ZAITENより

 ZAITENという文字を見て何のことかお分かりだろうか。「財界展望」という雑誌の改称である。由緒のある、古い雑誌である。どうしてこんな改題がなされるのか分らないが、そのZAITENから拙著『憂国のリアリズム』についての次のようなインタビューを受けたので、ご報告する。

ZAITEN著者インタビュー

憂国のリアリズム 憂国のリアリズム
(2013/07/11)
西尾幹二

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――3年間続いた民主党政権を「全共闘内閣」とお書きになっています。

 仙石由人、枝野幸男、海江田万里ら民主党の各氏は、もともと全共闘の活動家でした。菅直人も鳩山由紀夫も似たようなものです。彼らは、国際政治という観点を無視して主観的な平和主義を唱える勢力といっていいでしょう。民主党政権が行ったことは、現実がまったく見えていないママゴト民主主義です。

――先の選挙で自民党が政権に返り咲き、安倍内閣が誕生しました。安倍政権の課題として、①中国共産党体制の打破、②憲法改正、③不可解なグローバリズムにどう立ち向かうか――の3つを挙げています。

 まず中国ですが、なぜアジアではベルリンの壁の崩壊が起きないのか。中国共産党の一党支配が強固だからではありません。共産党が一党支配を保ったまま同時に金融資本主義を身にまとい、異様な二重体制となり、アメリカがそれを許容しているからです。しかし、この状況がアジア版ベルリンの壁崩壊とも言える。ソ連が崩壊したように、中国も体制の転換をすべき時が来ています。

――憲法改正の真意は。

 憲法改正は歴史問題と第二次世界大戦の罪を一方的に押し付けられるのは終わりにすべきだということです。歴史と政治は別でなければならない。かつてアメリカとソ連は歴史的に対立してきましたが、今両国が政治や外交問題を議論する時、歴史を持ち出すことはしません。両国は大国だからです。憲法改正で重要なのは、日本を侵略国と断罪した戦勝国の歴史観からの脱却です。

――不可解なグローバリズムとは、どういうものでしょうか。

 ひと言で言いますと、FRB(米国の中央銀行に当たる連邦準備制度理事会)はアメリカの国営銀行ではありません。ただの民間銀行で、ユダヤ系です。それがアメリカの金融政策の策定を行っている。選挙で選ばれた人たちではない。“奥の院”がアメリカを動かしているわけで、アメリカ国民にとって、民主主義は本当に存在するのか、という問題です。

 中国も同じです。中国共産党の幹部たちは、中国国民とは関係ありません。もちろん、選挙で選ばれたわけでもありません。彼らは巨額を国外に持ち出す“犯罪者集団”です。このように、正体の見えない不可解なグローバリズムが世界中を覆っていて、どこかで一つに繫がっているのかもしれないのです。

――安倍政権では、集団的自衛権を認めようとする動きがあります。

 認めるのは良いのですが、集団的自衛権は双務的な相互条約です。集団的自衛権を認めるならば、同時に米軍基地の撤廃が主張されるべきです。本来なら、すぐに米軍基地撤廃は無理にしても、例えば「まずは横田基地から」といった議論が沸き起こるべきなのです。集団的自衛権を議論するなら、そこまでの覚悟が必要なのですが、肝心なことは誰ひとり話題にしません。

――本の中で、「東京裁判について議論する必要はない。戦争責任論もナンセンス」と主張されています。

 戦争責任という概念は、第二次世界大戦中はありませんでした。戦後になって突如出てきたものです。戦勝国が敗戦国の責任を追及することは、敗戦国を未来永劫にわたって封じ込める手段としての意味が強いのです。世界的にも戦争責任という概念は、アメリカの南北戦争、南軍の罪を問うたリンカーンが最初です。そして、ナチスを裁いたニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」というものが打ち出されます。それ以前は、どんな戦争でも、国家のために戦った軍人が罪に問われることはなかったのです。

――先の大戦で日本は「人道に対する罪」は犯していないのでしょうか。

 もともと「人道の罪」などないのですが、戦勝国が言うところの「人道の罪」を日本は一切犯していません。ナチスには強制収容所やホロコーストがありましたが、日本にはそういった絶滅収容所はありません。そもそもアメリカが日本と戦争を行った目的が存在しないのです。ナチスに対する戦争目的はあったかもしれませんが、日本に対する万人に納得のいく戦争目的をアメリカはいまだに説明することができません。

――連合国にとっては、ファシズムに対する戦争だったというのが一般的ですが。

 とんでもない話です。ファシズムを日本に当てはめることはできません。「天皇制ファシズム」とは、戦後左翼が言い出したことで、天皇制とファシズムが一つになることはありえません。ファシズムとは、総統(独裁者)がいて、党が政府を支配し、強制収容所がある、この3つの条件が必要です。これを実現させた全体主義国家は、ヒトラー政権とスターリン政権だけです。当時、ファシズムに最も近かったのは、アジアでは蒋介石の国民党政府です。ヒトラーとスターリンに並行するのは蒋介石と毛沢東です。天皇を戴く日本では、総統は出ず、ファシズムは成り立ちません。

2013年10月号より

11月の私の仕事・お知らせ

          西尾幹二全集刊行記念講演会のご案内

  西尾幹二全集第8巻(教育文明論) の刊行を記念し、12月8日 開戦記念日に因み、下記の要領で講演会が開催いたしますので、是非お誘い あわせの上、ご聴講下さいますようご案内申し上げ ます。
 
