お知らせ

テレビ出演

 2月20日(水)夜8:00~9:30
 文化チャンネル桜 報道ワイド日本
 対談相手 水島 総(西尾のゲストコーナーは8:30ごろから)

テレビ出演

 3月1日(土)夜9:00~9:55
 東京MXテレビ(地上波デジタル9チャンネル)
 花田紀凱のザ・インタビュー

 再放送 3月27日(日)夜8:00~8:55
      (日時を訂正しました)

報告文

 「隠されていたGHQの野蛮な焚書」
 西村幸祐責任編集『撃論ムック』
 拉致と侵略の真実(オークラ出版)に所収。
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評論

 『Voice』4月号
 「特集 日本の明日を壊す政治家たち」のうち、拙論
 金融カオスへの無知無関心(30枚)

「日録」再開のお知らせ

 「西尾幹二のインターネット日録」は永い間休止宣言をしたまゝでしたが、すでに事実上、継続されています。ここではっきりこれからの掲示の原則を再確認し、再開を宣言したいと思います。

(一) 私が他で発表した文章を掲げて私の意見を表明することは行う積りですが、直接新しい意見をここで述べることは控える。

(二) コメント欄はさし当り停止する。

(三) ゲストエッセイの名で信頼する友人たちの文章を必要に応じ掲示する。

(四) 主に私の言論活動のプログラムを告示する。また、参加した各会合の内容報告も可能な限り行なう。

(五) 新しい試みとして、「単行本に未収録の私の仕事」と題して、評論・解説・書評・インタビュー・対談等の過去の作品を次々と掲示する。

 以上の通りに進めていきたいと思います。

文:西尾幹二

生存と繁栄への資本主義転換のロードマップ

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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  ――MFICとサブプライム問題の教訓

<ある日本人が西半球で投じた一石>

 その青年は銀行から語学研修生としてラテンアメリカのある街に派遣されていた。
 街の物売りと親しくなりその家に招待されることになった。

 質素だが心のこもった夕食と楽しい会話のひとときが過ぎ、辞去する時間になった。その時、その家の小さな子供が青年に話しかけてきた。「お兄ちゃん今度はいつきてくれるの?」「お兄ちゃんが来てくれたので今晩お母さんが半年振りにお肉の料理を作ってくれました」と。肉料理らしいものが出てきた記憶はない。ふと思い出したのは、スープの中にそれらしい小さな破片が浮かんでいたことであった。このときのことは青年の心に刻まれ、その後も消えることはなかった。

 青年はその後、四半世紀の銀行員生活を国内勤務を挟みラテンアメリカ諸国、そして米国で過ごした。

 2003年、彼、栃迫篤昌氏はワシントン駐在員事務所長を最後にその銀行を辞した。同年、彼は米国で働くラテンアメリカからの移民のための金融機関、Micro Finance International Corporation (MFIC)を設立した。

 米国にはラテンアメリカからの移民5千万人が働いており、彼等の母国の家族への送金額は年間合計で530億ドルに達している。ところがそこには多くの問題が内包されていた。その一つは、一般の金融機関が課している送金手数料が送金額に比して著しく高いものになっていることである。それは彼等移民の送金一件当たりの送金額の12~16%に及んでいた。

 それよりもっと深刻な問題があった。それは5千万人の移民のうち3千万人が銀行口座を持たない(持たせてもらえない)”unbanked”の人々であったことである。日本人にはピンとこないが、小切手社会、カード社会の北米で銀行口座を持たないことは致命的である。ホテルのチェックインもカードなしにはままならないのである。”unbanked”の移民は受けとった賃金の小切手を現金に換えるために手数料を取られてしまう。”unbanked”の移民が働いて得た賃金200ドルを故国の家族に送金するとなると、賃金小切手の現金化手数料に20ドル程度の送金手数料が差し引かれ、国で家族が送金を受け取る際にまた手数料が取られる。

 それやこれやで、当初の200ドルが家族の手に渡るときには130ドルになってしまう。実に70ドルが失われてしまうのである。

 MFICは、この移民にとってはとうてい納得できない情況を是正することをビジネスの中心に据えていた。そこには彼、栃迫氏の長年の経験から、真面目に働き、定期的にきちんと郷里送金する人々は信用出来るという理論をベースとしていたのである。彼等移民はMFICの顧客になることで、小切手現金化の必要もそれに伴う手数料支払いも不要になった。

 送金についても情報通信技術の進歩を活用したコスト削減により、1件当たりの手数料を一律9ドルとし、150ドル以下の送金については一律6ドルとした。こうしたことで移民の送金手数料負担の軽減を実現させた。MFICの移民顧客の多くは定期的にきちんと郷里送金する人々であり、それは貴重な情報として蓄積される。

 こうした情報をベースにMFICは、愈々こうした顧客に対するローン即ちマイクロファイナンスを開始した。

 従来彼等移民が借りることの出来る先は高利貸しくらいしかなく、その高金利は彼等の生活を圧迫し、貧困からの脱出の障害となっていたから、MFICによるマイクロファイナンスの実施は大きな恩典となった。真面目に働き、きちんと故国の家族に定期的に送金する。そしてきちんとマイクロファイナンスの利払いと返済を履行する。そうした一連のビヘイビアは,顧客である移民の経済的な向上のみならず社会的信用の向上につながる。こうしたことは、ラテンアメリカからの移民の個人のintegrity(誠実さ) 規範意識を育み、ラテンアメリカ移民の米国社会における社会的経済的な地位の向上につながることになろう。

