非公開:私のうけた戦後教育(四)

続・民主教育の矛盾と欠陥

 知育偏重とよく言われるが、けっしてそういう事実はないのである。これは大学だけではない。中学や高校の教科内容においても大学と同様、知識の過剰が教育を歪めているのではなく、制度や組織、あるいは方法や動機の方に問題があるのである。

 六三三制の採用は12才から18才までを二分し、二度の受験によって生活から落ち着きや持続性を奪うという弊害があり、そしてこれは事実なのだが、受験のための詰め込み勉強そのことが悪いのではない。試験の内容や方法がいかにも悪い。私自身の経験からも言えることだが、○×式・穴うめ式試験方法は、大量の受験生をさばくために公平を期すという機能面にとらわれすぎて、大事なことが見失われているように思える。

 自分の言葉で自分の思考を発展させて行く前に、他人の言葉で自分の思考が規定されてしまうのである。しまいには他人の言葉がなければ思考できず、他人の言葉を符牒のように受けとって一定の条件反射を繰返す型の知能を生み出す。競争が激化すればするほど試験の《形式》に自己を適応させて行くのが受験生の習性である。

 今日行なわれている試験は、思考能力を問うているというより、その適応能力を問うているといった方が正しい。問題を正直に考え過ぎる人間はかえって損をする。果たしてどの程度のことが問われているのか、などと予め出題の動機まで見抜いてかからなければ答えられないような問題さえなかにはある。

 こうした出題がなされているかぎり試験競争はたしかに有害であるし、これはぜひとも至急改めてもらわなければならない。最大の教育問題の一つなのである。しかし、競争そのことが有害なのではけっしてない。これはいくら激化しても憂うる心配はなに一つない。一部の民主教育理論家が言うように、試験によって人間の能力を判定している社会の価値観は人格に差をつけようとする思想の反映である、などという理屈は成立たない。

 逆に民主主義がすすみ、既成の価値観が壊滅し、人間が平均化すればするほど、エリート養成法として最も安易で人工的な「試験」への要求度は高まるだろう。どんな社会にもエリートは存在するし、また必要とされる。問題は、教育の機会均等という美名の下に戦後20年正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことの方にある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。

 知識習得への情熱は、本来無償の情熱である。それは真理への情熱だと言ってもいい。権力への情熱でもないし、世に言う教養のためでもない。が、今日ほどこういう言葉が迂遠に響く時代もないだろう。今日夥しい数の受験生を支えている衝動は一体何か。知識欲だとはお世辞にも言えまい。快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲――要するに自己逃避へ欲求以外の何物でもない。しかもこの逃避に負けず自己と戦う受験という試練に耐え抜かねばならないのである。これは明かに矛盾である。

 一年乃至数年の熾烈な禁欲に耐える予備校の浪人達こそ、教育とは自己教育であるという教育精神の真諦をいわば体得した人達であり、現代日本で教育を受ける苦しみとそして喜びとを知り得た数少ない例外者達だが、奇怪なことに、彼らの教育へ真の情熱は、将来の生活保証という、まことに見窄らしい思想によってしか支えられていないのである。かつて維新の開国期に「緒方塾」に参集した福沢諭吉ら青年壮士を支えたような情熱はむろんどこにもない。逃避のあるところにしか教育がない――これが戦後教育の反語的現実である。

 好むと好まざるとにかかわらず、これは私達の現実である。そうはっきり認めたうえで、私はすべてを善しとするつもりはない。これが事実であることをどこまでも誤魔化さずに見抜いておくことが現代の教育論議の前提だというのである。私はそう悟った上ですべてを悪とみる。受験生に理想がないからではない。今日の日本に、あるいは近代文明そのもののなかに、どんな理想も存在しないし、存在したところで、それは結局作り物の合言葉で終るしかないように思えるからである。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(一)

kkiga.jpg 私はもう何年前になるか覚えていないが、小浜逸郎さんを介して『飢餓陣営』という個人雑誌を出している佐藤幹夫さんとお識り合いになった。洋泉社の小川哲生さんと三人で何度かご一緒し、酒盃を交したこともある。

 佐藤さんが児童精神病の問題に関心があり、自閉症の少年事犯について立派な著作を出されていることをそのときは知らなかった。彼の関心は持続的で、岩波書店から『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』をもお出しになって、17歳の自閉症裁判のかかえる問題、責任能力、罪と罰、刑罰か治療かといった深層心理にも入る難問に取り組んでおられるらしいことも、最近少しづつ知るようになった。

 『飢餓陣営』は少し前まで『樹が陣営』という名だった。教育や哲学の雑誌で、小浜逸郎さん、長谷川三千子さん、佐伯啓思さん、竹田青嗣さん、刈谷剛彦さんなどがよく寄稿されていることは知っていた。

 今お名前を挙げた方々は、皆さんが私の主宰する勉強会「路の会」に来てお話をして下さった方々であることもお伝えしておく。また、佐藤幹夫さんは『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書)というユニークな一書をもお出しになっている。このことも逸せられない。

 私が『飢餓陣営』に二度にわたって長文の三島論を書くに至った佐藤さん側の勧誘の動機は、「編集後記」に次のような表現で記されている。

前号の三島・吉本特集の執筆依頼者を考えるさい、いま三島由紀夫をきっちり論じることのできる文芸評論家は誰がいるのだろうか、と熟慮を重ねた結果、たどり着いたのが西尾氏でした。企画者自身、まさかこれほどのドラマが隠されていたとは思ってもみませんでしたし、政治イデオロギーで(あるいは政治的予断をもって)なされる、文学作品や文学者に対するレッテル貼りが、いかに文学を理解しない愚かなことか、改めて感じました。西尾氏には深く感謝です。(本論はさらに一章が追加され、PHP新書として刊行予定です。)

 連載の第2回目の載った『飢餓陣営』第33号が3月末ごろに刊行された。宮崎正弘さんがさっそくにメルマガに取り上げて下さった。私が自分で説明するよりも上手にまとめておられるので、感謝をこめてここに掲示させていたゞく。

(宮崎正弘氏のコメント)
ところで西尾幹二氏が事件から38年を経て、はじめて本格的に三島由紀夫を論じています。連載は昨年から『飢餓陣営』という雑誌で開始され、発売されたばかりの2008年3月号(『飢餓陣営』、33号)が二回目です。
 
連載といっても一回分が長い。なんと今月号の第二回は140枚です。
 
論旨は生前の三島さんと西尾氏は一度だけだが、会ったことがあり、三島邸へ招かれて談義のあと、いきなり六本木へ飲みに連れて行かれたときの感動と哀切と友情をこめて書かれた内容で、これが第一回目でした。
 