                       記
 
  大東亜戦争の文明論的意義を考える
- 父 祖 の 視 座 か ら - 

戦後68年を経て、ようやく吾々は「あの大東亜戦争が何だったのか」という根本的な問題の前に立てるようになってきました。これまでの「大東亜戦争論」の殆ど全ては、戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るという視点が欠けていました。
 今回の講演では、GHQによる没収図書を探究してきた講師が、民族の使命を自覚しながら戦い抜いた父祖の視座に立って、大東亜戦争の意味を問い直すと共に、唯一の超大国であるはずのアメリカが昨今権威を失い、相対化して眺められているという21世紀初頭に現われてきた変化に合わせ、新しい世界史像への予感について語り始めます。12月8日 この日にふさわしい講演会となります。

           
1.日 時: 平成25年12月8日(日) 
(1)開 場 :14:00
 (2)開 演 :14:15~17:00(途中20分 程度の休憩をはさみます。)
                       

2.会 場: グラン ドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」

3.入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

4.懇親会: 講演終了後、サイン(名刺交換)会と、西尾幹二先生を囲んでの有志懇親会がございます。ど なたでもご参加いただけます。(事前予約は不要です。)

   17:00~19:00  同 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円 

  お問い合わせ  国書刊行会(営業部)
     電話 03-5970-7421
AX 03-5970-7427
E-mail: sales@kokusho.co.jp
坦々塾事務局(中村) 携帯090-2568-3609
     E-mail: sp7333k9@castle.ocn.ne.jp
  

 『WiLL』1月号(11月26日発売)に私が関係する仕事がたまたま二本載る。私の単独の評論(1)は決していい題ではないが、花田さんに押し切られた。六人関与の現代史研究会の討論原稿(2)ははるかに重大な内容である。分量が多いせいもあって5ヶ月待たされてやっと掲載される運びになった。今月のは前半である。

(1) 「17歳の狂気」韓国
 バスジャック犯を念頭に置いている。東北アジアを銃砲火器をもつ暴力団に囲まれた一台のバスと見立てている。仲間と思っていたバスの乗客の一人がとつぜん理性を失った。そういう譬えで語られている。

(2) 柳条湖事件日本軍犯行説を疑う
 西尾幹二・加藤康男・福地淳・福井義高・柏原竜一・福井雄三

 この現代史研究会の討論はかっては四人であった。討論は『歴史を自ら貶める日本人』(徳間書店)という一冊の本にまとめて本年世に送り出した。今回から6人体制とする。

 今回の討論の主役は加藤康男氏である。氏は張作霖爆殺事件をひっくり返す画期的な本を出して山本七平賞奨励賞をもらっている。

 私は戦後の日本史学者のやったことは100パーセント疑わしいと思っているので、これに断固として挑戦している人が出てくるとともかく嬉しい。加藤さんを応援するし、ここで彼の仕事の口火を切ることができたことは光栄である。私はコーディネーター役に徹している。

 『正論』1月号(12月1日発売)には私の連載が掲載される。

(3) 戦争史観の転換 第6回「ヨーロッパ500年遡及史」②
 本日やっと校正ゲラを修正して戻した。毎月30枚である。30回連載される予定である。だから思い切って歴史展望の尺度を大きくしている。

 今回はポルトガルである。誰も考えたことがない、知られていない中世以来のポルトガル史にわが近現代史を解く鍵の一つがある。これを精密に追い、かつ面白い読み物として語っている。

 ヴァスコ・ダ・ガマがニュルンベルク裁判や東京裁判に深く関係しているなどと誰が考えたであろう、と今ひとりほくそ笑んでいる。スペインのインカ帝国、アステカ帝国破壊史はよく知られているが、ポルトガルのことは本当にあまり知られていない。

 今月はほかに全集第9巻「文学評論」の再校ゲラの戻しをした。大変な分量であった。

 12月10日ごろに思い切った長い表題の新刊の単行本も出すが、次回に詳しく報告する。

教育文明論 感想文・お知らせ

全集第8巻 感想文             浅野正美

全集8冊目の刊行となった本書には西尾先生が教育論について書かれた論文が一冊にまとめられている。既刊の全集中一番の大冊で、読了するのに毎日二時間を費やして三週間かかった。

冒頭から私事をお話する不躾をお許しいただきたいが、私は職業高校(商業科)を卒業してすぐに就職したため、大学というものがどういう社会なのかほとんど知らない。私が出た高校は学区内に八校ある公立高校の中で偏差値が下から二番目に位置していた。上位五校が普通科で、その下に工業科、商業科、農業科という序列になっていた。この固定化された階層は現在でもまったく変わらないのではないかと思う。

私が本書を読んで最初に驚いたのは、西尾先生が我が国の6・3・3・4の単線型教育システムの成果を大きく評価していることであった。門閥、貧富に関わりなく、能力と努力の結果によって平等に人間を選抜するこのシステムが、明治以降の国力増大に果たした役割を真正面から評価しているのである。これによって従来下層階級で教育の機会すら奪われてきた国民からも優秀な人間を発掘し、高度産業社会に貢献しうる人材に育て上げることができたということである。

私はかねがね三十数年の社会人生活を通して、教育というものがいかに不合理で不経済なものかということを痛感していたため、ドイツのような複線系の教育制度こそがその無駄から逃れる唯一の方法ではないかと考えていた。

