特別座談会

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「反日マスコミの真実2」が発売されます。
その中の記事です。

 特別座談会

メディアの終焉とその先にあるもの

………………………………
西尾幹二+西部邁+富岡幸一郎+西村幸祐

 一年で崩壊した安倍政権と混迷する日本。
 メディアは何を報じ、どこへ国民を連れて行くのか。
 日本メディアの病とその処方箋を徹底的に語る。

(章立て小見出し)

「アサヒる」メディアとネットの対立
情報ヒエラルキーの崩壊
中国の台頭をどう捉えるか
民意と戦後メディアの構造
デモクラシーの腐敗が生むもの
メディア全体主義と言葉への政治介入
近代の病としてのメディア

「路の会」11月例会

 「路の会」11月例会が26日京都大学教授佐伯啓思氏を講師にお招きして行なわれた。テーマは「9・11以降の思想的課題」。お話の大要は以下の通り。(要約文責は西尾)

(1)9・11テロは「アメリカに対する攻撃」という以上の意味をもっている。

(2)9・11テロについての従来の二つの立場。
   ①フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」とネオコンの歴史観。
   ②文明の衝突というハンチントン的理解。

(3)これに対し第三の解釈、9・11テロは西欧近代主義の生み出したものである、という考え方がある。    ジョン・グレイとエマヌエル・トッド。

(4)西欧近代とは何か。三つの柱がある。
   ①近代国家体制。(主権国家、国民国家、中立国家)
   ②合理性・脱魔術化・科学と技術信仰。
   ③生命尊重・自由平等・幸福追求の権利。

(5)西欧近代主義は、それが実現するとともに深いニヒリズムに陥る。現代のニヒリズムを特徴づけるものは「グロバライゼーション」と「ポストモダニズム」。

(6)イスラム・テロリズムは西欧近代主義が生み出した西欧近代への反逆である。ニヒリズムは宗教的原理主義(イスラム)と世俗的原理主義(アメリカ)をうみだした。

(7)9・11によって西欧近代主義は破産し、その矛盾があらわにされた。(注・このポイントが佐伯氏のお話の中で最も面白かった  西尾)

   ①近代主権国家は相互の主権を尊重するという前提であったはず。イラク戦争は簡単にこれを跳び越え、他国侵害を行った。ブッシュの予防的先制攻撃には付帯条件が必要であったはず。自由と民主主義を世界に広げるというアメリカの旗は矛盾をさらした。

   ②生命尊重・自由平等・幸福追求の権利という西欧近代主義の理想はむなしくなった。生命を顧みないことで他の生命を奪う自爆テロは何の価値があってのことか。アメリカもこの矛盾の論理の内部に入る。アメリカも生命尊重という原則を放棄している。アメリカ国民の生命を守ると称してイラクで自他の生命を傷つけ、アメリカ国内の自由を侵害してさえいる。

   ③西欧近代の中の自由は万能ではなかった。自由主義・開かれた社会・寛容の原理の中に自由を否定する勢力が入ってきたらどうするのか。自由が至上価値ならそういう勢力をも受け入れざるを得ないであろう。排除するなら自由は西洋的社会の中でしか通用しないことになる。調整がつかない。

 例えば政教分離の原理が守られているなら、世俗世界では自由が守られる。しかしイスラムのような政教分離していない世界とはこれは両立しない。

 西洋とイスラムは両立しない。自由と民主主義は西洋の中でしか通じない。

 西洋が主導するグローバリズムの時代は、今の現実だからどんどん進んでいかざるを得ないだろう。しかしこれは理念として世界を救う原理にはならない。

(8)西欧近代という理念の失効は、ニヒリズムの結果としての「力への意志」(ニーチェ)をひき起さざるを得ない。他に頼るものがないからだ。現に「力の政治」がもたらされた。

 力は現代では①軍事力=政治力 ②経済力 ③人間の力を結集させる力(多くは宗教的民族的なもの)

