(6-60)いかなる時代でも、いかなる社会でも、個人の仕事がなにかの新しさを発揮できるとしたら、長期にわたる訓練や修業を積んだあとで、はじめて新しさが可能になるのである。それも努力してやっとわずかばかりの新しさが出せるにすぎない。そういう経験は、今日でもなお実社会を動かしている現実の法則である。日本でも伝統芸能や職人芸はもとより、近代的テクノクラートの職業においてさえも、この法則は決して死んでいない。しかしどういうわけか学校教育だけが、このような法則を避けて通ろうとする。いわく児童や生徒の自主性を育てるという。いわく学生の自由な判断を尊重するという。個性をたいせつに扱うという。しかし結果的に、青少年は無原則、無形式の中で自分を見失い。自己形成の契機をつかめず、かえって古くさい既成の概念にもたれかかり、ステロタイプの枠の中に閉じこめられることが多いのである。
(6-61)個性は決して主張するものでのはなく、意図せずして自然ににじみ出てくるものでなければならないはずである。
(6-62)教育の成果は、求めてただちに得られるものではない。人はそれを長期の研鑚の結果、自然にもつのでなければならない。性急な期待と計算からは、何も生まれてはこないのである。自ら求めるのではなく、静かに成熟の時期を待つべきであって、もしなにかを求めるのだとしたら、人はむしろ罪過と苦痛をこそ求めるべきであろう。すなわち自らに課す掟をこそ求めるべきであろう。
(6-63) タブーというものは社会が自己保全を必要とするときつねに生まれる。
(6-64) 人間は平等だから同じ教育を受けるべきだという風に考えるのではなしに、人間は同じ教育を受けていてもいなくても平等だ、という風に考えることはできないのだろうか。少なくとも近代の人格的平等、法の前での平等は、右のように考えなくてはならない。
しかしさらに一歩を進め、人間の頭脳・才能・体力・容姿・家系に関し、要するに個体の差異においていったい人間は平等だろうか。というより平等であった方がよいと考えるべきだろうか。もしも個体の差異をできるだけ消し去った平等が具体化していったとしたら、かえってそこに怖るべき事態が出現するのではあるまいか。現実に平等でないことが、人間にはかえって安心であり、生き甲斐にもなる。現実の不平等が、人間の自己教育と自己鍛錬のためのもっとも有効な教師であるのではないだろうか。
(6-65)平等が正しい、競争はいけない、競争意識は権力意識だ、等々、日本人をとらえている固定観念をいったんは壊してみることが必要である。教育の目標は政治的平等の達成とは直接にはなんの関係もないし、むしろ正反対かもしれないのである。今の日本にだって、金儲けと権力主義ばかりが青年の心のすべてを支配しているわけではあるまい。努力し、競争し、自分の精神的成長のみを求めて、必ずしも権力をめざさない青年もいるはずである。私はそういう人が本当のエリートだと思う。
(6-66)民衆はつねに贋(にせ)の自由より、宿命のほうを望む。民衆は自分の覚悟に対して知識人のように虚飾が無く、正直だからである。民衆は役に立たない偽善や当てにならぬ期待よりも、自分の置かれた事態を正確に見る方を好む。宿命を認めてかからないかぎり、幸福への新たな可能性などは存在しないことを知っているからだ。不幸な人間が、不幸な前提などがまるで存在しないかのように、自分にも他人にも言い聞かせ、ごまかしているかぎり、いつまでたっても、彼は自分の手で自分の幸福をつかみとることは出来ないであろう。
(6-67)人間はなにか価値ある行為をするために生きている。しかし福祉は生きるための条件をよくすることであるから、もし福祉を生きる目的とするなら、人間はなにかのために生きるのではなく、生きるために生きるという以上のことは言いがたい。人間にとって何が価値ある行為であるかを考えるのが先決なのに、それを度外視して、条件づくりにばかり精を出しているのが今の文明の状況である。だんだん人間が動物に近づいていく徴候かもしれない、
(6-68)権力をもっている人間は、若干の後ろめたさと当然の感情とがあい半ばする意識をもって権力を行使する。権力をもたない人間は、いっさいの後ろめたさなしで、自分の正義を主張する。しかしそれが権力をもつ人間に対する復讐であり、怨念であり、変形された権力欲であることにはたいていの場合気がつかない。彼らがもしかりに権力を握れば、自分をのみ正しいとする途轍もなく危険な権力者になる可能性が十分考えられるのである。
