10月の仕事

11月の月刊雑誌(12月号)に西尾先生は次の成果を発表されます。

   評論  中国に奪われた自由 
        (Voice 11月10日発売)

        副題 「アヘン戦争期」と似た三角貿易体制を突破できるか

   対談  ヨーロッパの優等生 ドイツ型教育はなぜ崩壊したのか
        (諸君! 11月1日発売)

        対談相手  川口マーン恵美氏

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の四

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆大東亜戦争の根本的原因を考察する 日下部晃志

《 1906 サンフランシスコ市教育委員会、日本人・コリア人学童の隔離教育を決定
1907 サンフランシスコで反日暴動
1908 日米紳士協定(日本が移民を自粛する代わりに、排日的移民法を作らないことをアメリカが約束)
1913 カリフォルニア州で排日土地法成立
1924 絶対的排日移民法

 以上のようになる。当初は主として西海岸で、州単位での立法であったし、守られなかったが日米紳士協定を結ぶ余地はあったのだ。しかしながら、24年の絶対的排日移民法は連邦法で、これは別名「帰化不能外人移民法」ともいい、日本移民は禁止されたのである。これが何を意味するだろうか。まず、アメリカ社会の根底に日本人に対する差別があったことであろう。確かに、移民の受け入れについては、各国の自由に任せられるべきだが、ヨーロッパからの移民は受け入れるが、非白色人種の移民は受け入れないということは、どう解釈しても人種差別である。経済の面からみると、日本にとっては労働力の供給先を失ったということである。そのため労働力が過剰になり、新たな移民できるような場所を大陸に求めざるをえなくなったのである。アメリカがホーリー・スムート法によって関税障壁を設け、世界恐慌を誘発したのが1930年で、日本が満州事変を起こしたのが1931年ということを考えればわかりやすい。大恐慌とそれにより発生した失業者をどう解決するかという問題を抱えた日本が満州に目を向けたことには、こういった背景もあったのである。 》

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

このような戦前における日米関係は人種差別をめぐる摩擦があり、大東亜戦争の一つの原因となったことは明らかだ。しかし学校教育における歴史教科書では人種差別撤廃を目指した戦争であるとは一言も教えられていない。あくまでも日本は侵略戦争をした犯罪国家と教えられている。

しかしそれではなぜアメリカで強制収容所が作られ、日本人と日系人が収容されたのか? なぜ広島と長崎に原爆が落とされたのかについての納得できる理由が見つからない。このような見方をされないようにアメリカは東京裁判で侵略国家と日本を断罪して、アメリカを民主主義をもたらした解放者と位置づけている。

しかし戦前において日本人を対象にした排日法が軍事的緊張までもたらした事実もあり、なぜ日本が勝ち目のない戦争に踏み切った理由として考えれば、一種のアメリカに対する人種暴動だったのだろう。暴動は警察や軍などに鎮圧されるのが普通だから、なぜ勝てる見込みのない戦争をしたかという質問は、大東亜戦争が植民地解放や人種解放戦争であったという見方をしていないからだ。

中国や韓国が日本に対して植民地支配はけしからんとか、侵略戦争で酷いことをしたという歴史カードを突きつけてきますが、背後で煽っているのはアメリカだ。この事は従軍慰安婦問題がアメリカで対日非難決議がなされようとしている事からも伺われる。アメリカにとっては日本が戦争犯罪国家でなければ困るからだ。

大東亜戦争が植民地解放と人種差別解放の戦争であったとするならば、アメリカはそれを弾圧した国家という汚名を着ることになる。しかしアメリカも数十年後には白人よりも有色人種が多数派となり、黒人の大統領も誕生しようとしている。そうなれば大東亜戦争に対する評価もアメリカでも変わってくるのではないかと思う。

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の三

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆有色人種の希望の星

 第一次大戦の戦後処理をしたパリ講和会議において、日本政府代表が人種平等に関する提案、いわゆる人種差別撤廃法案を提出した背景は、以上に詳細に述べ立てた推移に基づくのである。

 同じ頃アメリカの黒人たちも、国際会議において人種問題が初めて採り上げられることに色めき立った。黒人たちはパリ講和会議ヘアピールする準備に取りかかり、日本政府をサポートする考えだった。四人の著名な黒人が会議に先立って日本使節団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力をしてほしいという嘆願書を提出した。

 国際連盟にではなく、日本政府に嘆願書を出すという点において、興味深い注目すべき時代の性格が表現されている。全米平等権利同盟は、さらに代表をパリに送り込もうとしたが、しかしアメリカ政府に妨害され、わずかに日本の代表にインタビューすることが可能になっただけだった。ウィルソン大統領にも面会を求めたがあっさり断られた。

文:西尾幹二『国民の歴史』より(P566~P571)

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

大東亜戦争の歴史的な評価については、未だに定まってはいませんが、東京裁判史観に洗脳された人にとっては日本は戦争犯罪を犯した犯罪国家であると学校などで教え込まれてしまった。しかし明治維新以来からの流れを分析すれば、日露戦争と大東亜戦争は白人対黄色人種の戦争であり、二つの戦争はよく似ている。

戦前のアメリカは白人優先国家であり、世界一人種差別的な国家であった。「株式日記」でも以前に「優生学」について書きましたが、アメリカはその優生学の本場であった。ナチスドイツはアメリカの優生学を手本にしたに過ぎない。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

◆優生学 ウィキペディアより

《 ドイツと共に、優生学思想を積極的に推し進めた国はアメリカである。優生学に基づく非人道的な政策を採っていた、と来れば、一番に想起されるのはやはりナチスだが、実は、アメリカの方が優生学的な政策を実施していた期間は長い。また、そのような政策を始めたのも、アメリカの方が早い。優生政策の老舗は、アメリカだと理解した方が事実に沿っているのである。断種法は全米30州で制定され、計12000件の断種手術が行われた。また絶対移民制限法(1924年)は、「劣等人種の移民が増大することによるアメリカ社会の血の劣等化を防ぐ」ことを目的として制定された。この人種差別思想をもつ法は、公民権運動が盛んになった1965年になってやっと改正された。 》

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の二

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本人移民排斥のテーマは、重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

歴史 / 2007年05月06日

日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆再びアメリカに「対日開戦論」

 日本人移民に対するアメリカ黒人の考え方や感じ方は、そもそもどういうものであったであろう。日本の帝国主義的進出が報道されても、黒人の対日好意はべつだん下がらなかった。日本の経済発展は、アメリカ黒人の高い興味と賛嘆の感情を呼び起こした。