 互いに国境を低くするグローバリズムは協和の時代ではなく、まさに覇権競争の時代である。

 以上の状況だとするとわれわれはこれから何を考えたらいいのか。アメリカとの関係(中国ではなく)をどうするかがポイントだ。アメリカこそが最大のニヒリズム国家、これをどう扱うかが基本問題だ。

 アメリカからどう精神的距離をとったらいいのか。

 安倍政権は価値観外交といい、アメリカとは価値を同じくするといったが、自由と民主主義は価値ではない。アメリカのそれにはユダヤ=キリスト教的なものがバックにある。

 自由と民主主義は普遍化し得る価値ではない。地球をすべる正義ではない。そのことに日本人は疑問をもち出してきた。

 日本的な価値がある、とあえて言うべきだろう。だが、これはなかなか世界に発信できない。世界に訴えることがむつかしい。

 京都学派の哲学者たちは戦争直前にそれを考えていた。哲学概念の操作において、西洋的なものにまきこまれつつであって、したがって不完全ではあったが、一つの試みだった。

 アングロサクソン中心の自由と民主主義に対しアジアという尺度をもってきたらどうしたらよいか。二つの世界を媒介できるのは日本だけだと考えた。

 試みはうまく行っていないと思うが、一つの試みがなされたことは重要である。

 以上の要約は不完全で、講演者には申しわけない。出席者から数多くの貴重な質問が発せられ、意義深い討議がくりひろげられた一夕であった。

 出席者(座席左から)小浜逸郎、入江隆則、大島陽一(元東京銀行専務)、木下博生(元通産省審議官)、北村良和(愛知教育大・中哲)、藤岡信勝、石平、富岡幸一郎、杉原志啓(学習院女子大)、内田博人(諸君・編集長)、山口洋一(元ミャンマー大使)、仙頭壽顕(文藝春秋出版部)、福井義高(青山学院大)、藤井厳喜、高山正之、宮崎正弘、井尻千男、関岡英之、西村幸祐、湯原法史(筑摩書房)、力石幸一(徳間書店)、西尾幹二(以上22名)

文・西尾幹二

『GHQ焚書図書開封』の刊行が決定

再掲示

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は近く発刊される西尾先生の新刊についてです。紹介文は西尾先生の手によるものです。

 『GHQ焚書図書開封』の刊行は、空白の歴史の回復、自国史に関する広い新しい視野の獲得のための試みです。

 昭和8年頃から昭和19年までの日本の目星しい書物が敗戦後GHQによって没収されました。その数は現在の研究で7100冊に及ぶとみられていますが、完全に忘れられ、今では一般の人の目に触れることはありません。

 戦後わずかに古書店と個人所有と一部の図書館に残存した以外には、ことごとく米占領軍によって消されました。官公庁や学校や版元や流通ルートが所有することは禁止されました。また仮に古書店にあっても、戦前、戦中を否定したこの国の国民は、あえて手に取ってみようとする者はほとんどいませんでした。

 私は『日本人はアメリカを許していない』の中で、10冊程度焚書図書を利用した論文を書いています。

 「文化チャンネル桜」の水島総社長が1200冊ほどの焚書図書のコレクションを作成し、いまなお蒐集中です。私はこれを使用して紹介、解説する番組を放送する機会を与えられました。