それを受けた第二回は生前の三島さんが、西尾氏の論じた三島論を本質的なものと注目していたことが、ようやく38年にして明かされます。死の直前の三好行雄氏との対談でも三島さんは、それを活字にしていた。
 
三島さんはこう言っているのです。
 「西尾幹二のこんどの評論は、ぼくの、芸術と行動の間のギャップみたいなものを統一的に説明した良い評論だと思う。だれもいままでやっていなかった」(三好氏との対談、『國文学』昭和45年五月号)。

 
芸術や思想と人生の実生活とは異なり、ショーペンハウエルは厭世主義を唱えたが、楽天家だった。葉隠を書いた山本常長は畳の上で死んだ。それなのに日本の私小説作家には、堕落した日常生活を作品にした太宰治のように、この二元論がない。三島は、日常生活をサラリーマンのように時間を管理して生きたが、作品のなかでは勇躍無尽だった。
 
三島の口癖は「ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた」
 事件後、わかって良いはずの保守陣営がさっぱり三島の本質をわからず、論評せず、江藤淳に至っては、あれは「ごっこ」だったと言い張って、論壇自体が大いにしらけていた。
 
そうした知的情況の中で、西尾さんはおおいに傷つけられ、ニーチェの翻訳に没頭していく空白期が赤裸裸に描かれています。
 
完結後の単行本が早くも、待たれます。また既報のように今年の憂国忌は、この本をテーマに西尾幹二氏の記念講演です。(11月25日、九段会館)。

(なおこの雑誌『飢餓陣営』33号は池袋リブロ、神田東京堂、高田馬場芳琳堂、八重洲ブックセンター、大阪りょうざんばく、京都三月書房、久留米リブロ、池袋ジュンク堂などでしか扱っていません。直接の申し込みは
 273-0105 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷8-2-14-102 佐藤幹夫
 メール miki-kiga@kif.biglobe.ne.jp
 郵送注文は送料とも1200円。郵便振替 00160-4-184978 飢餓陣営発行所(名義)です。

 憂国忌のことはまだ悩んでいるが、宮崎さんは掲載雑誌の販売ルートまで書いて下さっているのは大変ありがたい。どこの書店にも置いてある雑誌ではないので、文末の指示に特段のご注意を払っていただきたい。

 では、私の今度のこの仕事は、どのような目的と狙いから書かれたか。第2回目の掲載文の冒頭で、私自身が次のように説明しているので、以下にこれも紹介しておきたい。

 本稿で私は三島文学を論究するのでも、三島さんの死をめぐる諸解釈を再吟味するのでもありません。三島さんの文学もその死をめぐる諸説も、本稿の目的とする範囲を超えていることをあらためて申し述べておきます。私は最初にも言った通り、死の前後に偶然この作家に精神的に関わった執筆者として、直前と直後に書いた自分の文章をとりあげ、前と後とで共通する主題を再提出するだけでなく、微妙な内容の変化と世間の反応の移動を思い出すままに報告したいのです。これが第一点です。

 次いで私が三島さんの死の前に書いた文章に三島さん自身が生前反応していたという興味深い事実があります。このことを私は今まで人前で話すことはありませんでした。私自身がそういう事実のあることを人から教えられたのは彼の死後です。私があえてそれを取り上げなかった理由は、今思い返すと複雑です。「三島事件」となったあの死以後、各方面の人々が、「私は三島さんからかくかくの次第で接近がなされ、今思えば謎の死の秘密を解く鍵だった」と言い立てるケースが数多くみられたからです。同じ仲間と思われるのがいやだというよりも、私のケースも同類なのかもしれないという思いは正直あります。

 三島さんが寄せた私への関心を本気にしなかったのではなく(私は当時も今も本気にしています)、話題を遠斥けたもう一つの理由は、前にも申し述べた「恐怖」にあります。私は単純に怖かったのです。「三島と西尾は思考のパターンが似ている」と秘かに保守系知識人の仲間――当時の日本文化会議のメンバー、等――に噂された事実があり、私は威かされているような、からかわれているような不安な心情に襲われました。

 あの時点では「お前もテロリストか」といわれているのと同じですから愉快なはずはありません。

 三島さんの私への言及を私が逃げたもう一つの理由は、後で詳しい分析を語りますが、ひょっとすると生前の三島さんを私が私の論理で死へ向けて追いこんだのではないかという内心の危惧の念があったからでした。今はそんな心配はしていません。しかし当時は不安でした。そう思った理由はそれなりにあるので、この件はだんだんにお話します。

 以上のような次第で、本稿は三島文学論でも、その死の総括論でもなく、死の直前と直後に彼に言及した一執筆者の体験の報告に目的を限定します。

非公開:私のうけた戦後教育(三)

民主教育の矛盾と欠陥

 知識教育がその後全国的にいっせいに再開されたということは、戦後の民主教育の根本的な矛盾と欠陥が克服されたことを意味しはしない。じつはそこに問題があるように思える。教育に民主主義という抽象理念をもちこんで、その純粋培養をはかろうとすることの愚さがひろく認識されたことの結果ではけっしてない。受験という否応のない現実に強いられ、仕方なく理念を修正し、頭の中の抽象的夢想を一時保留しておかなければならないと、やむなく教育者が妥協した結果でしかないように思える。私が受けた教育経験だからそう言うのではない。最近ある進歩的教育集会に出席してみて、しみじみそう感じた。

 受験競争は社会の現実が生み出した一つの「必要」であって、善し悪しは別としても、そこには実体がある。が、教育者はそういう事実を認めることをつねに避けようとする。現実に耐えることから出発しようとする姿勢がまったくない。ただただ現実を「悪」として否定し、自分の仲間うちだけ通じる符牒のような言葉で、あるべき教育の姿を論じて夢想にふけっている。そして二言目には受験が教育を歪めているという。裏返せば、受験という強制の枠を外されれば、明日にでも民主主義という名の「道徳教育」の実践に乗り出し、子供を意識的・人為的・目的的な教育観の道具に化そうというのであろう。彼らがそういう目論見を意識しているというのではない。無意識ではあるが、というより無意識であることこそ、結果がこわいのである。

 多少皮肉な言い方をすれば、受験競争、出世競争があるからこそ教育は今日辛うじて教育らしい格好を保っているのではないか。教育の情熱が生きているのは、予備校だけではないか。それ以外のところでは、できれば子供を少しでも甘やかして育てたいという善意の倒錯があるだけだ。教育などはじつはどこにもありはしない。必要十分な知識を学ぼうとする激しい情熱、悪意や怨みをかってでもそれを教え込もうとする厳しい熱情――そういうものの生きていないところでは、教育そのものが成り立たないのだ。

