんは平田氏の思想に一つの哲学的な解釈の図解を示して下さったのである。

 もう一度読み直していただきたい。いろいろ含みのある、山下さん一流の、現代日本批評になっているように思える。

GHQ焚書図書開封(3)の衝撃

ゲストエッセイ 
足立 誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 
元カナダ東京三菱銀行頭取/坦々塾会員


 ある国の記録を焚書・抹殺するということはその国、国民から歴史、identityを奪うことであり、その国の消滅をもたらす可能性を孕むものです。

 GHQは日本の歴史を焚書し消し去ると共に、検閲を通じて捏造した虚偽の歴史を日本人に刷り込む枠組み、システムを構築しました。

 本書、GHQ焚書図書開封第三巻は焚書された書籍に光を当て、そうした日本滅亡にまで及ぶ枠組み、システムを明らかにするものです。

 まず始めに、日本が戦った戦争の実態と日本軍兵士の実像を開封した兵士の手記から再現させています。
雨とぬかるみ、死んでいく軍馬、竹やぶと飛来する銃弾、クリークの水で炊いた臭気で食欲も出ない米飯。そうした情景は読者の脳裏にありありと浮かびます。
 
 その環境の中での兵士同士の人間味溢れるつながり、友情、部下への思いやり、戦友の死が語られます。そしてそんな苦楽をともにしてきた兄弟同様、或いは親子同然の戦友、部下の戦死の場面。言葉では言い尽くせぬ悲しみに思わず目頭が熱なることも一度や二度ではありませんでした。

 日本軍の兵士は戦後に描かれた悪逆非道な姿ではなく、極めて人情味に溢れそれでいて規律正しい戦士達であったことが分かります。

 何よりも印象に残ることは兵士達が日本という国家を信頼し何の疑念を持っていなかったことです。彼等は、正義の戦いに従軍しているという自覚、義務感が極めて旺盛であり、正義のためには命を捧げてもよいという気持であったのです。

 本書には息子の戦死に悲しみをこらえられない親についての記述も再現されています。その悲しみは現代に子供を失った親の悲しみに劣るものではないことが分かりますが、それでも国への信頼と戦争の正義を信じている気持ちは失われていません。
 
 つまり敗戦までの日本人は国を信じ、戦争を正義のためのものとして捕えていたことがわかります。
 
 戦後に書かれた戦争に係わる本では、国民はあの戦争を悪であると思い、国への信頼などなく、「心ならずも」召集されて行かされたのだとしているものばかりです。
 そして本書に再現された手記に比べるとリアリティーが決定的に欠けています。

 又初めて知る話でしたが、開戦に南米から日本へ向かっていた商船鳴門丸の舟客、船員が航海中に日米開戦を知り、ハワイ攻撃の成功を喜びながらハワイ沖を経由して奇跡的に無事日本へ帰国する話があります。そこにも当時の日本人の凛とした様子が描かれています。

 こうしてみると敗戦以前に記された書籍が描いている日本と日本人は戦後に描かれた日本と日本人とはまるで違うことが分かります。
中国側については更に大きなギャップがあります。
 
 本書で開封された焚書の一つに日本に留学していた中国人学生が祖国に帰り蒋介石軍に捕えられ軍隊に徴用された従軍と敗走の手記が取り上げられていますが、その記述は凄まじいものです。
 
 人攫い同然に一般市民を拉致して兵員にする。斥候に出た兵隊達は任務そっちのけで住民への略奪、強姦に従事していることが書かれています。日本軍からの射撃だけではなく、味方の督戦隊からの銃撃でばたばたと戦死者が出る。その死体の山の中に逃れて生き残る話など余りに酷いものばかりです。
 
 こうした話は戦後完全に抹殺され我々は全く知らないで捏造された記録のみにしか出会いませんでした。

 例えば日華事変開始当時同盟通信の上海市局長であり後に同社の専務まで勤めた松本重治は戦後「上海時代」(上、中、下三巻、中公新書)という回顧録を執筆しますが、以上とは正反対のことばかり記します。

 上海の自宅に兵隊が入り物が盗まれると、使用人の話として日本軍によるものと記したほか、総て日本が悪く中国が正しいという筆致です。
 
 婦女子を含む一般邦人二百数十人が虐殺された通州事件についても「悲劇の通州事件が起きた」とだけ書き、シナの保安隊が加害者だったことを隠蔽しています。

 尚彼は同盟通信の幹部としてGHQによる検閲に直接係わったはずですが、そうしたことについて一切口をつぐみ、日米学会の会長、国際文化会館の理事長などの要職を勤めたのです。所謂「昭和史家」の書いた昭和史はこうした松本重治の書いた類を資料としたものです。

 今回明らかにされた焚書の中で非常に多くのことを教えてくれた書籍が菊池寛の「明治大衆史」です。
 
 義和団の変に際しての欧米各国軍隊が凄まじい略奪暴行の限りを尽くしていたこと、我が軍の軍紀が極めて厳正であり模範的なものだったことが記されています。

 そもそも義和団事件は、清国が日清戦争に敗れたことから欧州各国が野盗の如く清国に対する領土の租借の競争に入ったことへの反発が原因であり、当時の弱肉強食の世界の凄まじさがわかります。

 菊池は、その前の日清戦争開始時点に日本を支持する国も好意を持つ国も一国もなかったが、その状態は日華事変の開始時点における我国を巡る列国の態度とおなじであったとのべています。

 つまり日英同盟の時期を除けば明治維新から第二次大戦まで日本はアジアの大半を植民地化した欧米と、国の体をなしていない中国に囲まれた孤独な存在であった訳です。

 そんな環境で我々の父祖は健気に独立自尊の精神で生き抜いてきたのです。本書第9章は焚書が如何にしておこなわれたかを侵略戦争という用語の開始時期などを切り口として溝口郁夫氏により鋭く分析されています。
 
 西郷隆盛から第二次大戦まで日本人は侵略と言う言葉を専ら欧米の行為としてのみとらえていたことが分かります。

 本書の圧巻は「あとがきにかえて」です。

  西尾先生はNHKが今年の夏に報道した秘話を以下のように採り上げておられます。 終戦の詔勅が放送されるその直前の午前に秋田県にある小都市が米空軍により空襲され小学生にまで犠牲者がでた。しかしNHKの報道はここで行われた米軍による戦争犯罪行為について追及することがなかったことは勿論、それに言及すらせず、「戦争は悲惨だ」という形で片付けた。
 
 戦争は国家間の軋轢から起こりお互いに敵同士となる。NHKを先頭に日本ではその軋轢がなにであったかそしてどう戦争に結びついたかについては触れることなくただ「戦争は悪い」ということに問題をすり替えて、更に「悪い戦争は日本によっておこされた。だから日本が悪い」という型に総てを集約してしまう。そこから導き出されるものは、日本の総て交戦国は何をしても免責されてしまうということです。
 
