全集第7巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅 より
(7-1)言論の自由は、いい言論、悪い言論の選別を個人個人の良心に委ねているのであって、自由の結果、悪い言論がはびこって社会が崩壊する危険をも当然内にはらんでいるのである。低俗氾濫もある程度覚悟のうえである。いい言論、悪い言論の基準は個人によって異なり時代によって異なる以上、低俗化への潜在的可能性は止むを得ないのであり、それを許す自由が言論の自由なのであるから、自由を原則とする世界は、つねに危うい瀬戸際を歩みつつ、社会自体がなにものかに試され、挑戦されていることを知っていなくてはならない。
(7-2)ヨーロッパでは地つづきに無理に線を引いて、互いの約束ごととして、フィクションとして、近代国家が作られた。個人と国家の関係は、自由で、契約的な意味合いを持っている。
フィクションという自覚があり、契約という意識があれば、個人と国家との関係はいつでも毀せるし、粗末に扱ってもいいように思えるかもしれないが、じつは現実はそうではない。逆に非常に大切にする。自分で選択した関係だという自覚があるから、大切にせざるを得ないのだろう。
(7-3)私たちの社会では自由を僭称しながら、政治や教育は経済優先の風潮に流されて、本来の機能を発揮できないでいる。スポーツや芸能までが商品広告の犠牲となっている。学問や思想は情報過剰の中で溺れかかり、何がもっとも価値があるかという評価の基準は失われ、政治の原理でしかない多数決の傾向に毒されている。これがたしかに、批判される通り、自由主義社会の現状である。つまり自由はあるようでいて、案外にない。ただ私たちは自分自身のこういう欠点を批評する自由を持っている。それがじつは人間性の自立のためには決定的に大切な要素なのである。
(7-4)人間は製作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義社会は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。
(7-5)個体が自分勝手な生き方をして、社会との諧和を無視してかかれば、じつは個体は有効な働きが出来ずに、死滅する以外にない。したがって意識するとしないとにかかわらず、「個」にとっては「全体」がいかなるものであり、それとどう関わって行くかは、生の目的の基本をなす重要な課題といえるだろう。
それが、世界的に見て、非常にいま怪しくなっている。政治的全体主義がややもすると擡頭するのは、「個」が世界状況の中に置かれたこの不安に、つけ入られる隙があるからに相違ない。
(7-6)人間は必要な自由のみか不必要な自由を持っている。人間には善をなす自由のみならず、悪をなす自由もあるからである。悪をなすも、なさないも、それこそ個人の自由である。それが自由ということである。いいかえれば自由はつねに試されているといえる。
(7-7)革命を試みた社会というものは、それの成就した暁には、必ずといっていいほど秩序の再建に向かい、新たな個人の実験や社会の流動化を嫌い始めるようだ。芸術家を少し前の時代の美意識や価値観に押しとどめて、口では革命を礼賛しながら、いささかも革命的でない精神を奨励するという奇妙な結果を惹き起こす。なぜ革命を経た後の社会が、それを知らない社会よりも「保守化」への傾向を一層強めるのか、私には人間性の秘密の一つに思えてならない。例えばフランスはあの輝かしいフランス革命を持ったお蔭で、農業国として固定化し、その工業力は十九世紀末にすでにドイツなどに立ち遅れ、今なお身分秩序の厳しい保守的社会構造を色濃く残存させているではないか。
(7-8)相手のエゴイズムを怖れるあまり、自分のエゴイズムをできるだけ抑えようとする。相手を独裁者にしたくないために、自分が独裁者になろうとする野望を我慢する。それをルールにしたのが、欧米の民主主義であり、契約の思想である。
(7-9)待つということは、待たないでよくなる至福の瞬間を待つということなのである。たとえこの世で得られない瞬間だとしても、いつか幸福な終着が訪れるのを信じればこそ人は待てるのである。
(7-10)今の時代に外国に出かけて、いちいち日本的にはにかんでいても仕方がない。こちらの率直な声には外国人はかえって耳を傾けるものだ、
(7-11)誰でもみな自分中心の世界像を描いて、それで心を安定させている。
(7-12)世人の今日的な関心の多くが、考えることの根拠を問う、あるいは生きることの根拠を問うという姿勢をとかく欠いていることだけは、動かせない事実であるように思える
(7-13) 日本人は外に対しては自分を主張せず、臆病であるといわれている。その弊はいっこうに改まってはいないのに、国内では自分で自分を自慢する破廉恥なまでの臆面のなさ、自己主張、羞恥の欠如、空威張りがもっともらしい知的な衣をつけて横行している。それがジャーナリズムの光景である。
