小林秀雄に腰掛けて物言う人々(二)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 ところで、武田先生の指摘に対しては、間髪をいれず小冊子で著者自身が、宣長について小林秀雄から格別に新しい知識を得たものではなく、方法論もアプローチの仕方もこの本は全然別ものであることを説明しており、真に師匠とあおぐ人に対する生きかたの厳しさも論じていて、これ以上、『江戸のダイナミズム』批評のズレを第三者がただす必要はないのだが、もうひとつだけ気になるところがある。

 著者は第一章「暗い江戸、明るい江戸」(二十五頁)で「私は『近代的なるもの』それ自体が今の二十一世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」と重要な姿勢を表明している。これについて、武田先生は「どうして著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう」と学問に立ち向かう著者の基本的態度を想像し、「『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども究極的には人の魂の救いには無力です」と、示唆に富んだ評価をしている。

 私はたいそう意地悪な読み方をしているのかもしれない。が、聞いて下さるなら私の見解はこうである。

 西尾幹二という思想家は「学問するという人間的営為」でこんなものを書いているのではなく、また「自己の魂の救い」を無意識のうちにも意識して、ということでもないだろうと思う。『諸君!』連載当初からこの仕事は当人の著作行為の中でも格別な仕事の部類に入ると感じていたし、今でも感じているのだが、私は『江戸のダイナミズム』の読者の筆頭は実は、荻生徂徠その人だったのではないか、という気がしている。書き終えられて、どこか秘められた愉悦さえ感じられる。今はさしづめ読者なんか要らない、徂徠との対話を至深所の麓で行う。それは楽しいものだった、と。

 つまり、「自己の魂の救い」という近代的懊悩の課題などはそっちのけで、人類史の本源的な神秘を嗅ぎながら、人間存在と世界の始原に向かって、徂徠が佇んでいるすぐ隣にまで著者は行き着いて、深淵なる蒼古の宇宙を二人して並んで眺めていたのではないだろうか。著者を突き動かしたのは、おそらく遙かなる憧憬である。

 百年の書物は百年かかり、二百年の書物は二百年の生命を看取することのできる後学を要する。つまり、著者は或る統一感のもとで世界を飛翔して廻られ、人間世界が希求しながら獲得し、また獲得しえなかった根源なるものの全体を確かめられた。時代に起伏してあらわれた各民族の「精神の事件」をきちんと選り分けて、それぞれ処(ところ)と役割を得さしめたが、筆をはこんでほとんど最終行まで無私無雑ではなかっただろうか。

 思想家・西尾幹二は、私かに徂来に語りかけたにちがいない。そんな気がしているのである。この書物には「人の魂の救いに無力な近代」に対する歎きもすでに消えている。それを感じるとき、少なくとも私たちは西尾幹二より五千年くらい若い近代人であることを思い知らされる。

 書物は今いる人間のために書かれるとは限らない。そういう行為こそ大きな提示だとわかるような素地をもっていたい。

文・伊藤悠可

小林秀雄に腰掛けて物言う人々(一)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、伊藤悠可氏によるゲストエッセイです。『江戸のダイナミズム』に触発されての論文「小林秀雄に腰掛けて物言う人々」です。

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 本居宣長を知るのに小林秀雄を必要とするであろうか。われわれは古事記を知るには本居宣長を必要とする、というならそれは認めなければならない。しかし、宣長を読むために小林秀雄という通路を行き、門をくぐらなければならないか。

 あらたまってこのような問いかけをしたくなるのは、小林秀雄の影響下にあると自認している人が少なからずいて、その人たちが自分の思想や知見を語るつもりでいながら、実は小林秀雄をなぞっているばかりでなく、価値基準を小林秀雄という定規にあてて、思想と現実と人とを測ろうとしているのではないか、と言いたくなる場面に出くわすからである。

 その人にはおそらく自覚はない。自分で考え自分で語ったり書いたりしているつもりなのだが、その人自身、そこに不在であるという感じさえする。小林秀雄の真髄を知らない人間はまだ半人前だといいたげでもあり、こちらはあなたより(小林を)読んではいない、またあなたの指摘するところまでは読者として気がつかなかったという気持ちで「そうですか」と応えるしかないのだけれども、場違いな〈小林秀雄〉の割り込みということもありうるのだ。

 小林秀雄をこよなく愛しあがめて〈絶対教師〉のように信じている人は、多分、私より少し上の昭和二十年初頭の生まれから、下って十数歳くらいの間までの人々に多いと勝手に想像している。最近、或る機会に長く比較文学をなさってきた大学教授にこのことを伺ったら、同感だと仰言る。時代思潮を読むうえで、こんご昭和文学史における小林秀雄の位置づけと彼が風靡した世代の風向きをとらえる確認が分野の専門家によってなされるであろう。

 小林秀雄を〈絶対教師〉としてあがめて、何事につけても思考や思索の通路とする。私は仮にこれを「小林秀雄への盲目性向」と名付けおきたいが、尊敬した人間に対する問題、尊敬してやまない人間を他者に伝えるときにわきまえるべき作法の問題を投げかけており、意外と文学や思想の問題ではなく、行儀にかかわることだからやっかいでもある。

 或る物にふれておきながらその物の本質を味わうことをせず、小林秀雄という定規からはずれているものは価値がないという転倒的判断をしてしまう。或いは、小林秀雄はつねに最も高峰の、それも頂上に座していなければならず、そこから眺めてこの人は小林よりもこれだけ低い、かの人は頑張ってはいるけれどもせいぜい中間辺りの山を登っている最中である、といった品定めをしてしまう。たくさんの研究をしたであろう専門家や大学教官といった知識人の中にもこうした雰囲気を持っている人がいて、どうも二の句がつげないで背中をむずかゆくさせられる。

 小林秀雄に腰掛けて物を言うからである。

 『江戸のダイナミズム』出版記念会で配られた小冊子で、鳥取大学助教授・武田修志先生の寄稿文を読んだときの私の印象は、残念ながら「著者の思索の跡はたどらずに、はなから小林秀雄という秤を持ち出している」という心酔者の手つきであった。おそらく著者があとがきでふれた「名だたる文藝評論家」という表現が口惜しく思われたのかもしれない。