 アメリカは非戦闘員である日本の一般市民を原爆をふくむ空襲で殺傷するという明白な戦争犯罪を犯しながら、戦後今日に至るまで日本はそれを追求することなく、「戦争は悪い」「その戦争をおこした日本が悪かった」ということしか口にしなくなっている。

 広島の原爆記念碑には「もう過ちは二度とくりかえしません」と記されているが、これは「もう過ちは繰り返させません」とすべきものであると先生は述べられておられます 。
 
 更に先生は、こうしたことを放置すれば同じ状態が戦後100年後にまで続くと述べられ、こうしたことを放置するのは勇気が欠けるためであり、リベラルだけではなく所謂保守においても同じなのだと喝破されておられます。
 
 国が歴史を失うことはidentityを失うことであり、国そのものを消滅させることにつらなります。
 GHQにより行なわれた焚書を解明しないで放置することは正に国を消滅させることにつらなるのです。

 「GHQ焚書図書開封」は国民の総てにとり必読の書です。

          文責:足立 誠之

 足立さんのこのゲストエッセーに対し、次回ひとこと私からのエントリーを上げます。

『「権力の不在」は国を滅ぼす』について

 『「権力の不在」は国を滅ぼす』(ワック刊)という題の本を出したのは、8月10日ごろでした。一、二を除いて書評は現われないし、本も売れたのかどうかよく分りません。私としては現実を正眼で見据えた書、のつもりですが、書名もよくなかったのかもしれません。

 「『権力の不在』っていったい何だろう?」と店頭で読者を考えこませてしまうような題はダメなんですよ、今は単純でストレートな題でないと読者は手を出さないんです、とある編集者の友人から言われました。事実、「権力の不在」は河合隼雄流の「中空構造」のことで、日本神話をめぐる文化論の本だと最初一瞬間違えたと告白した友人がいました。

 「・・・・・は国を滅ぼす」も陳腐でよくないのですね。このあいだは『学校の先生は国を滅ぼす』という本の広告をみました。いろんな人が使う常套句なんです。私はむかし『外国人労働者は国を滅ぼす』という本の題にせよ、と編集者にいわれて、最後まで抵抗して『労働鎖国のすすめ』という新語を発明して、これは成功しました。

 だから今度ももっと抵抗すればよかったのですが、他に思いついたのが『日本の分水嶺』で、イメージ曖昧なのでこれもよくなく、編集担当者にやむなく押し切られました。

 しかし本の反響を呼ばないのは題名のせいだというのは卑怯な逃げ口上です。内容や論旨が今の時代にフィットしなかったからだ、と考えるのが著述家の礼節でしょう。

 私の本はどこまでも少数派向きなのかもしれません。長谷川三千子さんがこの本の贈呈に対し丁寧な返書をくださり、第Ⅱ部第3章にぞっとするリアリティを感じた、とありました。本をお持ちの方は開いてみて下さい。

 第Ⅱ部第3章の末尾の部分を掲げてみます。長谷川さんがこの数行について言っていたのかどうかは分りませんが・・・・・。

 戦前のアメリカ、戦前のイギリス、戦前の諸外国と、戦前の日本は利害を争奪しあってぶつかっていました。今その時代が再び近づいています。

 外交と軍事はアメリカに預けっぱなしで、考えることを放棄するというのは、いわゆる戦後思想です。この戦後民主主義思想は、敗北的平和主義と言ってもよいでしょう。

 これは自分の国のことを考えない、という状態を指しますが、これからは戦前のあの感覚が蘇ってきます。そうしなければ生き残れないからです。

 日本が自立しなければならないという状況の中で、国民と天皇陛下の関係、国民と皇室の関係は、また新たな局面を迎えるでしょう。それがどういうものになるのかは分りません。

 日本の権力はアメリカにあった。しかし、アメリカが衰退して権力としての体をなさなくなったとします。その時、日本の皇室はどの権力がお守りすればよいのか。日本の中枢以外に権力がどこかへ移行するという最悪の状況が私は恐ろしくてなりません。

 たまたま公明党の赤松正雄議員のブログに思いもかけない拙著へのコメントがあったので紹介します.

2009年11月07日(土)
————————————-赤松正雄の読書録ブログ

「真正・保守」の原点と向きあって

  「この10年間というもの、公明党は改めて自民党から国益の大事さを学び、自民党は公明党から改めて民衆益の重要性を学んだと思う」―先の選挙期間中に様々な機会を通じて私は、国家を統治する観点と庶民目線からのいわゆるリベラルな政治姿勢との違いをあえて対比させ、わかりやすく述べ、自民、公明両党がお互いの足らざるを補い合う関係で、政権運営にあたってきたことを訴えた。相反する二つの側面から政権担当能力の大事さを述べたつもりである。

 西尾幹二『「権力の不在」は国を滅ぼす』は、この総選挙の真っ最中に出版された。極めつけの保守論客としてつとに有名な西尾幹二氏の本は、かねてあれこれ読んできたのだが、このところ一段と“憂国の士”の風を強めておられ、これもまた強烈に刺激的な内容であった。「この選挙は国家の核を守るのが存在理由である保守政党がその自覚を失ったがゆえに苦戦を強いられ、他方、勢いづく野党は国家意識を持っているのかどうかすら怪しい」―こう結論付けている。

 とくに前航空幕僚長の田母神俊雄氏の論文について「あまりに自明な歴史観といえるこの線に沿った政府見解を今まで出せなかった政府の怠慢こそが問題」だとし、いわゆる「村山談話」をこき下ろされているところなど、いささか過激すぎで、事実誤認だというのが私のスタンス。先の大戦をめぐっては、米英に対しては日本の「自衛」、中国などアジアには日本が「侵略」、そしてソ連には「侵略された」というべきだろう。ともあれ、「真正・保守」の原点ともいうべきものを改めて勉強するのにはいい教材になる。西尾幹二という人物を毛嫌いしないで、国家とは何かを考える向きには読まれることをおすすめしたい。

(ご本人からの要望により、全文掲載しました)

 次の書評は若い論客岩田温氏のものです。

  

西尾幹二著『「権力の不在」は国を滅ぼす-日本の分水嶺』

   イデオロギーに対する警告

 日本を代表する評論家西尾幹二の評論集。近年発表した雑誌論文を収録したものゆえに内容は多岐にわたるが、全編にわたって闘志漲る戦闘的な評論集である。

 著者が真に闘いを挑むのは旧態依然とした左翼だけではない。思考停止に陥った右翼だけでもない。そういった人々を当然含むが、著者が闘うのは現実をみつめようとしない人々、狭隘なイデオロギーを信仰する人々である。

 イデオロギーとは、マルクス主義の独占物ではなく、常に知識人に付きまとう危険な麻薬のようなものである。著者はイデオロギーに溺れる人々を「手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌り込む」人々だと評するが、実に的を射た指摘だと言ってよい。知識人が自らに対する懐疑を閑却し、自らの立場に安住することを望み始めたとき、知識人の体内にイデオロギーの毒が回り始めるのだ。