私の勤務する小商店においても年々四大卒者の占める割合が増えてきたが、そのだれもが、本はいうに及ばず、新聞すら読んでおらず、まともな文章一つ書けない。経済学部を卒業しているにも関わらず為替や株式の値動きの理由を説明できず、仏文科を出ていながら、学生時代にバルサックもスタンダールも読んだことがなく、独文科を出ていながら、マンもゲーテも読んでいない人間ばかり見てきた。法政、中央、國學院といった一応は名の通った大学を卒業していながら、少なくとも私の勤務先に入って来る人間はみな例外なくこの程度なのである。大学とは一体何をしにいくところなのであろうか、この程度の人間に卒業証書を与えることが許される大学とは何のために存在しているのか、という問いが長い間私の中の大きな疑問であった。

大学教育にかかるコストが相当に家計を圧迫しているのにも関わらず、今や四大進学率は50%にまでなった。しかし、真に学問を修めるという目的を持った学生はその中のほんの一握りでしかなく、大半の大学生は社会に出るまでのモラトリアムとしての時間をただ無為に過ごしているように思われる。ある人は労働需給のアンバランスを解消する緩衝地帯として進学率向上を評価するが、それこそ本末転倒ではないかと思う。

こうしたどうしようもない大卒者ばかり見てきた私は、必然的に大学入学者の大胆な削減こそが問題解決に繋がるのではないかと考えてきた。大学教育に投資されている莫大な金銭は、直接の授業料だけでも年間数千億円にもなろうが、そのほとんどは何ら効果を生まない捨て金となっているという現実がある。もちろん授業料として支出された現金も国内で循環することによってGDPを増大させる効果はあるが、もっと直接的に消費財に回した方が国家経済への貢献も大きいのではないかと思う。私の考えでは、大学教育を受けるに値する人間は、今の大学生の中では十人に一人もいないと思う。真に高等教育を受けるに値しないような若者が大挙大学に押し寄せるという現状は何か不気味ですらある。

西尾先生も本書で再三指摘されているように、企業は採用する学生に大学で何を学んできたか、だれに教えを受けてきたかということを、少なくとも文系学生に対してはまったく問わない。法律を学ぼうが、経済や文学を学ぼうが、企業に入れば例えば営業マンとして働かされる。企業が見ているのは大学名だけだ。そうした新卒者は、企業内で無垢の状態から教育され、企業それぞれの社風に染められていく。私でも何かがおかしいと思う。

教育には無知が持つ闇から人間を解放するという崇高な使命もあったと思う。迷信や差別、迫害、詐術、風水、占い、新興宗教といったものは、人間の精神が抱く不安や恐怖といった心の闇につけ込んだ愚劣で非合理的な存在である。それだからこそ、人間は学問の習得を通して真理に近付き、こうした非合理的な思考を克服していかれると信じてきたのではないだろうか。しかし、世間を見渡して見れば、未だに多くの人間がこうした前近代的ともいえる闇から抜け出せずにいる。教育を受けることによってのみ得られると信じられた論理的に考え、合理的に判断するという行動規範が社会にしっかり根付いているかといえば、はなはだ心細い限りだ。さすがに錬金術や魔女狩りといった中世暗黒時代からは脱却できたものの、ここにも今日の教育の持つ限界を見て絶望的な気分になるのである。

西尾先生が6・3・3・4制を高く評価していることは先にも述べたが、その必然的な弊害についても率直に語られ、それに対する具体的な改善策も提示されている。弊害とは、東大を頂点とするピラミッド型のヒエラルヒーであり、戦後ますます強固になったこうした大学のランキングの固定化である。それはもはやテコでも動かない頑丈な構築物のように崩れないどころか、ますます強くなっている。人生における競争を受験一つに集約することの弊害。大学入学に向けた熾烈な競争を強いられている高校生の過重な負担。十八歳で輪切りにされてそれ以降交わることが極めて少なくなる実質的な身分制度。大学や企業における無競争のしわ寄せが高校生に無用の負担を強いている、等々。

西尾先生は本書に収録されている『「中曽根・教育改革」への提言』の中でこうした問題の本質的な原因を掘り下げているので以下に引用してみたい。

入学時点での大学名が個人の属性として一生ついてまわる日本人の「学校歴」意識・・・

日本の「学校歴」意識は、国民の広い範囲を巻き込んでいて、大学の受験生に限らないところに、問題があるのである。
一般社会において、どこの大学を出たから有利であるとか、評価できるかということは、現代では次第に意味を失いかけていると言われるし、また現実にそうであろうが、社会の現実と真理の現実との間には開きがあるのが常である。

アメリカでもヨーロッパでも、「学校歴」意識は存在するが、人間を評価する尺度が多元的で、複数化している欧米のような文明圏では、個人のこうした一属性がライフサイクルに作用を及ぼすかのごとき幻想によって個人が不安を覚えるということは少ない。

大学生以上の大人の社会全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争の儀式を、十八歳と十五歳の子ども立ち押しつけている。しかも最近では十二歳へとだんだん年齢的に下の層へ押しつける圧力を強めていることが憂慮すべき問題なのである。
言い換えれば、大人の競争を避ける分だけ、子どもの世界が競争を肩代わりして、それが今日の日本の教育の病理のもう一つの様相を示している。

他人と違う存在であろうとする競争は共存共栄を可能にするが、他人と同じ存在であろうとする競争は、序列化した同一路線上での優勝劣敗の可能性しか残さない。
他人と同じ存在であろうとする日本人の競争心理(ないしは競争回避心理)は、平等が進めば進むほど、横に広がって価値の多様化をもたらすのではなく、同一路線にタテに並んで競い合う結果、「格差」をますます大きくするという特徴を持つ。戦後において高等学校や大学の数が増えれば増えるほど、学校間の「格差」が広がり競争が激化するという、経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いたのも、この特殊な日本的競争の力学が作用している結果である。(以上698頁~699頁)