 番組はいまなお放送続行中ですが、最初の16回分のタイトルは以下の通りです。( )内は放送日。徳間書店が刊行を決定し、活字におこす作業を開始しました。

 第1回:占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従に
      彼らは恐怖を感じていた (2月1日)
 第2回:一兵士の体験した南京陥落 (2月15日)
 第3回:太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった (3月1日)
 第4回:正面の敵は実はイギリスだった (3月15日)
 第5回:太平洋上でのフランスの暴虐 (3月29日)
 第6回:オーストラリアは何故元気がない国家なのか (4月11日)
 第7回:オーストラリアのホロコースト (4月25日)
 第8回:南太平洋の陣取り合戦 (5月9日)
 第9回:シンガポール陥落までの戦場風景 (5月23日)
 第10回:人権国家フランスの無慈悲なる人権侵害 (6月6日)
 第11回:アメリカ人が語った真珠湾空襲の朝 (6月20日)
 第12回:オランダのインドネシア侵略史 ① 7月3日
 第13回:オランダのインドネシア侵略史 ② 7月31日
 第14回:日本軍仏印進駐の実際の情景 8月28日
 第15回:日本軍仏印進駐下の狡猾惰弱なフランス人10月2日
 第16回:『米本土空襲』という本 10月23日

 以上は300冊程度の焚書図書をしらべ、30冊程度を取り扱った結果で、氷山の一角のそのまた一角の紹介にすぎません。

 以上の出版の後にも、放送は続行し、出版も継続されるはずです。私の出版が何冊で終わるかも今の処わかりません。それでも氷山の一角のそのまた一角のレベルを越えることはないでしょう。

 60年間顧みられることなく放置されていた未知の歴史情報の回復には、60年を要するのかもしれません。私の仕事はどこまでも「開封」であって、それ以上のものではありませんが、この「空白の歴史」を埋めなければ「国民の歴史」は欠損のままで、いつまでも完成しないのです。

 第一冊目は来年早々にも出版されると思います。

文・西尾幹二

今夜のチャンネル桜

11月16日(金)20:00から、以下の放送が、スカイパーフェクトテレビ241チャンネルで放映されます。

20:00報道ワイド日本 「クリティーク」-11月16日号

キャスター:西村幸祐・児玉千洋

ゲスト:西尾幹二(評論家・電気通信大学名誉教授)…北朝鮮問題や、「沖縄・集団自決」をめぐる教科書問題などについてお聞きします。
VTR:「平成19年11月15日 緊急開催!第2回 教科書改善シンポジウム-沖縄戦を子供たちにどう伝えるか」

是非ご覧ください。

「いじめ」考

 

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、警察の雑記「BAN」(2007年9月号)に載った、西尾先生の文章です

 子供の「いじめ」が深刻視されています。政府の教育再生会議でも取り上げられ、新聞が会議のうろたえぶり、いじめた子の「登校停止」を提案したり、またすぐに八方おもんばかってその提案を引っ込めたりする右往左往ぶりを伝えていました。いかにも政府の審議会らしい腰の座らなさです。

 「登校停止」で解決できるケースなんて、むしろ少数でしょう。いじめる者といじめられる者との差があまりはっきりしない事例が多く、いじめられる者が、明日にはいじめる側に回るなどの可能性の微妙さがやっかいなのです。

 ある学校で、校長先生が教室に来て、いじめ問題を生徒に真剣に語りかけている最中にいじめが起こっていた事例があります。後で全員に文章を書かせて分かったのでした。だから大変な話なのです。

 現代で最悪のケースは、いじめが密室化し、被害者が自殺する場合です。いじめは私の子供時代からありましたが、いじめで自殺する子供はいませんでした。昔の子供は心が強かったからでしょうか。そうではなく、社会の基本には暴力があり、暴力を抑えるには暴力しかなく、暴力を道徳で抑えることは不可能だ、という当たり前の常識が普及していたからです。

 子供の群れる学校は野生の猿の世界です。私は農村も都会も知っていますが、私の子供時代、クラスのボス猿は大抵、親か兄かが非合法社会とつながっていました。ところがそのことが、彼の暴力を抑止したのです。彼は刃物を懐に入れていましたが、人を傷つけることはないし、人を殴っても手心を加えていました。今の時代のすぐキレる、優等生顔をしたヒステリー少年よりもずっと大人でした。なぜなら、非合法社会にいる親や兄が、自分の子供の暴力を許さなかったからです。