 日本の急激な発展こそが、日本人に対する人種差別意識をよりいっそう高めているということも、黒人はよくわきまえていた。日本人移民のせいで黒人の仕事がなくなるのではないかと心配する連中もいるにはいたが、しかし『サバンナ・トリビューン』紙の論調によると、アメリカにとっての最大の脅威は、一日に三千人の割合で上陸してくるヨーロッパ系白人の移民であって、日本人移民の数などたかがしれている。もし、アメリカが生き残りたいのなら、ヨーロッパからの移民を制限せねばならない、と。

 黒人による日本人擁護は、一般にきわめて盛んだった。日本人は人種平等、団結、自立のいわば広告塔だったからである。倹約と経済活動と工業技術をみごとに組み入れることに成功した日本人移民は少なくない。

 その仕事ぶりを見た有名なある黒人は、世界中がやりたいと思っていることを、日本人は必ず人種の壁を越えてでもやってのけてしまうだろうと述べた。国の発展に大きく貢献した人種に対しては、その人種がなんであれ、世界中が敬意を表すという絶好の実例、それが日本人なのだとほめ讃えた。

 カリフォルニアの農園から白人が日系移民を締め出そうと躍起になっていることを知って、それによって大量の働き口を手に入れることができると注目する黒人たちも、もちろんいるにはいた。しかし、あくまで日系人差別には反対の姿勢を貫いていた。

 しかし、時間がたつにつれて、論調は少しずつ変わった。『アフロ・アメリカン』紙によれば、カリフォルニアには黒人の未来があると期待する一方で、日系人が犯した大いなる罪、つまり倹約と努力というものに、とてもかなわないという気持ちが彼らにのしかかった。

 日本人がその能力を発揮した足跡を残せば残すほど、日本人にとってアメリカン・ドリームは近づいた。しかし、逆に白人はそれを嫌悪し、黒人もまた次第に日本人を妬むようになった(以上、レジナルド・カー二ー『二十世紀の日本人ーアメリカ黒人の日本人観一九〇〇~一九四五』山本伸訳による)。

 一九〇六年のサンフランシスコ学童隔離事件に際して、アメリカ海軍は対日作戦計画を策定し、いわゆるオレンジプランの概略をまとめ上げたことは前に述べた。アメリカ政府の政策の基幹をなすモンロー主義や、それとまことに矛盾する外国に向けられた門戸開放政策への要求と並んで、これまた再び矛盾する日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、みずからの海軍力で守るべき重要な国家の政策目標とされたのであった。

 そして一九〇八年に、いわゆる「白船」事件が起きた。しかし、この三年間の日米危機がいちおうの解決をみたのは、移民問題のほかに差し迫る政治的案件がなかったからだといえるだろう。ところが一九一三年、再びアメリカには、日米戦争に備えて軍艦三隻を動かそうという開戦説が浮かび上がる機運が盛り上がったのである。それは外国人土地法の制定をめぐっての二番目の日米危機であった。

 外国人土地法とは、日本人移民一世のように、アメリカ市民権を取得できない資格剥奪者は、土地所有権をも奪われるという、きわめて露骨な、日本人を狙い撃ちした立法であった。ヨーロッパ系の移民労働者にはもちろん適用されない。大統領はウィルソンに代わっていて、彼が理想主義者としての仮面の裏で、いかに露骨な人種主義者であったかということは、先に国際連盟について論じた際に言及している。

 ウイルソンは日本政府からの強硬な抗議を受けて、日本は戦争を予定しているのではないかと憂慮し、ワシントン政府はさながら開戦前野を思わせるかのごとき緊張した空気に包まれた。

 海軍作戦部長ブラッド・リー・フィスク少将は、このカリフォルニア土地法を絶好の開戦理由として、日本がフィリピンとハワイを奇襲するであろうから、対日戦争は十分に起こりうる事だと主張して、日米戦争に備えて軍艦三隻を派遣するよう提案した。もちろん、ウィルソンの判断でこの海軍の強硬案ば退けられはした。そしてアメリカ政府を襲った開戦説はまもなく立ち消えとなった。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の一

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本人移民排斥のテーマは、重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

歴史 / 2007年05月06日

日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆日露戦争の勝利の代償

 話は変わるが、日本はなぜ中国と戦争をしてしまったのか。これはじつに不幸な戦争であったということはさんざん言われてきた。まさにそうである。日本は中国や朝鮮と手を取り合って欧米と対決するのが自然であり、多くの不幸や誤解を回避しうる道であったことはあらためていうまでもない。

 日露戦争はある面で朝鮮や中国をロシアから守るという性格を持った戦争でもあった。もし、日露戦争で日本が負けたら、朝鮮は全土、ロシアの属領となっただけでなく、中国もまた確実に北半分をロシアに領有されてしまったであろう。

 それでも日本は、当時朝鮮や中国と組んでロシアに当たるという作戦は立てなかったし、立てることもできなかった。前の項でその理由はくわしく書いたから同じことはもう繰り返さない。要するに日本は英米、とりわけイギリスの惚偲だった。逆からいえば、何をいちばん心配したかというと、日本人がアジア人の代表であって、白色人種対黄色人種の戦いの緒戦であるというふうに受け取られることをいちばん恐れていたのである。

 当時の日本人には、自分の客観的位置がよく見えていたし、恐怖が与えた自己抑制の機能がうまくはたらいていた。白人社会を刺激するという意図などは考えられなかった。無邪気なまでに「脱亜入欧」の姿勢だった。しかし、それでも結果として日露戦争の勝利は、白色人種の社会にいちじるしい衝撃をリえたことはよく知られている。

 世界を揺るがしたニュースであった。これはどの大ニュースは二十世紀の初頭にはほかになかった。あらゆる植民地の国々では人々が胸をうちふるわせて感動した。少年ネルーやガンジーが揺さぶられた話を読んだことがある。

 インドネシア人は巨大なバルチック艦隊があの狭い海峡を通ってゆくのを見て、こうこれで日本はおしまいだ、日本はせっかく立ち上がったのにもうだめだ、と日本人に好意を持っていた彼らの多くは汲を流したそうである。が、ほどなくして日本大勝利のニュースが届いて、彼らは愕然とする。世界屈指の大国に、あの小さな国が勝つなどとは夢にも考えられなかった。

 世界中は沸き立った。船でヨーロッパに出かけていった日本人は、立ち寄るアジアの港々で関税の役人その他に握手攻めにあい、大歓迎を受ける。日本人だと聞くと、手を取って東郷とか乃木という名前が出てくる。