それが繁栄と平和のつづく無思想の時代の、このわれわれの精神生活のいらだたしげに、むなしく飾り立てられた姿である。じつに情けないことと言わなくてはならない。
(7-14)本当の経験は自分で困難にぶつかるよほどのことがない限り容易にできないという不自由な限界のなかでしか、起こらない
(7-15)結局われわれにはどこにも故郷はない。それでいて、自分の生活を成り立たせている多くの部分が、自分の内部に故郷をもっていないことにもつねづねおびえている。近代日本人のどうしょうもない孤独がここにあるといえよう。
(7-16)勤勉であることを放棄して、一体、日本人が世界の中で他に伍してやっていけるいかなる財産がほかにあるといえるのだろうか。
(7-17)二十世紀に入って以降の「文化人類学」や「比較文明論」の各業績は、表向きは、異文明への理解と寛容の上に成り立っているが、裏返せば、西欧的世界解釈の新しい拡大形式ではないだろうか。
しかも、非ヨーロッパ世界はそれに対抗する学問上の方法論をもち得ず、今や自分自身の未知の部分を発見するためにさえ、ヨーロッパから借りて来たこの対象認識の方法を採用するしかなくなっているのである。
(7-18)総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。
(7-19)音楽が言葉から離れオペラが真のドラマ性を失っていることを批判したのが、ほかならぬワーグナーの総合芸術論ではなかっただろうか。彼は西欧芸術の源であるギリシアにあっては、音楽、言葉、舞踏、造形が一体となっていたことを強調した。そしてその後の歴史しおいて次第に音楽のみが分離し、音楽が言葉を捨てて自分だけの形式に向かうか、または言葉を軽んじながら利用するか、そのいずれかにならざるを得なかった点を彼は遺憾としたのだ。前者が純音楽の発展であり、後者がいわゆるオペラであることは、あらためて言うまでもないが、ワーグナーはこの二つの近代音楽のあり方に対し挑戦的で、ギリシア的全体性の復興を願った人である。
(7-20) イギリス人は一般に物を製造する職業を軽蔑し、商業より工業を一段と低く見る。それに対し、ドイツはその逆だ、という指摘がよくある。
イギリス人の家庭に行くと、たしかに台所用品など大半が外国製品であることを、イギリス人自身が誇りに思っているようにさえ見える場合がある。他人が額に汗した労働の結実を金で買い集め、享受する方が、それを製造するよりも高級な生き方だとする永年の習慣が、いまだに抜け切れないのであろう。
(7-21)もともと生と死は一つである。死があってはじめて生が成り立つ。昆虫や野生動物の例を見るまでもなく、種族の繁殖のためには、個体は自己の消滅を顧みない。大量に死に、そして大量に誕生する―それが生物の自然な、健康な姿であろう。古代社会の密儀において、通例、生殖と死とが対立的に捉えられていないのはそのためである。この二つは元来、自然の全生命に所属していて、個体が死んでも生命そのものは亡びず、死はそれ自身すでに生命のうちに含まれ、生命の一部を成していると考えられていたからである。ところが近代のヒューマニズムは、ただひたすら個体の生命にだけ執着し、延命を絶対善と考えてきた。その結果、生命そのものを薄め、弱めるという思い掛けぬ事態を招いたが、それも近代のヒューマニズムが大自然の生命に根本をおいて違反する思想があったからではないか。
(7-22)日本の大学は世間の批判だけでなく、大学同士の相互批判をも厚い壁で拒むような昔からの慣行に閉ざされて運営されている。何か突発事件が起こらない限り、世間は内部の出来事を知ることは出来ない。
(7-23)日本人は他人の悪や不徳義に対する用心を欠いているだけではなく、自分が悪や不徳義を犯すかもしれないという自分の内面悪の可能性への用心をそもそも欠いている。他人に対しても、自分に対しても甘いのである。だから分別もある大学教授たちが子供っぽい犯罪を繰り返して、間尺に合わない社会的報復を受けているのだ。すべてが無自覚なのである。善と徳の幻想に包まれた日本人のこの深い沼のような無自覚状態は、社会の隅々に瀰漫している
(7-24) 生徒の自主性を自由に育てる、といえば聞こえはいいが、それは生徒を無限に甘やかすこととじつは紙一重の差なのである。一定の訓練を与えないでおいて、どんな創造力も子どもからは生まれては来ないであろう。無から有は生じない。
(7-25) 数学や理科の学力国際比較で日本の子供はトップに位置しているといわれる。しかし大学生以上の水準になると、日本の学問の独創性がいつも疑問になるのはどういうわけだろうか。日本は教育熱心な国だが、幼い子供の頃から画一的方式で全員同じになるように教育し、おとなしい羊を量産していはしないだろうか。