 イデオローグは闇雲に徒党を組み、「敵の敵は味方」、「数は力だ」とばかりの安直な政治主義に陥る。彼らにとって重要なのは勢力拡大のみであって、狭い領域での友敵関係、力関係が全てを決するのだ。やむにやまれぬ真理の追求や孤独な懐疑を政治を理解せぬ児戯と嘲笑い、時には「利敵行為」として指弾する。往々にして思想家を気取りながら思想を最も軽蔑するのがイデオローグの特徴である。

 また、かつてのマルクス主義者のように自覚的なイデオロギーの虜も存在するが、イデオロギーとは無縁のような顔をして、どっぷりと無自覚なイデオロギーに侵されている人々も存在する。

 無自覚なイデオローグの代表として著者が批判して止まないのが秦郁彦、保坂正康、半藤一利といった「昭和史」の専門家を自称する「実証主義者」に他ならない。

 当然の話だが、歴史において単純な実証主義は成立しない。いかに細かな実証を積み重ねて小さな部分を明らかにしようとも、単純な実証主義からは歴史の全体像が見えてこないからである。実証主義は究極的に突き詰めれば、自らの信ずるパラダイムを擁護する護符にしか過ぎない。実証はあくまで歴史の全体像を補強、確認するための手段にしか過ぎないのだ。従って、実証を盲信する人々は、無自覚のうちに、自らの安住するパラダイムを守るためのイデオローグとなりはてる。何故なら、彼らは自らのパラダイムそのものに対する懐疑の念をいささかなりとも有してはいないからである。著者はこうした無自覚のうちに半ば公式化されたパラダイム、イデオロギーと闘うことの必要性を説くのだ。

 思想家は読者に安直な解答を与えない。問いそのものを読者に突きつけ、悩ませ、より複雑な問いの展開へと導く。本書はまさしく思想家の書物である。

     文責:岩田 温 『撃論ムック』より

 赤松議員の反応は政治的ですが、岩田温氏は知識人、言論人の姿勢を主題として取り上げています。この本にはたしかに両面があります。

 本年3-4月の秦郁彦氏と私との歴史論争等は後者のテーマでした。岩田氏が私のモチーフを正確に捉えて下さったのを嬉しく思いました。

 田母神問題に触発された秦氏との論争は、歴史の本質をめぐる学問論の一環なのです。私が現代の日本の学問の概念に若いころから疑問を呈してきた、その流れの中にあります。岩田氏の指摘に感謝します。

GHQ焚書図書開封感想文

ゲストエッセイ 
大月 清司  
坦々塾会員

反滑稽読書・孤峰の熱き論説より

GHQ焚書図書開封(3)

GHQ焚書図書開封(2)

GHQ焚書図書開封
 
 ひとり西尾幹二だけが、思弁の丈を孤峰になっても、知性の壁を打ち破り論説を、老骨をやすらぐことなく、熱く、勁(つよ)く語りつづける。
 
 だから、冷徹な分析、論旨だけでは、ベースにそれをおいていても、いまの曖昧模糊とした、しかも美名に飾られた情緒に流される世情の中では、大きな響きを谺(こだま)のように伝えることはできないことを知り尽くしている。

 そして、文学のもつリアリティを知るゆえに、それが軍人の美談でも、些細(ささい)なことの積み重ね、基盤にひととしての血と涙が流れているもの、いまにつづく日本人の人情、情感を手繰り寄せる。高所から見下げるのを嫌い、低い視点から焚書された書籍と向き合っていく。
 それは、歴史家の語る知性、繰り返される愚かしさを、菊池寛が著した当時を生きてきた文学性によって、その歴史のツボを心得てものとして、その本と向き合っていくことにつながっていく。

 更に、敗戦後の米国流の時流に迎合し、ただ安易に流されるままに、世渡りのすべとして、学識、評論、知性、学問までもが、なすすべもなく迎合していくさまを一刀のもとに斬る。いまなお深く根づき、無意識のままに刷り込まれていることへ、容赦のない批判の切っ先を向ける。

 いまも昭和初期と同じ情況にあり、アメリカと北京政府の挟み撃ちに合いながらも、日本の内部からすすんで同調、協力していく、そういう論調に黙してはいられない。

 日本は昭和史のためにあるのでもなければ、その前史もあり、いまにつづき、更に未来へと、島国としての温かみのある人びとの連続性を維持しながら生きつづけている。

 現在の出版界も、実は「焚書の世界」に、すっぽりと飲みこまれている。あたりさわりのない、時の勢いをただただ追い求め、読者にいっとき、迎合、提供することばかりにうつつをぬかしてはいまいか。二一世紀へと残すにたり得る書籍があるだろうか。

 本書で第三弾になる、西尾幹二『GHQ焚書図書開封3』(徳間書店・新刊)は、それに反して、きわめて例外的で、重厚なシリーズの一冊である。この出版社の損得抜きの勇気ある英断と、氏の渾身の著書、健筆に心から感謝したい。それを待ちこがれている、わたしは次なる名著を愉しみに、活字人間たる幸福をひたすら感じている。

反滑稽読書・孤峰の熱き論説 つき指の読書日記 by 大月清司 より

「決定版 国民の歴史 上・下」 感想文

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 ちょうど一週間で読了した。お腹をすかせた子供がご飯をかき込むようにして読んだ。本当は、上等なお酒をじっくり味わうような読み方があってもよかったと思うが、それはできなかった。

 文庫本を読むのに先立って、あのずしりと重たい単行本の奥付を見て、この本が世に出されて早くも10年の年月が流れたことを改めて感じた。この間、無作為を繰り返すばかりだった自民党はついに自壊した。「冷戦の推移に踊らされた自民党」の章で指摘されているように、理念なき政党は国民から見放された。

 「国民の歴史」は私が30代の最後の最後に読んだ本である。若い頃、きちんとした読書をしてこなかった私は、その頃になってあせりのような気分を抱いていた。それ以降、何ら系統立った目的もなく、雑然と本を読み散らかして来た。

 私の読書は、中学時代の北杜夫「幽霊」が原体験となっている。北杜夫からトーマス・マンを知り、マンからワーグナーとショーペンハウエルを知り、西尾先生が翻訳された「意志と表象としての世界」を読んだときは、すでに26歳になっていた。私はその哲学書にまったく歯が立たなかった。ただ、こんなにも難解な書物を翻訳してしまう知の巨人がこの世の中にはいるのかという、恐れとも驚きともつかない当時の感情は今もはっきりと思い出すことができる。それ以来私の中では、「西尾幹二」という名前は特別な響きを持っている。それからほぼ四半世紀が経った。

 単行本から10年、私に起こった最大の変化の一つは、坦々塾の会員として西尾先生から直接教えを受けるという僥倖に恵まれたことである。若いとき、知の巨人と仰いだ人から、名前を覚えていただく日が来るなどということは、夢想だにできないことであった。