 心を強く動かされた者のなかに、アメリカ合衆国に住む黒人たちがいた。『カラード・アメリカン・マガジン』誌は、日本の行動の最も重要な点は、アジアとアフリカに考えるきっかけをつくったことだと書いた。ある公民権運動家は、日本が白人優位の人種神話を葬り去ったと主張して全米を演説して回った。

 日本人と黒人は性質がよく似ているという意見が出てきた。戦っていないときの日本人兵士は、子どものように静かで、しかしいったん立ち上がると、死を美徳とする生活によって培われたその活力は、みなぎりあふれている。

 ミカドの軍隊の睡眠時間はわずか三時間で、ほかの国の兵士には欠くことのできない食糧列車がなくても、みずからが魚と米を持ち歩きながら戦うのだ、などといった伝説が広がった。

 ヨーロッパで最も大きく勇ましい国ロシアにとって、小国日本は絶好の餌食になるはずだった。ところが白人が有色人種を支配するという人種構造はけっして真理ではなく、ただっくられた神話にすぎないということを知らしめたことが、合衆国の黒人たちをなによりもまず興奮させ、日本人に強い同胞意識を抱かせたのである。

 しかし、このことは同時に、逆に白人社会に衝撃とパニックを広げた。それがどれくらい大きかったかということは簡単に説明はできない。二十世紀の政治史における最大の出来事のひとつであった。輝かしかった日本の過去ということを言いたいために強調しているのではない。

 それがやがて日本にとってどんなに大きく深刻な問題につながっていくかということを言っているわけである。アメリカにおける排日運動は、まさにこうした戦争のよは勝利がもたらした興奮の感情の余波にほかならない。

 「黄禍(イエローペリル)」を最初に口にしたのはドイツの皇帝ヴィルヘルムニ世で、日本人に向けて述べられな言葉では必ずしもない。おそらく中国人が念頭にあった。しかし、日露戦争の結果、標的は日本に向けられた。ジャン.・ジョレスのようなフランスの有名な社会主義者ですら、黄色人種が地球の表面をやがて支配するのではないかという危機感を論説で表現する始末であった。矛盾そのものであった。

 日本人がアジアの一角で成功を収めたことから、彼ら白人の目には、その背後に何億という中国人、インド人の影が見える。人種というテーマが露骨に登場したこの時代に、健気に努力していた日本人が、先頭を走っていたがゆえに、標的になったことは間違いない。

 私はこのことが、深く深く第二次世界大戦につながっていると信じている。歴史の流れというものは、次第次第にひとつの道筋をつくっていき、必然的に避けられない方向に動いていくということを考えておかなくてはならない。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(四)


 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、「ブログ株式日記と経済展望」から、西尾先生の文章の論評を、許可を得て転載します。今回のものは昨年(平成18年)9月13日に書かれたものです。その予見を一年たって読むのも面白いものです。なお、この文章は『国家と謝罪』に掲載されています。

憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

安倍氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせて、憲法
改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

2006年9月13日 水曜日

◆<自民総裁選>安倍氏VS参院自民 参院選めぐり波風

毎日新聞の記事はこちらを参考にしてください。

◆「小さな意見の違いは決定的違い」と言うこと(五) 9月13日 西尾幹二

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。
 
 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏の干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

小泉内閣の功罪としては権力を官邸に集中させた事ですが、安倍氏が新首相になった場合にうまく機能するだろうか? 小泉首相はYKKの時代から経世会を相手に渡り合って来たから、ある程度のリーダーシップは持っていた。安倍氏の場合はタカ派のイメージではあっても政局の修羅場の経験があまりない。

日本の総理大臣がこれだけ権力が集中すると責任の重さに潰されてしまった首相もかなりいる。ある意味では日本の総理大臣はアメリカの大統領よりも権力が集中している。アメリカの大統領には議会の解散権はないし、二期八年経ったら辞めなければならない。それに対して小泉首相は自己の判断だけで衆議院を解散させてしまった。

それくらいのワンマンでないと日本の総理大臣は務まらないのかもしれない。かつては権力が分散して各自に任せていればよかった時代もあった。だから誰がなっても総理大臣が務まったとも言えるのですが、安倍氏が総理大臣になったときに集中した権力を使いこなす事ができるだろうか?

これだけ権力が集中すれば総理の周りには多くの有能なスタッフがいないとコントロールしきれない。そのスタッフのメンバーとして中西輝政、岡崎久彦、八木秀次、伊藤哲夫氏などの名前が挙がっている。小泉首相にはとくにブレーンはおらず亡国のイージ○が全て裏で動き回った。それに対して安倍氏は裏で動く人がおらず、汚れ役がいない。

小泉首相が独断で行動が出来たのも、亡国のイージ○が全て裏で手配して動いてくれたからですが、今回も安倍氏は来年の参院選での候補者の人選について見直すと言っていましたが、誰が決定をして誰が根回しをするのだろうか? このような実務を取り仕切る人が必要なのですが、単純に小泉首相の真似をしてもうまくいくはずがない。

おそらくは森派の森会長と亡国のイージ○が同じように総理大臣を動かして行くのだろうか? さらにはアメリカ政府のバックアップもなければ安倍政権は長続きできないし、しばらくは小泉首相が作った組織を引き継いで行くしかない。とくに大臣人事は政局の原因になるだけに細心の注意が必要ですが、自薦他薦が渦巻いて小泉流にやるのも大変だ。

政策ブレーンも登用する話も出ていますが、小泉流に民間から大臣を登用するのも人気取りにはなりますが民間登用大臣は結局は飾りにしかならず、竹中氏も最終的には国会議員になった。だから政策ブレーンも人気取りに過ぎないのでしょうが、最初は国民の支持率を高めるために何でもやる必要がある。

株式日記では安倍氏の支持も不支持も決めていませんが、靖国問題や憲法改正問題などでの妥協的な態度が気になります。5年がかりで憲法改正では自分の任期中には憲法改正はやりませんと言っているに等しく、靖国神社も今年の8月15には参拝しなかった。つまり対中政策も妥協的になるのだろうか?

西尾幹二氏のブログに寄れば、安倍内閣では政策ブレーンに「作る会」のメンバーの名前があがっていますが、「作る会」の分断工作にも安倍氏が絡んでいるのだろうか? それとも亡国のイージ○が動いたのだろうか? 