 「この名だたる文藝評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――」という妙に感情に傾いた辛い批評をつけている。しかし、なぜ『江戸のダイナミズム』の世界的本源的テーマにおいて、決してそこの住人ではない小林秀雄を論究しなければならないと著者に要求できるのだろうか。

 小林秀雄で頭がいっぱいになっている人々。告白すれば、私にもそういう一時代があって、その人々のうちに所属したかもしれない。インターネット日録で私は武田先生の名前を記憶していた。西尾幹二先生があるとき山陰に講演旅行かなにかに出かけられ、その夜久しぶりに歓談の機会を得られたという話が載っていて、また別の機会に「小林秀雄についてめっぽう詳しく研究している学人がおられてね」ということも伺ったことがある。 

 小林秀雄を研究している、と聞いただけで、私にはとても難題でありすぎて、あとずさりしてしまいそうだが、純粋に敬意をもってその御仕事(研究論文)を読んでみたいと思う。酒場のカウンターに小林秀雄が訳した「ランボー」を持っていって、一人でしこたま飲んでみたいといった青首ダイコンのような無頼派ぶった小林愛好家も居るには居たが、小林秀雄がどのように捉えられているのか、本筋の研究家の仕事を垣間見てみたいという思いがある。

 それゆえに、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」というような〈小林秀雄という定規〉を持ち出されると、ちょっと待ってほしい、専門家も大丈夫だろうか、という心細い気持ちになってくるのだった。

 一昨年の初夏の頃だったか、日比谷にある美術館で、めずらしく全国の秘蔵家が名作を持ち寄ったという「鉄斎展」を觀に行った。畳何枚にもなるほどの「富嶽」の大作の前には親切にも大きなベンチをしつらえてくれ、私は何十分でもそれを堪能することができた。ところが、ふと小林秀雄の『鉄斎』の文章が浮かんできたものだから、とたんに雑音が入り込んできたようでしばらく困惑し面白くなかった。小林秀雄が絵をみるときの邪魔になるのだった。

 私は鉄斎をみたいとおもって来たのに、小林秀雄が絵から受けた心の動きをたどらなくてはならない。小林秀雄の眼を借りて、一回切りの鉄斎を見たいとは思わない。それは自分が神経症的な癖をもっているからだろうか。或いは、世の中には小林秀雄に感化されて「鉄斎」を楽しく見る人もあるだろうし、あっても差し支えはない。それはそのとおりだが、私は先行知識というものはときどき人を困らせるものだという気がしている。

 『宣長』の先行作品が小林秀雄だというなら、国学者の蓮田善明のものも先行している。神道方面の遠い過去からの注解書においては、まだたくさん先人を見い出すことができる。小林の『本居宣長』をただ一つの鑑とすることは、文字なき時代の言語生活の完全さについて、「これらの洞察を深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのはやはり小林秀雄であった」と、武田先生が感謝をもって讃えることに異論はないとしても、「『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだった」というのは不必要な拘泥でしかないと言わざるを得ない。

 つまりこういうことである。本居宣長を語るには小林秀雄をまず読まなければならない、と思っている人を私は何人か知っている。「小林を読まずして宣長を語るなかれ」と直截的に言われたことはないが、ラストワークの『本居宣長』を読んだという人の中には、宣長を論じたいのか小林を論じたいのか、こちらには弁別がつかないまま、とにかくこの書物の賛辞を聞かされるだけという図式があり、こちらは「A」の話をしているのに相手は「小林が書いたA`」の話しか返して来ないというありさまとなる。それは少なくとも対話ではない。

 早い話、これは対話を拒否する態度の開始である。知的論議ではなく排他の表明でもある。「尊敬」ということばにしても、あまり出し抜けに人前で使うものではないと同時に、「尊敬の念」の表明の仕方も厳密にいえば、ある程度人間をやってみた人でないと美しく始末をつけられない六ケしい人間わざなのである。

 「尊敬」は勿論、美徳かもしれないが、時として「臭気」を発する恥ずかしいことを私たちが知っているからであろう。おそらく、「褒める」ことと同じで、「劣悪なるものはプラトンを褒めることは許されない」といったアリストテレスの忠言に含まれる羞恥や謙譲など繊細な感情を用意して、はじめて発せられる真っ裸の言葉だからであろう。私たちは師を褒める前に、私たち自身が向上しなければならないものである。昨今の学生が「尊敬する人は父です」とハキハキ応えて、なかなか素直な青年だと大人から讃えられる気持ちの悪い時代にあっても、やはり「尊敬」というものは用心深く扱われなくてはいけない、と私は思っている。

 実際、小林秀雄の『本居宣長』の正確な評価はまだなされていないのではないだろうか。「本論は物足りず、『補記』をもってようやく眼睛の開かれる一境地を得る」という批評もあるのである。もう一つ、小林秀雄は多分、自分に寄り掛かる人がやがて出てくることを知っていたと思う。定規にされて困っているのは小林秀雄自身であろう。彼はよく「自分で発明したまえ!」と叱咤していた人だった。

文・伊藤悠可
つづく

「株式日記と経済展望」からの書評(三)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。(一)からお読み下さい。

(私のコメント) 注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

日本の教育は憶える事にばかり重点が置かれて考える事に対する教育があまり行なわれていない。もちろん低学年においては憶えなければならないことに重点が置かれますが、高校大学においてもその傾向は変わらない。歴史教育も何年に何があったという事ばかりであり、そこからの価値観や意味づけなどは教育の場では避けている。

もっとも歴史教育は、入学試験からも排除されているから高校のカリキュラムからも排除されて、世界史などは学ばないまま卒業してしまう学生もいる。しかし毎日の政治や経済を見る上では世界史などが分からないと現代の政治や経済も理解する事ができなくなる。日本の教育は一番大切な科目を排除して教育しているのだ。