(6-69) 不運や不幸や悪条件に見舞われた人間こそが、人間の心の内奥を覗き見、自分の弱さと闘う最大の課題を与えられた「選ばれた人」であるといっても過言ではないだろう。ところが福祉運動家は、不幸な人間が世間に対してとかくみせる「甘え」を保護しようとする。それが不幸を救い、悪条件を匡(ただ)す唯一の道だと単純に信じている。しかし不幸な人々が、不幸な人々同士で嫉妬し合い、いがみ合い、あるいは多少とも恵まれた人々に怨念をいだく等の、社会的な「甘え」は、ややもすると彼らには物事が半面からしか見えていないことの反映である。彼らは他人の悪には気がついても、自分の内部にもひょっとしたら同種の悪がひそんでいるかもしれないという自省の片鱗さえ欠いている場合が多いのである。
しかし人間が道徳を考え、生きる価値求め、そしてなによりも高貴に生きるとは何か?を問題にするなら、まずこの自省を第一基盤にして、そこから出発すべきではあるまいか。
(6-70)福祉は施しでも恩恵でもない。恵まれない人々が生きる勇気をどう獲得するかが最も肝心な要点であることを、実践家は知っている(中略)。みかけの同情や物理的保護も、もちろんときにはたいせつであろうが、いちばんたいせつなのは、悪条件下にある人間にも、ときに自分の責任の欠如や性格上の欠点などに気がつくだけの内省の力をもつことなのである。みんな世間が悪い、自分たちは不幸だ、という観点だけでは、真の勇気は生まれてこない。
(6-71)私は世を怨む失敗者をこれまで無数に見て来たと同じくらいに、自分の能力を知らず、偶然を必然ととり違えた成功者をいかに多数見てきたことであろう。
(6-72)他人に要求する前にまず自分に要求する、あらゆる自分の行為に自由でなく宿命を見る
(6-73) 明らかな社会上の不公平が少しずつでも取り除かれることを正しいとする考え方に反対する理由はなにもないが、しかし今の時代に、権利を侵害された者が黙っていれば損をし、抗議すれば利益が少しは保証されるのは、権利の主張が戦術に依存していることを意味している。抗議が効果をあげるためには、ただおとなしく型通りの抗議をしているだけでは駄目で、集団を組み、あらゆる威嚇の手段を利用して、戦術に訴えなければならない。これは現代のいわば常識である。つまり弱い者の立場を守るのも、じつは正義の理法によってではなく、社会の弱点の利用によってなされている。現代では、強いもの(成功者や既得権者)が自分の才能と知恵によってのみ強くなったと考えるのはまったくの空想であり、これもたいてい社会の弱点の利用によってなされてきた。つまり強者も弱者も同じ原理によって生きている。それだけ人間が同質化し、同一線上に並んで競争し合っている証拠である。既得権者は防衛し、立場を奪われた者は攻撃する。どちらもエゴイズムの拡大という点では共通している。
(6-74)近代に入って、自由競争が人間に繁栄をもたらして来たが、同時に人間を不幸にしたともいえる。競争によって他を出し抜く心理、他人に対する思いやりの喪失があたりまえになってしまったし、すべての者が強者であろうとして、取り残された弱者はただ権利を主張すること(それもやはり強者になろうとする意志の一種である)によってしか、自分を生かせなくなってしまったからである。
(6-75)自分の中の俗物性を認めてかかるという生き方を選ばないかぎり、人間は自己矛盾を犯す可能性もある。誰でも完璧に、自分の論理性を守り、最後まで潔癖でありつづけることは出来ない相談だからである。
(6-76)批評だ、批判だと人々が口にする内容の多くに、どれくらい相手を育てようとする大きな愛情があるだろうか。これは日本の今日のジャーナリズムの問題でもある。にぎやかな世相批判が、ただ風潮に終わって、生産的でないのは、批判している当人にどだい改変への情熱が欠けているからである。批判によって何かを動かそうという気迫が最初からないし、批判という自分の行為をすら信じていない。自分は行動せず、ただ口先でたえず批判的ポーズを示すことが、知識人の身分証明だと思っている。
