今日は対論をめぐる三つの観点をとりあげてみたい。私の所論への批判の最も典型的と思われるものが次に挙げる第一番目の例である。これはほんとうに典型的である。
筆不精者の雑彙
『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊夫=真贋論争』を決着する」より一部引用
小生はこれらの切り口とは少し異なった点から、主として西尾氏の言論を批判してみたいと思います。といいますのも、小生のこの対談を一読した際の感想は、議論が全く噛み合ってない、ということでした。西尾氏が「これが正しいのだ!」と叫ぶのを、秦氏は「あー、うざいなあ」という感じでいなしている、そんな印象です。
曲がりなりにも日本近代史の勉強をしてきた身として、秦氏の発言は至極当たり前に感じられました。それに噛みついている西尾氏の言動は、歴史を論ずるということ自体を根本から分かっていない、と書くのが傲岸であるとするならば、歴史でない何かを論じようとしている、そのようにしか読み取れませんでした。であれば議論が噛み合わないのも当然です。雑誌の煽り文句で、広告にも掲載された秦氏の言葉が「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」というのも、歴史でない話をしたいなら歴史でないところでやれ、という謂ということだろうと思います。
しかし、ネットで見つけた上掲のいくつかのブログを読むと、歴史でないものを「真の」歴史と思い込んでいるブログが少なくないことに気がつきます。小生は、これこそがこの対談の最大の問題であろうと思います。つまり、歴史の「何を」論じているかではなくて、歴史を「いかに」論じているか、そちらが肝心なところだと。
文:bokukoui(筆不精者の雑彙)
私に対して「歴史を論ずるということ自体を分っていない」といい、「歴史でないなにかを論じようとしている」という言い方からしてすでに秦氏流の歴史がすべてだと思い込んでいる人の典型的きめつけといえる。この人は彼の考える「歴史」というものを信仰している。
しかし『諸君!』3月号拙論のほうで私が「パラダイム」の変換ということを言ったのを覚えておられる人もいよう。歴史は動く、とも言ったし、歴史は時間とともに違ってみえる光景だとも私は言った。秦氏自身がこのことをまったく理解していなかった。
二番目にあげる例文が一番目の人の迷妄を完膚なきまでに料理している。一番目の人の「歴史」はたくさんの歴史の中の一つの歴史にすぎない。パラダイムが安定している枠内ではじめて可能になる歴史である。
セレブな奥様は今日もつらつら考えるのコメント欄より
遅ればせながら、数日前にようやく「諸君!」の西尾・秦論争を読んでみました。お二人はすごく対立しているように読めるし、実際、そうなんですが、しかし両者とも対話に必要な相互承認というものがあって、とても有益な批判の応酬になっているんですね。西尾先生はインターネット日録で秦さんのことを、保阪正康さんや半藤一利さんたちよりずっと認めている、といわれていましたが、本当にそうだと感じました。
ただ、そういうことを中立的に私が言っているだけでは、読者としてやはり欺瞞的なことで、はっきりいいますと、私はやはり秦さんの立場は採用できないですね。
お二人が一番鮮明にその対立点を明確にしているのは、西尾先生が、「史実を確認することはまだ歴史じゃない」「厳密には史実の認定なんてできない」といい、歴史の本質というものは物語であり神話である、と言われたことに対して、秦さんが猛然と反撃して、「私達専門家の領域を侵犯しないでください」というところ、やはりここになったなあ、と思いました。
「認識される対象の意味が固定的でない」こと、つまり事実というものの意味が絶えず変化する、ということは、(とりわけ近代以降の)哲学理論や社会思想史ではある意味普遍的な前提で、ニーチェはもちろんのこと、メルロ・ポンティのような社会的には左翼的立場を採用した哲学者も繰り返しいっているし、読み手と文字の間の間に絶えず「意味のズレ」が生じていくことが「意味」である、といってポストモダニズム思潮の旗手だったデリダも、こういう思考を前提としています。こうした事実認識は歴史的問題にもまったく同じだ、というのが西尾先生の立場だと思われます。