 こうしたことを考えれば、MFICは貧困からの脱出の道を提供していることになるのではないだろうか。

 MFICは更にラテンアメリカの国々においても地元の金融機関とタイアップしてマイクロファイナンスを開始している。MFICの顧客となった移民達からは、「初めて人間らしい扱いをうけた」と言う声が上っているという。

 MFICの活動は注目され始めており、ビジネスウイークが採り上げた他、米政府機関OPICが4百万ドルのクレジットの提供を決め、オランダの政府開発機関FMOも総額4百万ドルの投融資を2007年12月に実施している。近代、現代の最大の問題の一つは貧困の解消であろう。革命は解消策の答えにはならなかった。先進国や国際機関からの援助も十分満足すべき成果は得られていない。

 そんな中MFICのうごきは瞠目すべきものがあろう。

 マズローの法則から考えると、MFICは単に最低限の生理的欲求を満たさせているだけではなく、より高次元の自己実現を満たすロードマップを提供している点が、目先の生理的欲求の解消に力を入れがちな援助とは異なるのではないか。そして、ラテンアメリカの移民のため「経世済民」に寄与する一方、市場メカニズムによる資源の最適分配機能を十分生かし、利益を確保し事業を存続発展させようとしているからではないだろうか。

 勿論この事業を推進している栃迫氏を、その仲間が自己実現の動機として燃えていることは言うまでもない。

<サブライム問題の本質>

 MFICが米国でラテンアメリカ移民のための事業を展開していた同じ時期、米金融界は、サブプライム・ローン債券を作り大量に販売していた。それはやがて米国と世界に災厄をもたらすことになる。

 サブプライム問題が内包するものは、以前に起きたエンロン、ワールドコム事件の持つものよりも遥かに深刻である。両事件は共に企業による虚偽の財務内容開示により投資家、市場に損害を与えた事件であるが、当局は直ちに規制強化を行い再発防止策をとっている。

 これに対してサブプライム問題での様相は全く異なる。

 サブプライム・ローンは、低所得者層向けの住宅ローンで、当初2年間だけ金利条件、返済条件を緩めたローンである。その条件緩和経過後の金利、返済条件は借入人の所得では賄えないのもである。ただ当該ローンの担保価値に余裕がある場合には「追い貸し」で表面的には利払い、返済が行なわれる形を取る。あくまで不動産価格が上昇することを前提にしているローンで不健全なローンである。即ち借入人の収入で利払い返済が成り立たないこの様なローンは、会計原則からも当局の銀行検査査定でも正常債権とは認められない性格の筈のものである。投資銀行(investment bank)や銀行など米金融機関はこのようなローンを証券化し大量に投資家に売りさばいていたのである。

 これは不動産価格上昇のストップによるデフォルトのリスクを常に内包するマルチ商品にも類似した点のある商品なのであり、「ババ抜き」ゲームの性格を有する。実際に破綻が起き、先物で大量に売り予約を結んでいたGoldmansachsは膨大な利益を受け、一方多くの投資家、金融機関(日本の金融機関も含まれる)は損失を蒙った。又この証券を組み込んだ金融商品など派生商品の規模は不明である。

 投資家、金融機関は大きな打撃をうけている。しかし最大の被害者は、このローンを借りた低所得者層ではなかったのか。

 一時的な豊かさを享受した後、債務不履行(デフォルト)により彼等の生活はローン借り入れ前よりも苦しい生活を余儀なくさせる。デフォルトは彼等の信用を失墜させ経済的にもならず、社会的な面でも打撃を与えよう。それは米国社会の基盤を弱体化させることにつながるだろう。

 このように、債権化の対象となるローン自体に不正常さを内包し、経世済民にも反する商品を米金融界が生み出し、大量販売し、米国のみならず世界の経済を揺るがしている。この様な商品が、会計制度、銀行監査制度、連邦準備制度理事会、連邦政府、議会で問題になることなく大量販売されてきたことは極めて深刻である。

 サブプライムローン債券を生みだした米金融界の発想はMFICの理念と対極にある。市場原理逸れに基づくボーダレス経済は米国においても無制限に許容されているわけではない。2005年中国石油会社CNOOCは米国の石油会社UNOCALの買収にのりだした。これに対して米議会は反対の決議を行い、買収は断念されたのである。外国企業の米国内投資、米企業買収に係わる審査委員会CFIUSについても米国の国益の観点から審査の厳格化へ向けての動きが強まっている。

 本来サブプライム・ローン債券は、経世済民、公序良俗の観点から規制されたとしてもおかしくなかったのである。

<生存と繁栄へのローフォマップ>

 サブプライム問題が衝撃を与えた理由の一つは、この様な性格の商品が金融界で考案され販売されたことにある。

 洋の東西を問わず、金融機関は融資の基本を、公共性、安全性、収益性に置いてきた。公序良俗は総てに優先するものであった。米金融界はその対極にまで来てしまっていたのである。

 Max Weberは近代資本主義の担い手である経営者の精神を神への信仰、奉仕に求めた。日本の近代化の担い手であった企業家達にも同様なものが窺えた。企業家だけではなく、一般庶民の大層も、職業、生業を金だけではなく、「世のため人のため、国家・社会のため」であるとの思いがあった筈である。
 
 この企業の社会的責任、使命感という点が失われつつあるのは日本も同様である。企業の不祥事が社員の内部告発で明らかにされる。従業員が企業、経営者を告発することには公序良俗の観念が従業員に保たれ経営からは失われていることを示している。そこには次の様な背景があろう。