 もし道徳教育というものが行なわれるとすれば、それは知識や技術を伝達していくその形式、態度、方法によって表現され、その厳しい習得過程のうちに自ずと形づくられるものなのである。けっして特定の「徳目」によってではない。かつて人文主義的な教育理想が追求されていたドイツのギムナジウムで、ギリシャ語やラテン語の詩句の暗記などがいかに厳格に行なわれ、そういう味けない作業を通じて西欧の伝統的な詩型と韻律への感受性、古代への愛情とその理想主義への畏敬の心が、いかに効果的に培われたかを考えれば、知識を軽視し、抽象理念を振り廻すといったようなことが、教育の自己破壊であることは自明の理であろう。

 にもかかわらず、毎年三月が来るたびに中学・高校の予備校化が新聞の話題になり、教育を歪める知育偏重の声が叫ばれる。知育偏重そのものはけっして悪いことだとは私には思えない。それどころか今日の教育の現状から考えれば、知識と技術の伝達はまだまだ足りないのだ。私自身甘やかされた教育課程を歩まされてきたお陰で、自分の中にたえず基礎的な知識や技術上の訓練の不足を感じている。私は勿論過去の教育内容に責任を転嫁しようなどと思ってはいない。

 が、ときにはなぜもっと漢文などを自由に読める下地を与えておいてくれなかったか、なぜ大学の教養課程でラテン語やギリシア語の少くとも一方を必須科目にしておいてくれなかったか、などという弱音を吐くときもないではない。そういう不満は私ばかりではない。

 戦後教育をうけてきた者が戦前の人達にもし劣っている点があるとすれば、この基礎的な訓練であって、例えば漢語造形能力、古文に親しむ習慣。ドイツ語ひとつを例にとっても、旧制高校では一週13時間あったものが、今日では4時間しかない。そしてなんら統一のない雑多な諸科学の詰め合わせセットを教養と称し、「幅広い教養人の養成」というまたしても抽象的・目的的な見取図によって、一番大事な時期に多大の時間を分散させ、二年きざみの学制によって自己集中の機会を逸している。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:私のうけた戦後教育(二)

直輸入教育の犠牲者として

 私達がうけた正規の授業は、大部分グループ教育、サークル教育の形式をとった。あるとき一学期全部を「アメリカ研究」というテーマに費やしたことがある。これは「総合教育」の成果として市の進駐軍から称賛されたばかりでなく、担任の先生はPTAの席上父兄を前に得意の一弁説をふるったという。私は県の教育関係者や県内各地の小中学の先生たちがさかんに私達のところへ視察と参観に来たことを覚えている。

 その経過を振返ってみたい。私達はまずアメリカ研究の方法について、相談役である先生の意見を参考にしつつクラス討論を行なった。実際はともかく、一応形は生徒の自主性で事を進めるという建前がとられていたのだ。それから各班がアメリカの工業、アメリカの地理、アメリカの家庭生活、アメリカの歴史といった研究グループにそれぞれ分れた。まるでクラブ活動みたいなものだ。時間割がないのだから、毎日がこの「社会科」である。国語などは、一ヶ月に一回ぐらいしかない。日本の地理や歴史は全然習わなかった。

 私が属したのは「アメリカの地理」というグループである。そこで何をやったか。私はことさらに誇張して言っているのではない。正規の授業時間中に私は何度も粘土や絵具を買いに町に出かけ(時間の利用は生徒の自由に任されている)、社会科教室約半分の大きさに北米大陸の模型を作り、粘土のロッキー山脈に色を塗り、紙で作ったニュー・ヨークや各都市の間に電気機関車を走らせる。要するに遊びである。遊びたい盛りの年頃にはこれほど楽しい学校はないわけだ。

 が、先生に言わせれば、地理を学びながら同時に図工を学ぶという総合教育の成果を上げ得たことになるらしい。また一つの研究目的に力を合わせることで民主的な共同精神が養われるという。それは知識教育では得られない貴重な生きた教育だという。三ヵ月後に各班が作ったグラフや模型を材料にして、研究成果(?)を発表し合ったが、参考書の丸写しにすぎない内容を読み上げることが、自分の意見を堂々と発表できる自主的な子供を育てるためだと説明された。

 まったくお笑いである。

 しかし、いまだから笑ってすまされるが、私達はていのいいモルモットであっただけでなく、じつは深刻な犠牲者でもあったのだ。学力の低下は著しく、私はこの二年間に手ひどい被害をこうむった。見るに見かねた両親が中学三年の始めにこの学校から私を退学させ、東京の普通中学に移したとき、二年間の空白は深刻な形で私を襲った。

 当時すでに東京では受験競争が始まっていたのである。私は温室のなかの民主主義から現実にほうり出されたほどの衝撃をうけた。アメリカ式新教育の途方もない誤解形式は、東京ではすでにある程度は是正されていたのかもしれない。受験準備の慌しい知識教育が今ほどではないが、可也り熱心にすすめられていた。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

非公開:私の29歳の評論と72歳のその朗読

 「花田紀凱ザ・インタビュー」というテレビ番組の再放送が本日23日(日)の午後7:00から8:00の時間帯にあり、私が出演します。

 TOKYO MXテレビ14の放送で、普通テレビ受像機では9チャンネルです。東京以外に電波がうまく届くのかどうか私は知らないのです。

 新聞をみると、少し羞しいのですが、「ザ・インタビュー(再)『これから成すべきこと』72歳論壇の雄・西尾幹二が明かす今後の計画」と書かれています。

 私が一般地上波テレビに出演することは滅多にないので、私の残りの人生の抱負を語る番組としてあえておしらせしておきます。この中で私は29歳のときに書いた大江健三郎批判の評論の一部を朗読しています。

 1965年(昭和40年)の『自由』7月号の「私のうけた戦後教育」からの朗読です。この評論は単行本に未収録で、今まで世にまったく知られていません。

 私の新人賞論文がのったのは同誌の2月号で、「私のうけた戦後教育」は二作目でした。大江健三郎は昭和33年に芥川賞を受賞し、小説の他に『厳粛なる綱渡り』というエッセー集を出していて、それを私が批判しました。今なら大江健三郎への批判は珍しくありませんが、当時はだれもまだ思いつきません。彼はほめちぎられていました。

 以下に全文を掲示します。大江への言及は終結部分に出てきます。

私のうけた戦後教育(一)

「民主教育」という愚かしく、腹立たしい体験から私は何を得たか。あるべき教育を訴える

 新制中学での体験

 私は戦前の教育を知らない。

 私のうけた教育は大半が戦後教育である。大半と言ったのは初等教育の最初の三年半が戦時中であったからで、私は「国民学校」に入学し、「尋常小学校」を卒業した年代に属するからである。中学は、「新制中学」であった。まだ戦禍の跡も生々しく残る昭和23年、私は疎開していた水戸市の茨城師範附属中学に入学し、二年後東京に戻ったが、その二年間に私が附属の教育をうけたということは、いまいろいろな意味で回顧に値することのように思える。