 昔は野生の暴力が、社会の中に実在していた有効性を考えておきたいのです。それは非合法勢力のことだけを言っているのではありません。村には必ず青年団があって、子供の暴力を力で牽制(けんせい)していましたし、上級生は生意気な下級生を袋叩きにしました。学校の先生の体罰も有効に働きました。街角でいじめを見て、普通の市民が介入し、叱りつけました。それがいつの頃からか「刺されるからやめておこう」に変った。

 今の世はおしなべて無責任な平和主義で、他人に干渉しません。その結果、いじめは学校の中で密室化し、陰惨になり、外から見えにくくなりました。いじめられる子供はいたぶられ、小づかれても、助けてくれる有効な上位の暴力がなく、行き場を失って絶望し、自殺に追い込まれるのだと思います。社会の中の野生の暴力が消えてしまったことに、自殺多発の最大の原因があるのだと言ってほぼ間違いないでしょう。

 政府の審議会は、暴力を抑えるのは暴力だというところまで本気で問い詰めているでしょうか。教育委員会や校長会は、きれいごとを言って逃げていないでしょうか。間違っているのは平和主義なのです。そこで、私はいじめられている子に「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」と学校の先生が日頃、子供たちにあえて教えておくことがぜひとも必要だと申し上げたい。無抵抗主義を教えるのは、弱い子供に対しては自殺への誘いです。正当防衛としての闘争心を教えること、先生が日々これを噛(か)んで含めるようにして言い聞かせておき、少しでも闘争心が芽生えたら、その子はもう決して自殺しません。

 防衛の心はそもそも生命力の表れなのです。

文・西尾幹二

雑誌論文

再掲

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

11月の月刊雑誌(12月号)に西尾先生は次の成果を発表されます。

   評論  中国に奪われた自由 
        (Voice 11月10日発売)

        副題 「アヘン戦争期」と似た三角貿易体制を突破できるか

   対談  ヨーロッパの優等生 ドイツ型教育はなぜ崩壊したのか
        (諸君! 11月1日発売)
        対談相手  川口マーン恵美氏

『GHQ焚書図書開封』の刊行が決定

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は近く発刊される西尾先生の新刊についてです。紹介文は西尾先生の手によるものです。

 『GHQ焚書図書開封』の刊行は、空白の歴史の回復、自国史に関する広い新しい視野の獲得のための試みです。

 昭和8年頃から昭和19年までの日本の目星しい書物が敗戦後GHQによって没収されました。その数は現在の研究で7100冊に及ぶとみられていますが、完全に忘れられ、今では一般の人の目に触れることはありません。

 戦後わずかに古書店と個人所有と一部の図書館に残存した以外には、ことごとく米占領軍によって消されました。官公庁や学校や版元や流通ルートが所有することは禁止されました。また仮に古書店にあっても、戦前、戦中を否定したこの国の国民は、あえて手に取ってみようとする者はほとんどいませんでした。

 私は『日本人はアメリカを許していない』の中で、10冊程度焚書図書を利用した論文を書いています。

 「文化チャンネル桜」の水島総社長が1200冊ほどの焚書図書のコレクションを作成し、いまなお蒐集中です。私はこれを使用して紹介、解説する番組を放送する機会を与えられました。

 番組はいまなお放送続行中ですが、最初の16回分のタイトルは以下の通りです。( )内は放送日。徳間書店が刊行を決定し、活字におこす作業を開始しました。

 第1回:占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従に
      彼らは恐怖を感じていた (2月1日)
 第2回:一兵士の体験した南京陥落 (2月15日)
 第3回:太平洋大海戦は当時としては無謀ではなかった (3月1日)
 第4回:正面の敵は実はイギリスだった (3月15日)
 第5回:太平洋上でのフランスの暴虐 (3月29日)
 第6回:オーストラリアは何故元気がない国家なのか (4月11日)
 第7回:オーストラリアのホロコースト (4月25日)
 第8回:南太平洋の陣取り合戦 (5月9日)
 第9回:シンガポール陥落までの戦場風景 (5月23日)
 第10回:人権国家フランスの無慈悲なる人権侵害 (6月6日)
 第11回:アメリカ人が語った真珠湾空襲の朝 (6月20日)
 第12回:オランダのインドネシア侵略史 ① 7月3日
 第13回:オランダのインドネシア侵略史 ② 7月31日
 第14回:日本軍仏印進駐の実際の情景 8月28日
 第15回:日本軍仏印進駐下の狡猾惰弱なフランス人10月2日
 第16回:『米本土空襲』という本 10月23日