ここに引用した中でもとりわけ「経済の需要供給の関係では説明のつかない事態を招いた」という個所に私は強い感銘を受けた。こういう鋭い比喩を読むと私の心はなぜか浮き浮きとしてしまう。経済学の初歩にして大原則である需要と供給の法則は、中学生でも知っている。買い手が増えれば物の値段は上がり、商品が過剰になれば物の値段は下がるという法則である。無原則に志願者を入学させることで経営を成り立たせている二・三流の私立大学は、これからも続くであろう少子化という試練の時代を向かえて、ますますその傾向を強くするであろう。現実に現在でも、名前を書いて簡単な面接試験と称するセレモニーさえ通過すれば、その内容がどうであれ入学できる大学は無数にあると言われている。大学生の裾野が広がるということは、その平均的な知性レベルは必然的に低下するだろう。大学の経営を維持するためだけに入学する(させられる)無意味な大学が日本全国あちこちに存在する姿は異様ですらある。

私は今でも、高校を卒業して大学に進学する価値のある人間は全体の10%もいないと思っている。しかもそうした優秀な学問的素養を持った人物でも、大学で学んだことが社会で生かされるという幸運に恵まれる人は極めて稀だと思う。私の考え方は、ヨーロッパにおける学問は学問として独立したものであるという思想に近いのかも知れない。

実は私は、我が国の東大を頂点とする固定化された大学の序列というものは世界の標準的な形だと思っていたので、本書を読んで初めてその誤解を解くことができた。我が国の大学の在り方こそが特殊であると言うことを知ったのは新鮮な驚きであった。序列の固定化は大学の画一化を招き、大学間の競争と個性を消滅させたという。学問に目的はなく、教えを乞いたい教授の元に参集する学生は見られず、魅力的な研究に取り組みたいということが大学選びの動機になることもない。その結果、自分が取れるであろうテストの点数で入れる範囲において、一番レベルの高い大学に入るということだけが、大学選択の唯一の基準になってしまった。

これを書いてきてふと原点に立ち返るような疑問がわいてきた。そもそも大学の存在理由とは何であろうか、ということだ。そこで学ぶということがそれ以降の人生において何らかの意味を持つのだろうかという疑問である。例えば字が読めなかったり、簡単な四則計算もできなかったりすれば、現代社会で生活していく上では非常な困難が付きまとう。職場で上司や取引先のいっていることを正しく理解する読解力や、国語、算数以外の最低限の歴史、科学、英語の知識、マナーといったことは、ほぼ中学卒業(遅くとも高校卒業)の段階で習得できるであろう。冒頭にも書いたように、私は大学生活というものを経験していないため、ここで問うていることは単なる愚問かも知れない。大学の機能の一つに研究がある。これは主として教授の専権事項だろうが、理系、文系を問わず、このような最先端のあるいは地味な学問に対して、最高度の頭脳が鎬を削ることは極めて重要なことだと思う。こうした研究を経済的に支えるためには国家の助成金だけでは成り立たないから、一定の数の学生から授業料という形でお金を徴収してそれに充てるということも理解できるのだが、すべての大学がそういう役割をきちんと果たしているとはとても思えない。

話しがあらぬ方向に脱線してしまった。西尾先生は大学多様化の一試案として東大合格上位校の合格者数に制限を加えるという大胆な提言をされている。そうして日本全国に東大と同じレベルの大学が複数存在することが健全な学問的競争を促し、現在のゆがんだ東大信仰をなくすことに繋がると訴える。先生はこうもいう。「東大を実際の実力以上に押し上げてきた力・・・」それは日本人のあの無反省な「相互同一化感情(コンフォーミティー)」の強さに外ならないと。
競争がないところに向上も発展もないことは、企業の競争を見れば一目瞭然である。

            西尾幹二全集刊行記念講演会のご案内

  西尾幹二全集第8巻(教育文明論) の刊行を記念し、12月8日 開戦記念日に因み、下記の要領で講演会が開催いたしますので、是非お誘い あわせの上、ご聴講下さいますようご案内申し上げ ます。
 
                       記
 
  大東亜戦争の文明論的意義を考える
- 父 祖 の 視 座 か ら - 

戦後68年を経て、ようやく吾々は「あの大東亜戦争が何だったのか」という根本的な問題の前に立てるようになってきました。これまでの「大東亜戦争論」の殆ど全ては、戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るという視点が欠けていました。
 今回の講演では、GHQによる没収図書を探究してきた講師が、民族の使命を自覚しながら戦い抜いた父祖の視座に立って、大東亜戦争の意味を問い直すと共に、唯一の超大国であるはずのアメリカが昨今権威を失い、相対化して眺められているという21世紀初頭に現われてきた変化に合わせ、新しい世界史像への予感について語り始めます。12月8日 この日にふさわしい講演会となります。

           
1.日 時: 平成25年12月8日(日) 
(1)開 場 :14:00
 (2)開 演 :14:15~17:00(途中20分 程度の休憩をはさみます。)
                       

2.会 場: グラン ドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別 添)

3.入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

4.懇親会: 講演終了後、サイン(名刺交換)会と、西尾幹二先生を囲んでの有志懇親会がございます。ど なたでもご参加いただけます。(事前予約は不要です。)