 資本と経営の分離、資本の経営に対する優越が大きく進んだ今日、企業と経営者の評価は収益のみで計られる。株主は絶対であるのであるから。かつての日本企業は、株式持合い、銀行による株式保有による安定株主にすることで株主の関与を排除してきた。それが、グローバルスタンダーンダードの掛け声で持ち合いや銀行の株式保有が解消され、資本の絶対優位が確立し、企業、経営の評価は収益だけが基準となった。その面でもグローバル化したのである。

 後述の通り日本では個人が株式投資を敬遠することもあり、株式投資の6割以上が外国人になることになる。このことを含め、資本市場の高度化で、機関投資家、各種ファンド、投資顧問業などの当事者は益々増加し、資本市場、経済の共通言語は企業の収益のみになり、企業経営から国益、公共性、公序良俗は失われる危険が高まったことは否めまい。

 更にここへ来て重要な問題が生じつつある。

 市場原理は資源の最適配分には最も有効な機能を有する。だが、それは前に述べた通り「一定条件の下で」と言う前提があり、市場原理以上に重視されなければならない要素つまり問題があることが明らかになりつつある。

 それはCO2問題に代表される地球環境問題である。

 米議会の諮問機関USCC(米、中国経済安全保障レビュー委員会)の2006年2月開催公聴会で中国のエネルギー効率は米国の1/3、日本の1/10であると証言されている。日本や米国が市場原理に則り、自国製品の購入を中国製品にシフトしてきたことは、CO2、環境の面で地球環境をそれ以前に比べ格段に悪化させていることにもなる。輸送に要するエネルギーを加えると逸れは更に悪化していることになる。市場原理のみに任せておくことはもうできなくなりつつあり、卑近な例では近郊で栽培される野菜と海外で大量生産される野菜は価格だけが決め手とはならないのである。

 自動車の排気ガス規制が各国で導入されているが、地球的規模で産業に於けるCO2の排出規制は喫緊の課題である。

 ヨーロッパでは、商品の表示に価格以外に店頭にもたらされるまでの消費されたCO2消費量を表示するようになってきているとのことである。市場メカニズムに総てを委ねる経済では人類は滅亡しかねない。この様な時代、現代としてこの環境問題をどう克服していけるか、ごく限られた身近なテーマからアプローチしてみたい。
 
 日本人は預貯金志向が強くリスクへの大きい株式投資は好まないとされるが、本当にそれだけなのだろうか。

 前述の栃迫氏がMFICの設立に当たり最大の難関となったものは、金融機関設立の要件を満足させるだけの資本金を集めることであったことは間違いなかろう。栃迫氏はこの事業が収益だけではなく、ラテンアメリカの移民のための、「世のため」の事業であることを説明し、且つ収益計画を持ってプロスぺクタスとし、各方面に説明したのである。かくして多くの日本人は出資によりこの事業に参加する意思を示し、資本金は予定通り集まったのである。

 これは、彼等が金だけではなく「世のため」になると言う明確な事業を支援することで、自己実現を図れるからであろう。栃迫氏は、その後も株主に対して、事業の展開と収益状況、将来の展望・計画を定期的に報告し説明し、コミュニケーションの徹底を期している。

 株式投資や金融資産での運用は「儲け」だけを目的とする意味しか持たない今日、仕事を金だけではない「世のため」であるべきという気持ちを抱く一般の日本人がこれらを敬遠してもおかしくはないであろう。

 上述のごとくCO2問題に集約される、環境・エネルギー問題は、人類存亡に係わる問題である。そのためには資源分配を市場メカニズムのみに頼ることは出来なくなった。またそれと同様に、環境・エネルギー問題のために産業、インフラ、生活様式などあらゆるところで抜本的な転換が求められるようになった。要する資金も膨大なものとなり、株式などエクィティー(自己資本)ファイナンスによるものが求められるとともに市場原理だけに依存していては上手くいかない状況になった。これからは人々が儲けだけではなく、「世のため人のため」「地球のため、後世のため」に出資することで事業に参加し、自己実現を図る事のできるロードマップを提供されなければなるまい。

 今日日本を覆う「閉塞感」は、利益だけで自己実現の場が失われていることに起因するのである。

 産業界、金融・証券界、そして政府の向かうべき方向は明らかであろう。そこに日本再生の鍵が存在している。

文:足立誠之

坦々塾・新年の会

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渡辺 望 35歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  この日録でも幾度か紹介されていますが、西尾先生を囲む坦々塾という研究会が年に4回のペースで営まれています。

 西尾先生が参加されていた「九段下会議」が解散した後、最後まで会議に残ったメンバーの中で、西尾先生の周囲で志を同じくする13人の有志が、これからも先生を囲み勉強研究を続けたいと希望しこの坦々塾は結成されました。その後、西尾先生とその有志の努力によって会は大きく拡大し、私のような者も、その末端に加えていただくことができました。現在、メンバーは50人を数えるに至っています。

 休日の午後の早い時間に集まり、まず西尾先生の講義、そしてその後、外部から講師の先生をお呼びして講義していただき、それをもとにして討議を重ね、いったん散会したのち懇親会に移行して夜遅くまで談論風発する。これが、坦々塾の会の毎回の基本的なスケージュールです。
 
 1月12日の坦々塾の会は、当初、新年会のみをおこなう予定でした。しかし新年会のみをおこなうというのはいかがなものか、新年会の前に勉強・討論の時間を入れようということになりました。西尾先生以外の講師を坦々塾の中から選んで、諸氏が取り組んでいる問題について報告・そしてその報告に基づいて坦々塾の皆さんで討議するということになりました。