 以上は300冊程度の焚書図書をしらべ、30冊程度を取り扱った結果で、氷山の一角のそのまた一角の紹介にすぎません。

 以上の出版の後にも、放送は続行し、出版も継続されるはずです。私の出版が何冊で終わるかも今の処わかりません。それでも氷山の一角のそのまた一角のレベルを越えることはないでしょう。

 60年間顧みられることなく放置されていた未知の歴史情報の回復には、60年を要するのかもしれません。私の仕事はどこまでも「開封」であって、それ以上のものではありませんが、この「空白の歴史」を埋めなければ「国民の歴史」は欠損のままで、いつまでも完成しないのです。

 第一冊目は来年早々にも出版されると思います。

文・西尾幹二

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の七

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

極東における情勢は日清戦争以前の頃とよく似ていますが、地政学的にロシアや中国は日本という国によって太平洋への出口を塞がれている状況にある。実際の歴史においても日清・日露戦争により中国とロシアは太平洋への進出は出来なくなった。もし日本がロシアや中国の支配下に入ればアメリカの太平洋の制海権は危ういものになってしまう。

それなのになぜ日本とアメリカとが戦争をすることになったのかは後日触れたいと思いますが、当時はイギリスが七つの海の制海権を持っていた。それに対してロシアの南下政策で満州から朝鮮半島にかけてのロシアの影響が大きくなり、日本はイギリスにそそのかされるようにロシアや中国と戦争をする状況になってしまった。

戦略的にいえば日本は海軍力でロシアや中国に対して優位に立てばいいのであり、大陸に進出する必要はなかった。軍事的には沿岸地域を制圧できればいいのでしょうが、そうすると日中戦争のように奥へ奥へと引きずりこまれてしまう。今から考えれば朝鮮半島へ進出した事が間違いの元だった。

むしろ大陸に進出するよりも、太平洋やインド洋への制海権を確保すべきだったし、アメリカによる日本への海上封鎖が日本への一番の脅威であり、大東亜戦争はアメリカに対する防衛策の不備が敗戦の原因となった。日本はソ連の共産主義にばかり警戒の目が向けられてアメリカへの備えを怠ってしまった。

明治維新の頃はイギリスはクリミア戦争で戦っていたように、現在のアメリカもイラクやアフガニスタンで戦っている。こうなるとロシアや中国は極東へ勢力を伸ばしてくるのは歴史的必然だろう。北朝鮮の核武装も背後から中国やロシアが操っているからであり、それに対してアメリカは動きが取れない。

アメリカは明治維新の頃のイギリスのように日本を強化して中露に対抗させるという戦略をとるだろう。それに対して日本はそれだけの体制を築く事ができるだろうか? 憲法改正や集団安全保障体制などの体制整備の対する国民の合意がぜんぜん出来ていない。

西尾幹二氏が言うように「当時の日本は無力なる半植民地国家」であり、現在もアメリカの半植民地状態であるのだ。アメリカという国家が強力であり続けてくれれば半植民地でもいいのでしょうが、アメリカはイラクの戦況を見れば分かるようにアメリカの国力の衰退は歴然としている。

一番注意しなければならないことは、日本が半植民地に安住してしまうと、朝鮮半島のように中国、ロシア、アメリカに分割支配されかねないということだ。西日本は中国に、中部日本はアメリカに、北日本はロシアに分割されてしまうかもしれない。だからこそ「株式日記」では自主防衛体制を主張しているのですが、日本国民は真の近代の歴史をほとんど知らない。

