西尾幹二のインターネット日録の愛読者の皆様へ

雑誌「正論」8月号(7月1日刊行)に

西尾幹二の幸運物語

――膵臓ガン生還記――

が掲載されます。ガン研究会有明病院で大手術が行われたのは2017年3月31日でした。あれから六年の歳月が流れました。ガンは克服されましたが、体重を17キロ落とし、脚力減退し、正常な歩行が出来なくなりました。今必死にリハビリに励んでいます。かたわら全集の完結と、新しい大著『日本と西欧の五〇〇年史』の仕上げにいそしんでいます。後者は「筑摩選書」として700枚を一巻本で出版される予定です。これから私の三大代表作は『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』『日本と西欧の五〇〇年史』の三作といわれるようになるでしょう。よろしくお願いします。

渡部昇一氏との対談本

本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
 

 この本は渡部昇一さんと私の行ったすべての対談──一九九〇年以来の八つの対談を収録したものです。ここにあるものでほとんどすべてだと思いますが、もうひとつ記憶にあるのは、NHK教育テレビが「マンガは是か非か」という題目を提出し、渡部さんが是、私が非という立場で、言葉を交わしたものがあります。最初の対談であり、半世紀ほど前のことなので、いま活字として再現するのは不可能です。これは見送りました。それ以外の対談をここに蒐集し、提示しました。

 われわれの意見はだいたいにおいて同じ方向にあり、共通の地盤でものを言っているように思われていたし、事実そうでした。しかし二人に微妙なズレがあるのもまた事実だし、互いに正反対を自覚して対立しあっている議論もございました。

 なかでも、二人の呼吸が非常に合って楽しく、かつ啓発的な対話となって読者を喜ばせたのは『諸君 』休刊をめぐるもので、今日の文藝春秋の「自滅」を早くも正確に予言している興味深い読み物となっております。二人の意見が気持ちよく一致したこの一篇を本書の巻頭にすえ、『文藝春秋』の言論誌としての無内容への転落と内紛の見せた悲喜劇を、わが国の思想界の運命の分かれ目として、まず検討したいと思います。

 二番目の対談は二人の意見が一致するのではなくて、さっき申したとおり完全に正反対でぶつかり合った臨時教育審議会(臨教審)──中曽根教育改革──と第十四期中央教育審議会との正面衝突をめぐるテーマ、「教育の自由化」をめぐるホットな教育論を第2章として展開しました。

 第3章はやはり西尾と渡部の意思が非常によく疎通してはいるものの、微妙に問題意識が食い違う例、いま読み返してみてこれは何だろうかと西尾自身が改めて考えさせられたテーマでございます。ドイツと日本との相克、対立、あるいは運命論的対比の問題です。渡部さんと私とは考え方が似ているようで根っこが根本的に違っていることがわかったこの一篇をとりあげたいと思います。

 それ以外のものは、五篇ありますが、大同小異、共通する地盤を得ています。主として共産主義批判では最早なく、東京裁判史観批判へと議論が主に移動しました。これが新しい共通する地盤ですが、文藝春秋がここから逃げ出しました。ということは、じつは文藝春秋が言論思想の企業として果たしていた役割が終焉したと思わせる事態と深く関係があるのであります。
 
 いまわが国が向かっている運命を検討するうえで、アメリカ文明のもつ位置──すなわち、ベルリンの壁が崩壊してソビエトがなくなった段階で次の時代に転じていて、テーマとしてはある意味で反米の問題です。冷戦終焉までは反共・親米で済んでいた保守言論界が、反共が終わってしまったため立ち位置を失ったわけですが、わが国の立場を正確にみていくためには、いまの時代はあの戦争の動機と目的を明確にすることによってもう一回自分たちのリアリズムを回復するという認識をもつかもたないかの分かれ目であって、じつはそれが『諸君 』という雑誌の目的でもあったはずです。ところが会社はテーマの重荷に耐えかねて『諸君 』を投げ出しました。『文藝春秋』は無思想・無目的な空中浮遊を始め、部数を落としました。