西尾幹二氏の「江戸のダイナミズム」という本は、江戸時代に対する歴史的解釈において、西洋よりも先に近代の芽が出てきた事を指摘している。西洋に近代の芽が出てきたのは、宗教戦争の後からであり、それまでは政治と宗教の区分けが出来ていなかった。

西洋における16世紀から17世紀におけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、政治の世界に宗教が持ち込まれると凄惨な結果をもたらすことになり、政治と宗教は明確に区分けされるようになった。しかし日本では信長や秀吉や家康が宗教勢力と一線を画して政治を行なうようになったのであり、近代的日本が中世的ヨーロッパを排除したのがキリシタン禁令だ。

そのような意味で言えばアメリカははたして近代国家といえるのだろうか? アメリカはヨーロッパと違って宗教戦争を経験していない。だから今頃になっても第九次十字軍遠征軍をイラクやアフガニスタンに送っている。その目的はイスラエルの支援であり、ユダヤ・キリスト教の聖地エルサレムの恒久的な確保がその目的だ。

アメリカがキリスト教原理主義の国家であることは、福音派の信者の数からも明らかなことです。中には聖書を絶対視するファンダメンタリストに至っては進化論を否定して神が7日間で世界を作ったと信じて、ハルマゲドンの戦いが近いうちに起こってキリストの降臨を信じている人がブッシュ大統領の有力な支援団体になっている。

日本やヨーロッパの人から見れば、このようなアメリカはバカバカしく思える。しかし非キリスト教徒に対する無慈悲な扱いが時々出るのであり、日本に原爆を投下できたのも日本がキリスト教国家ではなかったからだ。ハルマゲドンの戦いではキリスト教徒だけが生き残ると書いてあるそうだから、非キリスト教徒は死んでもかまわないとも解釈できる。

近代人である日本人は、信仰の領域と自然科学の領域を一緒くたにすることはありませんが、アメリカのキリスト教の一派は聖書の絶対性を信じている。そして旧約聖書の中の預言された世界を実現させようとしている。そのようなアメリカ人を近代人であると見ることが間違ってる。

日本には7世紀に仏教が入ってきて、その後から儒教や朱子学などが次々入ってきましたが、神道をベースに仏教や儒教や朱子学などが地層のように積み重なっている。秀吉や家康がキリスト教を禁令にしたのも、キリスト教の教義に疑念を抱くだけの信仰の基盤がすでにあり、キリスト教の背後に隠された侵略的な意図に気がついたからだ。

家康は宗教勢力を東西に分裂させることで宗教が政治に口出しをすることを排除することが出来た。このような結果が葬式仏教といわれるほどに骨抜きにされてしまったのですが、明治になって基盤にあった神道が国家神道となりました。日本人は基本的に仏教も信じていなければキリスト教も受け付けていない。

しかし神道には教祖も経典も無い古代宗教であり多神教だ。アメリカ人にはこのような日本人が野蛮人に思えたことだろう。しかし実際の日本は戦国末期には宗教と政治とは分離された近代国家であり西洋よりもそれは早かったのだ。日本の歴史教育ではそのようなことは教えられず、鎖国によって近代化に遅れた日本を教えている。

先日はアメリカの高官が原爆の投下が100万人の日本人を救ったと述べていましたが、やはり原爆を投下したことに対する後ろめたさがあるのだろう。しかし投下を決断したルーズベルト大統領は選民思想から非キリスト教徒である日本人を抹殺しようとしたのだ。

このようなアメリカ人の精神的な発作はキリスト教の選民思想が原因であり、ブッシュは”神の声”を聞いてイラクに侵攻した。宗教戦争を経験していないアメリカ人だからこそこのような”神の声”を信じてしまうのでしょう。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

「株式日記と経済展望」からの書評(二)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。(一)からお読み下さい。

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◆仏教の堕落

 江戸時代になって日本の国のかたちを意識させたのは、先述のとおり儒教でした。しかしその儒教を背後からささえたのは神道でした。通例は神仏儒のイデオロギーの連合が強く出ているというふうに言われ、神仏は一体で祀られていましたけれども、しかしながら日本の国の全体の統一のまとまりを意識させたのは儒教だということを、今私はこれから少し説明します。

 神道は単一体としてみれば、江戸時代に入ると旗色が悪くなる。それはなんといっても天皇家と結びついておりますから、神道が盛んになると幕府の存在がそれだけ相対化されます。時の幕府からは疎んじられていました。一方、仏教は国教化して、幕府に保護される。幕府はとにかく一向一撲もいやだったし、もう坊主どもやキリシタンが荒れ狂ったら手に負えないのを知っていたので、宗教をいかにして自分たちの保護監督下に置いて管理するかということに力を入れた。政治の知恵ですが、それ故に保護された仏教は堕落します。

 たとえば檀家制度は民衆をお寺の管理下にくり入れるものであり、本末制度はお寺を本寺と末寺に分けて、住職の任命権を本山に限定するなどの制度ですが、どこまでも幕府がお寺を管理する制度です。これで政治による宗教の序列化がはっきりしましたが、ただ民衆の立場から言いますと、十六世紀まではろくなお弔いもしてもらえなかった。

 偉い人たちはちゃんとお墓も持てたけど、庶民にはお墓もなかった。ですけれども江戸時代になると、とにかくいろんなことが現在のわれわれの生活に近くなってきて、庶民もまたお弔いをしてもらえるし、戒名が頂戴できるようになった。これはありがたいことであって、広い意味での庶民の救いにつながづたと考えることはもちろんできるだろうと思います。

 お寺が民衆の日常の救いの場となり、ともあれ仏教が国民的宗教とレて確立した。現在残っているお寺の九〇パーセントは十六世紀、十七世紀の二百年問に創立されたと言われております。そのうち約八○パーセントは寛永二十年(一六四三年)までに成立しているということです。

 江戸学者の尾藤正英氏が、この事実からすれぱいわゆる本寺、末寺の制度などとか、あるいはまた檀家制度などというものは、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立し、江戸幕府はただそれを政治的に利用しただけであったと見るのが妥当であろうと、大変お寺さんに好意的な評価を下しています。そういう一面もたしかにあったと思いますが、お寺が庶民にとってありがたい一方の存在であったかどうかはまた別の問題です。