 戦争直後、アメリカ式コア・カリキュラムや民主教育の呼び声が怒濤のように流れ込んできたとき、鋭敏に反応し、まっ先にそれを受け入れたのが附属の教育である。学校全体がいわば新教育の実験場であった。附属というようなところには必らずといっていいほど熱心すぎる先生、教育理念にとり憑かれたような先生がいるものだが、私の担任もそんな一人だった。

 当時は社会風俗もひどく混乱していた時代だ。新教育のいき過ぎは社会の安定に伴いその後かなり是正されていったであろうから、以下の報告はいまではほとんど信じてもらえそうもない昔物語かもしれない。しかし、戦後の民主教育がたどった諸傾向のある意味における原初形態が、このとき私が体験したもののうちにあったことだけは認めてもよいだろう。

 教室における机の配置。通例の形式をとらず、三人づつ向い合う六人一組のグループ(男女各三)を八組ぐらい編成し、教室内に適当な間隔をあけて配置する。黒板に背中を向ける生徒もいるわけだ。教壇は取り払われ、先生の机は窓ぎわに移された。私達の学校は陸軍歩兵隊の兵舎跡を使っていたので部屋数にはかなりゆとりがあり、廊下をはさんだ向い側に、私達のクラスはもう一つの空き部屋「社会科教室」を与えられていた。

 特定の学科をのぞいて一切の時間割が廃止された。いま正確には記憶していないのだが、数学、理科、音楽の三科目をのぞく残りのすべての学科を総称して「社会科」とよんでいたように思う。たんに歴史や地理だけではない。国語も英語も体育も図工も社会科のうちの一部門にすぎなかったのだ。各科目を有機的に連関して教えてこそ生きた教育ができる、ということだったらしい。が、時間割というものがないのだから、クラス討論会のようなもので午後一杯をつぶすこともあれば、全然英語の授業のない週が二、三週間つづいたりする。

 要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行なわれていたのである。

 生徒の自主性を育てること、単なる知能教育を排して総合教育を行なうこと――これは当時さかんに言われていた「理念」であった。

 平等ということも新しい教育標識の一つであった。まず生徒同志の平等、次いで先生と生徒の人格的対等という関係。優等制度は廃止され、学年末には皆勤賞と努力賞だけが与えられた。先生が任命する級長はなくなり、生徒の互選する委員長が生まれた。先生は教えるのではなく生徒と共に考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。生徒の犯した罪は叱るのではなく、生徒の立場に立って理解するのである。

 どうもそういうことだったらしい。終始先生は私達の考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行なったが、子供の確乎とした考えがあるわけではなく、私達は教師の暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。どうもそんな気がする。

 私は子供心にも終始はぐらかされているような不快感をかんじていたことだけを、いまはっきり記憶しているからである。先生は私達子供を一人前の大人のように扱うことによって、師弟の対等な人格関係という民主教育の理想を体現しているという自己錯覚に陥っていたのではないか。先生の理想のために、子供の私達は利用されていたにすぎない。私達はけっして一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。しかも材料として操られていたのは子供達だけではない。先生もまた民主教育という観念に操られていた犠牲者の一人なのである。

 一般に大人が意図するところを子供に気づかせずに、意図した結果だけを子供に信じさせようとしてもそれは無理な話である。子供はそんなに単純ではない。いや、ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能なことかもしれない。しかし、大人が大人らしくなく振舞えば、それが何を意図するのかは分らないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。

 そこには不自然さがある。というより、嘘がある。新教育に熱心な先生に私がたえず感じていた子供心の反撥心は、そこになにか嘘があるという説明のできない不信感であった。先生が先生らしくなく振舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解のある態度を見せ、まるで友達同志のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。そこには非人間的な関係、抽象的な人間関係しかないのだ。

 あるとき私は、先生をしている友人に右のような話をしたところ、そういう弊害が起るのは日本の民主主義がまだ完成していないからだ、と言われたことがある。何という観念的な考え方だろう。民主主義が完成しようがしまいが、大人の心、子供の心に変りがあり得ようはずがない。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

春の雨

 春の雨が降っている。久し振りの雨である。桜はまだ開いていないが、早咲きの樹にはすでに花があり、梅かと思って近づくと、やはり桜である。

 公園の池の畔に並ぶ樹々がいっせいに開花するのはあと一週間もないであろう。すでに梢の枝がうっすらと色づき出している。

 「日録」を復活すると約束していながら、私の活動について相変わらず丁寧な報告を怠っているのは心苦しい。

 年末から「路の会」は3回開かれている。佐伯啓思氏をお呼びした11月例会は「日録」でも報告したが、12月は桶泉克夫氏が「華僑、華人について」を話して下さった。1月は新年会で盛会だった。2月は古田博司氏が「別亜論とは何か――支那と中国を埋めるもの」と題して熱弁をふるってくれた。3月はこれからで、27日に長谷川三千子氏が「三島由紀夫論――『英霊の声』とイサク奉献」と題する新しいご著作のための試論を展開して下さる予定である。

 どの話も私にはすこぶる有益で、参考になる。テープを聴き直して「日録」に要約をのせたいといつも思う。自分の勉強にもなる。本を読むより人の話を聴くほうが身につくこともあるのは最近の私の傾向である。

 だがどうしてもその暇がとれず、次の例会が来てしまう。雑誌原稿と本づくりの準備作業に追われているためで、若いときと同じようにあたふたしているのである。

 「三島由紀夫の死と私」(第2回)は引用の多い仕事で、若い日の記憶の整理のために書いた。一月の大半を使った。100枚を越える分量である。佐藤幹夫さんの誘いがなければ決して表には出なかった秘話の展開であった。佐藤さんの『樹が陣営』という個人雑誌にのる。特定の書店でしか入手できないが、来週には店頭に出る予定である。

 年末に出た「日本は米中共同の敵になる」(WiLL2月号)はとても受けのいい論文だった。いろいろな感想を頂いた。手ごたえの如何は勘で分るのである。

 政治家を叱った「金融カオスへの無知無関心」(Voice4月号)の評判はまだ分らない。『Voice』の論文はたいていいつも反応が遅い。

 私はドイツ文学者だと知られているので、金融問題を書いてもいまひとつ信用されないのかもしれない。しかしエコノミストの書く金融論には政治が書かれていない。国際政治の葛藤がない。私はその不満を自分の努力でカヴァーしようとしているのである。