 この無思想・無目的の雑誌の空白状態はいまのわが国のメディアのトータルな姿でもあって、文藝春秋の運命は座視しがたいわれわれの言論の危機でもあります。

 最後にここでもうひとつ別のテーマが本書の終わりのほうで取り上げられるのを注目していただきたい。私と渡部さんは共通してともに歴史的時代認識をもっていました。ただ、やはりそこでも重要な違いが出てくるのは「中世」というものをどう考えるかという問題で、それは本書に留まらず、今後大きな論題となってくるであろうと思われますので、解説の最後にはその問題を少し展望したいと思います。

目   次
本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
第1章 敗北史観に陥った言論界
第2章 自由で教育は救えるか
第3章 ドイツの戦後と日本の戦後
第4章 国賊たちの「戦後補償」論
第5章 日本は世界に大東亜戦争の大義を説け
第7章 「朝日」「外務省」が曝け出した奴隷の精神
第8章 人権擁護法が日本を滅ぼす
解 説    西尾幹二
一 文藝春秋の「自滅」を予言していた対談 
二 東京裁判史観批判と文藝春秋 
三 教育の自由化をめぐって
四 日本とドイツの運命論的対比 
五 「中世」をどう考えるべきか 
回想・父 渡部昇一    早藤眞子(渡部昇一長女)  

最近の一連の仕事をまとめて

 9月から10月にかけて、最近の私の一連の活動がまとめて公表されます。本の形になって刊行されるのは次の二冊です。

(A)渡部昇一・西尾幹二著「対話 日本および日本人の課題」ビジネス社
(二人の行った対談8本を収録。私の解説80枚が付く。)

(B)西尾幹二著「あなたは自由か」ちくま新書
(新書とはいえ400頁を超える、近年の私には少し無理だった力業である。)

 過去一年有余(B)の製作に意を注いできました。しかし目次が最終的に決まったのもやっと三日前であり、これから数日かけて本格的な校正者の手が入るので、まだまだ息が抜けません。(B)で苦しんでいる間に、(A)のほうが先に仕上がってしまった。(A)は9月初旬刊、(B)は10月中旬刊。

(A)に関係して、文藝春秋批判の問題が浮かび上がりました。そこで、
(C)『正論』10月号(9月1日発売)、に花田紀凱・西尾幹二対談「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」がのります。
(A)の私の解説80枚にも同じ方向の分析があります。(C)は政治的分析として明解です。(A)の解説はもっと巾が広く、裏話もあり、渡部氏と私の違いも分かります。

(D)「別冊正論」32号(次号です)に私の16ページ仕立ての写真入りインタビュー記事「老いと病のはざまで―自らの目的に向かい淡々と生きる」がのります。
(B)の私による解説もあり、病気、未来、生活、生き方等をめぐりかなりホンネを語っています。

(D)は(B)を知るのに役立つでしょう。(D)には渡部昇一氏関係は入っていません。

 私のこの秋の本命はいうまでもなく(B)『あなたは自由か』です。副題はありません。たまたま(A)と発効日が近づいたため混同しないで下さい。『あなたは自由か』には文藝春秋問題も直接関係ありません。私の一生をかけて語りつづけた本来のテーマがこの一冊に凝縮されています。どうかよろしく。

九月「保守の真贋」の出版(一)

目次       
第一部
・ 日本を窒息させている自由民主党と保守言論知識人
   一 「安倍さん大好き人間」はどのようにして生まれ、日本政治をどう歪めたか
    ──二〇一七年の状況を踏まえて  
  二 第一次安倍政権誕生の頃に私はすでに彼の正体を見抜いていた