(7-26)どの国民も自分の身の丈に合った政府をしか持つことが出来ない、とよく言われるが、それは教育についても当て嵌まる言葉で、どの国民も自分の賢さと愚かさの両方をその中にもののみごとに映し出しているのが教育制度である、と私には思えてならない
(7-27)教育制度というのはまことに生き物の身体のようなものである。身体のある部分をもう古くさい、役立たぬしろものだからと切り取ってしまうと、ホルモンのバランスを失い、思わぬ副作用が発生したりする。
(7-28)例えば将来秀れた歴史家になろうとする人間がいたとして、彼は高等学校の時代にはたして歴史の専門教育の手解(てほど)きを受ける必要があるだろうか。それより、ギリシア語やラテン語の、若いときにしか出来ない訓練に没頭することの方が、将来歴史研究に専門的に従事するうえでも、はるかに有益なのではないだろうか。
(7-29)いま私たち日本人の眼に、災いをもたらすと映じている教育上の問題は、今は眼に見えないかもしれないが、日本人の知恵とどこかでつながっているかもしれないのである。災いだからといって、切り捨てたときに、どんなしっぺ返しが来ないとは限らない。そこまで予見しなければ改革の手は打てないし、教育はそれほど複雑なメカニズムのうえに運営されているのである。いいかえれば教育は人間の営為であって、同時に人間を超えたなにものかの意志に動かされている運動でもあるのである。
(7-30)おそらく、「格差」という病原体が、じつは眼にみえないところで、日本の近代社会の健康維持とバランスの保全に役立っているという隠れた現実が存在することに、問題の基本があるのではないだろうか。ヨーロッパの場合には「階級」というものが細菌と薬剤の両面の役割を果たしている。それを失った日本の近代社会は、代償として教育に「格差」を持ち込んでバランスを保ったといえよう。その結果、教育はポジション獲得のための手段と化し、荒廃した一面、実社会に不明朗な「階級」を再生産させないですませた日本人の知恵が、そこに認められるともいえよう。
もし「格差」という患部を教育の世界から切除しようとするなら、その代わりに実社会に、教育よりも薬剤として効きめのある「格差」を用意しておかなくてはならない。が、ことさらの手術を施さないでも、賢明な日本の実社会は、徐々にそのような形態に衣更えしつつあるようにも私にはみえる。
出展全集第七巻
「Ⅰ ソ連知識人との対話(一九七七年)」より
(7- 1)(44頁上段「第二章 一女流詩人との会談」)
(7- 2)(57頁下段から58頁上段「第三章 フィクションとしての国家」)
(7- 3)(141頁下段から142頁上段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 4)(142頁下段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 5)(147頁下段から148頁上段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 6)(154頁上段から下段「第九章 ソ連に〝個〟の危機は存在するか」)
(7- 7)(167頁上段から下段「第十章 世紀末を知らなかった国」)
(7- 8)(203頁上段「第十二章 メシア待望」)
(7- 9)(217頁下段「第十二章 メシア待望」)
(7-10)(220頁上段「あとがき」)
「Ⅱ 自由とはなにか」より
(7-11)(245頁上段「文明や歴史は複眼で眺めよ」)
(7-12)(251頁下段「全体が見えない時代の哲学の貧困」)
(7-13)(258頁下段「無思想の状況」)
「Ⅲ 世界そぞろ歩き考(一九七〇年代)」より
(7-14)(264頁下段「世界そぞろ歩き始め」)
(7-15)(270頁上段「ヨーロッパの中の日本人」)
(7-16)(293頁下段「ヨーロッパの憂鬱」)
(7-17)(300頁下段「ヨーロッパ文化と現代」)
「Ⅳ ドイツ再発見の旅(一九八〇年代)」より
(7-18)(349頁下段「仮面の下の傲慢」)
(7-19)(378頁上段「ミュンヘンで観た『ニーベルングの指輪』」)
(7-20)(387頁上段から下段「技術観の比較」)
(7-21)(398頁下段から399頁上段「人口増加に無力なヒューマニズム」)
(7-22)(428頁下段「ドイツの大学教授銓衡法を顧みて」)
(7-23)(432頁上段から下段「ドイツの大学教授銓衡法について」)
(7-24)(434頁下段「個性教育の落とし穴」)
(7-25)(442頁上段「ドイツの子供たち」)
(7-26)(445頁下段「思わぬ副作用」)
(7-27)(452頁下段「思わぬ副作用」)
(7-28)(455頁下段「思わぬ副作用」)
(7-29)(469頁下段「思わぬ副作用」)
(7-30)(470頁上段から下段「思わぬ副作用」)