たとえば、コロンブスの北米大陸到着も、ジンギスカンの大陸制覇も、当時そのものの状況に近づけば近づくほど、個人や民族のエゴイズムに無限に近づいていきます。コロンブスなんてただの山師だったと思います。しかし今では、両者の行為は東西文明の出会いという「別な意味」を与えられている。こういうふうに「史実は絶えず変化する」のです。同じことは日本と中国やアメリカの戦争についてもあてはまるはずなのです。しかし秦さんはそれをまったく認めようとしない。秦さんは徹底徹尾、「事実」の意味を単一なものの方向性へと固定し、その「事実」そのもの集積の先に見出せる大きなものがある、というある意味で非常に古典的な(といっても「近代古典的」な)観方に固定するという職業意識から故意に離れないんですね。
だから、西尾先生のいろんな「事実の読みかえ」の可能性の指摘、つまりコロンブスやジンギスカンの例のようなことの指摘が、「正しい意味」をもっていると信じている秦さんからすると全部、陰謀史観にみえてしまうのです。そして、暗に、西尾先生に対して、「それはヨーロッパ哲学の専門家の西尾先生の意見でしょう」といいたげです。昭和史の歴史的事実の解釈については、お二人の応酬にあるように、それぞれいろんな捉え方ができるでしょうし、秦さんの事実認定のすべてがおかしいわけではないし、西尾先生の事実認定に対しても反論の余地がありうると思います。しかし、そんなことは本当はどうでもいいのではないでしょうか。もっとも大切なことは「歴史に対しての態度」ということで、その根源に触れあったとき、秦さんは「専門家」という「籠城戦」に後退し、西尾先生の攻勢の継続で対談は終わっている、といえます。
しかし、この「歴史に対しての態度」という根源の触れあいに至っただけでも、他の悪口の言い合いだけの凡庸な対談とまったく違う、強い有意義があったと考えるべきでしょう。それは西尾先生と秦さんが、お互いに和して同ぜずの相互承認で認めあっているからこそ可能だったもの、と思います。
西尾先生も言われていますけど、こういう秦さんのスタイルだからこそ可能だった秦さんの業績や存在感というものもあるということは公平にみなければならないと思います。最近も秦さんの旧制高校についての著作を読みましたが、秦さんらしく、本当によく調べて書かれた貴重な研究書でした。しかしそういう秦さんらしさが発揮されるのは、この旧制高校の書にあるように、資料と著者の関係が「安定」している場合に限られれるわけですね。
文:N.W(うさねこ)
二番目の方は渡辺望さんといい、私の若い知友の一人である。知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない。私と秦さんの両方を公平に見ている。
渡辺さんはよく勉強し、しかも洞察力のある人である。私が先に言った「歴史は光景だ」は実際メルロ・ポンティから採っていたのである。
秦さんと彼に基く一番目の人の歴史は19世紀型の歴史である。外枠(パラダイム)が安定していた時代の歴史主義の歴史で、実証らしいことができるのはそういうときの歴史に限られる。
しかも秦さんの歴史意識は日本の軍部は悪者だとつねに決め付けている敗戦国文化に色どられている。だから実証的にしているつもりでも、実証にならない。立場の違う人には逆の意味に読まれてしまうからである。
この点で次にとり上げる三番目の人は、歴史と政治の関係をしっかり踏まえて、秦さんの実証が成り立ったケースと成り立たないケースとの両方があることを見て、これを区別して論じている。以下を読めば、歴史と政治の関係をみないならば、彼のことばでいえば木を見るだけで森を見ないならば、どんなに緻密な実証も見当外れに終ることがはっきり分るであろう。
えんだんじの歴史街道ろ時事海外評論より
西尾幹二氏 対 秦郁彦氏
雑誌「諸君」4月号で両氏が田母神論文で激突対談を行っています。私はこの両者の対談を興味深く読ませていただきました。西尾幹二氏と私の大東亜戦争史観はほとんど同じです。ところ秦氏の戦争史観が、私にはいま一つわからないとことがありました。特に秦氏が田母神論文批判の先鋒になったからです。
秦氏は、いまはやりの歴史捏造、歪曲の朝日新聞や左翼知識人とは異なり、現在の日本国家に貢献する非常に良い仕事もしておられます。秦氏最大の貢献は、「従軍慰安婦」事件の調査です。「従軍慰安婦」事件の始まりは、元山口県労務報国会下関支部動因部長を自称する吉田清治が、1982年に「私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行」という本を出版した時からです。