・ 日本列島が軍事的に脅迫されている情勢下で
    ついに出された憲法改正への安倍新提案(二〇一七年五月三日)
 一 思考停止の「改憲姿勢」を危ぶむ
   二 相手の剣幕にひるむ日本外交
   三 岸田文雄外相の器を問う
   ──今ほど政治家や官僚たちの見識、勇気、人格が問われているときはない
 四 アメリカへの依存は動かぬ現実、依存心理が日本の問題  
 五 安倍首相、なぜ危機を隠すのか   
 ──中国軍機の挑発に対して

・ 首相に妄信追従するエセ保守を弾劾する
   加藤康男・西尾幹二緊急対談

・ 保守とは何か──私の主要発言再録  
  一 生き方としての保守
   二 日本に「保守」は存在しない  
 三 「日本会議」について
  四 天皇は消えない
  五 宣戦布告を誰がするのかを考えていない
      憲法改正なんてあり得るのか

第二部
・ 現代世界史放談
 一 広角レンズを通せば歴史は万華鏡
 二 オバマ広島訪問と「人類」の概念 
 三 世界の「韓国化」とトランプの逆襲
 四 イスラムと中国、「近代」を蹂躙する二大魔圏

・ 歴史の病原体とその治療
 一 現在に響くGHQの思想的犯罪
 二 ジャパン・ファースト・の出発点は歴史教科書運動だった

あとがき

『日韓 悲劇の深層』(四)

まえがきより

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 もちろん今の呉さんがこれをそのまま信じ主張しているということではない。韓国人の心の深層にある対日心理を摑み出してみると多分こういうことになるだろう、と言っているのである。日本ではたくさんの韓国論が書かれてきたが、韓国人の立場に一度は徹底的に立ってみるということを、必ずしもしていない。

 韓国から再入国を拒否されている呉さんこそが、じつは真の愛国者なのであって、それだけに精神的に股裂きにされているこの思想家の「悲劇」には、格別の注意を払うことが、われわれ日本人には必要である。奥深いところにある心の襞をていねいに吟味し、公正に判断していくことが、有益である。呉さんは苦難の半生を歩み、今では日本人として文化の立場に徹底的に立ってみようとなさっている。我々はそれに心地良く酔い、甘えてはならない。それは生命を賭けた「実験」であり、簡単な話ではなく、日本人は深窓の心の葛藤にこそ目を向けるべきである。

そう思っていた私は、再会の折、ご講演の中の「日本人には精神の軸がない」の真相をもっと詳しく知りたい、またそれに対し私の所見も述べたい、と申し上げた。そしてそれなら二人で対談本を作成したらどうであろうか、とどちらが言うまでもなく話し合いがなされ、合意に達した。本書はこうして生まれたので、起点となったご講演「『恨』と『もののあはれ』」を巻末に付章として添えることを私は提案し、それが実現したことは嬉しい。講演の内容はヒントに富み面白いので、ぜひご繙読(はんどく)たまわりたい。

『日韓 悲劇の深層』(三)

まえがき

 私は、私の読者を対象にした、ある勉強会を主宰している。そこで2014年10月に呉善花(オソンファ)さんに講演をしていただいた。その内容は体験的であると同時に歴史に目の行き届いた示唆に富み、日韓関係について思いがけない未知の方向から、考えてもいなかった観点を突きつけられ、私は足をすくわれるような感覚を味わった。

 日本人というのはまったく分らない国民で、日本人の精神の軸、そう呼べるものがいったい何なのか、どうもはっきりしない、韓国人にとってはそれが謎であるだけでなく不安の原因なのだ、という意味のことをおっしゃった。

 韓国は朱子学の儒教社会であり、これが軸といえるだろう。日本人は神道なのか武士道なのか仏教なのか、いったい何だ?ほかにもあるかもしれない。韓国人はそこで戸惑ってしまう。八百万(やおろず)の神々というが、太陽であったり樹木であったり、自然を敬うアフリカ人なら分かるが、いやしくも文明国であってはならないことだ。どういう精神性なのか、ここで韓国人は困ってしまう。頭が混乱するだけでなく、許せないということになる。韓国では先祖以外のものを拝むのは迷信の部類である。