 というのは、お寺は、庶民に対してキリシタンでないことの証明をするかわりに、次々と彼らからカネを巻き上げるなどのことが多かった。庶民はそんな体質にウンザリして、お祈りの場としては山伏や占い師だとかに救いを求め、必ずしも仏教寺院を頼りにしないようになってしまった。つまり現在と同じような「葬式仏教」に堕ちてしまったのは事実のようであります。

 なにしろ葬式を行う資格は、幕府によってお寺にのみ与えられたために、当然お寺は傲慢になり堕落します。民衆は民衆で、お寺とはべつのところの信仰に走る。姓名判断とか、家相を見るとか、お祓い、お浄めとか、陰陽道だとかが盛んになります。これは現代にまでずっと続いている民衆宗教の流れです。今と変わらない同じ構造ですね。江戸時代の民衆の心のかたちは現在とあまり変化がないと私は見ています。現代の仏教不信は、むしろ江戸時代に始まっている。

 だから神仏分離が明治の初期に行われたときに、廃仏段釈(仏像破壊)が起こりましたが、政治的弾圧ということだけでは説明できません。政府の関与があったにせよ、民衆自らが率先して協力した側面もあったわけです。それだけ、お寺が憎まれていたということでしょう。(P30~P38)

西尾幹二『江戸のダイナミズム』より

「株式日記と経済展望」からの書評(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た

書評 / 2007年07月09日

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た
のであり、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしている。西尾幹二

2007年7月9日 月曜日

◆江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 西尾幹二(著)

 ヨーロッパというものの正体が何であったか、今にしてわれわれにはやっと分るわけですが、どうやって江戸時代の日本人にそれが分ったでありましょうか。しかし本能的になにかが分っていたのかもしれない。家康だけではなく先立つ秀吉にも分っていた。日本人の知恵、直感が働いていた。だからキリシタンの拒絶と、ポルトガル、スペイン船を近づけないという蛮族打払いの政策を実行することが可能であったわけでしょう。

 まあ、それはともかくとして、先の引用からも、ヨーロッパにだって未来は見えていなかったということを申し上げておきたい。

◆聖書と神道

 江戸の日本はヨーロッパをほんの少し知っていたけれど、しかしながらそれとは無関係に、自分の独自の価値観念を、閉ざされた江戸の空間のなかで追求していたのです。ヨーロッパも自らがどこへ向かうか分っていないと今申し上げましたが、日本は日本で、ヨーロッパはヨーロッパで、それぞれが独自の道を歩んでいたのであります。

 いいでしょうか、読者の皆さん。江戸時代は明治のための手段ではありません。それがまず最初に言いたかったことであります。

 明るい近代的なもののイメージを江戸時代に投影して、江戸を「初期近代」と呼ぶのも、みんな西洋からきた観念です。江戸を初期近代と言うといって、英語の研究書の中にそういうことが書かれてあるものだから、最近日本の国史学者たちは一部で、ああ、アメリカ人がそう言っている、イギリス人がそう言っていると慌てて近世の概念を疑うとか言いだしたり、江戸時代は初期近代だと言ったりしていますが、遅いんですよ。

 やっとそのレベルのことを言いだしていますが、遅いんです。遅いというのは、私はその逆を今言っているからです。つまり、江戸時代は近代明治のための手段ではなかった、と。江戸時代の人は明治を目的にして生きていたわけではない。

 徳川体制が壊れて、再び「朝廷の時代」がやってくるとは、江戸の人たちは想像だにしなかった。幕末になるまで、誰も考えていなかった。その時代にはその時代に閉ざされた特有の価値観があると、ランケが言いました。「各時代には各時代に特有の神がある」と。われわれは江戸時代を「近代的なるもの」の実現のプロセスの目盛りの程度で解くようなことをやめましょう。江戸の人が生きた、閉ざされた固有の価値観の内部でこれを評価しなくてはなりません。そこで第三の命題です。

 日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしているということ、そしてそれが先進的であるのは西洋の場合と同様に深く自らの過去の歴史に遡って、そこから養分を取り、そこへ戻り、そこをばねとしていること、そしてまた各時代の閉ざされた固有の内部の価値観を通じて確立されていったということであります。

 それならその閉ざされた江戸の空間の固有の内部での価値観とは何か。一口で申しますが、それはとりあえずはまず儒教であります。室町から戦国時代にかけて成立したいわゆる神の国この神の国はいつごろできたかと正確にいうのは難しいけれども、江戸時代になると、ここに明らかに儒教が入ってまいりまして、この国のかたち、まとまりといったものを考えだす。儒教が日本という国のまとまりを初めて自覚するきっかけになるのです。

 ここでいう”儒教”とは、もとより西洋とは無関係であり、また中国の儒教とは現われ方が違うものでありまして、日本的な儒教でありますが、しかしながら儒教は儒教ですから、おしなべて中国研究であることには変わりはないのであります。そこらへんが非常に難しいのですが、同時代の中国では考えられないような方向へ日本の儒教は展開し、そこでは予想外に巨大なスケールの仕事がなされたのであります。

 日本という国は、いつどのようにして、この国の国家的まとまり、国のかたちというものを自覚するようになったのでしょうか。通例は江戸の儒教とは関わりなく、元寇のときに、北条時宗の鶴の一声でまとまり、あれが神の国の始まりだという説もありますが、すると平安時代のいわゆる国風文化はどう考えたらよいのでしょうか。ともあれ、神の国の自己認識がいつ始まったか、文献学的に議論しても仕方がありません。そうではなく、私どもによく知られている明らかないくつかの道標を思い出してみましょう。

 例えぱ、豊臣秀吉は、スペインのフィリピン総督に宛てた手紙で、日本は神の国だからバテレンの布教はまかりならぬと応答しております。さらに秀吉は、日本で初めて自ら求めて神社に祀られるこおくとを希望し、日本で最初に「神」となり、朝廷からは「豊国大明神」の号を贈られております。家康も自ら神になることを求め、日光東照宮において「権現様」となっている。どうも神の国は、戦国から江戸にかけてのこの前後ですでに確立していることは間違いがないようです。