 大著を再読するということは滅多にない。読まなくてはならない本がたくさんある、という強迫観念から未だ脱することができないからだ。
 今回再読して感じた初読との一番の違いは、文章が以前より明瞭に理解でき、すんなりと頭に吸収される感覚を味わったことである。10年で利口になるわけはないから、これは間違いなく、坦々塾の勉強会の成果である。

 西尾先生の主張は一貫して揺るぎがない。私は前回この本を、恐らく多くの読者がそうであったように、自国の歴史の失地回復、名誉挽回の本として読んだ。いわば知識の吸収を目的として読んだ。

 西尾先生は歴史に向かう姿勢として、「事実に対する認識を認識する」という哲学的な態度の重要さを説かれた。また、人間の織りなす歴史を認識するということは、文学、哲学、宗教といった人間の本質を究明する教養が基礎にあって初めて可能なことであるともいった。また、歴史とは各国が相互に影響し合い、利害を衝突させながらそれによって翻弄されるものである以上、日本史もまた、世界史の視野をもって考察されなければならないという視点も示された。

 そういった西尾先生の、哲学、史学感を直接耳にしてきたことで、私の歴史に対する向き合い方が、坦々塾以前と以降とでは明らかに違った。もちろんまったくの勉強不足ではあるが、単なる年代記としての歴史、実証主義に呪縛された歴史、洗脳され修正された歴史、こういった我が国にはびこっている歴史観からは決別できた。10年前には、こうした視点から読むことはできなかった。そういう意味で、今回の文庫化は私にとって、大変いいタイミングであった。単行本を再読するという方法もあるが、今回は「決定版」である。迷わず買った。

 本書の上巻では中国に関する記述が多くを占める。我が国では、国の成り立ちの根本を成す多くの要素を、中国から学び、受容してきたとされている。漢字、仏教、儒教、稲。そういった中華大文明に対する負い目が、いかに幻想であるかが、圧倒的な筆致をもって描かれている。特に、文字を持たなかった縄文一万年の、記録に残らなかった歴史に言及する部分は圧巻である。先生は縄文語という言葉を使い、その当時間違いなく話されていた言葉があったという。今も我が国に残る意味不明な日本語の中にもそういった縄文時代から語られてきた言葉があるのではないかと思う。

 私の故郷、信州諏訪には、古事記に登場するタケミナカタノミコト(オオクニヌシの子)を祀る諏訪大社が鎮座するが、この地にも国譲り神話があり、諏訪から見たタケミナカタは征服者であり、土着の神は「ミシャグチ」と呼ばれている。

 この「ミシャグチ」が何を意味するのか、今ではまったく解らない。室町初期、すでに解らなかったという。私は密かに、縄文時代、諏訪の古神道によって信仰されていた、何か偉大な存在を昔から伝えてきた言葉でないかと考えていた。余談だが、諏訪では国譲りの際、権権二分を採用することで、両者の存続を計った。

 タケミナカタは地勢権を譲渡され、政治の実務を担当し、その血を受け継いだ人間が後の諏訪藩主となった。
土着神ミシャグチは祭祀権を継承し、幼い童に神霊を憑依させて祭祀を執り行う。

 現在大方の日本人は、中国に対して愛憎相半ばする感情を抱きつつ、こころの奥底の部分では、偉大なる師、文明の先達といった憧憬と、ある種抜きがたい劣等感を併せ持っているのではないかと思う。彼の国は歴史が古く、面積は広大であり、大事なことはほとんど中国から教えてもらったと漠然と考えている日本人が多い。

 我が国は教義の確立した大宗教も、文字も発明しなかったが、それらを受容して発展させていく過程において、偉大なる事跡を残した。現在の中国では近代概念を書き表すのに多くの日本語を使わなくては成り立たなくなっている。国名「中華人民共和国」も、中華以外は日本語である。
 また、稲を宗教的シンボルとした。各地に伝わるお田植え祭りや、豊饒祈願、秋の感謝祭に見られるように、日々の糧である米を、単なる食料の一つではなく、霊性をもった神からの献げものであるとして大切にしてきた。

 伊勢や宮中の新嘗祭がそれを端的に象徴している。私が子供時代の祖母は、天皇陛下が新米を食べるまでは口にしてはいけないといって、新嘗祭(勤労感謝の日)がすぎるまで新米を買うことを許さなかった。東北の農家に産まれた彼女は、そういったしきたりの中に育って来たのであろう。

 本書に稲妻についての言及がある。雷が田んぼの稲と交合することによって、稲穂が実るという思考は、とてつもなく壮大で、ロマン的である。雷を、天が稲の受胎のため使わす鳴動と捉えた。光と音による神の使い。その想像力とスケールの大きさには、ただ圧倒されるばかりだ。梅雨明け間際にはよく雷が鳴る。ちょうど稲が実り始めるころである。

 古神道の解釈を巡って、神はまれ人信仰か、祖先崇拝か、といった論争があるが、そのどちらでもあって構わないと思う。我が国の宗教観は、祖先崇拝、先祖慰霊を最も大切に考える。先生がおっしゃったように、この神道的な慰霊の心が、仏教においても取り込まれ、我が国独自の信仰を生み出した。我々の仏教儀礼といえば、葬式、法事、墓参りに尽きる。現世利益は、どちらかというと神道が担う。

 さて、キリスト教に関して、なぜ日本では信者が国民の1%以下にとどまっているのか、といった問題に、先生は一神教の持つ原理主義にその原因を求める。日本人は基本的に大まかで、何でも受け容れては加工することで自家薬籠としてしまい、肌に合わないとなれば放り出してしまうといった国民性を持つ。一つの神しか認めず、聖書に書いてあることを絶対の教義とするキリスト教はまったくなじまない。戦争に敗れた占領期は、アメリカにとって日本人を改宗する絶好の機会であったにも関わらず、成功しなかった。

 我が国の巨大構造物についての記述も、興味を引いた。仁徳天皇陵とエジプト・クフ王のピラミッドを同縮尺で図解し、我が国が模倣と精密加工に特化した縮み思考の国であるという通念を覆す。出雲の巨大空中神殿は、近年地下から巨木を三本束ねた柱の遺構が発掘されて、その実在が証明されたが、大林組によると縄文時代の土木技術で建立は可能であるということである。大林組では、出雲神殿再現プロジェクトチームを発足させて、現代土木技術・機械を一切使わないで、建築が可能かどうかのシミュレーションを行い、出版した。そこには、必要日数、人足、工法、現在価値に換算した必要経費も算出されている。大社裏山の中腹にロクロ(柱を建てるために、回転させながらロープを巻き付ける装置)を設置して、縄を結わえることで、このような巨大な柱を建てることも可能であるという。