「国民の歴史」という本を読めば歴史の真相がある程度読めてくるだろう。戦後の歴史書は多くが東京裁判史観で書かれており、日本は戦争犯罪国家であり非武装国家にされて、世界情勢が分からない愚民化政策がとられてしまった。だから、自主防衛だの核武装だのと言うとびっくりして思考が停止してしまう。

国会では核武装について考えることも禁止されている。まさに日本はアメリカの半植民地なのです。例えば日本とオーストラリアとで核兵器を共同開発したらどうだろうか? オーストラリアにはウラン鉱石があるし、広大な核実験場も出来るだろう。アメリカは反対するかもしれないが、英国はどうだろうか?

このままでは日本は中国かロシアの支配下に入ってしまって太平洋の覇権は中国やロシアのものとなってしまう。そうなる事をアメリカやイギリスは望むだろうか? 歴史が分かる人ならば答えはすでに出ている。分からない人は「国民の歴史」を読んでもらえれば分かると思う。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の六

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆英露対立を利用したアメリカと日本

 さしあたり明治の日本に話題を戻そう。十九世紀の日本はまだそんな偉そうなことが言える立場ではなく、なんとかして列強と同等の地位になり、仲問に入れてもらうのが先決だった。そのとき、とても興味深いアメリカとの共通点がある。

 アメリカを助けたのは具体的にはイギリスとロシアの伝統的対立だった。そしてまったく同じことが日本についても言えるのが面白い。アメリカや日本が、国際的に少しずつ自由に動き出せるようになるのは、もちろん日本はアメリカより半世紀以上遅れていたが、英露対立が基本にあったからである。日本もアメリカもこの対立を利用した。

 ユーラシア大陸を南北に二分割する英露対立は、かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、海を回って西太平洋にまで艦隊を派遣したイギリスとが、どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。もうひとつは北アメリカ大陸である。

 イギリスは自分の勢力圏とみなす地域にロシアが人ってくるのを防ぐために、同盟相手をいろいろに変え、ありとあらゆる策を弄するのを常としていた。アメリカがイギリスやフランスに先がけて、ペリー来航というかたちで日本に接近することが出来たのは、ちょうどその頃イギリスとフランスはトルコを援助してロシアに宣戦していたからである。クリミア戦争(1853-1856年)である。

 イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。対日接近に両国が一歩遅れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。しかしやがて幕末の日本にともに影響を与え、イギリスは薩長連合を援助し、フランスは落日の幕府を支えつづけることになる。

 その後アメリカは日米修好通商条約(一八五八年)を最後に、対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、ヨーロッパの二強国に遠慮したからではなく、アメリカが最大の内乱である南北戦争(一八六一~一八六五年)に突入し、外交上の余裕を失ったためである。これは日本に幸運だった。

 一方、クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港を求めて、東北アジアヘの進出を企て始めた。まず、ロシアは朝鮮に隣接する沿海州のウラジオストックに座を占めた。日本の北辺はにわかに風雲急を告げた。

 ロシアはいち早く日本列島とひとつづきである千島列島と樺太に人を入れた。日本は一歩遅かったのである。なにしろ幕末から明治への動乱期で、外を考える余裕がない。一八六九年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本はこれを拒否。明治の新政府ができてから、両国間にようやく取引が成立し、日本はもはや樺太は間にあわないと悟ってこれをあきらめ、かわりに千島列島全部の領有権を得た(千島・樺太交換条約、一八七五年)。

 ロシアも一八六一年に農奴解放令を発するなど、国内に困難をかかえていた時代である。イギリスは一八五七年、インドでセポイの大叛乱(セポイは東インド会社のインド人傭兵)を処理し、アヘン戦争を終結したあとの中国でアロー戦争(一八五六~一八六〇年)を起こして、再び清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。