 今、「明神」とか「権現」という言葉を申しましたけれども、本来的には神道は偶像を持たないものです。が、神仏習合という仏教の影響であの美しい仏像彫刻を見せつけられているうちに、神道のほうでも明神様とか、権現様とかやってみようということでそうなったようです。これは、仏教が神道に与乏た影響です。

 江戸の二百五十年のこの国の枠、国のまとまり、それをつくったのは、秀吉と家康の知恵です。秀吉がバテレンの禁止と中華秩序からの離脱を実行した。中国何するものぞという、秀吉の態度をそのまま、そっくり内向きに引き受けたのが、二百五十年間の江戸幕藩体制の外交政策です。

 この方針を決定したのは、精神的には神の国を言っているけれども、実は神道でもなければ、仏教でもなく、中国研究でもあったところの儒教であったという逆説を申し上げなければならないのであります。というよりも神道と合体した儒教というか、垂加神道というふうな名前で呼ぱれるものです。日本には、「外来の思想を厚化粧のごとくまとった神道」と「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」との二種類があります。

 「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうが、どちらかというと純粋な神道で、「外来の思想を厚化粧の、ことくまとった神道」は複合したものということなのですが、私の直感では、日本の歴史に二度大きな宗教が外から入ってきています。古代に仏教が先ず入ってきた。儒教も入ってきていますが、影響力はまだそれほど大きくない。そうして次に、室町時代以降に儒教、つまり朱子学が流入しています。

 その「外来の思想を厚化粧の.ことくまとった神道」は、最初は「本地垂迹の思想」という。垂迹というのは仏が本地、仏教が本体で、神としてそこに現われるというものであります。つまり両部神道といいまして、仏教と習合したということですが、やがてそれに対する反発が起こりまして、「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうへ行く。これが、本来の神道であり、伊勢神道、または度会神道とも言いますが、反本地垂迹思想です。

 つまり仏教から脱するということで、神様が、本体で仏教がむしろ垂迹なんですから、仏教が外に現われるということになる。.神様が本体で仏教が外に現われる。いや、反本地垂迹といっても、脱仏教といっても、仏教を完全に離れるのではなくて、要するに薄くなるだけです。

 室町時代になりますと、こんどは道教、儒教、仏教合わせて全部一緒にしたごた混ぜのものになる。ある人に言わしめると、「錦織りの綴れ織りを鎧に纏ったような神道」となる。ここに「吉田神道」という巨大な伝統を持つ神道が生まれます。これもやはり反本地垂迹思想で、神が本体ということになる。ただ、神が本体であっても、ごたごた、こたといろんなものを身に纏っておりますので、こんどはそれを否定する、脱吉田神道が出てくる。再び、伊勢神道がもう一度、吉田神道の厚化粧を脱ぎ捨てて登場してくる。

 そこへ朱子学がどっと入ってまいります。そうしますと朱子学と神道がくっつきまして、それは林羅山、山崎闇齋などが代表する、儒教と習合した「垂加神道」や「理当心地神道」が生まれてくる。これらに対してしぱらく経ってから、いや、こんどは儒教も仏教もだめだ、『古事記』の神話に立ち戻れと言ったのが本居宣長の「古学神道」ということになります。彼の弟子の平田篤胤は、厚化粧のほうに回り、幕末になってキリスト教と習合するというおかしな話になってしまう。もっとも宣長も「聖書」を読んでいたという説もあることはあるので、キリスト教の影響もあったかもしれません。

 明治になると、厚化粧の神道は「国家神道」に向かい、戦後の神道は、憲法の規定などによって、存在するための根拠を失い、薄化粧というか、可哀相な神道となってしまった。森喜朗元首相の「神の国」発言でぐらつくほど頼りなくなっている。なぜそうなったかというと、たった一人、津田左右吉という人物が現われただけで、そうなってしまった。

 別に、津田左右吉が悪いのではなくて、自然科学というものに対して神道は防衛力を持っていなかったためでしょう。日本の神遺は何にでもまといついて、何にでも自然なかたちで習合する思想ですけれども、自已の存立のために戦う理論武装が弱く、本格的に思想家として自己防衛をしたのは本居宣長一人であったのではないかと思われます。

 過日、中西輝政氏と対談して、『日本文明の主張』という本を出しました。この中で、中西氏が、キリスト教にはたくさんの護教論(教義を護る議論)があるのに、日本の神道を守ろうとしたのは本居宣長一人だけだった、だから神道は脆いんだという指摘をなさいました。それはそうだと私も合点し、次のように付言しました。ヨーロッパの思想は、アンチクリストの思想まで実は「護教論」なんです。

 ドストエフスキーの『罪と罰』、二ーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』はみんなアンチクリストの流れですが、これらとても、結局は「聖書」のパロディです。カントの『純粋理性批判』は、自然科学を基礎づける書であると一方では言っていいわけですが、実は「信仰の領域」と「自然科学の領域」は別物だと指摘し、信仰の領域を守ろうとしている。

 そういう意味ではカントの『純粋理性批判』も「聖書」のパロディかもしれない、とあえて言ってみたくなるのが西洋の宗教世界なのです。何を論じても全部「護教論」に通ずるものすごい世界なのです。それに比べると、目本の神道には防衡思想があまりにもないということは認めざるを得ません。

西尾幹二『江戸のダイナミズム』より

8月の仕事

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は西尾先生の最近の仕事と、西尾先生の本の書評をあつかったブログの紹介です。

 『WiLL』8月25日発売号に、西尾先生は「二大政党制という妄想」という15ページに及ぶ大きな論文を発表されました。最初の3ページで参議院選と安倍総理に対するきちんとした評価を書いています。

 しかし当論文は目先の政局がらみの話ではまったくありません。袋小路に陥った日本の政治全体の転換への提言のようです。ご本人からうかがったところによると自民党と社会党が硬直したまゝ相反した「55年体制」の再研究です。