吉田は何回も韓国へ行き、謝罪したり、土下座したり、慰安婦の碑をたてたりしています。テレビにも日韓両国で出演、朝日新聞は吉田を英雄のように扱い、何度も新聞紙上に大きくとりあげて報道しました。この本の翻訳文が日本人弁護士によって国連人権委員会に証拠として提出されました。また教科書裁判で名を馳せた故家永三郎などが、自分の著作にこの本を参考文献として利用しています。
この本の内容に疑問をもった秦氏は、1992年済州島にわたり裏付け調査をし、吉田の本の内容がでたらめであることがわかりそれを公表しました。吉田はそれを認める発言をしたため、あれほど新聞紙上に何回も登場させていた朝日新聞は、それ以来ぴたりと吉田を登場させず、吉田を語らなくなりました。吉田は、メディアにも登場しなくなりました。秦氏は日本国家の名誉を救ったのです。
秦氏は、沖縄の集団自決問題でも、集団自決の原典ともいうべき沖縄タイムス社の「鉄の暴風」を批判、その「鉄の暴風」を基に書かれた大江健三郎の「沖縄ノート」を批判、秦氏自身も集団自決を否定しています。
その他、秦氏は教科書裁判で名前をうった故家永三郎がまだ生存中現役で活躍していたころの家永を批判していますし、また朝日新聞を反日新聞と批判しています。その秦氏が田母神論文を一刀両断のもとに斬り捨てているのです。だからこそ私は、秦氏が西尾氏にどのような主張をするのか非常に興味があった。
雑誌「諸君」に語られている秦氏の主張をいくつか挙げてみます。
1.東京裁判は、マイナスの面があったが、プラスの面もあった。比較的寛大であった。
その証拠に日本国民の反発がなかった。
2.コミンテルンの陰謀はなかった。
3.ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだという陰謀説は成り立たない。
4.ルーズベルト政権の中国援助は、国際政治の駆け引きにすぎない。
5.日本はナチスという「悪魔」の片割れだった。
こういう彼の主張を読んでいると、私はただ驚くばかりです。なぜなら秦氏は、昭和の歴史を細部までよく知っているからです。彼の著書に菊池寛賞を受賞した「昭和史の謎を追う」上下巻(文芸春秋社)があります。上下巻とはいえ、一頁を上段下段に分け細かい字でびっしり書かれています。実質的には一巻から四巻に匹敵する大作です。なにを書いているかと言えば、昭和で話題になった37件の事件を詳細に調べあげて書いています。秦氏の作品は、綿密に調べあげて書くので定評があります。
要するに私が主張したいのは、秦氏のように歴史の細部を知っているからといって、必ずしも歴史観が正しいとは言えないということです。俗にいわれる「木を見て森を見ず」なのです。なぜこういう現象が起きるのかその理由を西尾氏の意見と重複するところもありますが三つあげます。
1.大東亜戦争を昭和史の中で理解しようするからです。そのため自ずと日本国内の動きだけを追いかけ日本批判に陥ってしまうのです。大東亜戦争は幕末の時代から追っていかないと本質をつかめません。
2.私は、60年以上前に起きた大東亜戦争を現在の価値観で裁くなといつも主張しています。西尾幹二氏も本誌で「現在の目で過去を見る専門家の視野では、正しい歴史は見えない」、また「歴史とは過去の事実を知ることではなく、過去の事実について過去の人がどう考えていたかを知るのが歴史だ」とも書いています。全く同感です。
皆さんは特攻隊員の遺書を読んだことがあるでしょう。彼らの遺書を読むと、特攻隊員に共通の認識が理解できます。彼らの共通の認識とは何か。それは大東亜戦争を自衛の戦争と考えていたことです。だからこそ特攻隊に志願したりするのです。自分の死に大義名分があるのです。彼らは、自分の家族や恋人に遺書をのこしましたが、自分の死に対する不満やぐちを書いていたものがありましたか。
もし大東亜戦争が、侵略戦争であるというのが彼らの共通の認識でしたら、特攻隊に志願するでしょうか、家族や恋人への遺書には、自分の死に対する不満や愚痴だらけになっていたのではないでしょうか。
3.大東亜戦争は、日本史上国内で戦われた合戦とは大違いです。異民族、すなわち白人との戦いです。その白人は、コロンブスがアメリカ大陸発見以来500年間、すなわち20世紀まで有色人種の国家を侵略し続け植民地にしてきた。そのため大東亜戦勃発時、有色人種の国で独立を保っていたのは、日本以外の独立国はタイやエチオピアなどほんのわずかです。従って大東亜戦争は、世界史というわくの中で理解しなければなりません。また敵国民族は白人ですから、白人の文化とか白人の精神構造とかいわゆる白人の民族性まで考慮して大東亜戦争というものを捉えていかないと大東亜戦争を理解できないのです。