 しかしイギリスは、ロシアが日本の北辺に迫ったことがいかにも面白くない。どこの国であってもとにたかくよその国が極東で支配的地位を占めることには耐えがたい。それが七つの海を支配した当時最大の帝国イギリスの受けとめ方である。

 しかしながら、当時の日本はいまだ無力なる半植民地国家であった。だからいかなるゲームにも参加できない。そうかといってイギリスはロシアと争って日本を分割するには、日本は地下資源などの魅力に乏しく、戦えば手ごわい抵抗相手にもみえた。それくらいなら日本を助け、育てて、ロシアに対抗する防波堤とするほうがよい。

 日本は自分の自由意志で国際情勢を乗り切っていく国家になりたがっていた。そのためになんとしても不平等条約を撤廃してもらわなくてはならない。列強と対等な関係を一日も早く築くことを強く希望していた。そのことにむしろ利益を見出したのはイギリスである。日本は急速に近代的な国家体制を整え始めていた。イギリスはそれをみて、ロシアとの極東における取引ゲームに日本が参画することをむしろ期待し、その方向に誘導した。

 ここからは少し話が先へ行きすぎるが、日本は残念ながら厳密な意味での独立国ではなかったといえるだろう。イギリスの対ロシア政策の傀儡であった一面が小さくない。しかしあえてその役割を引き受け、果たさなければ、当時の世界情勢のなかでは相手にされず、踏み潰されてしまうのが落ちだった。明治日本を最初から”悪しき強国”として描くのはどうみても間違いである。(P511~P516)

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の五

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 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」

書評 / 2007年05月05日

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」は
失敗に終わったが、往時の日本人のこの気迫は貴重である。

2007年5月5日 土曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆若い国アメリカの気概

 思い切って歴史を二百年ほどさかのぼって、列強の動きをひとわたり広い角度から、大雑把に眺めておくことにしよう。

 十九世紀の初めのヨーロッパにナポレオン戦争があった。ナポレオンが失脚した一八一五年に、いわゆるウィーン体制が始まる。ナポレオン時代は戦争に戦争があいつぐ動乱期だったが、フランス革命の精神的余波がヨーロッパ中に広がった革命精神の高揚期でもあった。ウィーン体制はこの反動で、安静、安定、秩序というものをなによりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのがオーストリアの宰相メッテルニヒである。ヨーロツパではしばらく平和が保たれる。

 しかるに、ナポレオン戦争中にすでにスペインの植民地であった中南米諸国が、スペイン本国が占領された機に乗じて、次々と反抗の狼火をあげた。一八一六年のアルゼンチンの独立をはじめ、各国が続々と独立した。一八一八年にチリが、一八一九年にコロンビアが、一八二一年にメキシコが独立し、一八二二年にはブラジルもポルトガルの支配を脱して独立国になった。

 メッテルニヒはこれらの動きを革命運動とみなし、武力をもって干渉しようとしたが、まずイギリスの反対にあった。イギリスはようやく中南米市場を自由貿易に開放したばかりであった。スペイン・ポルトガルの重商的植民地帝国を叩きつぶしたばかりなのだ。ヨーロッパのどの国でも中南米の一角に干渉しようとしたら、無敵のイギリス海軍がただちに出動するかまえだった。大西洋世界における平和を守ったのは事実上イギリスの海軍力だった。

 ところが、面白いことに、イギリスから独立して少しずつ力を貯えつつあったアメリカ合衆国が、一八二三年に南北両大陸へのヨーロッパの干渉を拒絶する宣言をして、独自の力を誇示した。いわゆるモンロー宣言である。アメリカにはまだまだそんな大見得を切るだけの実力も裏づけもなく、モンロー宣言はどうみてもたんなる空威張りにすぎなかった。しかし、アメリカにはすでに南北両大陸を広く見渡す目と、いずれはこれをわが勢力下におこうとする気概があった。