 日本の保守系論壇誌にはタブーがあります。勇敢にタブーを打破せよということばを冒頭で述べてもいます。

 ところで、「株式日記と経済展望」というブログが西尾先生の本をしばしば取り上げて、長文の論を展開しています。今年の7月には日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た と題して、『江戸のダイナミズム』を引用し、論評してくれました。以前には『国民の歴史』を、最近では『日本人はアメリカを許していない』を取り上げていました。これらを順次引用も含め転載させてもらおうと思います。

 

文・長谷川真美

『国家と謝罪』新刊紹介(三)

 

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。コメント欄は膨大なスパムコメントのアラシのため、しばらく休止しています。

 今回は、新刊『国家と謝罪』の新聞広告についてです。この本は8月15日(終戦記念日)の前後の新聞広告に比較的多く取り上げられました。

 いろいろ調べてみたところ、下段半分の顔写真入りの大きい広告は、読売(8月15日)、産経(8月14日)、やや小さくしたのが日経(8月17日)で、朝日(8月15日)は顔写真なしの一面と四面の下段の二箇所に出ていたことがわかりました。

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 面白いのはそのキャプションで、全部同一文でしたが、朝日だけは同じ日に二箇所の広告となったので、四面のだけは文章が異なりました。

 ここに参考までに掲示しておきます。
 全紙同一の広告文は以下の通りです。

 日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!

 対日戦争の跫音が聞こえる

《靖国・南京事件・慰安婦問題》先の戦争の解釈が次の戦争の勝敗を決める!

 アメリカが中韓の歴史カードを後押しし、「つくる会」は政権にすり寄る勢力に蹂躙された。安倍政権の成立前後から漂流し始めた日本。日本にいま何が起こっているのか。米中に挟撃される日本の現実を透徹した目で見据えた予言的論考。

 朝日四面の異なる広告文は次の通りです。

 

 安倍首相就任と相前後して日本に吹きつける風は明らかに変化した。同盟国アメリカが首相の靖国参拝を否定し、従軍慰安婦問題を蒸し返してきた。次の戦争は静かに始まりつつある。安倍首相の謝罪は、新しい戦争に道を開く愚挙となるだろう。国家・歴史を見失い、世界の現実を直視する目を失って漂流する日本人に自覚と覚醒を促す警世の書。

 朝日一面の『国家と謝罪』の二つとなりに、『日本にも戦争があった』(731部隊元少年隊員の告白)・『あなたは「三光作戦」を知っていますか』があり、それも面白いと思いました。いえ、むしろ西尾先生の本が、朝日の「戦争と平和を考える」というキャプションの本の広告欄にあるほうが、珍しいのかもしれません。

文・長谷川真美

『国家と謝罪』新刊紹介(二)


現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 今回は以下の新刊に対する、宮崎正弘氏による書評の紹介です。コメントは現在受け付けていません。

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 (宮崎正弘氏のコメント)

 西尾幹二先生の最新作『国家と謝罪』(徳間書店)は、まさに力作です。大きな歴史的大局観に立って、すべての問題を鋭利な白刃で分析しつつ、民族とは何か、歴史とは? 伝統とは? 日米同盟とは? 

これら国家の根幹を織りなす、すべての疑問が、この一作によって解きほぐされ、久しく忘れていた日本人としての誇りを考えるしかけになっています。
 近く拙評をメルマガに掲載予定です。

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宮崎正弘氏の国際ニュース・早読みより

 日本保守思想の原点が本書に集約されている。

 戦後、憲法の押しつけ、農地解放、教育改革等々。日本はアメリカの保護領のごとくに成り下がり、「独立」は主権回復後も、本当に達成されているのか、どうか。独自の神話も否定され、精神的営みも軽蔑される風潮がまだ続いている。
 
 日本はとうに国連に加盟したけれども、日本は本当に「独立」しているのか?
 歴史も国語もズタズタのまま、教科書を自ら作成できず、外国にお伺いを立てる始末。
 安保改訂後も、大店法の受け入れからM&Aの認可、ビッグバン、金融諸制度から郵便局まで。道路公団は民営化され、ついに日本はアメリカの法律植民地になってしまった。
 
 地方都市の景観が廃墟と化したのは大店法の悪影響だろう。
全国の酒屋さんが店を閉じた。これもアメリカの要求をやすやすと日本が受け入れたからではないのか。

 嘗てジャパン・バッシング華やかなりし頃、評者(宮崎)はパパ・ブッシュ時代に日本に「コメの自由化」を迫られたとき、これは日本の文化伝統を破壊する極めつけの愚行だとして、『拝啓 ブッシュ大統領殿、日本はNOです』(第一企画出版)を上梓したことがある。
 
 当時、日本の保守陣営といっても親米派が多く、小生のような議論への理解者は少なかった。随分と保守の側から反対が目立った。米の自由化でアメリカの怒りがやわらぐのなら開放しても良いじゃないか、と。
 
 天皇家の枢要な行事は新嘗祭。これを外国のコメでやるという発想は、かの皇室典範改悪論を奏でた偽「保守主義」の似非と通底している(座長のロボット博士は、ところで共産党の出身だった)。
 
 小泉前首相はひたすら「カイカク」と呪文を唱えたが、やったことはほぼ「カイアク」の類いだったろう。
 
 外交の責任者に、愚か者が多い日本でも最悪の愚か者に委ね、アメリカの理論を吹聴する「ガクシャ」に机上の空論による経済運営を任せた。株価は市場最低値を彷徨い、潰れなくてもいい銀行はアメリカに乗っ取られ、日本はどん底に陥った。そもそも日本の株式市場の株価形成を主導するのが外国人投資家。それも青い眼のファンドマネジャーになり、それが常態だと詐話を展開している日本の経済学界、官界。

 西尾氏は果敢にも小泉首相を「狂人」と呼んだ。
 そして本書でこう訴える。
 「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 「靖国、南京事件、慰安婦問題。アメリカにまで赦しを乞う必要などない」と。

 「勝者は歴史を掌握する。敗者は人類の敵であるという見方がとられる。戦勝国は敗戦国が二度と立ち上がれないように、道徳的にも精神的にも最後までこれを打ちのめしていまうという政策が戦後においても継承して行われる。占領期間に教育や文化が改造され、洗脳がなされる。それが経験上われわれの知っている全体戦争である」(本書18p)。