        17:00~19:00  同 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円 

お問い合わせ  国書刊行会(営 業部)電話 03-5970-7421
FAX 03-5970-7427
E-mail: sales@kokusho.co.jp
坦々塾事務局(中村) 携帯090-2568-3609
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アメリカとグローバリズム(三)

―国際標準と「偏狭ならざるナショナリズム」  河内隆彌

 いまアメリカでウォールストリートは、右の方からのティーパーティ運動、左の方からOWS(オキュパイ・ウォールストリート)運動など左右から挟撃されている。極右とされるロン・ポールと極左とされるラルフ・ネーダーが反ウォールストリートでは共闘関係を組んだ。実はウォールストリートに対する抵抗運動?糾弾運動?は古くからある。その辺左翼であり、日本に関しては東京裁判史観から一歩も出ていない本ではあるが、映画監督、オリバーストーンの「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」に詳しい。しかしかれら左翼の批判は当然のことだがグローバリズムそのものの批判ではない。

 大変乱暴な結論だが、小生は、リンドバーグほかの当時の孤立主義者たちは、国民国家としてのアメリカの最後の愛国者たちだったのではないだろうか?かれらが負けたときに、アメリカは「モンロー宣言のアメリカ」であることをやめて、「グローバリズムのアメリカ」になったのではないだろうか?それを批判するリベラル左翼も、「建国の父」たちの自由・平等を謳いながら、アメリカン・ナショナリストとして批判するわけではなく、もう一つの普遍主義、ないし理想主義に基礎をおくグローバリズムから批判しているようだ。西尾氏は、「憂国のリアリズム」のなかで、「アメリカはいつからアメリカでなくなったのか?」と疑問を書いておられるが、この辺が一つの解答になり得るかもしれない。

 これから先の対立軸は、勝ち組、負け組(支配、被支配)の関係になるのではないか?1%対99%の世の中が修正に向かうことはあまり考えられない。遺伝子組み換え農産物で世界を席捲しようとする農産複合体、無人機などで挽回を図る軍産複合体、刑事逮捕率を上昇させて刑務所の安価労働で儲けようとする刑産複合体、公立学校を潰して教育産業で稼ごうとする教産複合体などなどビッグビジネス、コーポラティズムの脅威は、岩波新書の(やはり左翼陣営と思われる)堤未果「㈱貧困大国アメリカ」に詳しい。

 だれが損をして、だれが得をするのか、よく考える必要がある。

 ここへきて、アメリカの財政問題、どう収束されるのか、相変わらずわからない。債務上限引き上げが一時的に成功して、デフォルトが当面避けられたとしても、それは先延ばしにすぎず、すぐ同じ問題に逢着するはずである。何か起りそうな予感がありながら、とりあえずの安泰にその日暮らしをしているのが現代人の姿ではないだろうか?

 日本でも、TPP、原発、消費税、女系天皇、などなどのマルチ・イシューの時代となっている。単純に保守かリベラルの軸足では割り切れない。この前、最高裁で驚くべき判事の14名全員一致で、婚外子の相続2分の1が違憲とされた。国際標準にしたがう、というのが大義名分だった。気づかないうちに表面上のキレイごとがまかり通ってしまう。われわれも、本来キレイごとには弱い一面があるわけだが、本当の仕掛け人がどこにいるのか、充分見定める必要がある。保守かリベラルかの軸足とは別の次元で、グローバリストかアンチ・グローバリストかという基準もありそうである。

 アンチ・グローバリストとはナショナリストにほかならないが、いまナショナリストという言葉には、必ず「偏狭な」という形容詞がつけられる。しかしそうではない。意味するところは、単なる「日本の」愛国者ではない。各々の国民が、それぞれ自国を愛することは大いに奨励するものである。相互のナショナリズムは尊重する。そのような考え方が国際社会を作って欲しい、国際標準になって欲しい。いわば「孤立主義」、「不介入主義」の立場のすすめである。
                          (了)

アメリカとグローバリズム(二)

 ―グローバリズムの三つのベクトル?  河内隆彌

キレイごととしての理念的グローバリズムの裏側には、三つのベクトルがある、というのが私見である。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
② 社会主義リベラル・グローバリズム
③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム

以下それぞれを説明する。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
 キレイごとそのままの理念的グローバリズムで、一般大衆が希求してやまないグローバリズムである。要は、「戦争のない、平和な一つの世界(ワン・ワールド)」、「民主主義の自由で平等な一つの世界、人類の愛の世界」、「山のあなたの空遠く、あるのではないか、と信じられている世界」である。

 99%くらいの人がそう思っているだろうか?②③のダブルスタンダードに簡単に引っかかってしまう人たちのベクトルである。

 最近、適菜収という人が、著書で「B層」と名づける人々である。その定義は次のとおり:
グローバリズム、改革、維新といったキーワードに惹きつけられる層、単なる無知ではない、新聞を丹念に読み。テレビニュースを熱心に見て、自分たちが合理的で、理性的であると信じている。権威を嫌う一方で権威に弱く、テレビ、新聞、政治家や大学教授の言葉を鵜呑みにし、踊らされ、騙されたと憤慨し、その後も永遠に騙され続ける存在である。

② 社会主義リベラル・グローバリズム
 その淵源がマルキシズムにある、本当の?左翼のリベラリズムである。かれらはマルキシズムの普遍主義を化体して、社会主義ワン・ワールドをめざす。ロシア革命で成功しかかったが、統治の方法論を持っていなかったために、スターリンの独裁主義を呼び、その死後は単なる官僚主義に陥って冷戦に敗れた。そのあと中国が引き継いだが、これはもう相当変質してきている。むしろ③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムと相性が良くなってきているように思われる。