 当初は40人以上の参加が見込まれていましたが、予定変更などで残念ながら参加できない方もあり、参加者は35名ということになりました。  

 一言で言うと坦々塾は「混成部隊」と言っていいように私は思います。19世紀のイギリスの思想家J・S・ミルを評して「・・・J・S・ミルという人は何々学者と呼ぶのが困難な人であった・・・」という加藤尚武の言葉があり、私は加藤のこの言葉がとても好きなのですが、坦々塾という「混成部隊」 について考えるとき、いつも加藤のミル評を私は思い起こします。

 加藤の言わんとするところは、各分野に旺盛な関心をもちそれらを凌駕していたミルにとって、「専門」というものはついになかった、自分の好奇心と世界とのかかわりだけがあり、ミルはそのかかわりを一般化する能力に生涯長けていた、ということなのでしょう。坦々塾には、原子力問題の最先端の専門家がいらっしゃるかと思うと、金融問題の専門家も多数いる、あるいは、政治党派集会について緻密に調査していらっしゃる行動家、私のように西尾先生の哲学書や文芸評論を敬愛していることがきっかけで参加させていただいている人間もいます。

 びっくりするのは、これだけ違う各分野の人物が、討論会や懇親会で全く違和感なく話しあうことができて、充足感と次回への会の期待感をもって、いつも必ずその日を終えることができる。皆さんが自分の専門について、一般化して語る言葉の術をもたれていること、そして相手の専門に対して好奇心と敬意を絶やさないこと、それを失わないことによって、坦々塾という「混成部隊」は、不思議なまとまりをもって、国内でも稀にみるマルチな「総合部隊」になっていく実力を醸成しつつあるように思えます。

 もちろん、坦々塾がカバーする知識のこうした幅の広さは、西尾先生の知性の幅の広さに基づいてデザインされているものだ、といえるでしょう。西尾先生とミルをだぶらせるのは西尾先生にとって不本意かもしれませんが、実質が似ているという意味ではなく、「何々学者」という言葉でおさまりきらないような、いろんな分野をすばやくしっかりと渡り歩いているという加藤のミルへの形容は、西尾先生の思想のスタイルへの形容として相応しく、また坦々塾全体のこれからの可能性を形容するにも相応しい形容でもあると私は思うのです。

 さて、1月12日の坦々塾の新年の勉強会は西尾先生の、「徂徠の『論語』解釈は抜群」という坦々塾の会で毎回連続している講義から始まりました。その後、坦々塾 のメンバーの方々の「反日左翼勢力の動向」「ディーリングルームの世界」「エネルギー危機と日本の原発」の各テーマについて発表討論がおこなわれました。

 西尾先生の徂徠の解釈論は、坦々塾の会で毎回内容的に連続しているもので、また言うまでもなく「江戸のダイナミズム」の最重要のテーマの一つでもあります。儒学の文献を解釈することは中国の社会構造を理解することと、あまりにも密接不可分であって、従来の日本の大半の儒学の文献学者はこのことを見落としており、そしてそのことが、日本の中国へのあらゆる誤解を誘引していったということを西尾先生は徂徠以外の学者と徂徠のさまざまな対比の中で指摘されます。

 毒にも薬にもならないような儒学解釈を展開してきた数々の解釈者と、本物の解釈、すなわち中国社会の想像もつかないような構造を見極めた徂 徠の解釈を比較される西尾先生のお話は毎回ユーモアにも富んでいて、伝統的解釈と徂徠の斬新な解釈の比較に、講義の最中、和やかな笑いの雰囲気が絶えません。徂徠の「論語」解釈は本当に,私達の意表をつきながら,いつのまにか中国社会の真実に私達を連れていってくれる、刺激の連続なのです。坦々塾の皆さん は先生の講義を楽しまれながら、現実の中国の表層を批判することはもちろん大切だけれども、その表層の下の深淵を見据えること、現実への「批判」を確かな 「全体的批評」としていってほしい、という先生のメッセージをしっかりと感じられているように思われます。

 講義の本旨からはややずれてしまうことかもしれませんが、徂徠を語る上でよく叩き台にされる伊藤仁斎について語りながら、西尾先生が仁斎と山本七平をなぞらえて、両者がビジネス文明に追随した形でしか孔子の文献を解釈していない、存在論が欠如している、つまり浅い、ときっぱりとおっしゃるあたり、たいへん面白いと私は思いました。司馬遼太郎や山崎正和に対しても西尾先生は批判的ですが、要するに、ビジネス文明に受けがよい形で、儒学に対してにせよ歴史に対してにせよ、薄められたことしか語らない思想家を先生は概して非常に嫌われているのだなあ、と妙に納得する思いを感じました。

 「反日左翼勢力の動向」についての報告討論に参加しながら私は「左翼とは何であるか?」ということについて改めて思いを張り巡らさざるをえませんでした。 たとえばかつて江藤淳は「ユダの季節」という論文で、「左翼とは何であるか?」という問いについて、「徒党」と「私語」という言葉を使い、人格論から「左翼とは何であるか?」を説明しましたが、私はその「ユダの季節」の「左翼」の基準をその日の報告討議を通じて改めて考えました。

 何でもかんでもかまわないので、日本という国を否定するテーマを選び「徒党」を組む。そして「徒党」の中でもちあげあい、かつ相互検閲して、彼らの中だけしか通用しない「私語」を語り合う。やがてその「徒党」と「私語」を国民的に拡大しようとする陰謀ならぬ陽謀をたくらむ。江藤はキリストを裏切ったユダがこの「徒党」と「私語」のロジックによる人格論としての「左翼」だったといいます。江藤の論旨に疑問もないわけではありませんが、「左翼」は実は「人格」の問題である、という指摘は現在の日本の現状からすればかなりの正当性をもっているのではないでしょうか。

