非公開:『三島由紀夫の死と私』をめぐって(一)

kkiga.jpg 私はもう何年前になるか覚えていないが、小浜逸郎さんを介して『飢餓陣営』という個人雑誌を出している佐藤幹夫さんとお識り合いになった。洋泉社の小川哲生さんと三人で何度かご一緒し、酒盃を交したこともある。

 佐藤さんが児童精神病の問題に関心があり、自閉症の少年事犯について立派な著作を出されていることをそのときは知らなかった。彼の関心は持続的で、岩波書店から『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』をもお出しになって、17歳の自閉症裁判のかかえる問題、責任能力、罪と罰、刑罰か治療かといった深層心理にも入る難問に取り組んでおられるらしいことも、最近少しづつ知るようになった。

 『飢餓陣営』は少し前まで『樹が陣営』という名だった。教育や哲学の雑誌で、小浜逸郎さん、長谷川三千子さん、佐伯啓思さん、竹田青嗣さん、刈谷剛彦さんなどがよく寄稿されていることは知っていた。

 今お名前を挙げた方々は、皆さんが私の主宰する勉強会「路の会」に来てお話をして下さった方々であることもお伝えしておく。また、佐藤幹夫さんは『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書)というユニークな一書をもお出しになっている。このことも逸せられない。

 私が『飢餓陣営』に二度にわたって長文の三島論を書くに至った佐藤さん側の勧誘の動機は、「編集後記」に次のような表現で記されている。

前号の三島・吉本特集の執筆依頼者を考えるさい、いま三島由紀夫をきっちり論じることのできる文芸評論家は誰がいるのだろうか、と熟慮を重ねた結果、たどり着いたのが西尾氏でした。企画者自身、まさかこれほどのドラマが隠されていたとは思ってもみませんでしたし、政治イデオロギーで(あるいは政治的予断をもって)なされる、文学作品や文学者に対するレッテル貼りが、いかに文学を理解しない愚かなことか、改めて感じました。西尾氏には深く感謝です。(本論はさらに一章が追加され、PHP新書として刊行予定です。)

 連載の第2回目の載った『飢餓陣営』第33号が3月末ごろに刊行された。宮崎正弘さんがさっそくにメルマガに取り上げて下さった。私が自分で説明するよりも上手にまとめておられるので、感謝をこめてここに掲示させていたゞく。

(宮崎正弘氏のコメント)
ところで西尾幹二氏が事件から38年を経て、はじめて本格的に三島由紀夫を論じています。連載は昨年から『飢餓陣営』という雑誌で開始され、発売されたばかりの2008年3月号(『飢餓陣営』、33号)が二回目です。
 
連載といっても一回分が長い。なんと今月号の第二回は140枚です。
 
論旨は生前の三島さんと西尾氏は一度だけだが、会ったことがあり、三島邸へ招かれて談義のあと、いきなり六本木へ飲みに連れて行かれたときの感動と哀切と友情をこめて書かれた内容で、これが第一回目でした。
 
それを受けた第二回は生前の三島さんが、西尾氏の論じた三島論を本質的なものと注目していたことが、ようやく38年にして明かされます。死の直前の三好行雄氏との対談でも三島さんは、それを活字にしていた。
 
三島さんはこう言っているのです。
 「西尾幹二のこんどの評論は、ぼくの、芸術と行動の間のギャップみたいなものを統一的に説明した良い評論だと思う。だれもいままでやっていなかった」(三好氏との対談、『國文学』昭和45年五月号)。

 
芸術や思想と人生の実生活とは異なり、ショーペンハウエルは厭世主義を唱えたが、楽天家だった。葉隠を書いた山本常長は畳の上で死んだ。それなのに日本の私小説作家には、堕落した日常生活を作品にした太宰治のように、この二元論がない。三島は、日常生活をサラリーマンのように時間を管理して生きたが、作品のなかでは勇躍無尽だった。
 
三島の口癖は「ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた」
 事件後、わかって良いはずの保守陣営がさっぱり三島の本質をわからず、論評せず、江藤淳に至っては、あれは「ごっこ」だったと言い張って、論壇自体が大いにしらけていた。
 
そうした知的情況の中で、西尾さんはおおいに傷つけられ、ニーチェの翻訳に没頭していく空白期が赤裸裸に描かれています。
 
完結後の単行本が早くも、待たれます。また既報のように今年の憂国忌は、この本をテーマに西尾幹二氏の記念講演です。(11月25日、九段会館)。

(なおこの雑誌『飢餓陣営』33号は池袋リブロ、神田東京堂、高田馬場芳琳堂、八重洲ブックセンター、大阪りょうざんばく、京都三月書房、久留米リブロ、池袋ジュンク堂などでしか扱っていません。直接の申し込みは
 273-0105 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷8-2-14-102 佐藤幹夫
 メール miki-kiga@kif.biglobe.ne.jp
 郵送注文は送料とも1200円。郵便振替 00160-4-184978 飢餓陣営発行所(名義)です。

 憂国忌のことはまだ悩んでいるが、宮崎さんは掲載雑誌の販売ルートまで書いて下さっているのは大変ありがたい。どこの書店にも置いてある雑誌ではないので、文末の指示に特段のご注意を払っていただきたい。

 では、私の今度のこの仕事は、どのような目的と狙いから書かれたか。第2回目の掲載文の冒頭で、私自身が次のように説明しているので、以下にこれも紹介しておきたい。

 本稿で私は三島文学を論究するのでも、三島さんの死をめぐる諸解釈を再吟味するのでもありません。三島さんの文学もその死をめぐる諸説も、本稿の目的とする範囲を超えていることをあらためて申し述べておきます。私は最初にも言った通り、死の前後に偶然この作家に精神的に関わった執筆者として、直前と直後に書いた自分の文章をとりあげ、前と後とで共通する主題を再提出するだけでなく、微妙な内容の変化と世間の反応の移動を思い出すままに報告したいのです。これが第一点です。

 次いで私が三島さんの死の前に書いた文章に三島さん自身が生前反応していたという興味深い事実があります。このことを私は今まで人前で話すことはありませんでした。私自身がそういう事実のあることを人から教えられたのは彼の死後です。私があえてそれを取り上げなかった理由は、今思い返すと複雑です。「三島事件」となったあの死以後、各方面の人々が、「私は三島さんからかくかくの次第で接近がなされ、今思えば謎の死の秘密を解く鍵だった」と言い立てるケースが数多くみられたからです。同じ仲間と思われるのがいやだというよりも、私のケースも同類なのかもしれないという思いは正直あります。

 三島さんが寄せた私への関心を本気にしなかったのではなく(私は当時も今も本気にしています)、話題を遠斥けたもう一つの理由は、前にも申し述べた「恐怖」にあります。私は単純に怖かったのです。「三島と西尾は思考のパターンが似ている」と秘かに保守系知識人の仲間――当時の日本文化会議のメンバー、等――に噂された事実があり、私は威かされているような、からかわれているような不安な心情に襲われました。

 あの時点では「お前もテロリストか」といわれているのと同じですから愉快なはずはありません。

 三島さんの私への言及を私が逃げたもう一つの理由は、後で詳しい分析を語りますが、ひょっとすると生前の三島さんを私が私の論理で死へ向けて追いこんだのではないかという内心の危惧の念があったからでした。今はそんな心配はしていません。しかし当時は不安でした。そう思った理由はそれなりにあるので、この件はだんだんにお話します。

 以上のような次第で、本稿は三島文学論でも、その死の総括論でもなく、死の直前と直後に彼に言及した一執筆者の体験の報告に目的を限定します。