 しかし大東亜戦争以後の、朝鮮戦争もベトナム戦争もイラクも、勝った負けたがはっきりせず、「ドイツと日本のように国民の思想洗脳や国家改造にまで及んだ例はない。ドイツと日本だけが、例外的却罰を受けた。もとよりドイツはならず者の一団が国家を壟断したーードイツ人自身がそう認めているーー例外の戦争を起こしたのだから仕方がない」。
 
 だが「日本はそうではなかった」。 日本は「自存自衛」と「アジア解放」が二大動機」であって、大東亜戦争ははじめから終わりまで「受動的」だった。
 
 そして西尾氏は次のように続けられる。
 「二十世紀のならず者国家はナチス・ドイツだけだろうか。太平洋上で英、米、仏、蘭、独、豪のした陣取り合戦は、『侵略』の概念に当たり、『平和への罪』を形成していないのだろうか。英、米、豪は、日本に対して『共同謀議』の罪を犯していないか。広域にわたってあらゆる島々で起こった虐殺には、正確な記録はないが、ホロコーストの名で呼ばれるのがふさわしいのではないか」(本書29p)。

 しかし、日本はナチスと同列におかれ、「東京裁判の被告達は、全くヒトラー一派の側杖を食った」形となった。
 ナチスを退治するために、欧米はロシアと言う「悪魔」と握手した。

 その後、欧米はなぜかキリスト教がユダヤに謝罪し、カソリックは悔い改めたような態度を見せる。なにが後ろめたいのか。
 
 舞台はもう一度反転した。
 「ビン・ラーディンが出てきたために米国は中国という悪魔と手を組む方向へ走りだした。中国包囲網を固めつつあったイラク戦争までの戦略をわすれたかのごとくである(中略)。テロ自体の恐怖よりも、一極集中権力国家の理性を失った迷走の開始」は、じつに不安ではないか(本書38p)。

 日本はなにをなすべきか。「白人キリスト教文明では四世紀に及ぶ歴史の罪過を精算するために、新しい歴史の塗り替えが必要になっている」。

 西尾氏が「新しい教科書をつくる会」を立ち上げたのはいまさら述べることもないだろう。

 こういう重要なタイミングに「日本を代表する人物に必要なのは気迫である。安倍首相はなぜ、こともあろうに米国に許しを請うたのか。主権国家は謝罪しない。謝罪してはいけないのだ」。
 
 この激甚な訴えを読者諸兄はなんと聞くだろうか?

 評者はたまたま本書を持って中央アジアの旅に出た。
 キルギスという小国は僅か人口五百万。七十年もの長きに渡ってソ連の桎梏に喘いだ。独立してすぐ憲法を変え、「自国語(キルギス後)を喋れない人物は大統領に立候補できない」旨を謳った。
 
 アフガンのタリバン空爆のため、やむなく米軍海兵隊の駐留を受け入れたが、昨年から「役目は終わった。米軍は出て行け」の合唱が始まった。
 
 マナス国際空港で、米軍の取材をおえてタクシーでホテルにもどりつつ、運転手と会話がはずんだが、かれはこう言ったのだ。
 「日本に米軍が五万人もまだ駐留している? 日本って独立主権国家じゃないのかね」。
 日米同盟がもし対等であるならば、いったい日本軍のほうは米国のどこに駐在しているのだろう?

  ♪
(書評余話)西尾氏の言われる、「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 卑近な例が小沢民主党でしょう。イラク特別措置法延期反対を表明しただけで、(小沢一流のはったりでしょうが)、米国大使が民主党へすっ飛んできました。
 
 たまたまワシントンへ入った防衛大臣は異例中の異例の「おもてなし」を受け、チェイニー副大統領から、ライス国務長官まで。小池大臣のカウンターパートはゲーツ国防長官だけの筈ですから。
 
 厄介な、面倒な国に徒らになる必要はないけれど、日本の怒りに米国が微かに「怯えた」事態が到来したのではありませんか。
  
 

文・宮崎正弘

 

日本人はアメリカを許していない』(その二)

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西尾幹二『日本人はアメリカを許していない』(株)ワック刊
解説 高山正之  ¥933

同書の目次は下記の通りです。

目 次

新版まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

沈黙する歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
近代戦争史における「日本の孤独」・・・・・・・53
限定戦争と全体戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・85
不服従の底流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・124
日米を超越した歴史観・・・・・・・・・・・・・・・・163
『青い山脈』再考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・196
日本のルサンチマン・・・・・・・・・・・・・・・・・・247

解説 高山正之

 「『青い山脈』再考」と題された章から、文章の一部を抜き出し、ご参考までに紹介します。

 戦勝国にも軍国主義はあった。軍国主義は敗戦国の属性ではない。侵略戦争を是とする動機はイギリスにもアメリカにもあった。これまた敗戦国の歴史に特有のものではない。軍国主義や侵略戦争をこの地上から撲滅しようというわれわれの理想は大切である。私自身もこれを支持することに躊躇しない。ただ私はその理想を、今次大戦の勝敗から切り離せ、と言いたいのである。が、そのことが単に言いたいだけではない。軍国主義や侵略戦争がもし悪であるというのなら、戦勝国のその動機の悪を直視しなかったら、地上から悪を撲滅するという理想も片手落ちに終わり、最終的には実現すまい。敗戦国の悪にだけこだわっていては、戦勝国の悪を見逃すことになるのではないか。いかなる理想を口先で言おうと、いまの日本に茫々と漂っている敗北主義は、結局理想とは無関係なのである。こうした点に関して言えば、戦勝国も敗戦国もいまや完全に対等だということが分かっていないからである。(中略)