(6-77)ショーペンハウアーはヘーゲルを憎んだ。トルストイはワーグナーを理解できなかった。ゲーテはベートーヴェンをうるさそうに遠ざけた。ヘルダーリンはゲーテにも、シラーにも評価されなかった。こんな話は歴史の中に無数にある。私はときどき、互いに対立し衝突し合っていたこれら個性同士の葛藤を、現代人が色の褪せた古写真を見るように軽んじて、今頃になって気のきかない調停者の役割を演じては、これをもって「学問」と称しているようにさえ思えてならない。もちろんわれわれが、葛藤のすべてを今や相対化して眺めるに十分な距離を手に入れているのは争えない事実であろう。しかしそれはそうなのだが、生命のなまなましい一部が枯渇して、からからに干あがった結果のようにもみえる。
(6-78)小さな人間の偏見は歴史を歪めるかもしれないが、偉大な歴史家の偏見によって歴史ははじめて枠組を得るのである。一面的な好みや傾向性の展開の中にこそ、かえって普遍性が自然な形式で発露するのでなければならないであろう。そして直接的な人生体験とのつながりをもたないような学問が、どうして豊かな学問として成立するだろうか。
(6-79) 歴史的に思考する者にとっては、過去があるだけで、現在も未来もない。過去の理解が、現代に生きるわれわれの人生体験と切っても切り離せない関係にあるという事情、あるいは未来へ向かうわれわれの意識とも結びついているという事情は、彼らによってはまったく無視されている。
(6-80)過去は固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。また、過去を認識しようとしている人間もまた、たえず動いている。歴史は、動いているものが動いているものに出会うという局面ではじめて形成される創造行為である。
(6-81)過去をわれわれが意識するのは、過去そのものがわれわれを引っ張るからではなしに、われわれの現在の欲求、あるいは未来をわれわれがどう生きたらよいかという期待に応じて、そのたびごとに過去が違った形でわれわれの前に姿を現わすからだともいえよう。つまり定まった過去像があるのではなしに、現在の関心が過去に対するイメージを決定する場合が多い。
(6-82)宗教にとって最重要なのは信仰であって、知識ではない。しかし宗教学は学問である以上、信仰とは一致せず、むしろ信仰を弱め、こわす役割を演じ勝ちである。宗教学者は信仰家である必要はないし、またあってはならないのである。なぜならどれか一つの宗教にとらわれ、凝り固まったなら、いかなる宗教をも正確に客観化することはできなくなるし、さまざまな宗教の比較研究をし、相対化して観察することも、むずかしくなるからである。信じるということは、どれか一つを信じるのであって、あれもこれもを信じるのではない。宗教学者は信じるのではなく、多様な宗教現象を歴史的な相において冷静に、知的に分析することを求められている。彼はどれか一つに限定せず、幅広い知識をもって歴史を展望しつつ、対象をしだいに狭くしぼっていく
(6-83)信仰をどうして学問の対象にすることが出来るだろうか。しかしこの点に関していえば、信仰とは厄介な概念であって、信仰を知るとは物体の運動法則を知ることとはわけが違い、あくまで自分の心が問われるのである。物体の運動法則を知るとは、物体を自分の心の外に対象化し、客観化した後の結果であるが、信仰を知るとは、なにかの対象を知ることではなしに、対象化できないなにかにぶつかることなのである。宗教学者がさまざまな宗教現象を学問研究の対象として眺めているかぎり、彼は信仰についてはほとんどなにも知っていないに等しい。宗教に関する知識をなにももたなくても、敬虔な心をもっている田舎の農婦は、宗教学者よりも信仰において強く、深い可能性がある。ドストエフスキーはこういうコントラストをたびたび描いてみせた。
(6-84)後世のわれわれは、たしかに記録され保存された言葉を介してしか過去の思想家には接し得ないが、言葉の中に思想があるのでは必ずしもない。残された言葉は、思想への媒体にすぎない。比喩にすぎない。内奥は言葉の届かぬ所にある。言葉という間接的な手段を介してわれわれ後世の者は、はるか昔に立派な人間として生きかつ教えていた行為人の誰彼にまでさかのぼって、過去を再構成し、生きた思想の内奥を追体験するところまで行かない限り、その思想を理解したことにはならないだろう。
(6-85)初めに行為ありき、であって、初めに言葉ありき、であるべきでは決してないのだと私は思う。そして行為は瞬時にして消えうせ、言葉をただ媒体として残すのみである。言葉はいかに行為を映し出そうとしても、行為の比喩であり、また影絵でありつづけるほかないであろう。