③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム
 むかしからそうであるが、金融には国境がない。改めてユダヤ人陰謀説を唱えるわけでもないが、ヨーロッパ文明における主たる金融の従事者は、国境を持たないユダヤ人であった。ウォールストリート・グローバリズムもあえて説明するまでもない。かれらは戦争そのものでも儲けるし、景気の上昇場面、下降場面双方でも儲けることができる。また1970年代以降の変動為替相場制、1980年代のいわゆる金融ビッグ・バン以降資本取引はほとんど制約なしに行われる状況となって、投資活動も国境を超えて行われることとなった。

 1950年代、経済の27%を占めていたアメリカの製造業は、2010年、11%となり、製造業労働人口は、非農業部門の9%にまで下がって、国民国家としてとらえた工業国アメリカ(地理的概念における)はブキャナンの嘆くように崩壊してしまった。しかし、いまウォールストリートと、アメリカを原点とする多国籍、無国籍ビッグ・ビジネスのグローバリズムは、「わが世の春」を謳歌している。

 かれらは、いっとき、「大きい連邦政府」の敵として、ニューディールに反対してきたが、タックス・ヘイブンというような税金を払わないで済む方法も編みだした。いまや、この③のグローバリズムは、税金を払わないで済むなら、むしろ「強い政府」は有利である。「回転ドア・システム」と呼ばれる、政権との人事交流を通じて、自らに有利な法制を設定しており、いまや一人勝ちの状況にある。

 以上三つのグローバリズムはお互いに複雑に絡み合っている。①はどちらかというと受動的な側面があるので、常に②と③のベクトルに引っ張られる側面がある。逆にいえば②と③に虎視眈眈と狙われているのである。

 以下極めて大胆というより乱暴な私見を述べれば、いま②はほとんど世界的に力を失ってきていて、むしろ③と重ね合わさってきている?猖獗を極めているのが、③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムである。これはまた、効率化という至上命題のもと、より安価な労働力を求める形で世界中に拡散している。

 アフリカ系のオバマがなぜ大統領になれたか?ある意味で、ポリティカル・コレクトネスというか、白人の黒人に対する歴史的な差別に関する贖罪意識のなせるわざ、という論評もあった。2012年は、2008年よりもかなり苦戦したが、ロムニーを破って2期目を獲得した。選挙前は「貧乏人の味方」のような顔つきだったが、いまオバマもウォールストリートの代理人であることがはっきりしてきた。

 オバマ登場のきっかけは、2004年の民主党党大会でケリーの応援演説をしたとき、ご他聞に洩れず「建国の精神に戻れ」と格差社会を批判して一躍名を挙げた。ふたを開けてみれば、オバマの大統領選には、かなりウォールストリートから資金が出ていたことがわかった。ノーベル平和賞の受賞演説では、「必要で正当な戦争はある」と断言した。アフガン戦争は継続して、ブッシュのネオコン路線を継承した。リベラル向けには「同性婚」への支持を鮮明にした。

 いま、共和党か民主党か、保守かリベラルか、という論議にはあまり意味がないようである。国内、国外政策ともに大差がなくなってきている。大きな二項対立があるとすれば、(アメリカだけではないが)グローバリストか、アンチ・グローバリストか、という視点が重要になるように思われる。

アメリカとグローバリズム(一)

 本年、私の友人河内隆彌さんがパトリック・ブキャナンの二冊の本を翻訳出版した。『超大国の自殺』(幻冬舎)と『不必要だった二つの大戦――チャーチルとヒットラー』(国書刊行会)の二冊である。永年銀行員だった河内さんの翻訳家への転身は一部で話題になった。何しろ高校時代の私の同級生だから、私と同年の78歳である。

 三冊目の翻訳書が彼の手で準備されている。Ian Kershawという人の、原題を直訳すれば『1940―1941年の世界を変えた10の運命的決断』で日本人の運命にも関係の深い内容である。英、独、日、伊、米、ソの各国のリーダーがどういう状況で、どういう決断をし、それが玉突き的に他の国のリーダーにどう影響をしたかを描いている歴史書である。白水社から刊行される予定であると聞いている。

外国の歴史家の大胆にして自由な発想に基く歴史の描き方が羨ましい。敗戦史観とマルクス主義に縛られて世界が見えない視野狭窄の日本の歴史学会の、余りといえば余りのていたらくぶりとつい比較してしまいたくなる。

 さて、河内さんは上記の仕事とは別に、10月某日ある会合で、ルーズベルトとリンドバーグの話をした。リン・オルソンという人の『憤怒に燃えたあの時代――ルーズベルト、リンドバーグ、アメリカの第二次大戦史』を読んで、その紹介と解釈をめぐる講和だった。長い話だったので、それはここに掲示することはできない。四冊目としての翻訳の出版もきまってはいない。

 ただ講和の終わりに河内さんが現代のアメリカ文明について、その歴史と日本との関係について、自由な感想をお述べになった。「アメリカとグローバリズム」と題して、ここに以下3回に分けてその日の彼の感想所見を提示する。

アメリカとグローバリズム(一) 河内隆彌

 以下、「まとめ」のような話に入るわけであるが、何せアカデミズムとまったく無縁の、アマチュアの話なので、「岡目八目」の話になると思う。

ブキャナンの本などを読みあわせ上で二三、意見というか、問題提起というか、感想というか、述べてみたい。それは違うよ、というようなところは多々あると思うが、お聞き流しいただければ幸甚である。

  ―アメリカ、「二項対立の国」?