 この国には、江藤が「ユダ」と喩えた左翼は依然驚くほどの数、形を変えて延命しているようです。なぜ延命できるのかといえば、結びつくはずのないテーマを「私語」でお互いを結んで、「徒党」を組むがゆえに、なのです。たとえば、本当は矛盾した論理関係にあるはずの「護憲」と「反皇室」の主張に、同じ人物が多数集うというような醜悪な現象が続いています。

 次は「ディーリングルームの世界」と題された金融についての抽象性と流動性に富んだ金融の世界というものについて、一般には理解しにくいことを、なるべくわかりやすく噛み砕いて説明してくださる報告でした。私のような金融の素人にも理解しやすいものであったのはありがたい説明でした。

 「資本主義」というものを、金融という面から考える思考法に私達はなかなか慣れていません。歴史なり時間なり国家なり、いわば「安定した」概念を使い考えがちです。
  しかしたとえば、「何でもお見通しの相場のプロ」というものは古今東西絶対に一人もいない、そういう人間がいるという思考法自体を、相場の世界を知らない証拠だ、という報告説明は、私のような金融の素人の頭脳にビシリと矢を射込むものでした。金融相場の事情を左右する諸要素はあまりにも多岐に渡り、しかもその影響がどう動くかは経験則からも不明としかいいようがない。歴史や政治を語るようには金融を語れない根本がここらあたりにある、といえましょう。そういう「何でもお見通しのプロ」がいるとすれば、戦争や天災その他、人間社会に起こりうるあらゆるリスクまで見通す神のような人間がいる、と想定しなければならないのでしょう。政治の天才がいるようには金融の天才はいないのに、私達はつい金融の世界に独自の論理があることに気づかないでいろいろな失敗をしてしまいます。

 金融面からみた資本主義というものはそういうものでありつつ、しかし、アメリカのヒビだらけのドル体制がアメリカの軍事力によってかろうじて担保されているにすぎない、それは明日にでも急激な崩壊を来たすものなのかもしれない、というような生々しい政治的現実にも関係している、ということが この日の報告と討議で実によく認識されました。

 ・・・この新年会から数日後、アメリカの株値崩壊が起きましたが、報告討議を思い出して、不思議なほどにあわてる気持ちなく、事態を冷静に考えることができらのも、この日の報告討議に拠るものが大きかったといえるでしょう。  

 「エネルギー危機と日本の原発」での日本のエネルギー問題の報告は、悲観面と楽観面の双方からの緻密に指摘に始まり、日本のこれからにおける原子力エネルギー供給増大の不可避を熱心に説かれました。私に関して言えば、今まで意外に曖昧であった原発問題への姿勢が、この日の報告討論で、完全に肯定派に定まるほどの説得力を、この報告から感じるほどでした。

 エネルギー価格の変動が私達の生活全般にかかわっていること、食料自給率も実のところはエネルギー自給率から大きく影響を受けざるをえないことは、最近の原油価格の変化が思いもかけない食料品の価格に影響を与えていることからしてあまりにも明白というべきです。食料自給率に関しての観念的・農本主義的な議論でなく、エネルギー自給率に関しての実質的な議論をこれからの日本人は厳しくしていかなけばならないのでしょう。

 報告では、原油の残存埋蔵量や産出量のデータにさまざまな誤謬やカラクリがあること、そしてそれに代替する原子力エネルギーというものがどういうものであって、また原子力の安全性を「安全」の意味をわかりやすく説明することによって論証されていました。

 論証の中で、日本のエネルギー問題への意識は呆れるほど低い、しかし日本の原子力エネルギーの技術は突出するほど優秀である、という奇妙な二面性への苛立ちが幾度もあらわれ、私は実にしっかりと共有できたように思えます。そしてこの奇妙な二面性は何処となく日本人らしいという匂いも私はふと感 じました。現状への認識対応の全国民的鈍感さと、その現状にありながら世界的に突出した技術力をもてあましているという二面性は、日本が幾度も直面してきたことであるのでしょう。あるいは「もてあまさせられている」のかもしれませんが。

 苛立ちが共有できたのは、切迫している現実(原油価格)とあまりにも近接している問題であったせいもあるでしょう。ただ、多くの貴重な資料を丁寧に説明されたせいもあり、時間が不足してしまい、幾つかの説明を省かざるをえませんでした。報告検討はこれからも続きます。 

 儒学思想の受容の在り方、左翼政治集会の現状、金融市場の問題、そしてエネルギー自給率の問題と、新年早々、いかにも「混成部隊」の坦々塾ら しい幅の広い、しかし日本という国のこれからを模索する上で、どこかでしっかりとつながっている幾つかのテーマが語られて、少なくとも私には、たいへん刺激的な時間でした。

 報告者の講演を終えた後、会は懇親会に移行しました。先輩諸氏は酒杯を傾けながら、新年会の勉強の成果、今年のこれからの日本の展望、各々の抱負などを遅い時間まで楽しく過ごされていました。懇親会の時間もあわせて、私にとって新年早々、忘れられない一日となりました。

文:渡辺 望

ご案内

「真実を見つめる都民の会」では、「偽装大国日本」と銘打った「パネル展」」を開催します。
期間は1月31日から2月2日までの3日間です。
場所は地下鉄後楽園駅前、文京シビックセンター一階、展示室2・アートサロンです。

「つくる会東京支部」ホームページに案内チラシが掲示されています。

さらに2月2日(土曜)にビデオや映画を観ながら歴史問題の争点を研究します。 

ご関心のある方はぜひご参加ください。参加費無料です。
会場は、文京シビックセンター地下1階 学習室です。

プログラム① 東京裁判に関するビデオを題材とします。 
前編(いわゆる「A級戦犯」の尋問調書から)  10:00-11:15
後編(パール判事の問いかけたもの)      11:15-12:10