 次の月の号には皇室問題を取り上げている。大上段振りかぶって天皇制度の本質をまず述べて、そこから現象を論じている。33枚のそれなりの力作のつもりである。表題は編集長がつけて「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」(WiLL5月号)となっている。あと一週間で店頭に並ぶ。

 誰もが知る現下のデリケートな問題を、オピニオン誌で一人の論客が責任をもって自説をまとめて展開するのは初めてだからと言われて、それもそうかと思い、決断した。ずっとこのところ、場合によっては私が書こうかと漠然と思って迷っていた矢先だったので、依頼を引き受けた。

 私が『GHQ焚書図書開封』というシリーズの刊行の第一巻を計画していることは既報のとおりである。内容の95パーセントはできあがっている。あとは写真やグラビアを考える段階まできているが、研究中に重大な発見があって、さらに探求が必要となり、発行日を5月に延ばすことになった。

 「焚書」とは何か?という根本の命題に関わるところで、さらに詳しく調べなければならなくなったのだ。GHQの命令に応じて協力した日本人学者がいるに違いない。日本側にも司令塔があったに違いない。占領軍に日本を売って、この国を今のような惨めな国にした精神的裏切り者がいたに違いない。私はずっとそう予感していた。

 国立国会図書館からの昭和21年の文献探索中に東大文学部助教授――後に有名な学者知識人となる――の2人の名前が浮かび上がったのである。今はそこまでしか言えないが、文化的大事件に発展するスクープかもしれない。さらに詳しく探求が必要となってきたのである。

 私にはまったく時間のゆとりがない。次から次へと各種の問題が押し寄せてくる。しかし私の人生を苦しめつづけてきた「戦後犯罪人」の名前とからくりのすべてが今度明らかになるのかもしれない。

 いま人権擁護法や、外国人参政権や、チベット問題への政府の沈黙や、沖縄集団自決問題や、台湾独立への日本政府の非協力や、・・・・・・そもそも何から何までのテーマの大元となり、日本人を無力化した精神的痴呆化の元凶と歴史抹殺のそのメカニズムが明らかになるかもしれない。

 ともあれそんな期待で寧日なく、しかし元気に生きている。「日録」は今日のようにホッと空白ができた日に、またこんな風に綴ることにしたい。

 どうやら雨は小止みになった。犬の散歩に出ようかと思う。

イージス艦事故

 2月29日の産経「正論」欄の拙文を掲げます。ニュースとして遅くなりましたが、問題は今も変わっていません。

自衛隊の威信は置き去りに

国防軽視のマスコミに大きな責任

《《《軍艦の航行の自由は》》》

 海上自衛隊のイージス艦が衝突して漁船を大破沈没せしめた海難事故は、被害者がいまだに行方不明で、二度とあってはならない不幸な事件である。しかし事柄の不幸の深刻さと、それに対するマスコミの取り扱いがはたして妥当か否かはまた別の問題である。

 イージス艦は国防に欠かせない軍艦であり、一旦緩急があるとき国土の防衛に敢然と出動してもらわなければ困る船だ。機密保持のままの出動もあるだろう。民間の船が多数海上にあるとき、軍艦の航行の自由をどう守るかの観点がマスコミの論調に皆無である。

 航行の自由を得るための努力への義務は軍民双方にある。大きな軍艦が小さな漁船を壊した人命事故はたしかに遺憾だが、多数走り回る小さな漁船や商船の群れから大きな軍艦をどう守るかという観点もマスコミの論議の中になければ、公正を欠くことにならないか。

 今回の事故は目下海上保安庁にいっさい捜査が委ねられていて、28日段階では、防衛省側にも捜査の情報は伝えられていないと聞く。イージス艦は港内にあって缶詰めのままである。捜査が終了するのに2、3カ月を要し、それまでは艦側にミスがあったのか、ひょっとして漁船側に責任があったのか、厳密には分らない。捜査の結果いかんで関係者は検察に送検され、刑事責任が問われる。その段階で海上保安庁が事故内容の状況説明を公開するはずだ。しかもその後、海難審判が1、2年はつづいて、事故原因究明がおこなわれるのを常とする。

《《《非難の矛先は組織に》》》

 気が遠くなるような綿密な手続きである。だからマスコミは大騒ぎせず、冷静に見守るべきだ。軍艦側の横暴だときめつけ、非難のことばを浴びせかけるのは、悪いのは何ごともすべて軍だという戦後マスコミの体質がまたまた露呈しただけのことで、沖縄集団自決問題とそっくり同じパターンである。

 単なる海上の交通事故をマスコミはねじ曲げて自衛隊の隠蔽(いんぺい)体質だと言い立て、矛先を組織論にしきりに向けて、それを野党政治家が政争の具にしているが、情けないレベルである。今のところ自衛隊の側の黒白もはっきりしていないのである。防衛省側はまだ最終判断材料を与えられていない。組織の隠蔽かどうかも分らないのだ。

 ということは、この問題にも憲法9条の壁があることを示している。自衛隊には「軍法」がなく、「軍事裁判所」もない。だから軍艦が一般の船舶と同じに扱われている。単なる交通事故扱いで、軍らしい扱いを受けていないのに責任だけ軍並みだというのはどこか異様である。

 日本以外の世界各国において、民間の船舶は軍艦に対し、外国の軍艦に対しても、進路を譲るなど表敬の態度を示す。日本だけは民間の船が平生さして気を使わない。誇らしい自国の軍隊ではなくどうせガードマンだという自衛隊軽視の戦後特有の感情が今も災いしているからである。防衛大臣と海上幕僚長が謝罪に訪れた際、漁業組合長がとった高飛車な態度に、ひごろ日本国民がいかに自衛隊に敬意を払っていないかが表れていた。それは国防軽視のマスコミの体質の反映でもある。

《《《安保の本質論抜け落ち》》》

 そうなるには理由もある。自衛隊が日本人の愛国心の中核になり得ず、米軍の一翼を担う補完部隊にすぎないことを国民は見抜き、根本的な不安を抱いているからである。イージス艦といえばつい先日、弾道ミサイルを空中で迎撃破壊する実験をいった。飛来するミサイルに水も漏らさぬ防衛網を敷くにはほど遠く、単なる気休めで、核防衛にはわが国の核武装のほか有効な手のないことはつとに知られている。

 米軍需産業に奉仕するだけの受け身のミサイル防衛でいいのかなど、マスコミは日本の安全保障をめぐる本質論を展開してほしい。当然専守防衛からの転換が必要だ。それを逃げて、今のように軍を乱暴な悪者と見る情緒的反応に終始するのは余りに「鎖国」的である。

 沖縄で過日14歳の少女が夜、米兵の誘いに乗って家まで連れていかれた、という事件があった。これにもマスコミは情緒的な反応をした。沖縄県知事は怒りの声明を繰り返した。再発防止のために米軍に隊員教育の格別の施策を求めるのは当然である。ただ県知事は他にもやるべきことがあった。女子中学生が夜、未知の男の誘いに乗らないように沖縄の教育界と父母会に忠告し、指導すべきであった。

 衝突事故も少女連れ去りも、再発防止への努力は軍民双方に平等に義務がある。

『Voice』4月号より

 『Voice』4月号の特集「日本の明日を壊す政治家たち」に「金融カオスへの無知無関心」という評論を発表しました。その冒頭部分を以下に掲げます。本題の始まる前段の部分です。

金融カオスへの無知無関心

 米中経済の荒波に日本は飲み込まれる!