 リンドバーグとルーズベルトの時代は、米国史上、南北戦争以来の対立の時代と申し上げたが、そもそもアメリカとは「二項対立」で成り立っている国、とも言い切れる。

 まず、日本人の多くが一種憧れを以て見ている、二大政党、共和党と民主党がある。
以下、
保守とリベラル
内陸部対沿岸部(東部/西部)
同じような意味で、レッド・ステーツ対ブルー・ステーツ(選挙ではっきり出ている)
州権尊重主義対連邦主義
国内優先主義(孤立主義)対国際主義(介入主義)
白人対有色人種
1%対99%(金持ち対貧乏人)
Tax-payer対Tax-eater(税金を納める人、消費する人)
同性愛反対派対賛成派
妊娠中絶反対派対賛成派
銃規制反対派対賛成派
死刑廃止反対派賛成派

 などなどである。いま先に出た方が、どちらかといえばいわゆる「保守」であとの方がいわゆる「リベラル」であるが、必ずしも一致はしない。イシューごとに人々はそれぞれの立場をとるからである。

 リンドバーグ対ルーズベルトの時代ならずとも、いまだに、というよりも、はた目には、これらの二項対立は実に激しくなっているように見られる。むしろ、参戦、反戦といった大きな、単純な対立ではなく、もっと細かな複雑な二項対立となっている。世の中がマルチ・プロブレム(イシュー)に時代に入っている。公民権運動以来、有色人種が(ヘンな言葉でいうと)「一人前」となってから様相はきわめて複雑にもなっている。

 しかしいずれにせよ、アメリカ社会がいかに人種的、経済的、社会的、文化的、宗教的に多様化しようと、そして銃砲が世の中に溢れていようと、流血事態で国が割れたり、南北戦争ではないが、州が分離してゆくこともかなり想像しにくい。(大きく、いわゆるブルー・ステーツ、レッド・ステーツの色分けはかなりはっきりしているが・・。)

 南北双方あわせて南北戦争では60万人余という犠牲者を出している。実はこれは手痛いアメリカの学習効果となったのではないだろうか?南北戦争というのは、奴隷制度をめぐっての、ないし工業の北部対農業の南部の戦争という理解よりも、「二項対立」、この場合、連邦優先か、州権優先かで、国家が分裂することもある、ということを血を流してでも防いだ戦争という理解も出来るのではないか?そもそも建国の父たちである、トマス・ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンの州権優先主義、連邦優先主義の「二項対立」を孕んだまま国が始まっている。その後紆余曲折があって、この二つの主義は、立場を入れ替えたりしながら、今日の共和党、民主党の二大政党につながっている。

 アメリカは議院内閣制ではなく、大統領制である。したがって、中間の党との連立政権といったシステムが存在しない。常に白か黒かとなる。もう一つはメディアである。
 
 リンドバーグとルーズベルトの対立も、メディアが率先して煽った嫌いがある。前述した現在の、もろもろのイシューに関する対立もメディアが騒ぎ立ている面が大いにある。何か、アメリカ人は、どんな問題でも、賛成か反対か、「プロ」か「アンチ」の立場をとることをあたかも強制されているかのように見えないでもない。要は一般にとって、右左以外の選択肢はあまり提示されず、世のなかはあたかも二択しかないように思わされているのではないかのように見える。換言すれば「二項対立」こそが、アメリカの特質であり、ダイナミズムの源泉になっているのではないだろうか?

 本日のテーマである、リンドバーグとルーズベルトの、孤立主義者と介入主義者の対立は、大雑把に保守とリベラルの対立だったといえる。政党の色分けでいえば、共和党の主流は孤立主義者、民主党はおおむね介入主義者だった。しかし、ウェンデル・ウィルキーのような共和党員もいた。かれは共和党員としては傍流だったのだが、ヒトラーの快進撃という警戒感の時の流れで、共和党大会で「ウィーウォント・ウィルキー」コールを引き出して指名された。

 ウィルキーは、ルーズベルトとの決戦となったとき、参戦についてルーズベルトとの対立軸を失った。共和党のメイン・ストリームの抵抗にもあって、本選挙では孤立主義者にくらがえして結局ルーズベルトの三選を許した。

 当時の保守、共和党は明白に反介入、反戦だった。戦後の、リベラルの専売特許と思われているようなベトナム反戦、イラク反戦、最近ではシリア介入反対などの反対行動とはちょっとニュアンスが異なるように思われる。軍幹部、上層部が孤立主義者寄りだったことは説明した。かれらは別に平和主義者として反戦をとなえたのではない。そうではなく、外に出て戦うのではなく、自分の国を防衛するのが先ではないか、と言う優先順位を大事にしたのである。そこには紛うことない愛国主義があった。「国民国家としてのアメリカン・ナショナリズム」というものについての、かれらなりの発露だった。

 いま同じ共和党のなかにいわゆるネオコン(新保守主義)と呼ばれる一派がいて、湾岸、アフガン、イラク戦争などの旗振りをした。おかげで、保守の共和党は戦争屋で、リベラル民主党が平和の守護人という見方が内外で定着しているようでもある。しかし第二次戦争を戦う指揮をとったのは民主党のルーズベルトとトルーマンであり、ベトナム戦争は民主党のケネディがエスカレートさせた。オバマもシリア介入のレッドゾーン(化学兵器使用の一線を越えたら攻撃するぞ)というようなことも言い出した。