プログラム② いわゆるB級戦犯・岡田資中将の法戦(題材:新作映画『明日への遺言』)                   12:15-14:05

なお同じ会場で15:00から、西尾幹二先生による「特別講演」が開かれます。
講演 『「GHQ焚書図書の開封」刊行をめぐって』
~日本人はなぜこんな大事な文献を放棄してきたのだろう~

こちらは入場整理券を発行しますので、お早めにお申し出ください。
整理券発行場所は、1月31日から開催される「パネル展」会場の受付です。

連絡先 090-2410-2431(小野)

文:真実を見つめる都民の会

月刊誌『自由』2月号

jiyuhyousi.jpg 月刊誌『自由』2月号(1月8日発売)に、石原萠記、加瀬英明、藤岡信勝、西尾幹二の「新春座談『自由』50年の歩み――安保闘争から歴史教科書問題まで――」が掲載されました。

 その後半で「新しい歴史教科書をつくる会」の現下の問題点が整理され、明解に語られています。最重要の指摘は、安倍前首相が介入して3億円がフジテレビから一種の「だまし」で八木一派の手に渡ったいきさつを屋山太郎氏が証言している、との藤岡氏の告知です。座談会の最大のポイントです。以下は藤岡氏のその部分の発言内容です。

 フジテレビが三億円出すに至ったのは、屋山氏によれば、次のような経過だそうです。

 年が明けてからだと思うのですけれど、屋山氏が安倍総理に電話して、「扶桑社が教科書をやめるということになった。これは大変困る。何とかしてくれないか」と頼んだ。安倍総理から、「誰に言えばいいのか、誰がポイントなのか」と聞かれたので、「それはフジサンケイグループ会長の日枝さんだ」と答えた。それで、安倍総理が、日枝さんに働きかけた。

 屋山氏が安倍総理に電話して一夜明けた翌日には返事が来て、日枝さんが三億円出すことになった。扶桑社の子会社として育鵬社というのをつくって、すぐに社名が決まったかどうかは分かりませんが、それで出すという話が決まった。そういうことを私は屋山さんから直接聞きました。

 安倍さんは、「つくる会」の教科書を念頭において、扶桑社がもう採算が合わないからという口実で出さないというふうに理解していたはずです。安倍さんは自民党若手の教科書議連の中心メンバーでしたし、安倍内閣時代に「つくる会」の教科書がなくなるという事態を危惧して動かれたのだと思います。

 しかし、八木・屋山グループは、安倍首相の善意を利用して、『新しい歴史教科書』はそもそも「つくる会」の教科書ではなく、扶桑社の教科書だということにして、そもそも「つくる会」を弾き出して、八木さんたちのグループに教科書をやらせるというふうに話をすり替えたのです。安倍さんの意向はそうではなくて、「つくる会」の教科書を出し続けるために影響力を行使したと思います。そのことは安倍さんに近い政治家の方からも確かめている。ところが扶桑社は教科書の書名を変える、執筆者も替えると言う。代表執筆者の私はクビです。編集方針を変える。支援組織をつくる。「つくる会」は解散して、個々のメンバーは仲間に入れてやる。こんなことを「つくる会」がのめるはずがありません。

 次に以下の二つの引用で、つくる会問題の本質の指摘とそれに対する西尾のスタンスが余すところなく語られていると信じます。

 この問題の最大の被害者は、私ではなく、藤岡さんなんですよ。藤岡さんの人格を侮辱するビラがまかれたわけですから。いや、侮辱するレベルではなく、藤岡さんの社会的立場をなくそうとしたのですから。公安調査庁情報というものを遣って、他人の存在を脅かすことは犯罪ではないのですか。証拠は八木さん自身が言論雑誌に書き残しているんです。警察だの公安だのの名を用いて、他人を蹴落とすことが許されるのなら、われわれ小市民は穏やかに生活することが出来なくなります。そしてつくる会が、要するに乗っ取りの対象になった。しばらく私は見ていて、横で見ていただけですけれど、これはおかしいと。絶対におかしいと気が付いた。藤岡さんとつくる会を守らなければいけないと。

 最大の被害者は藤岡さんとつくる会で、私は見ていられなかった。つまりあまりにも明白な不正が行われた。正義に反すること、素朴な意味での正義に反することが行われているということを私は友人たちにも申し上げています。それで再生機構に名前を貸すのをやめた人が何人もいます。正義の問題だ、単純な正義の問題だと何人もの人が気付きました。

 以下は藤岡さんご自身が自分の口からは言いにくいことでしょうから、私が代弁します。藤岡さんは八木秀次氏を名誉棄損で民事提訴しているだけでなく、11月初旬に「偽計による業務妨害罪」で、八木秀次、宮崎正治(元つくる会事務局長)、渡辺浩(産経新聞記者)、「ミッドナイト・蘭」こと中村世志也の四名を東京地方検察庁に刑事告訴しました。東京地検は正式受理した模様です。「藤岡信勝先生の名誉を守る会」も既につくられ、つくる会は理事会だけでなく、約5000人の会員がこの裁判の行方を見守っています。

 私の手許に有志が集まって作成したと聞く東京地検への「嘆願書」が送られて来ています。これは私が関与した文章ではありませんが、よく書けているので、その要点を紹介することで、「問題の核心」をお話ししたいと思います。

 藤岡氏が平成13年まで共産党員であったという公安調査庁情報と称するものを、八木氏は『諸君!』や『SAPIO』で「公安調査庁の知人に確認した」と記述しています。東京地検はその「知人」なる人物の実在の有無を明らかにする義務があると思います。「嘆願書」はまずそのように訴えています。