 日本の室町時代の頃、韓国は仏教も陽明学も棄てて朱子学だけを大切にするという転換を行なった。文治主義の徹底化を図った。ところが日本では、これ以後も野蛮な武士の戦いがいっこうに収まらない。どうにもならない国だ、と自分たちの先祖は考えた。日本人には価値とか道徳がない。こう述べた後、呉さんは次のように語っている。

 「デタラメな基準で生きている日本人はこれ(真の価値)が理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするか分らない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの『歴史認識』とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論などとんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを、日本人は心して聞けということです」

 そしてこう述べた後、韓国の現在の朴槿恵(パククネ)政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内では得ているのです、と付け加えた。

『日韓 悲劇の深層』(一)

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 本書は西尾幹二氏主宰の勉強会に呉善花氏が招かれ、そこで講演した内容に触発された西尾氏の発案で実現した。意外なことに、この両者による初めての対談本である。

 戦後、年月を経るにしたがって日韓両国の関係がますます悪くなり、韓国が戦前のことを蒸し返し、反日政策がその度合いを高めていることは困惑するばかりであり、日本人にとって大きな謎というしかない。世に韓国に関する本は多いが、本書はその謎の解明を試みるものである。

 呉氏自身も体験した反日教育の実態、来日して味わった両国のギャップと自身の相克が語られ、そこから導かれた日韓の相違についての論考は実に説得力に富む。その呉氏が母国では「売国奴」呼ばわりされて迫害を受け、生命の危険にも脅かされ、現在では事実上の「入国拒否」状態にあることを、西尾氏は「精神的に股裂きされている思想家の悲劇」と呼び、日本人はこの「悲劇」に格別な注意を払うべきだと主張する。呉氏の韓国批判、日本擁護の言説に「心地良く酔い、甘えてはならない」との西尾氏の言葉は、われわれにも耳が痛い。

 また近年、韓国で親北朝鮮感情が急速に高まり、金正恩第1書記が理想的指導者として評価されているとの呉氏の指摘とその原因の分析には、西尾氏も驚きを隠せない。

 さらに「ドイツは戦後の清算を済ませているが、日本は済ませていない」と韓国が繰り返し主張するところについての西尾氏の明晰(めいせき)極まりない反論は、本書の読みどころの一つでもある。(祥伝社新書・820円+税)

 祥伝社新書編集部 角田勉

新刊『維新の源流としての水戸学』(一)

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宮崎正弘氏の国際ニュース早読み4644号より

松陰も西郷も水戸学に激甚な影響を受けて奔った
  幕末日本を激震に導いた水戸学の根幹に何があったのか?

  ♪
西尾幹二『維新の源流としての水戸学』(徳間書店)
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 GHQ焚書図書開封シリーズ第十一巻は「水戸学」である。このシリーズの目的は米占領軍の日本人洗脳工作の一環として行われた重要文献の焚書本を探し当て、時代的背景の考察や、諸作の根源的なエネルギーに光を当てる地道な作業だが、この文脈から、本巻は水戸学へアプローチする。
 しかし過去のシリーズとはやや趣を異にして、これは「水戸学の入門書」を兼ねる、西尾幹二氏の解説書になっている。
 徳川御三家でありながら、尊皇攘夷思想の源流となって幕末維新を思想的に領導し、結果的に徳川幕府を倒すことになった、その歴史のアイロニーを秘めるのも水戸学である。
 「幕府は水戸学という爆弾を抱えた政権だった」(165p)。
 吉田松陰は水戸へ遊学し、会沢正志齋のもとに足繁く通った。松陰は水戸学を通じて、日本史を発見し、先師・山鹿素行をこえる何ものかを身につけた。兵法、孫子、孔孟と松陰がそれまでに学んだことに重ねてかれは万世一系の日本の歴史に開眼する。
 西郷隆盛は水戸学の巨匠・藤田東湖に学び、また横井小楠は、藤田を絶賛した。維新回転の原動力は、こうして水戸学の学者・論客と志士たちの交流を通して始まり、桜田門外の変へまっしぐらに突き進んでいく。
 吉田松陰の斬首は「長州をして反徳川に走らせる決定打」となった。西郷は命を捨てても国に尽くす信念をえた。
 その水戸学である。
 前期、中期、後期とわかれる水戸学はそれぞれの時代で中味が異なっている。
 前期水戸学の大きなテーマは「南朝の是認」であり、北畠親房の「神皇正統記」と同じく南朝が正統とみる。しかしながら前期水戸学は「天皇のご存在をものすごく尊重しておきながら、神話は排するという点でどこかシナ的です」。
 水戸光圀は、ほかにも独自の解釈で『大日本史』の編纂を命じた。