 アメリカのサブプライムローン問題に端を発する金融不安が、急成長している中国経済にこれから先どういう作用を及ぼすのか、われわれは今息をこらして見守っている。アメリカに宿る金融資本は中国に移動し新しい繁栄の季節を迎えるのか、それとも中国から奪うものだけ奪って立ち去り、例えばインドやブラジルに居を移すのか、あるいはまた今度という今度に限ってアメリカの受けた打撃は致命的で、噂されるようにドルは基軸通貨の地位を失い、その結果中国経済も対米輸出不振から立ち行かなくなり、米中同時倒壊という新しい世紀の幕を切って落とすのか。否、そうはさせまいとする現状維持の力が強くはたらき、中東の石油輸出国、EU諸国、そして日本もドル防衛に協力し――現にそうしている――、当分の間、「米中経済同盟」はなんとか無事に守られていくのだろうか。

 いずれにせよ、十年以上の時間尺で起こるであろうドラマを想定して言っているのだが、その際われわれが心しておきたいのは、今世界で産業の力を持っているのは日本だけだという静かな確信を失ってはならないことである。見るところ日本には政治的な存在感がない。それが唯一の問題である。

 国際舞台で働く代表的日本人にだけ責任がある話ではない。一般の日本人の世界を眺める日常の眼に問題がある。一つはアメリカ、もう一つは中国という観点にとらわれて、そこで止まり、両方を同時に見ない。中国は怪しい国だということは十分に分っていてもそれ以上がなく、だからやっぱりアメリカと仲良くしよう、となるか、またアメリカは力尽きて終わりらしいからこれからは中国の言うことを聞くようにしよう、靖国に行くのは止めよう、となるか、どっちかなのだ。

 自分というものがない。今世界はものすごい勢いで動いているのに日本は何のコミットもできないでいる。ほとんど馬鹿にされている。そう見えるが、しかし国内に混乱はなく、安定している。有力国の中で日本がいちばん力がある証拠である。なぜそこから世界を見ないのか。第二次大戦の戦勝国の言うがままに振り回されることをもう止めよう。アメリカでなければ中国、中国でなければアメリカ、と一方に心が傾くのはイデオロギーにとらわれている証拠である。

 イデオロギーにとらわれるというのは、自分の好む一つの小さな現実を見て、他のすべての現実を見ることを忘れてしまうことを言う。一つの小さな現実で救われてしまうことを言う。反米も反中も、それで満足し安心したいための心の装置なのだ。

 これから日本人が自分を守り自分を主張するためには、ときに自分の気に入らない不快な現実をも認めること、複雑で厄介な選択肢を丁寧に選り分けてそのつど合理的に決断すること、ここを突破口に歩を進めていかない限りわが国に未来はないだろう。

追悼 萩野貞樹先生

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 萩野貞樹先生が亡くなりました。

 2月24日午前3時59分、逝去されました。享年68歳。近親者で葬儀をすませ、初七日が過ぎたので、奥様より西尾に電話で知らせがありました。

 西尾に会いたいと仰せだった由です。私も迂闊でしたが、なぜか恐くて電話ができないでいました。奥様は私に知らせようと思ったが、先生の痛みが年末から甚だしく、痛みと痛みの間の穏やかな時間帯に来てもらおうとタイミングを図っていたがうまくいかなかったとのことです。私も慙愧の念に耐えません。

 萩野先生は前立腺癌が骨に転移し、多発性骨転移といって、転移が骨全部に及び、一寸した圧力で骨折も起こり、骨折の痛みも加わって、一月末頃から想像を絶する苦痛の日々を過ごされた由です。病院中のあらゆる鎮痛剤を大量投与され、それでもやゝ穏やかになる程度だったそうです。

 萩野先生は11月の坦々塾のご講話が外部でなさった最後の仕事で、「いい思い出になった」と喜んでおられたそうです。2月23日5時少し前、「明日は坦々塾だね」との対話を奥様と話されていたとか、それからほどなく昏睡状態になられました。そして未明にご他界になりました。

 11月のご講話は楽しそうでした。ユーモアもあり、余裕も感じられました。それでも背をよじって後ろ向きで字を書くのが少し辛そうに見えました。後で聞けば、やはりあの姿勢は痛みを伴っていたのです。

 私は若いときからの知己ではありませんでしたが、先生は過去10年において最も信頼の出来る友人であり、歴史と言語について正論を語って聞かせて下さるありがたい仲間でした。

 この2、3年めざましいご活躍をなさいました。神話や日本語の問題(旧字・旧かな・敬語など)について、次々と出版を重ね、本格的な研究を開始され、実が結ばれつつありました。

 私は個人的には古典や言語論で分からない問題にぶつかると相談しました。心強い助っ人でした。僧契沖の短い一文の意味が分からなくてお教えいたゞいたのも昨年の今ごろです。

 皇室典範改悪反対に関しては、女系天皇反対でめざましいお働きでした。男系ならどんな人でもいいのだ、とやゝ過激な言をつい口から漏らしたのも、あの穏和な萩野先生でしたからほゝ笑ましくもありました。

 心の優しい、しかし頑固なところのある、礼儀正しい、寡黙で男らしい人でした。まだまだ仕事の出来るご年齢ですので残念でなりません。

 こう書いていて時間が少し経つにつれて、私はあゝもうあの人と昔のように言葉を交わせないのか、もう万葉集のことや字音仮名遣いのことなどを遠慮なく質問できないのか、と思うと、突然、言いようもない哀しみと切なさに襲われました。

 奥様はお電話口で最後に、もう会えないと思うと悲しいのですが、もうあの苦しみの極の痛ましい姿を見ないでいられるかと思うとホッとしてもいます、と仰っていました。このお言葉に萩野貞樹氏の最後の壮絶なる戦いの姿を瞼に浮かべずにはいられません。

 本当に今となっては何と申し上げてよいか分かりません。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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坦々塾報告(第八回)