同じ保守派思想にも、自主独立路線と、親米路線がありますが、私は理念としては自主独立であり、現実的対応として当面はアメリカとの同盟を組むと言うスタンスなのですが、日本での親米派は理念としても自主独立を放棄してアメリカべったりなのだ。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

9月の仕事

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、9月の仕事の紹介です。

 

 9月の政変を西尾先生は「『日米軍事同盟』と『米中経済同盟』の矛盾と衝突」という観点で、ただの政局論ではない大きなテーマとしてとらえている。

 詳しくは『諸君!』11月号の西尾論文を見てほしい、とのこと。論文のタイトルはつごうでやや政局論ふうに変更されている。

 ほかに、コラム「正論」(『産経新聞』10月2日付)とチャンネル桜(10月16日放送)でも同趣旨を論じている。

 以下にコラム「正論」を掲示する。

米国の仕組む米中経済同盟
(シリーズ・新内閣へ)

両大国の露骨な利己主義に日本は・・・・

《《《王手をかけられかねぬ危機》》》

 今回の政変を私は「日米軍事同盟」と「米中経済同盟」の矛盾と衝突の図とみている。安倍前首相は憲法改正を掲げたが、9条見直しがなぜ国民の生死の問題にかかわるかをテレビの前などで切々と訴えたことがあっただろうか。米国の核の傘はすでにして今はもうないに等しいのだ、と果たして言ったか。日本海に中国の軍港ができたらどうするつもりか、諸君、考えたことはないのか、と声をあげたか。この2つの危機はすでに今の現実である。

 テロ支援国家との2国間協議は絶対にしないと言っていたブッシュ米政権が、北朝鮮と話し合いを開始した。そして国連の制裁決議をさえも無視した。これが同盟国日本に対する裏切りであることは間違いない。中国の北朝鮮制裁も口だけで、金正日に金を払って鉱山開発権を手に入れ、ロジン、ソンボンという日本海の出口の港湾改修工事を中国の手でやり始めた。ここに中国の軍港ができて、核ミサイルを積んだ潜水艦が出入りするようになったら、わが国は王手がかかってしまったも同然である。

 日本海が米中対決の場になることを避けるためにも、米国は北朝鮮を取り込む必要がある。ブッシュ氏に安倍氏はシドニーの日米会談でずばりそう言われたかもしれない。「お前のやっている対北制裁一本槍(やり)では中国にしてやられるぞ」と。無論私の単なる推測である。ただそういう風にでも考えないと、米国の政策転換はあまりに理性を欠いた、利己主義でありすぎる。

《《《南北会談は中国の差し金》》》

 北朝鮮のほうが米国にすり寄りたい現実もある。北が一番嫌いで恐れているのは中国である。「韓国以上に親密な米国のパートナーになる」とブッシュ氏に伝えた金正日の謀略めいた(しかし半ばは本心の)メッセージがある(『産経新聞』8月10日付)。とはいえ中国も米国がイラクで泥沼にはまっている間に着々と台湾にも、朝鮮半島にも手を打っている。半島の南北首脳会談の開催はどうみても、中国の差し金である。

 韓国大統領選は現時点では民主主義の側に立つ野党ハンナラ党の候補が優位にある。それをくつがえすための南北会談である。盧武鉉韓国大統領は北朝鮮に全面譲歩し、南が北にのみこまれる統一を目指している。それでもハンナラ党の優位が崩れないなら、同党候補が北の手で暗殺される可能性があるという。韓国の法律では投票日の15日前を過ぎて候補者が死亡した場合には、新しい候補者は立てられないことになっているそうである。

 すさまじく激烈な半島情勢である。日米にとっても、中国にとっても、半島を相手側に渡せない瀬戸際である。ひょっとしたら日本は米国の本格的な援(たす)けなしで、独力でこの瀬戸際を乗り越えなければならないのかもしれない。

 安倍前首相がまるでヒステリーの子供が「もういや」と手荷物を投げ出すように政権をほうり出したのは、自分ではもうここを乗り越えることはできないという意思表示だったのかもしれない。

《《《徹底的な中国庇護策》》》

 他方、経済問題における米国の日本と中国に対する対応の仕方は、歴史を振り返ると、正反対といえるほどに異なっている。戦後日本が外貨を稼ぐ国になると、米国は一貫して円高政策を推進して、わが国輸出産業を潰(つぶ)しにかかった。1985年のプラザ合意は露骨なまでの日本叩(たた)きだったが、日本の企業が負けなかったのはなお記憶に新しい。

 ところが米国は中国に対しては完全に逆の対応をしている。1994年から2006年までの12年もの長期にわたり元は1ドル約8元という元安のまま変動させない。2001年から中国の外貨準備高は上昇し始め、昨年日本を追い越した。徹底的な中国庇護政策である。

 それもそのはずである。中国で工場生産して外国に輸出している企業は中国の企業ではなく、米国の企業だからである。米国への輸出企業のトップ10社のうち7社は米国の企業である。

 経済は国境を越えグローバルになったという浮いた話ではなく、完璧(かんぺき)な米国のナショナルエゴイズムである。このことは他方、米国の30分の1で生産できる中国の労働力に米国経済が構造的に支配され、自由を失っていることを意味する。

 軍事的超大国の米国はそれでも中国が怖くはないが、以上の米中の関係は日本にとっては危険で、恐ろしい。福田政権が国益を見失い、軍事的にも経済的にも米中の利己主義に翻弄(ほんろう)されつづける可能性を暗示している。

(にしお かんじ)2007.10.2

『日本人はアメリカを許していない』(その四)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

 

西尾幹二著の「日本人はアメリカを許していない」は刺激的な題名ですが、歴史カードを中国や韓国のみならずアメリカが切り始めたことが問題だ。西尾氏は新版のまえがきで次のように述べている。

◆まえがき

 内閣が小泉氏から安倍氏に替わる直前にアメリカから雷鳴のようなニュースが届いた。平成十八年(二〇〇六年)九月十三日、米下院国際関係委員会(共和党のハイド委員長)が慰安婦問題に関する対日決議を行ったというニュースだった。靖国ではなく、ことあらためて慰安婦であることにわれわれは驚いた。すでに清算ずみの話だからである。

 法的拘束力を伴わない決議形式にすぎないが、慰安婦問題(強制連行説)は存在しないとしてきた日本側の議論への公式反論もあり、「学校教育での指導」まで言い出していて、これは歴史教科書の内容へのアメリカからの新たな干渉であるから、いったいこの間に何が起こったのか、日本側は不可解と不安の念に捉われた。