 後期水戸学には国学の風が流れ込む。
 その前に中期水戸学は藤田幽谷が引き継ぎ、この古着屋の息子が水戸藩では大学者となった。身分差別を超越した、新しいシステムが水戸では作動していた。幽谷の異例の出世に嫉妬した反対派の暗躍が敗退し、後年の天狗党の悲劇に繋がる。
 そして「後期水戸学」の特色は国際環境の変化によって「歴史をもっと違う見方で見るようになってくる。欧米という先進世界と戦わなければならない状態になって」、国防が重視されるという特徴が濃厚にでてくるのである。
 それでいて水戸学には儒学を基礎として仏教を排斥するとマイナスの要素があった。
 「非常に早い時期から「脱神話世界」を掲げたのが儒教の歴史観」(107p)だったから、初期水戸学は「脱神話」であるのに、後期水戸学は「神話的歴史観に近づいていく。思想が変わってきた」わけで「『古事記』『日本書紀』を認め、日本のありかたを単純な合理主義では考えなくなっていく」のである。
 そこで西尾氏は藤田東湖の父親、藤田幽谷の再評価を試みる。
 それも国際的パースペクティブから「モーツアルトと同時代人」であり、かれは十八にして藩主に見いだされたうえ、藩校を率いた大学者、立原翠軒と対立していく。これがやがて天狗党の乱という血なまぐさい事件へつながり、凄絶な内ゲバの結果、尊皇攘夷の魁となった水戸藩から人材が払底してしまうのだ。
藤田幽谷は家康を神君とは認めず、『当時の儒学者の「多くは支那と日本との国体を判別する力に乏しかった」がために立原は、幽谷との対決の道に陥った。
 幽谷の息子の藤田東湖は「なんと十年かけて『弘道館記述義』」を完成されているが、これは『儒教と神道が一つになっていることがわかります。しかも、この『弘道館記述義』は、GHQの焚書図書の対象とはならず、翻訳まででた。
 したがって奇妙なことに「国学のひとたちは儒仏思想を排斥しましたが、水戸学は仏教を排斥したものの、儒教は排斥するどころか、依存しています」(280p)。
 かくして西尾幹二氏の水戸学入門はきわめて分かりやすく、その思想の中枢と時代の変遷を活写している。
 最後に西尾氏は、「戦争体験者の歴史観、戦争観には失望してきた」として、大岡昇平、司馬遼太郎にならべて山本七平への批判を加えている。
 ページを開いたら止まらず、一気に読んでしまった。

  

『膨張するドイツの衝撃』(ビジネス社)書評

 宮崎正弘の国際ニュース・早読み 8月14日より

西尾幹二・川口マーン惠美共著『膨張するドイツの衝撃』(ビジネス社)
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                        評 玉川博己