 諏訪の御柱祭では、最後の御柱曳き建てを今でも重機を使わず、ロクロと人力だけで行っている。出雲と諏訪は親子神なので、お互い巨木信仰に対する親和性があるのではないかと思う。ある本には、古代日本に巨大建造物が多いのは、文字を持たなかったからではないかという推定が書いてあった。偉大な人物の事跡を文字で残せなかった時代には、その存在を古墳の大きさで表したのではないかというものである。4世紀を境に、巨大古墳は姿を消していくという。

 西尾先生は6月の坦々塾で、「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに疑うことを不必要とした」、というお話しをされた。先生のこの短い言葉の中に、大河の奔流のような、我が国近代の歴史の悲劇と栄光がぎっしりと詰まっていると思う。それは運命でもあり、歴史の必然でもあった。白人による世界分割統治の最終局面において、日本は敢然と立ち上がり、防波堤となり、彼らの壮大な野望を挫いた。日本は神国として、世界と対峙した。江戸時代の国学者達は、よもや自らの思想が後の世で我が国が世界と戦う上でのバックボーンになろうとは思いもしなかったに違いない。

 時代の必要が、人材を輩出した。しかも、江戸中期という早い段階から周到に用意され、時間と共に思想は深化し、明治の自覚を待った。開国維新から、大東亜戦争敗北にいたる百年の歴史の何というダイナミズム。
「江戸のダイナミズム」があってこそ初めて成し遂げた偉業であった。まるで細い支流を幾本も呼び込むことで、大河が形成されるように、ゆったりと、静かに、そして着実に、明治の自覚を待った。肇国以来の危機がこうして回避された。

 下巻では近代世界が語られる。明治以降三つの大きな戦争を戦い、最後に破れた日本。そこに至るまでの世界の動きと、各国のエゴイズムは凄まじいの一言である。ナイーブな日本人は、そういった荒波に翻弄され続けた。

 アメリカの中国に対する幻想も災いした。蒋介石を支援しつつ、結果的に毛沢東を勝利させることで、人類に大きな厄災をもたらした。後に数千万人の人間が、命を奪われた。それは確かに結果論かもしれないが。

 日系人収容所に関しては今夏、「東洋宮武が覗いた世界」というドキュメンタリー映画が上映されている。

 その中に大変印象深いシーンがあった。インタビュアーが日系2世、3世に「収容所に入れられたことについて父母や祖父母はどんなことを話していたか」とたずねる。2世、3世はもはや日本語を話さないため、質問は英語である。その質問に対して、彼らの両親や祖父母が語った中に「仕方がない」という言葉が何度も出てきた。しかもこの「仕方がない」だけは日本語で発音していた。英語にはそれに相当する言葉がないのだろうかと思った。地道に働き、やっとその土地に生きる場を見つけ、結婚もし、あるいは小商店の主となってささやかに生きていこうとしていた彼らにとって、日本人であるというただそれだけの理由で、キャンプに収容される。ナチスのように殺さなかったから、アメリカの方が人道的であるという理屈は通用しまい。まったくの理不尽な仕打ちである。そういった運命に対して、「仕方がない」といって従容と受け容れる日本人。ここに我が同胞の民族性がよく表れていると思う。

 映画では、写真館主として成功していた宮武の、キャンプ内での撮影の様子が再現され、職業がこの方面に近い私は、そういった面での感動もあった。カメラの持ち込みは厳禁であったが、アメリカ人の中にも、協力者がいたようである。若い青年が年老いた父親(祖父?)に向かって、「どうして父さん達は、抗議の声を上げなかったのだ。広く国民に訴えれば、必ず賛同者を得られたはずだ。アメリカは自由と民主主義の国ではないか。」といって食ってかかるシーンがあった。記憶は曖昧だが、そんな息子に対して父は「人種差別というものが確かに存在した時代があった」、という意味のことを語ったように思う。

 建前として、人種差別は現在の地球上には存在しないことになっているが、そんなことは真っ赤な嘘である。

 一人我が国だけが、こうした偽善を信じている。政治家も官僚もマスコミも教師も、建前を本音と信じ、偽善を真実であると信じて疑わない。この極端なナイーブさはまったく変わっていない。我が国の大きな弱点、宿痾ですらあると思う。一定の品格を求められる大新聞が、ある程度建前をいうのは仕方ないのかもしれない。それは我々も、日々の社交という場面で繰り返している。ただしその裏にある、真実を見抜くもう一つの目を持たなくては、いいように手玉にとられてしまうであろう。人は善悪を共に内包する存在である。そのことをきちんと認識しない限り、我が国はこれからも世界の孤児として蹂躙され続けるであろう。

 商人は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、利のあるところに群がるが、最後は財布を開かせて金を受け取る。我が国は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、さらにお金も払っている。

 敗戦以降、精神の荒廃は止まず明治の光輝は完全に否定された。神話は忘れられ、歴史は貶められ、祖国は悪いことばかりしてきた、どうしようもない国だと定義されてしまった。丸山昌男の8.15革命説のように、原爆の光によって、戦後日本という新しい国が誕生したという錯覚に陥っている。

 アメリカ占領期の洗脳工作が、戦後64年を経てもなお一向に溶けないのはなぜであろうか。すでに世代は、占領国民の2世、3世の時代になっているにも関わらず、状況は悪化するばかりである。

 こんなにも、きれい事で現実を糊塗するような風潮は、一体いつから染みついたのであろうか。大衆が、大きな流れに漂ってしまうのは、これは仕方がないのかもしれない。ただし、一定のエリートや指導者には確乎とした人間洞察力がなくてはならない。これを養うためには、先生が言うように、文学、哲学、歴史、宗教に触れ、そこから学び、自らの血肉とする以外にない。私の回りにも、かつての偏差値秀才が、中学生レベルの正義感のまま、大人になったとしか思えない人間が何人もいる。先生はこうした現象を、福島瑞穂現象と喝破した。辻元ほど騒々しくなく、土井ほど憎たらしくなく、発言は一応正論。こういった人間は、民主党の多数をなし、やがて自民党の多数にもなろうとしている。驚くべきことに、実利を何よりも重視する実業界においても、こういった人間が多くなったように思う。私の先輩世代にあたる戦後創業者達は、皆一様に欲望に正直で、脂ぎった体質と強面の風貌をしており、風圧すら感じさせた。そういった人達が一線から去り、あるいは亡くなっていって、二代目が後を継ぐケースが増えている。彼らはおしなべて高学歴で、留学経験があったり、外国語を習得したりと、父親に較べて上品ではあるが、気迫には欠ける。何か日本人全体を象徴しているように思えてならない。行き着くところは、「唐様で売り家と書く三代目」であろうか。我が子の世代には、日本は売りに出ているのかもしれない。

 今の体たらくを見ていれば、これがあながち冗談とも思えない。

 勤勉、優秀、山紫水明、規律的、倹約、忍耐。日本を定義するこれらの美徳の、一体どれだけがその時残っているだろうか。

 戦後、金科玉条として来たスローガンに、平和、憲法遵守、民主主義、人権尊重と並んで平等という観念があった。偽悪的な言い方になってしまうが、私は人間のどうにもならない不平等をこそ教えるべきではないかと思う。少なくとも中学生ともなれば、そういったことは自らの人生を通して経験して来ている。