 第二次大戦はファシズムに対する民主主義の勝利であった、という定義をれ自体を考え直さなくてはならない時代に入っている。枢軸国に対する連合国の料理ではあったが、連合国のなかには明らかに民主主義国とはいえないソ連と、ファシスト党といってもいい蒋介石国民党政権――クリストファー・ソーンはそう定義している――が入っていた。日本が枢軸側を選んだとき、アメリカがどう思ったかは別として、日本ではそれがただちに日米戦争につながるものとは考えていなかった。三国同盟はソ連を加えて四国同盟にし、アメリカの参戦をこれで封じることが可能と考え、その政策に賭けたのである。同盟には蒋介石をも引きこむ説さえあった。日本は中国問題の「解決」を急いでいた。よもやドイツがソ連を侵攻するとは夢にも考えていなかった。

 日本は昨日の友は今日の敵という伝統的に老練狡猾な欧州外交ゲームにうかつに手を出し、引き返せなくなるや、いざ時来たれりと「オレンジ計画」を擁して待ち構えていたアメリカの軍国主義(傍点)の餌食となった。私はそう考えている。

 歴史は善悪の彼岸にある。

近況メール

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回は、「坦々塾」という西尾先生の勉強会の通知に添えてあった近況報告です。

 西尾先生が以前に参加していた「九段下会議」は、2005年の小泉選挙と2006年の安倍政権の成立までの間に、保守主義にかんする考え方の相違が大きくなり、いったん解散しました。

  このメンバーのうち最後まで会議に残り、なにが真実であったかを見つめていたひとの大部分、といっても13人ですが、西尾先生のもとで勉強会をつづけたいという希望があり、「坦々塾」という会を立ち上げました。

 私、長谷川もそのメンバーに入れていただいています。

 「坦々塾」はその後、西尾先生の愛読者や賛同者がさらにあつまり、若いひとから老人まで、外国に暮らしている人もふくめて、46人の会員に膨れ上がっています。

  いつも1-2時間ほど西尾先生の講義があり、参加者の自由討議があり、外から著名な先生をお呼びして特別講義をしていただく段取りになっています。

 特別講義はこれまで、宮崎正弘先生、高山正之先生、関岡英之先生、黄文雄先生、そしてこの8月には東中野修道先生にお出ましいただくことになっております。

 特別講義が終わってからの「懇親会」、お酒の席が皆さんの楽しみのようです。私も出来るだけ上京して参加していますが、それでも二度に一度はあきらめています。この夏も出席できません。

 昨日、「坦々塾」の事務局から、案内通知をうけました。そこで久しぶりに会員の皆様へあてた西尾先生のざっくばらんなメールを同時に受け取りました。

 先生の近況報告なので、「日録」の旧読者のみなさまにも、メールをお知らせしたいと勝手に個人的に考え、事務局と先生の両方からの承諾をいただきましたので、ここに掲載させていただきます。

 坦々塾の皆様へ

 ご無沙汰しています。
 
 7月後半にはスイスと北イタリアへ行ってきました。高速を走りつづける旅でしたから危ないといえば危ないのですが、なんとか無事に帰国しました。今の若い日本人は国際社会に立ち混じってじつにタフですね。私たち老夫婦を案内してくれた幼児二人づれの若いご夫妻も現地人になりきっていました。
 
 わたしの昔の教え子で、彼はスイスを代表する農薬会社の日本代表です。

 ヴェローナで野外オペラ、ミラノで例の「最後の晩餐」の修復された画像、ヴィセンチア、ベルガモなどの未知の町を見ました。死ぬ前にもういちどと思っていたシルス・マリーアの再訪を果たし、バーゼルでは「悲劇の誕生」執筆時代のニーチェの住まい(前に外から見ていた)の内部に偶然にはいることができました。彼が使っていたと思われる前世紀のKachel(円塔型の室内暖炉)もみました。いまなお冬には使われているそうです。

 アルプス山系の風景はどこへいってもすごいですね。スイスでなくても、カナダ西部でも、ノルウェーでも、地球の限界のような風景に私はいまはしきりに惹かれます。自分では登山のできない人間なのですが、鋭い山稜がいきなり眼前に天を突く光景にでくわすとわけもなく感動します。今回は南チロル、別名ではドロミーテン地方ともいい、Bolzano(ドイツ名 Bozen)という町から車で一時間で見晴らしのきく山頂に出て、アルプス山脈の東側半分を一望しました。

 夏らしい、楽しい旅でした。帰ってみると、東京は蒸し暑く、選挙でした。    

 私の旅行中に『国家と謝罪』と『日本人はアメリカを許していない』という二つの拙著が刊行されました。

 選挙の結果は私が前著で予言したとうりになりましたね、と皆様から今しきりにいわれています。

 二年か三年ほど前から、安倍晋三氏は二人といない、かけがえのない真性保守だという観念が主として保守言論雑誌を中心に存在し、固定化し、それ以外の意見をゆるさないタブーになっていました。

 私も2006年夏まで、小泉選挙まで、そう思わされていた一人です。教科書のことで安倍さんはよくやってくれましたから。しかし、後継首班で小泉氏に反旗をひるがえさず、タナボタを彼が期待した瞬間に、わたしは政治家としての安倍氏を見放しました。『国家と謝罪』 の part 3 の冒頭に書いたとうりです。

 安倍政権の成立は日本の保守運動にとってマイナスで、日本の国家主権回復を10年おくらせたと私はいま考えています。彼が「保守まがい」だからそうなるのです。困ったことです。こうなった以上、政界再編を惹起するために、自民党の崩壊、多党状況の大混乱、真性保守党の登場、本物の政治家の出現を待つしかありません。
 
 坦々塾の皆様は必ずしもそうはお考えになっていない方も少なくないでしょう。そこで、8月19日には皆さんで大討論会を開きましょう。14時から15時ごろまで私が主として「教育と自由」に関する私論をのべ、保守のあるべき理想を語ります。15時ごろから16時半ごろまで、これをきっかけに、安倍批判、安倍擁護などいろいろとり混じった、きわめてオープンな、互いに遠慮のないディスカッションをいたしたいと思います。

 東中野修道先生は16時半には会場にご到着のはずです。こんどまた、南京をめぐる大著を新刊なされました。まことに、先生はいま世界史的なお仕事をなさっておられます。

 では当日の皆様との再会を期待しております。
                                           西尾幹二