 一八一〇年代、ロシアはべーリング海峡からアラスカに支配権を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進めていた。これに対しアメリカはイギリス領カナダとは国境確定をすでにしたが、太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯はイギリスと領土紛争をつづけていて、モンロー宣言はさしあたり、イギリス、フランス、そしてロシアの動きに敏感に反応し、ヨーロッパ全体の介入を牽制した宣言であった。

 その際、中南米諸国の独立を擁護し、オーストリアの宰相メッテルニヒの野望を砕いたのは、自分の実力以上の差し出がましい行動だったともいえる。なぜなら、中南米の平和を守っていたのはイギリスであり、当時アメリカはインディアンの土地をメキシコと奪い合ったり、荒らくれ者の集団を中米に暴れこませたりする程度で、南アメリカ大陸に対し十分に責任の持てる体制ではなかったからだ。

 それなのにアメリカは言うべきことを言った。いちはやく、先手を打つようにして言った。アメリカにはまださしたる海軍力さえない。しかし、その陸軍力はいっでもイギリスの植民地カナダを侵略する力を備えていた。それにカナダを脅かしているのは、アメリカだけではない、南下するロシアもあった。

 アメリカはイギリスに対し、たくさんの貸しがあるのである。中南米諸国の独立擁護を宣言した背景には、イギリスの海軍力をも外交的政治的に利用しうるとの敢然たる意志があってのことと思われる。なぜアメリカにはこれほどの気概があったのだろうか。

 同じ英語を話す移民国家カナダとオーストラリアには当時も、そして今もこの気迫がない。カナダ移民の始まりは漁業資源の商業目的であったし、オーストラリアはなんと十八世紀の末までイギリスの囚人の捨て場であった。どちらもイギリス本国に経済的に束縛されつづけていた。

 しかし、アメリカはイギリスと戦争をして独立を勝ちえた国家である。植民地と戦争して敗北したイギリスはひどく落ち込んで、自信を失う時期さえあった。過去二世紀の国民国家の形成期に、きちんと自分を主張し、戦争をも辞さなかった国とそうでない国との差ははっきりと出ており、今日まで影響を残している。

 国家の起源はこの上なく大切である。囚人の捨て場であったオーストラリアは今も元気がなく、資源大国であるのにそこに住む人は亡命者の群れのようにひっそり、浮かぬ顔で生きていると聞く。過日ある人から、オーストラリアの住民はテーブルスピーチの前に、「自分は一八○○年以後の移民の子孫だ」というようなことをいちいちことわるという話を聞いて、なるほどと思った。囚人の捨て場が国家の起源だったということを国民規模で気にしているのである。

 話は元へ戻るが、日本人は、太平洋の向こう側のアメリカ人の生き方とその歴史を、長いあいだじっと観察し、考えてきた国民である。アメリカの政治行動はヨーロッパのそれ以上に日本に与えてきた影響が大きい。日本にとって中国と韓国は二千年の文化と歴史で結ばれた隣人である。アメリカにとっての中南米諸国よりはるかに関係が深い。アメリカ合衆国と中南米諸国との間には歴史的文化的になんのつながりもない。そのアメリカが中南米に関してモンロー宣言を発するのなら、日本がアジアに関して同じ宣言を発してなぜ悪いのだろう。

 実際、昭和九年(一九三四年)に、外務省情報部長の天羽英二は、日本だけが極東平和の責任を負うという宣言、やがて「大東亜共栄圏」の理念に発展する、を行い、これは「アジアのモンロー宣言」と呼ばれ、国際社会を騒然とさせた。残念ながら、当時すでに日本は五大国の一つであったとはいえ、中南米を実際に防衛していたイギリス海軍のように、ほかにアジアを実際に防衛してくれているスーパーパワーは存在しなかった。日本一国でアジア全体を守る、というのである。

 「アジアのモンロー宣言」は失敗に終わった。それでも、往時の日本人のこの気迫は貴重である。アメリカだってまったく実力もない時代に、イギリスとロシアなどとの対立をうまく利用して堂々とした言動を示していたのである。

文:西尾幹二『国民の歴史』より