 私はこの10年間で通史と呼ばれるものを、日本史(16巻)、明治開国100年(10巻)、世界史(23巻)、古代ローマ史(28巻)と読んできた。二種類の日本史はどちらも階級闘争史観、マルクス主義史観で書かれている巻も多く、その部分は楽しくない読書であった。西尾先生の大著二冊「国民の歴史」と「江戸のダイナミズム」は、これらの通史とは明らかに違う。何よりも読んでいて楽しい。江戸のダイナミズムに関しては、難解であったという感想を何人かから聞いた。確かに易しい本ではないが、先生のいう、読みやすいことが良書の条件という基本は外れていなかったと思う。今回、感想を書くつもりが、ほとんどそれ以外の個人の世迷い言になってしまった。

 「決定版 国民の歴史」は、これ一冊を読めば、コンパクトに我が国の通史が理解できるという便利な本ではない。そもそも、そんな本は存在しない。私は今回この本を、歴史の本質とは何であるかということを、考えながら読み進んだ。そして先生がいつも講義で話し、ご著書で書かれている人間洞察のない歴史理解は、不可能であるという点にも注意した。さらに、人間はそれぞれ異質であるということを、異質には異質の正義があるということにも思いを馳せた。善意、正直といった価値観は、普遍でも真理でもない。ヨーロッパにもアメリカにも中国にも、それぞれの価値があり正義があり利害がある。ただ、それだけである。

 私達は日本に生まれた。特に私のように戦後(昭和34年)に生まれた世代は、歴史上誰も経験したことのないような、平和で豊かな生活を送って来た。ただし、わずかな時間をさかのぼれば、我が国もまた大きな国難に何度も見舞われて、必死に戦って来た。総力戦を戦うためには、軍備だけではなく、国学、思想といった知をも総動員した。先生はこの本で、何が何でも日本を礼賛しているわけではない。そう、歴史もまた是々非々で見るべきだと思う。先生の視点は、我が国の長い歴史を語りながら、つねに現在へのまなざしを忘れていないのではないだろうか。歴史に学ぶということを、我が国では過去の悪を繰り返さないと定義してしまったが、そこに大きな不幸があったと思う。本当に歴史から学ぶということは、人間が起こした歴史から、人間の本質を探り、現在のあるべき姿に反映させることではないかと思う。異質を理解するということは、その異質を育んだ文化の基底を知ることでもある。日本人も海外から見たら異質であろう。それで構わない。すぐれた点も、どうしようもない欠点もある。それらをすべて受け継ぐかたちで今の日本人がいる。近代文明を生み出し、文理にわたる近代学問を確立したと自負するヨーロッパにも、歴史の暗部はある。より多くあるといってもよい。歴史といわれているものの多くが、実は戦争の記述である。古代の英雄譚も戦史であり、NHKの大河ドラマも半分くらいは、内戦の物語ではないだろうか。権力闘争は、人間のどうにもならない本能であろう。現在はたまたま経済による代理戦争を戦っているが、戦争もまた、権力闘争であり、かつ経済闘争でもあるという側面を持つ。これも古代から変わらない原則ではないかと思う。

 人間のみがつねに過剰への欲求を持つ。蕩尽への飽くなき渇望がある。これがある限り、争いがなくなることはないであろう。

      文責:浅野 正美
(坦々塾のブログより転載

非公開:『諸君!』4月号論戦余波(三)

 今日は対論をめぐる三つの観点をとりあげてみたい。私の所論への批判の最も典型的と思われるものが次に挙げる第一番目の例である。これはほんとうに典型的である。

筆不精者の雑彙

『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊夫=真贋論争』を決着する」より一部引用

 小生はこれらの切り口とは少し異なった点から、主として西尾氏の言論を批判してみたいと思います。といいますのも、小生のこの対談を一読した際の感想は、議論が全く噛み合ってない、ということでした。西尾氏が「これが正しいのだ!」と叫ぶのを、秦氏は「あー、うざいなあ」という感じでいなしている、そんな印象です。

曲がりなりにも日本近代史の勉強をしてきた身として、秦氏の発言は至極当たり前に感じられました。それに噛みついている西尾氏の言動は、歴史を論ずるということ自体を根本から分かっていない、と書くのが傲岸であるとするならば、歴史でない何かを論じようとしている、そのようにしか読み取れませんでした。であれば議論が噛み合わないのも当然です。雑誌の煽り文句で、広告にも掲載された秦氏の言葉が「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」というのも、歴史でない話をしたいなら歴史でないところでやれ、という謂ということだろうと思います。

 しかし、ネットで見つけた上掲のいくつかのブログを読むと、歴史でないものを「真の」歴史と思い込んでいるブログが少なくないことに気がつきます。小生は、これこそがこの対談の最大の問題であろうと思います。つまり、歴史の「何を」論じているかではなくて、歴史を「いかに」論じているか、そちらが肝心なところだと。

文:bokukoui(筆不精者の雑彙)

 私に対して「歴史を論ずるということ自体を分っていない」といい、「歴史でないなにかを論じようとしている」という言い方からしてすでに秦氏流の歴史がすべてだと思い込んでいる人の典型的きめつけといえる。この人は彼の考える「歴史」というものを信仰している。

 しかし『諸君!』3月号拙論のほうで私が「パラダイム」の変換ということを言ったのを覚えておられる人もいよう。歴史は動く、とも言ったし、歴史は時間とともに違ってみえる光景だとも私は言った。秦氏自身がこのことをまったく理解していなかった。

 二番目にあげる例文が一番目の人の迷妄を完膚なきまでに料理している。一番目の人の「歴史」はたくさんの歴史の中の一つの歴史にすぎない。パラダイムが安定している枠内ではじめて可能になる歴史である。

セレブな奥様は今日もつらつら考えるのコメント欄より

遅ればせながら、数日前にようやく「諸君!」の西尾・秦論争を読んでみました。お二人はすごく対立しているように読めるし、実際、そうなんですが、しかし両者とも対話に必要な相互承認というものがあって、とても有益な批判の応酬になっているんですね。西尾先生はインターネット日録で秦さんのことを、保阪正康さんや半藤一利さんたちよりずっと認めている、といわれていましたが、本当にそうだと感じました。

 ただ、そういうことを中立的に私が言っているだけでは、読者としてやはり欺瞞的なことで、はっきりいいますと、私はやはり秦さんの立場は採用できないですね。

 お二人が一番鮮明にその対立点を明確にしているのは、西尾先生が、「史実を確認することはまだ歴史じゃない」「厳密には史実の認定なんてできない」といい、歴史の本質というものは物語であり神話である、と言われたことに対して、秦さんが猛然と反撃して、「私達専門家の領域を侵犯しないでください」というところ、やはりここになったなあ、と思いました。

