西尾幹二全集 第二巻 『悲劇人の姿勢』の刊行

 西尾幹二全集第二巻『悲劇人の姿勢』(第三回配本)が刊行された。自己解説であるところの「後記」が今度もかなり長い。若い時代の自分が何であったかを見定めようとする思いが今の私には強いので、今度もしっかり書いている。

 以下に目次を掲げる。私の9冊の単行本から拾い出し編集されている。作品の確定と配列までに時間がかかり苦労があった。色替えをしている作品名はどの単行本にも収録されないで来たもので、ほとんど誰も見ていない文章だと思う。

 第Ⅰ章は私の学会と文壇へのデビュー作をとり上げた。論壇へのデビュー作は、まだ刊行されていない第三巻『懐疑の精神』に集められている。学会(ドイツ文学会)、文壇(「新潮」「文学界」)、論壇(「文藝春秋」「自由」「諸君!」etc)という三つの区別が当時はあった。三方向にほとんど同時に書き出している。

 ドイツ留学前の25~30歳台に始まっている。今回刊行された『悲劇人の姿勢』は最も若いときの修士論文の焼き直しから、72歳の老年の文章までとり入れている。特定の視点で集めているからである。こういう思い切った編集の仕方はこの巻だけである。けれども私のこの全集は、単行本をたゞ無造作に並べているのではなく、今の時点での再編成あるいは再編集したものであることは、今までの二巻でも明らかであったと思う。

Ⅰ 悲劇人の姿勢
   アフォリズムの美学
   小林秀雄
   福田恆存(一)
   ニーチェ
     ニーチェと学問
     ニーチェの言語観
     論争と言語

   政治と文学の状況
   文学の宿命―現代日本文学にみる終末意識
   「死」から見た三島文学
   不自由への情熱―三島文学の孤独
  
Ⅱ 続篇
   行為する思索―小林秀雄再論
   福田恆存小論六題
     福田恆存(二)
   夏期大学講師の横顔
     大義のために戦う意識と戦う――福田恆存著『生き甲斐といふ事』

     現実を動かした強靭な精神――福田恆存氏を悼む
     「私に踏み絵をさせる気か」
     三十年前の自由論
   高井有一さんの福田恆存論
   田中美知太郎氏の社会批評の一例
   田中美知太郎先生の思い出
   竹山道雄先生を悼む

Ⅲ 書評
    福田恆存『総統いまだ死せず』 三島由紀夫『宴のあと』 三島由紀夫『裸体と衣裳』 竹山道雄『時流に反して』 竹山道雄『ビルマの竪琴』 吉田健一『ヨオロッパの世紀末』 中村光夫『芸術の幻』 佐伯彰一『内と外からの日本文学』  

Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学
一 知識人の政治的行動について
二 「和魂」と「洋魂」の戦い
三 ロレンスとキリスト教
四 「生ぬるい保守」の時代
五 エピゴーネンからの離反劇
六 「眞の自由について」

Ⅴ 三島由紀夫の死と私
はじめに――これまで三島論をなぜまとめなかったか
第一章 三島事件の時代背景
第二章 一九七〇年前後の証言から
第三章 芸術と実生活の問題
第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する
あとがき

Ⅵ 憂国忌
三島由紀夫の死 再論(没後三十年)
三島由紀夫の自決と日本核武装(没後四十年)

追補 福田恆存・西尾幹二対談「支配欲と権力欲への視角」
   同対談解説  エゴイズムを克服する論理

後記

『天皇と原爆』の刊行(七)

産経新聞4月14日 書評倶楽部から

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中島誠之助 古美術鑑定家
昭和13年生まれ。東京・青山の骨董通りの名付け親。著書に『骨董やからくさ主人』『句集 古希千句』ほか。

長い世界史たどってみる必要

 かなり難解な本である。そのくせ一気に読み終えることができる。ということは内容の深さを理解しようとしなければ通読するだけで終えてしまうという安易さに陥る。

 要は歴史というものは、振り返ってあの時ああすればよかったとか善悪の基準だけでは決め付けることが出来ないといっているのだ。そして現在おかれた絶対安全な環境の中で、口先だけの危機感を述べることの間違いと危うさを指摘しているのだ。

 歴史を語ることの尺度を50年や100年ではなくて数世紀いや数十世紀のスケールで計って、現実の動きが必然的な結果として起きるとしたところに本書の新鮮さがある。

 日米開戦はなぜ起こらざるを得なかったのか。戦争の非は決して日本だけにあるのではなくフロンティア精神を掲げて西進したアメリカ側にもあるのではないか。アメリカ人の思想と歴史観は日本に対してどのように働いたか。それを知ることがわが国のこれからの進路を決めるうえで必要なのだと説いているのだ。