 先にフランスの人口学者であるエマニュエル・トッドが書いた『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる~日本人への警告』(文春新書)がセンセーションを巻き起こし、ベストセラーになっている。
エマニュエル・トッドは今のEUの実態がドイツによる欧州支配であり、それは今やウクライナからバルカン、中東にいたるまで版図(ヒトラーの用語を用いればレーベンスラウム=生存圏)を広げつつある事実を指摘し、これが21世紀における新ドイツ帝国に他ならないとさえ言いきっている。

この程ドイツ文学の泰斗であり、思想家・歴史家である西尾幹二氏とドイツで生活しながら多くの著作を通じて現在のドイツ情勢を生き生きと読者に伝えている川口マーン惠美氏が対談の形でドイツを論じるのが本書である。
そして本書の本当の主題は「日本は『ドイツ帝国』と中国で対決する」と副題でうたっているように、中国というキーワードをからめて日本の今後あるべき政治、外交、経済などを熱く論じる「憂国の書」であることに尽きよう。
 まず両氏はいわゆる歴史認識問題において中韓両国が「戦争責任を謝罪し、歴史を清算した」ドイツとそうでない日本を対比させて日本を非難し、また少なからざる日本の左翼マスコミや反日知識人がこれに同調する状況を厳しく批判する。
両氏によればいわゆるワイツゼッカー演説に代表される戦後ドイツが行ってきた謝罪とは、ナチスが行ったホロコーストに対する謝罪とホロコーストの犠牲者への補償であり、それ以外の戦争と戦争責任については一切謝罪も補償も行っていないことに言及する。言い換えればポーランド侵攻に始まり,独ソ戦を含む第二次欧州大戦は、あくまで国家主権の発動たる通常の戦争であり、これに対してドイツは一切謝罪も行ってこなかったし、戦争責任も認めていないのである。
この事実が案外日本では知られていないのである。
 同じ敗戦国である日本についていうと、西尾氏は大東亜戦争が欧米の植民地支配からアジアを解放する戦いであったことを中韓を除くアジア諸国が認めていることを指摘する。
 またドイツとの比較において西尾氏は(1)日本にとっての中国は、ドイツにとってのロシアであり、(2)日本にとっての韓国は、ドイツにとってのポーランド、あるいはチェコであり、(3)ドイツにとってのフランスを筆頭とする近隣諸国は、日本にとってはアメリカである、とのアナロジーを説明するくだりは大変興味深く、説得力がある。

これにひきかえ、戦後の日本は昭和40年に締結された日韓基本条約において莫大な賠償金を韓国に支払う誠意を見せて、補償問題を完全かつ最終的に解決した筈であったが、その後も韓国は約束を反故にして、日本の謝罪を受け入れないばかりか、どんどん要求をせり上げてきており,強請りたかり同然であると、西尾氏は現在の韓国を手厳しく批判するのは当然であろう。
 かつてのドイツの仇敵であったフランスとロシアがドイツに対してとってきた「大人の関係」は、現在の中国と韓国には望むべくもない。
中韓両国の反日姿勢の根底にはひとり近代化に成功し、中華秩序を破壊した日本への怨念があるという指摘も納得がゆく。またイスラムと中韓に共通するのはそれぞれ「分家」である欧州と日本に追い抜かれた「本家」の怨みであるという解釈も首肯できよう。このように西尾氏と川口氏の議論は世界史的な文明論まで視野に入れて展開される。
 
冒頭に紹介したエマニュエル・トッドの「新ドイツ帝国論」に対して、川口氏は、「いまのドイツにはEUの頸木があるので、どちらかというと神聖ローマ帝国の復活だと思っている。新しいドイツ皇帝の座が、かつてのように張子の虎で終わるか、あるいは実行力を伴ったものになるかは、これからの歴史の流れ次第だ」と慎重な意見を述べ、また西尾氏はギリシア問題に示される南北問題を例にあげつつ「現代の『ドイツ帝国』はまだ成立していない」
しかし条件付きながら「けれどEUが南北格差の矛盾を克服し、統合を強力に押し進めていくには、たぶん『ドイツ帝国』の方向しかないだろう」との見方も示す。

