西尾幹二
あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰地方のとある城下町でしたね 武家屋敷と旧い商家の並ぶ町でした 行けども行けども同じような軒の深い屋並がどこまでも続いていて 街道沿いの溝には鯉が泳いでいました
先生と私は屋並が途切れた所にある一つの門をくぐりました 同行の女の子たちもがやがやとくぐりました 門の内側は床几というか木組みの坐席になっていて そこにみんなで坐りました 先生も私も坐りました 中庭には人影もなく飾りもなくがらんとしていました しかし何もない庭が良くて私たちはぼんやり眺めていました 誰も出てこない庭が良くて 私たちは眺めていました 戸口に人の動きはなく シーンと静まり返っている そんな時間が良くて じーっと眺めていました あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰のよく知られた町であることは確かであって つい先頃までは町の名も形ももっとはっきり覚えていたはずですのに
先生と一緒に歩いたたくさんの町がありました 足が悪いからという先生を置き去りにして 若い者が先にどんどん行ってしまう失礼を笑って見ている先生を私も遠慮なく置き去りにして 自分が見たい名所旧跡を先に見たくてどんどん行ってしまいました そうです 本当に一時間も二時間も置き去りにしてしまったのでした 銅像の並ぶ中央広場も 旧商家の豪邸をぐるりと一周する回遊式の庭園も 先生はご覧にならなかったのではないでしょうか それとも女の子たちに囲まれて賑やかに背後からついて来られたのでしょうか 先生はとある公園の中で 絵ハガキを売っている小さなキオスクの椅子の上に置かれたままにされていて 長い時間笑って待っておられました 先生はお菓子の袋をひとつぶら下げていました そういうたくさんの町がありました そんな旅が私たちの好きな旅でした その頃私は普通に歩けて 先生はほとんど歩けませんでした しかし今は私が歩けず 先生はほんの少し歩けるご様子です 天と地の違いです
こういう旅をもう一度やりたいですね 夢に浮かんでは消える懐かしい旅の一景です
時間は二度とめぐって来ません 今私は 閑雑な午後のひとときを 東京の老人ホームの日の射す一室でウツラウツラしながらこれを書いています 無責任な時間です 人生は空に流れる雲のようですね 一瞬たりとも止まりません 一瞬たりとも同じ形になりません しかし 明日になると 同じような似たような形を繰り返すことも間違いありません 「おーい雲よ!」と山村暮鳥のように叫びかけたくなります 子供のときのように声をかけたくなります 「何処へ行くのか?」と
私の人生はついに終りに近づきました 「何処へ行くのか?」とたえず自分に呼びかけつづけ答のないまゝついに終りに近づきました 先生! 先生は「何処へ行くのかが分っておられるようにお見受けしました それは強みです 人生の強みです けれども ご自身はいつも人生の弱みであるかのようにお振舞いになってきましたね 先生は雲をしかと摑まえているようにお見受けしてきましたというのに 先生と私は残された時間は同じです 先生は迷いなく充実した時間になさるであろうことを私は祈り かつ確信しております
(二〇二三年六月七日)