 次いでアメリカ下院外交委員会のハイド委員長は、同年九月十四日、靖国神社の遊就館の展示内容の変更を求める見解を公聴会で陳述した。民主党のラントス筆頭委員は、小泉前首相の靖国参拝を非難して、「次期首相はこのしきたりを止めなければいけない」と参拝中止を求めた。新首相誕生の直前に、さながら機先を制するかのごとき、タイミングを測ったアメリカからの素早い牽制であった。

 いったいアメリカはにわかにどうして中韓並みの反日政策に転じたのだろうか。中間選挙で民主党が議会の過半を占めたせいもあるといわれるが、下院外交委員会に、民主党マイク.ホンダ議員によって従軍慰安婦に関する対日非難決議案が上程されて、局面はさらに悪化した。十二月にいったん廃案になったが、平成十九年(二〇〇七年)一月に再上程され、三月まで議論は沸騰し、米国時間六月二十六日に採択された。本会議でも採択される可能性は高い(六月二十九日現在)。

 非難の内容は、二十万人の強制連行による性奴隷の制度を旧日本軍が管理したという荒唐無稽な暴論に蔽われている。アメリカ議会の中に、過去にどの国もが犯罪を冒し、アメリカを含めすべての国が十分に謝罪しているわけではない、とホンダ提案をたしなめる良識的見解を述べる議員もいて、反日色ですべてが塗りこめられているわけではない。

 しかし、その間に、「狭義の強制はなかった」とする安倍新首相の国会発言が出るや、たちまち議会は反日感情に傾き、シェーファー駐日大使のきつい安倍批判の言葉もあった。また、靖国問題については、ブッシュ元大統領(父)による日本の首相の靖国参拝反対発言があった。いったいなぜアメリカの論調はかくも変容したのであろう。

 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃と不安を与えている新しい局面である。(P8~P9)

《私(株式日記と経済展望の著)のコメント》

「株式日記」では以前にも書きましたが、大東亜戦争は今でも終わってはいない。武力による戦闘は終わりましたが、思想戦、言論戦による戦闘はまだ終わってはいない。東京裁判で徹底的な思想改造が行なわれて、日本は侵略戦争を行った犯罪国家とされてしまいましたが、アメリカは勝手に戦争のルールを変えて日本を罰してきたのだ。

日本は今までのような限定戦争のつもりで開戦しましたが、アメリカは中国からの無条件即時撤退を求めてきた。しかしそれがいかに困難であるか、アメリカがイラクから撤退できない事からもわかるはずだ。つまりアメリカは無理難題を吹っかけてきて日本を戦争に追い込んできたのだ。まさに本土でアメリカインディアンを追い込んで絶滅させたのと同じ方法だ。アメリカはミスを重ねると何をやるか分からない恐ろしさを持っている。

日本人はアメリカを許していない』(その三)

株式日記と経済展望より、『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) の書評を転載させていただきます。

書評 / 2007年08月06日
『日本人はアメリカを許していない 』 西尾幹二(著) 歴史カードがアメリカからきたのだということが問題である。これが日本人に衝撃を与えている。

2007年8月6日 月曜日

◆『日本人はアメリカを許していない』 西尾幹二(著)

◆限定戦争と全体戦争

 もうひとつ忘れてならないのは、第二次大戦の緒戦における日本軍の行動の不審さである。これは、われわれがどう考えても、歴史を考えるたびに不思議でならない点だ。一九四一年七月、日本軍が南部仏領インドシナに進駐したとき、時の日本政府は、アメリカの経済封鎖による報復を予想していない。

 さらに、南方諸島を日本は破竹の勢いで攻撃したわけであるが、アメリカがやがて総力を挙げて反撃に出てくるであろうということも計算に入れていなかった。シンガポールを落としたところで、英米側は停戦を提示してくるのではないか、あるいは少なくともそういう有利なかたちで戦争を終結させ、日本は地歩を固めることができるのではないかと考えたふしがある。

 とてもではないが、自国の国力を考えたときに、英米と戦えるだけの潜在パワーがないということはよくよく分かる。中国大陸での戦争が泥沼に入っているときでも、日本は一方では中国のいろいろな関係者に協力してもらいながらかろうじて中国での戦争をした。日本と中国が戦ったのでは必ずしもない。日中戦争という言葉が間違いである。中国大陸において日本と他の欧米列強がぶつかったということなのだ。

 したがって、他の欧米列強の側に中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。日本の側にも中国人の将軍がいれば、中国人の兵隊もいる。そして、それぞれの陣営を支援する中国人の商業資本があった。要するに、日中戦争というと日本が独立主権国家の中国を攻撃したのだというふうに考える人が多いかもしれないが、じつはそうではない。

 あれは、欧米列強を含む、世界の列強が中国のぶんどり合戦をし、それに苛立った日本が深入りをしたという話にすぎない。したがって、もし日本を支持した南京政府が日本政府の傀儡だと言うのであれば、蒋介石は紛れもなく英米の傀儡にすぎない。それははっきりしている。

 とにかく、日本側としては、どこまでも限定戦争でいけるつもりだったのではないか、そこに戦間期での欧米側の戦争観のルールの変更を見誤った日本の判断ミスがあるのではないか、という気がしてならないのである。

 つまり、シンガポールを落としたところで停戦ができる。たとえば、真珠湾攻撃で機先を制することで、やがてアメリカ側が構えていた罠にはまって、彼らが総力を挙げて日本に反撃してくるであろう、チャンス到来とばかりアメリカは待ち構えていた全勢力投入の機を利用してやってくるだろうと、そのことが分かっていたら、日本は真珠湾を攻撃するなどという愚を犯さなかったはずである。

 ところが、その攻撃、緒戦の奇襲作戦というものに対して、日本側には、これによってアメリカは怯んで、たじろいでしまうであろうという高を括った考え方も非常に根強くあったと言われる。繁栄しているアメリカのような国は戦争はしたくないのだ、イギリスもアメリカも、もう戦争には疲れていて、自分たちの平和主義ムードに現を抜かしている、享楽主義的、快楽主義的な欧米人は、日本の一撃にあったら、おそらく怯んで、停戦条約を示すであろうという、相手の心が見えない、ある意味では軽率きわまる態度で日本は立ち向かった一面があったことは間違いない。