 次に、その「知人」なる人物の氏名、所属部署、身分を明らかにすべきです。また八木氏の言うように公安調査庁に「知人」がいれば、他人の情報を得ることは可能なのか。普通には可能ではないはずです。ならば、それを可能にした八木氏の特権、氏の同庁との関係は何なのかを説明して欲しいと述べています。

 以上が事実であった場合、現時点では氏名不詳の「知人」には、当然ながら刑事責任が発生するのではないか。何故なら、公安内部の「知人」が公安という国家機密機関の情報、しかも非公開の個人情報を、八木氏という特定の人物に公刊雑誌に複数流布させることを可能にしたからであります。

 以上にあげた諸点は「知人」の実在を前提とします。もし「知人」が実在の人物ではなく、八木氏による創作・ニセ情報であった場合には、八木氏の刑事責任が発生するのは如何せん防止しがたいのではないか、と問うております。

 関係者によると、この「嘆願書」は既に約100人の署名がなされ、東京地検に送られているそうです。署名は今後増えるでしょう。

 よく考えて欲しいのですが、平成13年、すなわち最初の教科書採択の年まで、藤岡氏は保守派の隠れ蓑をまとった「隠れ共産党員」であったと、公安の権威を使って言い立て、藤岡氏をつくる会から失脚させようとしたのですから、卑劣この上もない行為です。八木氏が藤岡氏のいる理事会などで「平成13年まであなたは共産党員ではなかったか」と堂々と声を上げ、公開討論をするのなら、それは少しも卑しいことではありません。

 私が残念なのは、今の世の中が、公安利用などということに敏感でなくなり、仲間を公安に売ることが不正の極みだということさえ分らない人々が、保守言論界の名だたる名士たちの中に少なくないほどに、世の中の道徳観が麻痺していることです。

 私が憤りを覚えているのはひたすらその一点です。それがこの問題に対する私のスタンスの最大の部分です。

 以上のほかに、つくる会のテーマに限っても14ページにわたってさまざまな観点が詳しく討議されていますし、『世界』と対決した『自由』の1960年代以来の長い歴史も追跡されています。まさに戦後史の欠かせないドラマです。

 『自由』は簡単に入手できない地域もあるかもしれません。

 『自由』誌本号の入手及びご購読のお申し込みは、お近くの書店または、自由社(電話:03-5976-6201/FAX:03-5976-6202)までお申し込み下さいますようお願いいたします。

文・西尾幹二

平成20年 謹賀新年

謹 賀 新 年

水のかき消える滝

 七十歳を過ぎると、さすがもう時間は刻々と迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし、日頃なにかと考え思い付くことは、仕事の上の新しい計画なのである。

 昨年と同じように今年に期待している、私という人間の鈍感さである。なにも悟っていない愚かさでもある。

 いつ急変が身を襲うかもしれないことに薄々気がついているのに、気がつかない振りをしている自分にたのもしささえ感じている。

 死の淵に臨む大病を二度しているので、あのときの感覚は分っているつもりだが、忘れるのも早いし、日々思い出すこともない。本当は分っていないのであろう。

 上田三四二という歌人がいた。何度もガンに襲われて逝った。私は彼の書いた私小説が好きで、好意的に論評し、文通もあり、死後彼の文庫本の解説も書いた。

 上田の小説は病院とそれをとり巻く環境、たえず自分の死を見つめる心の弱さや自分への激励を書いていた。やさしい心の人で、文章も柔かく、しみじみとした味わいがあった。

 彼の書いた比喩で、死は滝壷の手前でフッと水が消えてしまう滝を橋の上から見下ろしているようなものだ、という言い方があった。

 記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、人間が生きているということは水量が多い川の流れである。それが滝になってどっと落ちる。落ちた水は滝壷に激流となってぶつかり、飛沫をあげるのが普通だが、この場合には落ちる途中でいっさいの水がいっぺんに消えてしまう場面を想定している。

 大量の奔流が落下の途中でフッとかき消え、その先はもう何もない。上田さんは、来世とか霊魂の不滅とかを信じることができないと言っていた。大抵の日本人はそうである。

 宗教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある。

 彼は小説の中でつねに自分の死のテーマにこだわっていた。こだわり過ぎているとさえ思うことが多かった。あるとき、死を平生考えない人間がむしろ正常なのだ、という彼の感想があった。それはかえって彼における死の意識の深さを感じさせた。

 私は上田さん宛の手紙で、病いの中にあるときの私はあなたの作品に共感し、分ったようなつもりになっているが、本当は何も分っていないのかもしれない。私はあなたが知っての通りどちらかといえば「社会的自我」で生きているタイプの人間で、かりに不治の病に仆れても、結局は今までの自分を変えることはできず、あなたから見て軽薄な、表面的な「社会的自我」で活動する人間であることを死ぬまで守りつづけ、追いつづけるほかない人間であろう、という意味のことを、いくらか自嘲気味に書いた覚えがある。

 苦悩する聖者を前にした浅間しい凡夫のような立場に立って、私は彼の作品を読み、論評し、かつ私的にも交流した。

 私は本当には死の自覚を持っていない人間に違いない。

 一度だけこんなことがあった。

 都心から深夜高速に乗ってタクシーで一路自宅へ急いでいたときだった。点滅する前方の光の乱射がどういう心理作用を及ぼしたのか分らない。私は自分の意識が突然消えてなくなるということがどういうことか分らないのに、それが一瞬分るような、なにかがくんと身体が揺さぶられるような、眩暈のような感覚にとらわれた。私はしばらく息を呑む思いがした。

 自分の意識が消えてなくなる?これはどういうことだ?