 迫害を逃れて新大陸に上陸した清教徒たちが国是としたキリスト教国家アメリカ、その西進を拒んだ日本神話に表現される神の国日本との宗教戦争が日米の戦いであったとする著者の持論は、昭和史という新語で一方的に日本を悪人扱いする世間の論調に警告を発している。

 現代社会の中で一部の人はなにか言うことが許されないもやもやとした気持ちを持っている。なぜ原爆を落とされなければならなかったのだ。そこに至る長い世界史をたどってみる必要があるのではないか。

 日本の敗戦直後、アメリカは皇太子の家庭教師としてクエーカー教徒の婦人を派遣してきた。あれから60有余年の後、アメリカの意図がどのような結果を我が国にもたらしたか。ここらで確(しっか)りと考えて見る必要があるようだ。

『天皇と原爆』の刊行(六)

 内田さんは出版者として私の『江戸のダイナミズム』を出して下さった人で、『諸君!』終刊号の編集長でした。

 

謹啓

 なお寒い日が続きます。ご新著有難うございました。誠に面白く拝読いたしました。

 「天皇と原爆」とは、読者に謎をかけ、しかもどことなくベネディクトを連想させて、秀逸な題名でした。テーマは壮大で深遠ですが、語り口調がよく活きており、大変読みやすく感じられました。新潮社の担当の方も、良い仕事をされたのではないかと拝察します。

 「江戸のダイナミズム」以後、仲小路彰など「GHQ焚書」の研究を通じて、西尾日本史論は一層の深化発展を遂げました。ご新著はそのことを端的に物語る一冊といえるのではないでしょうか。

 焚書など驕れる戦勝国の暴挙であることはもちろんですが、語るに足る良書をきちんとえらんで槍玉にあげていることに、妙な感心もさせられます。日本側協力者とおぼしき金子、尾高らが、それなりに“具眼の士”であったとかんがえていいのでしょうか。今回、重要な役割をはたしている和辻哲郎とは、ゆかりの深い人々のようですが、そのあたりを含めた、西尾先生の総合的評価を知りたいと感じました。

 終盤、国の「運命」をめぐる考察は、一巻の山場を感じます。小林秀雄畢生の名啖呵「利口な奴はたんと・・・・・」が、西尾先生の記述によってはじめて腑に落ちた気がしました。

 水戸学の変容を的確に要約して、アメリカ建国史との共時的展開を指摘された一節も、鮮やかです。欧州と日本の並行発展は斬新です。この部分もさらに掘り下げていただきたいものと思いました。

 全集第一巻は、途中まで読んでしばし中断していましたが、これから続きにとりかかりたいと思います。第三回配本も楽しみに致しております。

 何卒ご自愛ください。取り急ぎお礼とご挨拶まで
                 
                     敬具
平成24年2月12日            文藝春秋内田博人

西尾幹二先生

『天皇と原爆』の刊行(五)

「週刊新潮」3月22日号より 匿名

 なぜ著者はここまで忌憚なくこの国の本質を鋭く衝くことができるのか。それは「我々は何か大きくすり替えられて暮らしている。頭の中に新しい観念をすり込まれて、そこから立ち上がることができなくなっている」という危機感があるからだ。

 本書を貫いているのは歴史を正しく見ることの重要性である。特に、現在の視点で過去の出来事を捉えることの危うさが説かれる。たとえば「侵略国家」「侵略戦争」という言葉は、戦後の日本人が自分の国を誹謗するための自虐的なもの。勝者である占領軍の歴史観でものごとのすべてを見ようとする姿勢は誤りだと著者は言う。

 またアメリカの西進政策の背後には「東洋開拓を競う英米対決」があったこと、自国の利己主義に基づく戦略は、昔も現在も変わらないことを明らかにしている。アメリカは、常に人類を裁く法廷を司りたがる「神の国」だとの指摘は多くの示唆に富む。(新潮社・1680円)

お知らせ

 『歴史通』(ワック出版)の5月号(4月9日発売)が「総力特集・天皇」を出す。私はここに「雅子妃問題の核心――ご病気の正体」というかなり長い論文を書いた。新しい材料が手に入ったので、今までになく実態が分り、皇族と一般民間人、例外者と普通人の間の「自由」の意識の違いをめぐるパラドックスに踏み込んだ。深層心理的に、かつ目に見えるように具体例をもって問題の核心を新たに提示し、明日の皇室と国家の未来への期待を綴った。

 2008年に出した『皇太子さまへの御忠言』のワック文庫本を先日出版したが、当論文の収録はこれには間に合わなかった。先立つ『WiLL』3月号と『週刊新潮』2月23日号の私の関連文章まではこの文庫本に収録されている。

 間もなく、4月末までに、西尾幹二全集第2巻(第3回配本)『悲劇人の姿勢』が世に問われることになる。これに伴い、5月26日(土)午後6時より、恒例の刊行記念講演会を行う。場所は前回と同じ星陵会館ホール(地下鉄永田町あるいは赤坂見附より徒歩約5分)。