 しかしどうも、いわゆるアメリカの戦争屋の戦争には、「国民国家としてのアメリカ」についての愛国主義の発露として見るには、何か馴染まないものがある。かつての「民主主義を守るため、戦争を終わらせるため」の戦争というウィルソンのレッテルには胡散臭さがあった。

 西尾氏もどこかに書いておられたと思う。ブキャナンもそう言っている。アメリカは結局枢軸国に対する勝利と同時に、宿願である大英帝国潰しに成功した。アメリカの戦争目的には、国民国家としてのアメリカのナショナリズムの発露というより、グローバル(ワン・ワールド)覇権の樹立にあったということがはっきりしたのではないだろうか?

 この勉強会の一つのテーマであるが、アメリカは、戦後、強大なソ連と共産中国を生み出してしまった。甘さがそこにはあったのかもしれない。そこで朝鮮戦争とか、ベトナム戦争などの代理戦争をやった。レーガン時代にやっと冷戦に勝って、ソ連は何とか片づけた。(近頃はシリアの問題などで、プーチンがまた何かと目障りなことを言っている。)中国とは「対決」か「妥協」か、さきのところはわからない。このところアメリカは内向きになっているように見えるが、グローバル覇権というのは「軍事優位」の世界だけにあるものでもなく、別な形で狙っているのではないだろうか?あとに触れることと関連する。

 リンドバーグたちの孤立主義は本来ナショナリズム、愛国主義であるにもかかわらず、孤立主義という何やら淋しげなマイナス・イメージを伴うレッテルが貼られるについては、ルーズベルトたちが、自分たちの側を愛国者とするために、そのグローバリズムを隠ぺいする方便だったのではないか?孤立主義者はナチ、ドイツのスパイであるなどと喧伝している。いずれにしても、国民国家としてのアメリカの愛国保守の勢力は、リンドバーグの時代で終わったのかもしれない。

 戦後、ベルリン封鎖、共産中国の成立、朝鮮戦争の勃発などでその反動が起こりかかった。マッカーシーが上手にやっていればアメリカン・ナショナリズムは盛り返すことが出来たかもしれない。しかしいま、アメリカの教科書で、マッカーシーは嘘つきで有名人になりたかっただけ、云々とケチョンケチョンである。その点、いま細々と?受継いでいるのが共和党の、真正保守(ペイリオコンサーバティブ)と呼ばれるブキャナンたちかもしれない。

 ブキャナンは、ネオコンを蛇蝎のごとく嫌っている。ネオコンの正体は、イスラエル・ロビーという左翼から発しているらしい。したがって、共和党もいまやリベラルのグローバリストに占領されている?ブキャナンのような真正保守は、アメリカで一定の支持はあるようだが、メディアからは大変に嫌われている。さきの本のおかげで、白人至上主義者(ホワイト・スプレマシスト)と烙印を押されて、MSNBCというTV(ケーブル?)のホストをおろされた。

 いま西尾氏が「正論」で、「そも、アメリカとは何ものか?」いう問題意識で議論を展開されている。まさにアメリカだから、そもそも何ものか、という設問が成り立つ。これがイギリスとは、とか、フランスとか、ないしロシアとは・・ですらも、わざわざ問うまでもなく見当がついてしまうように感じられる。

 南北戦争の30年くらい前に、同じような問題意識でアメリカを見てまわって、「アメリカの民主主義」という本を著したフランスの政治家、政治思想家、アレクシ・トクヴィルは、アメリカの例外主義という定義づけを行った。最初から人工国家として、理念の国家として人々が文字通り「創った」国家であるアメリカには、最初から抽象的な、キレイごとが独り歩きする特質がある。キレイごとと現実との折り合いをつけるためには、ダブル・スタンダードを常用してゆかざるを得ない。アメリカのわかりにくさとは、もろもろの事象に潜むダブル・スタンダードにあるのかもしれない。もちろん、日本にせよ、どこにせよ、どこにでも二重基準はあることはあるのだが・・。アメリカの場合はどこにあるのかわからない場面が非常に多いような気がする。

 もう一つ、アメリカの「国体」とは何か、という問題もある。伝統、歴史のないアメリカ人にとって唯一の神話となり得るのは、いわゆる「建国の父たち」である。独立宣言から始まって、独立戦争を勝ち抜いて、憲法と人権宣言などなどのキレイごとを創ったジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、アレクサンダー・ハミルトンなどなどのメンバーである。

 保守、リベラルを問わず、水戸黄門の印籠のように、「建国の父たち」の価値観を引き合いに出すとみな畏れ入ってしまう。この辺はいまさら小生如きが講釈しても始まらないが、要は、このご印籠が、ダブル・スタンダード隠しに魔力を発揮するのである。曰く、自由、平等、民主主義エトセトラ、エトセトラのいわゆるアメリカ的価値観である。

 表向きアメリカの理念そのものであるキレイごとの価値観は、きわめて「普遍的な」価値観である。この価値観が、西尾氏が「天皇と原爆」そのほかで説かれる、アメリカのキリスト教原理主義の持つ「普遍性」と結びついて、アメリカを建国の当初からグローバリズムの方向へ向かわせた。中村氏の資料にあるとおり、アメリカの国璽に「New World Order」「e pluribus unum」(out of many, one)(多数から一つへ)と書かれていることは偶然ではない。