そのほか、本書において両氏はドイツの教育問題、難民・移民問題で苦悩する欧州や原発問題など広範なテーマを論じているが、紙幅の都合でこれ以上紹介できないのは残念である。
ドイツ問題を中心に極めてグローバルなテーマを取り上げた本書であるが、結局、本書の目指すところはわが日本がこれから如何にあるべきかをドイツや中国を鏡に論じた憂国論である、というのが評者の感想である。

『西尾幹二全集 第十一巻自由の悲劇』(その二)

目 次

序に代えて ほら吹き男爵の死

Ⅰ 1989年
世界史の急転回と日本

Ⅱ 1789年
フランス革命観の訂正
侃侃諤諤、フランスの「自由」
勝利した「自由」こそ最大の悲劇

Ⅲ 共産主義の終焉
共産主義とは何だったのか
歴史の失敗と思想の失敗――東大五月祭での廣松渉氏との公開討論
ゴルバチョフが鄧小平になる日
ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰
ソ連消滅 ! 動きだす世界再編成と日本
動き出す世界再編成と日本
日本よ、孤立を恐れるな
フランス革命から天安門広場の流血へ
対中国外交をめぐる私の発言
天安門事件の直後に――日本の慎重外交に利あり
いまは天皇訪中の時期ではない
1970年代に見え始めていたイデオロギーの黄昏
小国はつねに正義か――小田実の論理破綻
不惑考――私が四十歳の頃

Ⅳ「再統一」に向かうドイツ人の不安な足踏み
1989年12月における私の見通し
ドイツ統一は今や時の勢い
消えてなくなるはずのない東独人の東独愛国主義
統一ドイツの十字架
旧共産圏の人々のGefühlsstau(感情のとどこおり)
ギュンター・グラスと大江健三郎の錯覚

Ⅴ 自由の悲劇
第一章 自由の衝撃
第二章 自由の混沌(カオス)
第三章 自由の教義(ドグマ)
第四章 自由の砂漠
第五章 自由の悲劇

Ⅵ 自らを省みて
政治家の顔
試される日本
日本人のなけなしの自我合意社会日本の落し穴
欧米の傲慢は外交を考える前提である
アングロサクソンの後始末をしている地球
ポール・ケネディ『大陸の興亡』を読む
空漠たる青年たち――「左翼のニーチェ主義化」(アラン・ブルーム)
教養の無力を知った時代

Ⅶ 難民時代と労働力
当節言論人の「自己」不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と
日本を米国型「多民族国家」にするな――石川好君、皮膚感覚で語る勿れ
人手不足は健全経済の証拠
外国人単純労働者受け入れは国を滅ぼす
受け入れ是非に米国の干渉を許すな――「ニューズウィーク」批判
外国人技能実習と指紋押捺全廃の問題点
元シンガポール大使に苦言を呈する

Ⅷ「労働鎖国」のすすめ(1989年)
第一章 労働者受け入れはヒューマニズムにならない
第二章 世界は「鎖国」に向かっている
第三章 知識人の「国際化コンプレックス」の愚かさ
第四章 日本は二十五億のアジアに呑み込まれる恐れがある
第五章  労働鎖国」で日本を守れ
あとがき
私の最後の警告――文庫版まえがき(1992年)

Ⅸ 新稿四篇
自民党「移民1〇〇〇万人」受け入れ案のイデオロギー(2008年)
外国人地方参政権 世界全図――中でもオランダとドイツの惨状(2010年)
中国人に対する「労働鎖国」のすすめ(2013年)
トークライブ「日本を移民国家にしていいのか」における私の発言(2014年)

追補
孤軍奮闘の人              長谷川三千子
『「労働鎖国」のすすめ』について       西部 邁 

後記