秦氏の歴史観の欠陥は、大東亜戦争を世界史の中で全く捉えようとしないことです。だから戦争前からアメリカが日本にいだいていた悪意を全く理解できないのだ。また秦氏は、精神的にナイーブな面もあるのでしょう。裁判所は悪人を裁く所という解釈だけしか理解できないのではないか。勝利国が自己を正当化するために裁判を利用するなどという考えは、秦氏には想像できないのではないか。
秦氏は、西尾氏の面前で田母神氏についてこう語っています。「一部の人々のあいだで、田母神氏が英雄扱いされているのは、論文自体ではなく、恐らく彼のお笑いタレント的な要素が受けたからでしょう。本人も『笑いをとる』の心がけている」と語っています。すかさず西尾氏から「田母神さんを侮辱するのはやめていただきたい」と注意されています。
秦氏は、なぜ田母神氏が多くの人に熱狂的に支持されているかその背景がまったく理解できていません。田母神氏を侮辱することは、彼を支持する私たちを侮辱するのと同じです。私は怒りを感じます。「秦さん、あなたは私の著書、『大東亜戦争は、アメリカが悪い』を読んで勉強しなおしてください。
本誌でも西尾氏が指摘していますが、中西輝政氏が三冊の名著をあげています。その一冊にJ・トーランド「真珠湾攻撃」があります。この翻訳本(文芸春秋社)の246頁にマーシャル参謀総長は、「アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライング・タイガース社の社員に偽装して中国に行き、戦闘行動に従軍していた」と公言しています。ところが秦氏は、本誌で「この時期フライング・タイガースはまだビルマで訓練していて、真珠湾攻撃の二週間後に日本空軍と初めて空戦したんです」と語っています。
マーシャル参謀総長の発言、「戦闘行動に従軍していた」という意味は、なにも秦氏が主張する日米空軍機どうしの実際の空中戦にかぎらず、シナ事変中米軍機が輸送活動に従事していたら日米開戦前に米軍は参戦していたことになりませんか。
最後に西尾氏と秦氏の人物像をとりあげてみます。1960年代、日米安保騒動華やかなりし頃、日本の多くの知識人は、ほとんど我も我もと言った感じで、反米親ソ派と自虐史観派になりました。そのころでさえ西尾氏(20代)の歴史観は、現在となにも変わっておりません。皆さんは知識人の定義とはなにかと問われれば、なんと答えますか。私の答えは、知識人とは時勢、時流、権威、権力に媚びないことです。日本には時勢、時流、権威、権力に媚びる人知識人が多すぎます。従って日本には真の知識人と呼ばれる知識人が非常に少ない。西尾幹二氏は、その少ない真の知識人の一人です。
秦郁彦氏が、日米安保騒動時代どういう態度をとったのか私は知りません。彼の経歴を見ると、国際認識というか国際感覚というものに鈍感どころか鋭敏であってもおかしくありません。それにしても大東亜戦争を世界史の中で捉えるということが全然理解できていません。全くの自虐史観です。しかし彼は歴史の細部、「従軍慰安婦」事件や沖縄の集団自決などでは反マスコミです。ここでもし秦氏が、自虐史観を改めたら、マスコミに相手にされなくなってしまいます。
マスコミは、自分たちの日頃の歴史捏造や歪曲に批判する秦氏が自虐史観を主張するので余計彼を利用する価値があるのではないでしょうか。従って歴史観に関することには、積極的に秦氏を利用しているように見受けします。秦氏は、ひょっとしてマスコミ受けをねらった器用な生き方をしているのではないでしょうか。
文:えんだんじの歴史街道と時事海外評論より
この文章を書いた人は鈴木敏明さんといい、幾冊も著作のある私の知友である。知友だから私を応援している、という文章ではない。人間はそんな風には決して生きていないのである。ご自身の価値観に関わる問題だから一生懸命書くのである。
とくにインターネットに書く場合には、頼まれて書くのではないのだから、無私である。私もこれを書いたのは誰かはじめのうちは分らなかった。
一番目の人が私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。