  「認識される対象の意味が固定的でない」こと、つまり事実というものの意味が絶えず変化する、ということは、(とりわけ近代以降の)哲学理論や社会思想史ではある意味普遍的な前提で、ニーチェはもちろんのこと、メルロ・ポンティのような社会的には左翼的立場を採用した哲学者も繰り返しいっているし、読み手と文字の間の間に絶えず「意味のズレ」が生じていくことが「意味」である、といってポストモダニズム思潮の旗手だったデリダも、こういう思考を前提としています。こうした事実認識は歴史的問題にもまったく同じだ、というのが西尾先生の立場だと思われます。

 たとえば、コロンブスの北米大陸到着も、ジンギスカンの大陸制覇も、当時そのものの状況に近づけば近づくほど、個人や民族のエゴイズムに無限に近づいていきます。コロンブスなんてただの山師だったと思います。しかし今では、両者の行為は東西文明の出会いという「別な意味」を与えられている。こういうふうに「史実は絶えず変化する」のです。同じことは日本と中国やアメリカの戦争についてもあてはまるはずなのです。しかし秦さんはそれをまったく認めようとしない。秦さんは徹底徹尾、「事実」の意味を単一なものの方向性へと固定し、その「事実」そのもの集積の先に見出せる大きなものがある、というある意味で非常に古典的な(といっても「近代古典的」な)観方に固定するという職業意識から故意に離れないんですね。

 だから、西尾先生のいろんな「事実の読みかえ」の可能性の指摘、つまりコロンブスやジンギスカンの例のようなことの指摘が、「正しい意味」をもっていると信じている秦さんからすると全部、陰謀史観にみえてしまうのです。そして、暗に、西尾先生に対して、「それはヨーロッパ哲学の専門家の西尾先生の意見でしょう」といいたげです。昭和史の歴史的事実の解釈については、お二人の応酬にあるように、それぞれいろんな捉え方ができるでしょうし、秦さんの事実認定のすべてがおかしいわけではないし、西尾先生の事実認定に対しても反論の余地がありうると思います。しかし、そんなことは本当はどうでもいいのではないでしょうか。もっとも大切なことは「歴史に対しての態度」ということで、その根源に触れあったとき、秦さんは「専門家」という「籠城戦」に後退し、西尾先生の攻勢の継続で対談は終わっている、といえます。

  しかし、この「歴史に対しての態度」という根源の触れあいに至っただけでも、他の悪口の言い合いだけの凡庸な対談とまったく違う、強い有意義があったと考えるべきでしょう。それは西尾先生と秦さんが、お互いに和して同ぜずの相互承認で認めあっているからこそ可能だったもの、と思います。

 西尾先生も言われていますけど、こういう秦さんのスタイルだからこそ可能だった秦さんの業績や存在感というものもあるということは公平にみなければならないと思います。最近も秦さんの旧制高校についての著作を読みましたが、秦さんらしく、本当によく調べて書かれた貴重な研究書でした。しかしそういう秦さんらしさが発揮されるのは、この旧制高校の書にあるように、資料と著者の関係が「安定」している場合に限られれるわけですね。

文:N.W(うさねこ)

 二番目の方は渡辺望さんといい、私の若い知友の一人である。知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない。私と秦さんの両方を公平に見ている。

 渡辺さんはよく勉強し、しかも洞察力のある人である。私が先に言った「歴史は光景だ」は実際メルロ・ポンティから採っていたのである。

 秦さんと彼に基く一番目の人の歴史は19世紀型の歴史である。外枠(パラダイム)が安定していた時代の歴史主義の歴史で、実証らしいことができるのはそういうときの歴史に限られる。

 しかも秦さんの歴史意識は日本の軍部は悪者だとつねに決め付けている敗戦国文化に色どられている。だから実証的にしているつもりでも、実証にならない。立場の違う人には逆の意味に読まれてしまうからである。

 この点で次にとり上げる三番目の人は、歴史と政治の関係をしっかり踏まえて、秦さんの実証が成り立ったケースと成り立たないケースとの両方があることを見て、これを区別して論じている。以下を読めば、歴史と政治の関係をみないならば、彼のことばでいえば木を見るだけで森を見ないならば、どんなに緻密な実証も見当外れに終ることがはっきり分るであろう。

えんだんじの歴史街道ろ時事海外評論より

西尾幹二氏 対 秦郁彦氏

雑誌「諸君」4月号で両氏が田母神論文で激突対談を行っています。私はこの両者の対談を興味深く読ませていただきました。西尾幹二氏と私の大東亜戦争史観はほとんど同じです。ところ秦氏の戦争史観が、私にはいま一つわからないとことがありました。特に秦氏が田母神論文批判の先鋒になったからです。

秦氏は、いまはやりの歴史捏造、歪曲の朝日新聞や左翼知識人とは異なり、現在の日本国家に貢献する非常に良い仕事もしておられます。秦氏最大の貢献は、「従軍慰安婦」事件の調査です。「従軍慰安婦」事件の始まりは、元山口県労務報国会下関支部動因部長を自称する吉田清治が、1982年に「私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行」という本を出版した時からです。

吉田は何回も韓国へ行き、謝罪したり、土下座したり、慰安婦の碑をたてたりしています。テレビにも日韓両国で出演、朝日新聞は吉田を英雄のように扱い、何度も新聞紙上に大きくとりあげて報道しました。この本の翻訳文が日本人弁護士によって国連人権委員会に証拠として提出されました。また教科書裁判で名を馳せた故家永三郎などが、自分の著作にこの本を参考文献として利用しています。

この本の内容に疑問をもった秦氏は、1992年済州島にわたり裏付け調査をし、吉田の本の内容がでたらめであることがわかりそれを公表しました。吉田はそれを認める発言をしたため、あれほど新聞紙上に何回も登場させていた朝日新聞は、それ以来ぴたりと吉田を登場させず、吉田を語らなくなりました。吉田は、メディアにも登場しなくなりました。秦氏は日本国家の名誉を救ったのです。

秦氏は、沖縄の集団自決問題でも、集団自決の原典ともいうべき沖縄タイムス社の「鉄の暴風」を批判、その「鉄の暴風」を基に書かれた大江健三郎の「沖縄ノート」を批判、秦氏自身も集団自決を否定しています。

その他、秦氏は教科書裁判で名前をうった故家永三郎がまだ生存中現役で活躍していたころの家永を批判していますし、また朝日新聞を反日新聞と批判しています。その秦氏が田母神論文を一刀両断のもとに斬り捨てているのです。だからこそ私は、秦氏が西尾氏にどのような主張をするのか非常に興味があった。

雑誌「諸君」に語られている秦氏の主張をいくつか挙げてみます。
1.東京裁判は、マイナスの面があったが、プラスの面もあった。比較的寛大であった。
その証拠に日本国民の反発がなかった。
2.コミンテルンの陰謀はなかった。
3.ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだという陰謀説は成り立たない。
4.ルーズベルト政権の中国援助は、国際政治の駆け引きにすぎない。
5.日本はナチスという「悪魔」の片割れだった。