 大胆とも臆病とも言えるこの不思議な日本の緒戦における行動は、結局、第一次世界大戦で全体戦争を経験した西欧世界の現実にふれなかった、ある種の感覚のずれではないかという気がしてならないのである。第二次大戦でも日本は全面戦争に参加するつもりが最初からなく、今度も第一次大戦と同様に、局地戦争・限定戦争で片づくのではないかという、そういう見込みで開戦に踏み切った一面があるのではないだろうか。

 ところが、大事なことは、アメリカやイギリスはいわゆる戦いのルールを第一次大戦と第二次大戦のあいだにがらりと変えていたという事情がある。そこに、日本の誤算があったと私には思えてならない。

 つまり、日本からすれば、戦争のルールを変えられてしまっていたということである。最初の戦争観、すなわち限定戦争と称するものを国際公法は認めていて、否定されたことは一度もない。戦争はどこまでも政治の手段と考えられていた。したがって、賠償を取ったり、領土を奪ったりする、いわばスポーツのゲームのようなものとして戦争が位置づけられていた。そういう戦争観は東洋にはもともとなかった。日本はそれを勉強し、身につけて日清・日露を戦った。

 言いかえれば、こういうことである。日本は幕末に薩摩がイギリス艦隊に砲撃される。あのとき、さんざん大砲を撃ち込まれていながら、薩摩藩は莫大なおカネを取られている。それから、下関でも英米仏蘭の連合艦隊と戦争になり、大砲を撃ち込まれ、敗北している。しかも賠償金を求められている。

 それで日本は初めて、戦争でカネが取れるというリアリスティックな現実を目前に見た。とすれば、なんとしても勝たなければいけない。負ければ名誉だけでなく、実利も奪われる。自分の力を示すことで相手から名実ともに勝ちとるのが正しいのだという西洋のやり方というものは、東洋にいままでなかった考え方なのであるが、それをここで導入し、アジアでいち早く日本が先鞭をつけたのである。

 中国と日本を考えたときに、いちばん大きな違いは、日本は武家社会であり、軍事力の意義について官僚国家であった中国よりも敏感であったということである。そして、中国は眠っていた。したがって、たとえば福沢諭吉は、日清戦争に対して好戦論者であった。その動機のひとつは、こういうことだ。

 眠れるアジアのなかで、黙っていれば世界の目は中国をアジアの中心と見なして行動するであろう。現実に、中国が四分五裂の状態になり、列強の分割の対象になっているのは、中国がアジアの中心であるからで、このアジアの中心をばらばらにしてしまえば、残りのアジアはヨーロツパ側の制圧下におかれるという考え方があったためである。それに対して日本はなんとしても抵抗しなければいけないと福沢は考えたのである。

 歴史的に、西洋人、いまのア人リカ人もそうだが、彼らの頭のなかでは、常に中国がアジアの代表であり、日本ではない。どうしても印象として中国に目がいってしまう。

 それに対し、福沢諭吉は、日本が眠れる中国とはまったく違った、活力のある国家として、文明国として、文明ここにありという意気を示す必要があると考えた。もはや中国は文明国ではない。中国よりも日本のほうが文明度が高い国だということを欧米諸国に知らしめるために、戦争に踏み切る必要があると説いた。

 つまり、そのときは武力が、戦争に勝つことが、より文明度の高さを証明する手段であった。時代がそういう時代だったのである。これが福沢諭吉の好戦論の論拠である。失敗すれば、日本は治外法権その他の不平等条約の撤廃をしてもらえないという事情があったからでもある。

 一八八四年一明治十七年一にフランスがベトナムに入ったとき、ベトナムは中国の植民地であったが、その属国だったベトナムがフランスにいいようにされるのに中国(清朝)は何ひとつ抵抗できなかった。それを目前に見た日本は、こんな中国を中心にしたアジアでは駄目だと考える。アジアの中心は中国ではない。ここにもうひとつ有力な文明国があるということを世界に知らしめる必要がある。さもなければ自分が危ない。

 それまで限定戦争、西洋で考えているような賠償と領土を手に入れるのが最大の目的で、戦争をゲームのようにして行う西洋的戦争観というものは東洋にはまったくなかった。これでは駄目だ、彼らと対抗するにはどうしたらよいか、日本は真剣に考えた。

 眠れる中国が西欧に侵される姿を見ながら日本は西洋からこの第一番目の戦争観、限定戦争観を学び、それによって日清・日露をかろうじて戦いぬいたと言える。そして、第一次大戦も日本だけはこれでなんとか成功し、第二次世界大戦まで、その同じ考えでずっと来てしまっていたのではないか。つまり、真珠湾攻撃まで同じ意識でいたのではないだろうか。

 しかし、明らかに欧米側は、戦間期に戦争のルールを変えているのである。これが、イギリスからアメリカヘ覇権が移動する微妙な時期と重なっている。同時に、アメリカは戦争を政治の手段として考える戦争観ではなく、平和の絶対価値を振りかざす挙に出た。

 ヨーロッパ人が、自らゲームのようにして戦争行為を当然視していたにもかかわらず、アメリカが戦争は文明に対する破壊であり、人類に対する犯罪だというような、第二次大戦以降、今日われわれはそういう戦争観に慣れ親しんでいるわけだが、それまでとはぜんぜん違った道徳主義、正義の平和論というものを持ち出した。

 しかもそれが、日本から見れば、英米の仮面であって、持てる国である英米が、持たざる国である日本を抑えつけるのに便利な、彼らに都合のいい理論だというふうにしか見えなかったし、また事実そういう側面があった。

 口で正義を言い、裏で不正を行う。たとえばアメリカは日本に、満州の門戸開放を正義であると言いながら、自国の権益を第一に考えていて、中南米の門戸開放を許さない。東ヨーロッパの民族自決を正義としながら、アジア・アフリカにはいかなる民族自決も許さない。

 ものごとのルールの変更がいかに自分勝手であるかは、アメリカという国の最近の動きを見ていても分かる。いまの貿易摩擦を見ていても、アメリカは好きなようにどんどんルールを変える。いちばん最初の日米繊維交渉のときから、今日までの変化を思い出してほしい。これはある意味では手に負えない。

 たとえば、自動車摩擦のときには自主規制をやらされ、それでも日本の黒字が減らないと分かると、日米構造協議で、日本の文化の構造にまで手を入れる。それでもうまくいかないと、今度は数値目標設定などということを言い出す。アメリカはどんどんルールを変える。どこまでもエゴイスティツクで、自国中心の、自国の利益を絶対第一に置いている国である。(P95~P101)文・西尾幹二