 自分がなにか違う次元の相へスリップインしたような、ついぞ体験をしたことのない異様な恐怖が私を襲った。

 うまく言葉でいえないが、それはたしかに恐ろしかった。私は目をつぶってやり過した。

 上田さんの、滝壷の手前でフッとかき消えてしまう不思議な滝の光景がしきりに思い合わされた。

 タクシーは間もなく高井戸から環状八号線に入り、いつも見ている馴染みの商店街を目にするにつれ、私は自分を取り戻した。私は携帯を取り出して、もうすぐ帰るよ、と自宅へ電話した。

 あっという間の出来事だった。

(『礎』第2号からの転載)

文・西尾幹二

チャンネル桜予告

 日本文化チャンネル桜の年末恒例の総まとめの討論会に出席し、録画撮りを終えました。放送は12月29日(土)21:00~24:00です。

日本よ、今…闘論!倒論!討論!2007
「どこへ行くニッポン!2007年総決算」

●放送予定日時:平成19年12月29日(土)21:00~24:00 SKYPefecTV
!ハッピー241(241ch)

● パネリスト:(敬称略・五十音順)
  上杉 隆(うえすぎ・たかし/ジャーナリスト)
  潮 匡人(うしお・まさと/評論家)
  遠藤浩一(えんどう・こういち/評論家)
  日下公人(くさか・きみんど/評論家)
  塚本三郎(つかもと・さぶろう/元衆議院議員・元民社党委員長)
  西尾幹二(にしお・かんじ/評論家)
  西村眞悟(にしむら・しんご/衆議院議員)
  増元照明(ますもと・てるあき/「家族会」事務局長)

●司会  :水島 総(みずしま・さとる/日本文化チャンネル桜 代表)

 福田内閣と日本の対中姿勢への批判が大きな中心テーマでした。話題は国内的、国際的の両方にまたがり、内容豊かでした。

 81歳の塚本三郎氏のお元気な姿に接し、かって旧民社党の果した役割も議論され、感無量でした。イージス艦の導入は竹下内閣の時代、塚本氏の活躍によって可能になったと知りました。

 最近のミサイルディフェンスの打ち上げ成功に至るまでにいかに長い時間がかかったかに驚かされます。しかしそのミサイルディフェンスも軍事的には隙だらけで、不十分です。核に対しては核武装しか対抗手段がないことは、ここに集った全員の共通認識でした。

 インドは核武装をするまでは不安だったが、いったんしてしまうといいことばかりだ、とインド人が言っていたとは、日下公人氏のお話でした。

 今の時代に、中国と日本とではどちらがより多く相手を必要としているかといえば、中国にきまっています。日本からの投資が減少するのを中国はひたすら恐れています。南京虐殺館を閉鎖しない限り投資は控える、と日本は今なら言えるのです。

 それなのに中国にウソを強いられ、脅迫されている側の日本がビクビクしていて、日本の国内の大マスコミが中国批判を必死になって抑えています。この、理由なき自己規制にとらわれているマスコミの数多の実例が紹介されました。

 悲しいことです。結局、外国を恐れているのは外国のせいではなく、日本人自身の問題なのですね。

 そう言っているうちにアメリカのバブルが崩壊しました。日本の土地神話を思わせるアメリカの住宅費値上がり期待によるサブプライムローン問題をみていると、田中角栄とホリエモンが一緒に来たような印象を受けます。これは私の発言中の評語です。日下さんが肯いていました。

 アメリカのモラルハザードです。それなのにアメリカの資本主義は正統で、普遍的で、日本の資本主義は異端で、特殊だと永年にわたって言われつづけ、日本人は経済の面でもアメリカを恐れつづけてきたのです。小泉内閣のやったことは「恐怖」の反応でした。

 サブプライムローンの破綻は小泉の破綻です。自由市場経済、規制撤廃政策の破綻でもあり、アメリカの放任政策の失敗が彼の間違いをいわば証明してくれたのです。中国のバブルの崩壊もこれできっと早まるでしょう。日本も混乱を強いられます。よほどしっかりしなくてはなりません。

 本当に日本はもうどんな外国をも頼ることは出来ないのです。「2007年総決算」はひとしおその思いを全員に共通して抱かせ、強く確認させるに至った次第です。

 29日夜をご期待ください。

文・西尾幹二

12月の仕事

 次に出る私の雑誌論文は、

日本は米中共同の敵になる
 「集団忘却」の日本人へ
  WiLL2月号
(12月21日発売)

 ただし表紙の題名は 米中同時崩壊が始まった
で、目次の題名と異なっている。

 一般に論文の題名は雑誌の編集長が付ける慣例である。表紙は何日か先に印刷されるので、目次と異なることはよくあることである。編集長は今回は迷ったものと思われる。上記二つはどちらも当たっている。

 論文のテーマは少し詳しく言えば、戦争と運命・沖縄問題・三島由紀夫の憂国忌に思う・北朝鮮とアメリカの裏切り・米中バブル崩壊・激変するこれからの世界と近づくわれわれの運命、等。

文・西尾幹二

講演会のお知らせ

 12月15日(土)、西尾先生の公開講演会がありますので、お知らせします。
福岡にお近くの方は是非ご参加ください。

「現代国家が抱える課題」
――沖縄・北朝鮮・米中バブル崩壊――

講 師:西尾幹二
時 間:12月15日(土)
    開場  14:30
    開演  15:00~16:30
場 所:福岡国際ホール
    中央区天神1-4-1
    西日本新聞会館16F
主 催:西日本短期大学
入場料:無料