 伊藤悠可
坦々塾会員 記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 坦々塾(第八回)が二月二十四日に開かれました。この日は朝から春嵐が吹き荒れ、首都圏の多くの鉄道が運休するほどの強風で、会場にたどりつけない遠方の方々もおられました。二カ月に一度お目にかかる機会を失い、残念です。

 渡辺望さんが前回、坦々塾の由来を詳しく書いて下さいました。今回は、実質的にはことし最初の坦々塾のご報告を申し上げます。

 思いがけない季節風の到来で、この日の予定は変更を余儀なくされました。前半前段に予定していた西尾先生の「徂來の『論語』解釈は抜群」(第三回)はお休みし、約一時間半、サブプライム問題に端を発するアメリカの金融不安と中国、日本の運命について、同先生の講義をいただき自由討議を行いました。このテーマは、『Voice』四月号の[特集 日本の明日を壊す政治家たち]のなかで『金融カオスへの無知無関心』と題する論文で詳しく書かれ、まもなく本質的な課題を世に問われます。

 後半二時間は、宮脇淳子先生が「モンゴル帝国から満州帝国へ」という壮大なテーマで講義下さいました。宮脇先生は『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』『モンゴルの歴史』『中央ユーラシアの世界』などを著された方で、従来の東洋史の枠組みを越えて中央ユーラシアの視点に立った遊牧民の歴史と、総合的な中国史研究で知られています。

 西尾先生の講義は、私たちに新たな課題を投げかけられました。私たちが有している日常の糟粕的知識のかたまりをここで捨て去って、もう一度、世界を日本を凝視してみなさい、という意味での新しい課題です。むしろ態度と言って良いかもしれません。

 西尾先生が最近、「金融は軍事以上に軍事ですよ」と口にされているのを私たちは知っています。政治、外交、軍事、教育、その他先生の視野はどこにでも及びますが、先生は経済という漠然とした対象ではなく、いわゆる企業経済人が商売の範囲で語っている経済・市場各分野の部品的知識の集合ではなく、現代の金融というものを論じられました。私には「国家の生殺与奪を握る金融」という重大な意味で迫ってきました。

 米国に端を発した「サブプライムローン問題」があります。それが世界に金融不安の波紋を広げていることは、私のように新聞的常識しか持たない人間でも関心が及びます。けれど、こうした問題に深く潜んでいる真実の像をとらえようとはしません。サブプライム以降に生じているさまざまな世界の変化には、当世のエコノミストが相変わらずその場しのぎの安心・不安両面からの批評や観測をしています。日本は上から下まで無定見を自ら許して気にかけることはないように見えます。

 米国の危機は本当なのか、ドルの基軸通貨の地位は存続するのか転落するのか、〈デカップリング理論〉なるもので中国は安定を続けるのか、バブル崩壊は間近なのか、そもそも米国という国が仕掛け動かしているのか、それともいわゆる国際金融資本という存在が後ろから揺り動かしているのか……。これらについても単眼的な一つの常識的技術の按配でみることはできないし、予見もまたむずかしい。

 しかし、複雑でむずかしい現実に対して、私たちはどのような見方をしているのかというと、日頃私たちが批判しているテレビ画面のエコノミストたちの世界把握とさして違わない。

 私自身も、サププライム禍は欧州を襲ってひどいことになっているが、日本は偶然手を出していなかったから助かっているという記事を読んで、どこかで安堵していたり、また中国のような国の繁栄を決して歓迎しないが、中国経済が一瞬に崩壊すると、アメリカの足腰はもう立てないだろうから、日本はさらに困るというふうに連想ゲームのように心配してみたりしている自分に気がつきます。つまり、米国が駄目なら中国がある、中国が駄目なら米国があるという大変無責任で甘い観測をしていることになります。

 先生は、それがダメだと言います。どうして世界を現実を堂々と見つめないのかと言うのです。金融や経済に限りません、われわれは好きな一つの現実を取って、現実そのものを見ないという誤りをしている。それを指摘されました。

 先生は八十年代に立ち寄られた英国で、英国人が抱く勤労感や立身のすえの自己理想像から、この国の〈金融優位〉というべき生き方を看破する体験を話されました。産業革命の発祥地の人々が、実は非産業資本主義を骨の髄から嗜好し標榜していることを私は初めて知りました。驚きです。驚きと同時に、わかったつもりでいる常識的見地がどれほど当てにならないものかと考えさせられます。

 毒ギョーザ事件から私たちはスーパーでまじめに商品を選択します。けれど、その他のことはたいがい無防備無定見になりがちです。過去に遡って原因を疑ってみることもしません。不愉快な事を回避、忘れたいという傾向が働くのです。知的にも勇気のない態度だから、「日本はこんなふうにさせられてしまったのか」と地団駄踏んでいる。私も地団駄ばかりです。

 日本人は貿易立国だと胸を張っていましたが、今では所得収支が貿易収支を上回ってこの国はファンド化への道を皆で歩いています。これは言い換えると「ものづくり」は「ファッド」に勝てないということでしょうか。構造改革というのは先生によると、日本人の人体の強制的解剖にも似た暴虐な行為なのですが、なぜか詐術的手術で冒された患者のほうがアメリカに協力し、もっと真剣にやろうと掛け声をかけています。

 日本を内部から壊してこれまでと違う日本をつくろうと米国が動き出したのは八〇年代に遡る。抵抗するどころか率先してそれに協力し、その後、日本と日本人がどうなるのかについて一瞥もしなかった政治家がいたという地点から、すでに日本の自己喪失が始まっていたということに気づかされます。

 「金融は軍事以上に軍事」というからにはそこに国家が生きていけるかどうかという生殺の岐路がかかっているということです。世界がとっくに戦略兵器とみなしている。この金融と経済を論じなければいけないと先生は諭されます。私たちは習慣的に「それは経済の問題だから」と言いながらそれはその領域の問題として取り扱っています。以前にも先生は「経済を正面から論じられない知識人が多すぎる」と嘆かれたことがありました。

 一つの好きな現実を見て現実そのものを見ない態度。それでは戦えないということである。講義のなかで幾度か「われわれ自身の眼に問題がある」と先生が指摘されたことは極めて重要なこととしてわれわれ自身が受け止めなければなりません。

 金融は軍事、それは軍事以上の軍事。一度、身震いしてみることが大切な言葉であるとさえ思っています。

 帰って翌日、私はこんな昔の記事が自宅の書棚にあったのを思い出しました。昭和四十七年の文藝春秋十月号「中華民国断腸の記」で紹介されている蒋経国(当時、中華民国行政院院長)の発言です。