《私(株式日記と経済展望の著者)のコメント》

 今日は「広島原爆の日」ですが、8月は終戦記念日もあり先の大戦の事に関する話題も多くなります。しかしなぜ戦争に日本が踏み切ったのかという原因究明があまり進んでいません。国家元首だった昭和天皇自身も回顧録を書かなかったし、政治や軍部の最高幹部たちもほとんど回顧録を書いていない。

 唯一の例外は東京裁判における被告達の証言です。東條英機の『大東亜戦争の真実』という本を読んでも、戦争に至る状況が克明に証言されているのですが、仏印進駐を行っても「アメリカが全面的経済断交してくるとは思っていなかった」と証言している。まだ日米交渉で何とかなると考えていたようですが、経済断交で日米は実質的に戦争状態になってしまった。

 さらに独ソ戦の開始でアメリカの参戦の可能性はさらに強くなったのですが、「どのような段階を経て参戦してくるか分からなかった」と証言している。第二次近衛内閣の時であり、この時点で日本が妥協しなければアメリカとの戦争は避けられない状況になっていたのですが、アメリカと戦争すればどうなるのか近衛首相は考えていたのだろうか? 東條の証言によれば近衛はまだ日米会談で打開できると考えていた。

 ヨーロッパ戦線は拡大して独ソ戦も始まり、もしソ連がドイツに負ければ次の矛先はイギリスとアメリカに向かうだろう。そうなる前にアメリカは参戦してドイツを叩かなければならない。それは第一次大戦の経緯を見れば明らかだ。このような状況で日本は中国のみならず仏印まで勢力を拡大すればアメリカはドイツと日本に挟まれる事になる。

 アメリカは日本に対して中国からの即時無条件撤兵を要求してきたが、日本は条件付撤兵で解決しようとしていた。もし日本が北朝鮮のような金正日独裁体制のような国家なら鶴の一声で撤兵も可能でしたが、当時の陸軍は4年に及ぶ日中戦争で多大な犠牲を出し、アメリカの要求に従って無条件即時撤兵すれば、中国国民にバカにされると言うので日米交渉は暗礁に乗り上げてしまった。

 ならば日本はアメリカとの全面戦争をして勝てると思っていたのだろうか? 東條英機の証言によれば「陸海軍は2年足らずで燃料の欠乏で動きが取れなくなる」と証言している。つまり日本は2年以上の長期戦になれば負けることは分かっていた。にもかかわらず日米開戦に踏み切ったのはなぜか? 

 西尾幹二氏の意見によれば当時の軍部は日米戦争も限定戦争のつもりで開戦に踏み切ったのではないかと記している。東條英機の証言からも分かるように2年以上の長期戦になれば燃料欠乏で負けるかもしれないが、日清日露戦争や第一次大戦のように、たとえ負けても領土の割譲や賠償金の支払いで済むと思っていたのではないだろうか?

 当時の国民にしても戦争と言えば限定戦争の事であり、海外で戦争は行なわれて日本の国土が焦土と化す様な状況は想像もしていなかったに違いない。それが実際には原爆を二発も落とされて東京をはじめとして全土が焼け野原になってしまった。国民も全体戦争の恐ろしさが分かっていなかったのだ。軍部自体が全体戦争を知らなかったのだから国民は知る由もない。

 第一次世界大戦では日本は戦勝国であり、ヨーロッパの全体戦争の実態を知らなかった。イギリスはドイツの潜水艦の通商破壊作戦で窮地に陥りましたが、日本海軍はこのような潜水艦による通商破壊作戦をほとんど知らなかった。あくまでも日露戦争の時のような艦隊決戦で行なわれるものであり、通商破壊作戦は海軍の恥とされた。だからガダルカナルの時もレイテ湾の時もアメリカの輸送船団を前にして日本海軍はUターンして引き上げてしまった。

 このように日本の軍分は全体戦争の認識が無かったことが、安易に日米開戦に踏み切った原因でもあるのだろう。パールハーバーに一撃を加えればバルチック艦隊を失ったロシアのように講和し応じると思い込んでいたのかもしれない。しかし東條英機が真珠湾攻撃を知ったのは開戦後のことであると証言しているように、政府と陸軍と海軍はバラバラであり別々の戦争をしていたのだ。

 東條英機の宣誓供述書を見れば分かるとおり、東條は国家を担う首相の器ではなかった。戦争の原因を作ったのは近衛内閣であり近衛自身は戦後自殺してしまって証言は残ってはいない。東條が首相になった段階で中国からの即時無条件撤退を決断できれば戦争は回避できたのでしょうが、そうすると陸軍や海軍の責任問題となり、軍部はやぶれかぶれで戦争を始めてしまったようなものだ。

自由社の『自由』について

 日本人自身が、自国が自由主義陣営の国家であることをなかなか自覚できなかった時代、戦争が終ってまだ10年たつかたたぬ時代から一貫して自由主義の立場を唱えてきた雑誌『自由』の編集長であり、自由社の社主・石原萠記氏の大著『戦後日本知識人の発言軌跡』(909~911ページ)から、次の言葉を引用し、掲示します。

石原萠記『戦後日本知識人の発言軌跡』より

『日本文化フォーラム』の発足とその活動

 敗戦という戦後日本の特殊事情のなかで、知識人の戦争責任が問われたとき、戦前・戦中の非転向という事実を倫理的希少価値として主張する左翼知識人の発言は、それだけの重みをもち、論壇での主導権をもったことは確かである。しかし、これらの人々の発言は、戦前の非合法下に生きた前衛党の思考様式そのままの「敵と味方」を峻別するセクト主義で、思想界に対立を深め不幸な分裂をもたらしただけだった。このような戦後思想界混迷のなかで、『日本文化フォーラム』は発足したのである。

 発足以来の主な事業については、ここで詳述する必要はないが、内外知識人の親睦交流行事は数えきれず、懇談会、研究会は四百数十回をこえる。そしてその多彩なゲストは世界各国の一流文化人、政治家たちであった。