こういう彼の主張を読んでいると、私はただ驚くばかりです。なぜなら秦氏は、昭和の歴史を細部までよく知っているからです。彼の著書に菊池寛賞を受賞した「昭和史の謎を追う」上下巻(文芸春秋社)があります。上下巻とはいえ、一頁を上段下段に分け細かい字でびっしり書かれています。実質的には一巻から四巻に匹敵する大作です。なにを書いているかと言えば、昭和で話題になった37件の事件を詳細に調べあげて書いています。秦氏の作品は、綿密に調べあげて書くので定評があります。

要するに私が主張したいのは、秦氏のように歴史の細部を知っているからといって、必ずしも歴史観が正しいとは言えないということです。俗にいわれる「木を見て森を見ず」なのです。なぜこういう現象が起きるのかその理由を西尾氏の意見と重複するところもありますが三つあげます。

1.大東亜戦争を昭和史の中で理解しようするからです。そのため自ずと日本国内の動きだけを追いかけ日本批判に陥ってしまうのです。大東亜戦争は幕末の時代から追っていかないと本質をつかめません。

2.私は、60年以上前に起きた大東亜戦争を現在の価値観で裁くなといつも主張しています。西尾幹二氏も本誌で「現在の目で過去を見る専門家の視野では、正しい歴史は見えない」、また「歴史とは過去の事実を知ることではなく、過去の事実について過去の人がどう考えていたかを知るのが歴史だ」とも書いています。全く同感です。

皆さんは特攻隊員の遺書を読んだことがあるでしょう。彼らの遺書を読むと、特攻隊員に共通の認識が理解できます。彼らの共通の認識とは何か。それは大東亜戦争を自衛の戦争と考えていたことです。だからこそ特攻隊に志願したりするのです。自分の死に大義名分があるのです。彼らは、自分の家族や恋人に遺書をのこしましたが、自分の死に対する不満やぐちを書いていたものがありましたか。

もし大東亜戦争が、侵略戦争であるというのが彼らの共通の認識でしたら、特攻隊に志願するでしょうか、家族や恋人への遺書には、自分の死に対する不満や愚痴だらけになっていたのではないでしょうか。

3.大東亜戦争は、日本史上国内で戦われた合戦とは大違いです。異民族、すなわち白人との戦いです。その白人は、コロンブスがアメリカ大陸発見以来500年間、すなわち20世紀まで有色人種の国家を侵略し続け植民地にしてきた。そのため大東亜戦勃発時、有色人種の国で独立を保っていたのは、日本以外の独立国はタイやエチオピアなどほんのわずかです。従って大東亜戦争は、世界史というわくの中で理解しなければなりません。また敵国民族は白人ですから、白人の文化とか白人の精神構造とかいわゆる白人の民族性まで考慮して大東亜戦争というものを捉えていかないと大東亜戦争を理解できないのです。

秦氏の歴史観の欠陥は、大東亜戦争を世界史の中で全く捉えようとしないことです。だから戦争前からアメリカが日本にいだいていた悪意を全く理解できないのだ。また秦氏は、精神的にナイーブな面もあるのでしょう。裁判所は悪人を裁く所という解釈だけしか理解できないのではないか。勝利国が自己を正当化するために裁判を利用するなどという考えは、秦氏には想像できないのではないか。

秦氏は、西尾氏の面前で田母神氏についてこう語っています。「一部の人々のあいだで、田母神氏が英雄扱いされているのは、論文自体ではなく、恐らく彼のお笑いタレント的な要素が受けたからでしょう。本人も『笑いをとる』の心がけている」と語っています。すかさず西尾氏から「田母神さんを侮辱するのはやめていただきたい」と注意されています。

秦氏は、なぜ田母神氏が多くの人に熱狂的に支持されているかその背景がまったく理解できていません。田母神氏を侮辱することは、彼を支持する私たちを侮辱するのと同じです。私は怒りを感じます。「秦さん、あなたは私の著書、『大東亜戦争は、アメリカが悪い』を読んで勉強しなおしてください。

本誌でも西尾氏が指摘していますが、中西輝政氏が三冊の名著をあげています。その一冊にJ・トーランド「真珠湾攻撃」があります。この翻訳本(文芸春秋社)の246頁にマーシャル参謀総長は、「アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライング・タイガース社の社員に偽装して中国に行き、戦闘行動に従軍していた」と公言しています。ところが秦氏は、本誌で「この時期フライング・タイガースはまだビルマで訓練していて、真珠湾攻撃の二週間後に日本空軍と初めて空戦したんです」と語っています。

マーシャル参謀総長の発言、「戦闘行動に従軍していた」という意味は、なにも秦氏が主張する日米空軍機どうしの実際の空中戦にかぎらず、シナ事変中米軍機が輸送活動に従事していたら日米開戦前に米軍は参戦していたことになりませんか。

最後に西尾氏と秦氏の人物像をとりあげてみます。1960年代、日米安保騒動華やかなりし頃、日本の多くの知識人は、ほとんど我も我もと言った感じで、反米親ソ派と自虐史観派になりました。そのころでさえ西尾氏(20代)の歴史観は、現在となにも変わっておりません。皆さんは知識人の定義とはなにかと問われれば、なんと答えますか。私の答えは、知識人とは時勢、時流、権威、権力に媚びないことです。日本には時勢、時流、権威、権力に媚びる人知識人が多すぎます。従って日本には真の知識人と呼ばれる知識人が非常に少ない。西尾幹二氏は、その少ない真の知識人の一人です。

秦郁彦氏が、日米安保騒動時代どういう態度をとったのか私は知りません。彼の経歴を見ると、国際認識というか国際感覚というものに鈍感どころか鋭敏であってもおかしくありません。それにしても大東亜戦争を世界史の中で捉えるということが全然理解できていません。全くの自虐史観です。しかし彼は歴史の細部、「従軍慰安婦」事件や沖縄の集団自決などでは反マスコミです。ここでもし秦氏が、自虐史観を改めたら、マスコミに相手にされなくなってしまいます。

マスコミは、自分たちの日頃の歴史捏造や歪曲に批判する秦氏が自虐史観を主張するので余計彼を利用する価値があるのではないでしょうか。従って歴史観に関することには、積極的に秦氏を利用しているように見受けします。秦氏は、ひょっとしてマスコミ受けをねらった器用な生き方をしているのではないでしょうか。

文:えんだんじの歴史街道と時事海外評論より

 この文章を書いた人は鈴木敏明さんといい、幾冊も著作のある私の知友である。知友だから私を応援している、という文章ではない。人間はそんな風には決して生きていないのである。ご自身の価値観に関わる問題だから一生懸命書くのである。

 とくにインターネットに書く場合には、頼まれて書くのではないのだから、無私である。私もこれを書いたのは誰かはじめのうちは分らなかった。

 一番目の人が私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。