 演題は「真贋ということ――小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって」である。

 入場¥1000、予約は要らない。一部のお知らせに間違えて予約の文字が記されたが、予約は必要ない。

 今回は懇親会は行わない。代りに終って名刺交換会とサイン会を行う。同会場の懇親会の宴会費が内容に比して高過ぎると判断されたからである。参加者に迷惑をかけたくなかった。次の機会には良い会場を探したいと思うが、今回は間に合わなかった。

『天皇と原爆』の刊行(四)

坂本忠雄氏(元『新潮』編集長)

 再啓 その後大変遅くなりまして申し訳ありませんが、『天皇と原爆』を非常に充実した手応えをもって読了致しました。

 読み進んで、第十一回で、「歴史というものは善悪の彼岸なんです」、第二十回で、「論証はもちろん大切だが、じつは歴史が始まるのはそこから先なんですね。否、文学的宗教的想像力がかき立てられていなければ、そもそも実証的な証拠さがしもあり得ないし、出来ないはずですよ」という二つの御文に接して、御高著の根本的なモチーフがここに潜在していることが得心できたように存じました。

 そこには『国民の歴史』や『江戸のダイナミズム』で積み重ねられた粘り強い御研鑽が下支えとなっていることも感得され、御高著読了後の現在、このご両著も腰を据えて再読致したい思いに駆られております。

 そして『国民の歴史』のなかに引かれている福田(恆)さんの「大東亜戦争の否定論の否定論」を御高著によって親しみやすい口調で詳細に実践された成果でもあることに感服いたしました。

 今盛んに読まれている半藤一利や加藤陽子氏の昭和史論への鋭い御批判も全てこのモチーフから発せられているように思われましたが、殊に私は半藤氏や司馬遼太郎氏の今次大戦への批判をかねてから疑問に思っておりましたので、胸のすく思いが致しました。

 そして私が最も教えられましたのは、アメリカの「独立宣言」の「平等」の個所で、「すべての人と言われているのはアングロサクソン民族内部のすべての人にすぎなかったのに、あたかも地球上のあらゆる人という意味に解せられるような言葉で表現されている」というところで、これは根本的なアメリカ批判として目を開かされました。そこに根ざしているアメリカの「闇の宗教」がまた「神の国」である日本に向けられて今次大戦が起こったという御考察を極めて詳細に辿りつづけられての今度の著者の御成果は、小林秀雄や福田恆存などが未開拓の領域での御達成で、御高著の生命力を証しているものと確信いたしました。

 それにしても「ニーチェの言語観」で、「およそ停滞を知らぬ精神にとっては、懐疑とは疑うことではなく、疑うという行為そのものに徹することなのである。」という御述懐が、永年にわたる御実践でここまで到られたことに改めて深い敬意を表させていただきます。(「神道」についての御考察にも色々と教えられましたが、挙げればキリがありませんので、省略致します。)

 やっと春の気配が少し感じられるようになりましたが、気候不順の砌、呉々も御自愛の上、次なる御健筆をお祈り申し上げます。

右、甚だ延引致しましたが、愚見と御礼まで申述べます。

三月四日

                     敬具

 以上は了解を得ての私信の公開である。坂本忠雄氏は小林秀雄、河上徹太郎、福田恆存、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎など重要ライターを担当し、一貫して『新潮』編集部に在籍し、純文学の鬼といわれた名編集者である。 

『天皇と原爆』の刊行(三)

 『天皇と原爆』の出版には、私なりの思い入れがあるが、じつは初めての試みが内容面ではなく、本の造りにおいてもおこなわれている。この本には、著者の年齢・経歴・業績などがいっさい書かれていない。私の名前が記されているだけである。

 私の著作家人生において初経験である。かねてこういう本を出したいと思っていたが、今の出版界の常識に反するので、実行できなかった。

 この案を最初に言い出したのは私ではなく、新潮社の担当者の富澤祥郎さんだった。私は渡りに船だった。これは前からの願望だったが、自分からは言い出せなかった。言い出しても実現されないと思っていたからである。

 戦前の本はたいてい著者名だけだった。本の奥付あたりに、ごたごたと著者の来歴を書く習慣は戦後に始まったのである。何故だろう。理由はわからない。

 何でもシンプルが一番いい。今回は『WiLL』4月号の堤堯さんの書評をお送りする。ストレートな書評である。

 本書は、著者がCS放送(シアターTV)で行った連続講話をまとめた。小欄は毎回の放映を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第十代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、 「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」と告げた。西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を戴く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワンシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば十兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて、日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカへの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮からきている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないにかかわらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張──それが本書全編に流れる通奏低音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

堤堯『WiLL』4月号より