 高柳賢三、林健太郎、河上丈太郎、湯川秀樹、モクタール・ルビス、アムラン・ダッタ、福田恆存、エドワード・シルズ、河北倫明、E・サイデンステッカー、ダヴィト・ダーリン、J・ジェレンスキー、駒井卓、クラウス・メーネルト、高坂正顕、三上次男、スチヴン・スペンダー、アーサー・ケストラー、アルベルト・モラヴィア、シドニー・フック、エドウィン・ライシャワー、ダニエル・ベル、糸川英夫、K・ウィットフォーゲル、安倍能成、湯浅八部、平林たい子、円地文子、木村健康、フロッデ・ヤコブセン、関嘉彦、森戸辰男、伊藤整、清水幾太郎、G・ハドソン、中谷宇吉郎、チボー・メライ、桧山義夫、福井文雄、池田純久、大来佐武郎、中屋健一、吉野俊彦、滝川幸辰、大原総一郎、高橋正雄、ポール・ランガー、竹山道雄、横山政道、武藤光朗、長谷部忠、森恭三、野々村一雄、田駿、武者小路実篤、C・A・クロスランド、シブ・ナラヤン・ライ、王育徳、三宅艶子、岡本太郎、朝海浩一郎、ニコラス・ナボコフ、林房雄、村松剛、稲葉秀三、板垣与一、マクジョージ・バンディ、J・スミトロ、大島康正、ラドハビノット・パール、渡辺武、田中耕太郎、R・ガード、鈴木俊一、J・オッペンハイマー、中村菊男、ベンジャミン・シュバルツ、シニョル・ホセ、H・レーベンシュタイン、福沢一郎、馬場義続、森本哲郎、蠟山道雄、渡辺朗、C・ジョンソン、佐伯喜一、萩原徹、飯坂良明、藤原弘達、福田信之、江藤淳、ヨセフ・ロゲンドルフ、近藤日出造、楠本憲吉、阿川弘之、小山いと子、平岩弓枝、下田武三、神谷不二、会田雄次、内田忠夫、萩原葉子、三浦朱門、力石定一、俵萠子、川添登と内外一流の知識人を招いている。

 国内セミナーも、「日本文化の伝統と変遷」をはじめ「平和共存」、「労働者の経営参加」、「日本資本主義発達史」、「現代の思想」、「戦後教育の検討」、「中国問題と日本の選択」、「地方自治体の在り方」をはじめ、多くの問題を取りあげ実施したが、特に「日本文化の伝統と変遷」は、竹山道雄、高坂正顕らを中心に四年間にわたり毎年夏期に行った。このテーマは戦後、初めて日本の歴史を新しい視点から文化史的に検討したもので、その討議は高く評価された。記録は新潮社から単行本となるとともに、サイデンステッカー氏により英訳され、国際的にも紹介された。
(中略)

 
自由主義擁護の国際雑誌『自由』発行の経緯

 1959(昭34)11月から、『日本文化フォーラム』の運動に共鳴する人々や自由主義擁護のために闘う人々の雑誌『自由』が発刊された。

 この『自由』発行について、世間では『日本文化フォーラム』の機関誌と評していたが、確かに『日本文化フォーラム』の目的を、少しでも多くの人々に理解してもらうために出されたものである。しかし、当初から経理も編集も別であった。

 1957、8年頃、C・C・Fから私のところに世界各国で出している雑誌、「エンカウンター」(英)、「デア・モナト」(独)、「ブルーブ」(仏)、「フォールム」(墺)、「クェスト」(印)、「チャイナ・クォータリ」(英)、「サーヴェイ」(英)と提携出来る雑誌を、日本で発行出来るかどうかを問合せてきた。

 私としては『日本文化フォーラム』で発行するのが一番良いと思ったが、一般から機関誌視されるおそれもあり、また執筆陣の幅も狭くなるとの意見もあったので、別組織をつくり編集代表を竹下道雄氏にお願いすべく交渉した。幾たびかの交渉のなかで、「編集委員会」制をとるならという提案が出されたので、竹山氏を中心に委員として木村健康、林健太郎、関嘉彦、平林たい子、別宮貞雄、河北倫明(のちに福田恆存、西尾幹二)の各氏に承諾願って発足した。誌名『自由』は他に『フォーラム』をはじめ、幾つかの提案があったが、最終的には、笠信太郎氏の意見もあり『自由』に決った。そして、四号目から発行所として「自由社」を設立したのである。

 この誌名の決定については、いくつかの秘話がある。当初、1951年1月に廃刊になった『改造』の商標権を買ってはという話があった。そこで三輪寿壮先生の関係で、私を援助してくれていた小島利雄弁護士が、商標権を預っているといわれた栗田書店の栗田確也社長と懇意であったので、打診してもらったが、何とも大きな金額で話にならず、ご破算になった。そして漸く『自由』に決ったので登記しようとしたら、この商標はS社がもっているという。そこで、弁護士をたてて交渉、譲渡料を支払って決着がついた。

 その後の『自由』の活動評価については、立場によって相違するが、『朝日新聞』(62・3・19)紙上で、横山泰三氏が政治漫画を描き、右に『自由』、左に『世界』そして、「両誌には相互排除的なところがある」と、わが国の思想界の対立状況を解説しており、更に都留重人氏(一橋大教授)も『朝日ジャーナル』(63・12・29)誌上で、

 「著者のなかに雑誌に対する選択性があるんだね。『自由』に書く人は『世界』に書かない。この両誌には相互排除的なところがある。『文春』も多少選択しますね」

 と語っていることを紹介すれば、60年安保後数年の『自由』が、それなりの役割を果たしたことを知って戴けると思う。なお、『自由』の創刊の辞は、竹山道雄氏の筆になる。

 「・・・・・・立場として守りたいのは、正しい事実の認識の上にたつ、正しい論理の追求である。真理の基準は、教義への適合ではなくて、事実と合致していることなのだから、事実と論理への誠意さえあれば、たとえどんなに立場がちがっていても、すべての人が話し合うことができるはずである。・・・・・もし他日になってふたたび社会の状勢が変って、万一にも、この立場を棄てて、ある特定の教義を強いられるようなことがあっても、それには従わない。時流によって性格を変えて左し右しはしない・・・・」

 というもので、これが雑誌『自由』の基本的立場である。

 『自由』を主導したメンバーが日本文化会議を創立し、その機関誌を文藝春秋から出す計画がありました。最終的には、機関誌ではなく、普通の雑誌スタイルにしたいとの社側の意向があって、月刊誌『諸君!』が発刊されました。

 『自由』を主導したメンバーは自由主義の立場を唱えるより自由な発言の場をさらに求め、産経新聞のコラム「正論」が立ち上げられました。新聞のコラムを月刊誌に再録したいという要望があって、雑誌『正論』が誕生しました。『正論』はむかし永い間コラム「正論」の記事を収録していたのを覚えている人は少なくないでしょう。

 自由社の『自由』は『諸君!』『正論』の母胎なのです。

(文・西尾)