 「共産党はコトバをわれわれとまったく違った解釈で使います。わたしたちには戦争、平和、協力、対話、文化交流、相互訪問、親善、そういったコトバがいろいろありますが、かれらの解釈は、戦争は戦争である。平和も戦争である。対話も戦争である。友好訪問、これも戦争で親善もまたしかり、これを総称して、わたしたちは『統戦』と呼んでいます。目的は一つ。すべてはいろいろな策略、方式をもって自由国家に入り込み、浸透、転覆、社会体制をひっくりかえし、経済を攪乱し、最終的にその国を赤化するという唯一の目的からきているのです」

 この文中の「赤化」というところを今、「支配」「操縦」「隷属化」と変えてみれば、今でも全然、文章が色褪せているとは感じられません。「その国」というのを「日本」に置き換えて見ると、そのまま自然に当てはまってしまう。米国は、中共ではないが、ほとんどこの「コトバの解釈」は同じであろう。日本だけは「戦争」以外は全部「平和」もしくは「平和のため」と言ってきました。おそらく「金融も平和である」と考えてきたのです。

 

 後半は「モンゴル帝国から満州帝国へ」と題して宮脇淳子先生からお話をいただきました。

 壮大でスケールの大きい視野でモンゴル論を展開されました。「世界史はモンゴル帝国から始まった」という題名がそれを示唆していると思います。刺激的で新鮮で、場面転換の速いスペクタクルを見せられているようなお話でした。想像力を駆使しました。

 私自身、高校までの世界史の雑知識しかありません。今でも内陸の貧しく広い国、朝昇龍の国といった一般のイメージを脱しません。モンゴル帝国が東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸を一つにした。そこまではわかりますが、歴史的にはモンゴル帝国を〈親〉とし、その〈子孫たち〉が中国やロシア、トルコなどであると説かれたので驚きました。先生が作成された継承図をつぶさに見て納得がいきます。

 冒頭から高校生以前の知識で素朴な疑問を発したくなりました。それを次々と説明のなかで氷解させてくださったので大変面白い。遊牧各部族には系図がない。チンギス・ハーン一族だけが大事であって、それ以前はない(無視されている)ということになっている。十三世紀以前は、旧世界とされているそうです。確かにユーラシアの国々はチンギス・ハーン一家と呼ぼうと思えば呼べるわけです。先生が仰った「チンギス統原理」という一族の男系だけが皇帝になれるという掟が働いています。

 欧州の考え方は「世界は移転する」「興亡がある」というものだが、中国はよく言われるように「天命」が支配し、「皇帝は天命が決める」ものです。先生はこうも言われます。「マルクスは内在的要因から世界は変化を起こす」と言ったが、ユーラシアの視点では「外からの刺激によって世界は変化した」というべきだと。

 遊牧民に土地所有の観念がない。大草原があって常に移動する。坪当たりの地価など思いつくはずもありません。財産は家畜と人間。私は途中で、どのように戦争をしかけ征服し続けられたのか、というまた素朴な問いが起こりました。ふつう戦争で勝利しても次には統治という永続的課題に悩まされるからです。しかし、ここでもモンゴル帝国の大雑把に見えて、実に有効な決めごとがありました。君主は掠奪品(戦勝品)の公平な分配を実施すること、部族内の紛争処理能力を持っていることが求められる。

 ところで、彼らはなぜ強いのでしょうか。征服をしたその土地の部族を支配下に置く。彼らは次の戦争でその部族を率いて戦う。フビライが発令した日本征伐、蒙古襲来のいわゆる「元寇」のときも征東軍には満洲生まれの高麗人が多く含まれていたと『世界史のなかの満洲帝国』で説いておられます。私はもとへ戻って、なぜ戦争が上手なのかということに興味を持ちました。ヨーロッパまで押し込んで勝った「遊牧民の兵法」といった研究があるのでしょうか。個人的興味です。

 先生によると、彼らにとって戦争は「儲け仕事」であります。「勤務」として理解すると、彼らの強さも磨かれるだろうという想像が成り立ちます。また遊牧民は自然、天候を他の誰よりも掌握し、活用する知識や勘を持っていたのかもしれません。

 掠奪した品を山分けする。また戦後はきっちりと取り分の税金を徴収する。統治と交易面では、幹線道路の一定距離ごとに「駅站」を置き、ハーンの旅行為替(牌子)を持たせて「駅伝制」を敷いたというお話でした。また、征服しても宗教に対して優劣をつけず、平等に扱っていたということも、なるほどという気がする。集団への内政干渉から生まれる新しい葛藤を引き起こさないで済みますから。

 モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、陸上貿易の利権を独占してしまいましたが、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人だけが活路を求めて海上貿易に進出したとされます。スペイン、ポルトガル、イギリスなどが侵されなかった海洋帝国とみると、世界はモンゴル帝国を指し、そのほかに例外の国があっただけになります。日本は例外の国で、世界と関係がなかったというところに、当時の思いを馳せてしまいます。

 元朝の中国支配、北元と明朝について触れられ(講義時間の都合もあり)、最後に日本人とって密接な「満洲」についての基礎的講義がありました。満洲はもともと地名ではないということ(「洲」の字のサンズイに着目)、清の太祖に諡号を贈られたヌルハチが、女直を統一した際に「マンジュ・グルン」と名付け、彼の息子ホンタイジが女直(ジャシェン)とい種族名を禁止し「マンジュ」(満洲)と解明したのがはじまりだと教えてくださいました。

 満洲(マンジュ)は文殊菩薩の原語「マンジュシェリ」から来ているというのを聞いたことがありますがそれは誤りだそうです。歴史の上では、転訛というものとは関係なく、風聞が固まるという意味での発明もあるという一例かもしれません。

 満洲という地名は高橋景保がつくった地図(1809~1810)にはじめて登場し、これがヨーロッパに伝わり「マンチュリア」になったと言います。日清日露の背景を語られ、辛亥革命から清朝崩壊、ロシア革命と中国のナショナリズム誕生から満州事変、満洲国建国、そして満洲帝国の成立までを説かれましたが、「満洲」だけでも別に集中講義を所望したいほどのボリウムでした。私自身、歴史の基礎的な素地を欠く〈生徒〉であり、基礎勉強を怠ってお話を受けるのは申し訳ないことである、と率直に感じ入りました。

 宮脇淳子先生は著作『世界史のなかの満洲帝国』のはしがきでこう書いておられます。

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 「歴史学は、政治学や国際関係論とは違う。歴史は、個人や国家のある行動が、道徳的に正義だったか、それとも罪悪だったかを判断する場ではない。また、それがある目的にとって都合がよかったか、それとも都合が悪かったかを判断する場でもない」。眼睛に清涼を覚えさせられる言葉だと思います。

文:伊藤悠可