(6-86)自由は障害を除去することでもないし、制限から解放されることでもない。そういう自由はこのうえなく消極的な概念である。消極的な意味においてすでに自由に達しているにもかかわらず、人間は身体を持つ存在である以上、どうしても自由にはなれない。自由の問題はそこからはじめて出発するのである。
(6-87)今は教養ということが地に堕ちた時代だが、教養とは机に向かって書を繙(ひもと)き、知識を身につける受け身の享受であればよいというそれだけの概念であるなら、衰退するのはむしろ自然の方向だし、そんなに悪いことではないのかもしれない。
出典全集第六巻
(6-60)(439頁下段から440頁上段「教育について」)
(6-61)(440頁上段「教育について」)
(6-62)(440頁下段「教育について」)
(6-63)(442頁下段「教育について」)
(6-64)(443頁上段「教育について」)
(6-65)(445頁上段から下段「教育について」)
(6-66)(446頁下段「教育について」)
(6-67)(448頁下段「高貴さについて」)
(6-68)(450頁下段「高貴さについて」)
(6-69)(453頁上段から下段「高貴さについて」)
(6-70)(453頁下段から454頁上段「高貴さについて」)
(6-71)(455頁下段「高貴さについて」)
(6-72)(456頁上段「高貴さについて」)
(6-73)(457頁上段から下段「高貴さについて」)
(6-74)(457頁下段「高貴さについて」)
(6-75)(464頁上段「高貴さについて」)
(6-76)(466頁下段から467頁上段「高貴さについて」)
(6-77)(470頁上段から下段「学問について」)
(6-78)(471頁下段から472頁上段「学問について」)
(6-79)(479頁上段「学問について」)
(6-80)(482頁上段から下段「学問について」)
(6-81)(482頁下段「学問について」)
(6-82)(487頁上段から下段「学問について」)
(6-83)(487頁下段から488頁上段「学問について」)
(6-84)(497頁上段から下段「言葉について」)
(6-85)(499頁下段「言葉について」)
(6-86)((504頁下段から505頁上段「言葉について」)
「後記」より
(6-87)((644頁「後記」)
今回阿由葉様が選ばれた内容の大部分は、私が過去読んだ先生の著作の中
でも、とりわけ印象深かったものばかりだ。
例えば「生徒の自主性や自由な判断」の馬鹿馬鹿しさとか、「人間はもと
もと平等ではない」とか、「教育の目標は政治的平等の達成とは直接にはな
んの関係もない」とか、現代人にとっては耳の痛い言葉が、ことごとく列挙
されている。
『ヨーロッパの個人主義』には以下のように書かれている。
「学歴という目じるしで区分して、大学卒にある種のエスカレーターを用意
するのは、下位の学歴のものとの間の不平等を公表することだが、しかし、
これは世間一般の暗黙の了解であると考え、社内の責任は一応は回避される
ことになる。と同時に、同じ学歴のものを一つのグループにまとめて、賃金
体系を組むのは、学歴を尊重しているのではなく、同じ学歴であれば同じ能
力であるというたてまえにしておきたい人間平等主義を尊重しているからで
ある。・・・こうして個人の能力差を表面化させるような責任ある決定はごく
限られた場合にしかおこなわれず、じっさいには裏芸として社員の能力はた
えず評価されていながら、表向きは、けっしてそれは口にされてはならない
し、社員にいたずらに被害妄想を与えてはならないのである。」
「大学に格差があることは世間では誰でも知っているし、みな暗黙の諒解
をとり交わしているのに、表向きは、八百を越える大学が全部同資格という
ことになっている。このたてまえとしての平等主義が、かえって格差偏重を
増大させる。一流大学をめざして勉強する受験生は、世間が個人の能力を正
当に評価していないことをあらかじめ知っているのである。彼らは本当に自
分の能力を発揮するために努力するのではなく、一流大学卒という保護集団
の仲間入りをするために努力することになるからである。こうして日本特有
の平等主義のたてまえは、かえって裏では不平等を大きくし、不明朗な感情
をくすぶらせることになる。」
昨今、新卒者の就職に於いて、「プレゼン力」とか、本人の「性格」とかが
重視されるそうだが、こんな現代でも、上に書かれたような日本の社会構造
は、本質的に変っていないのではないだろうか。
私が学生だったのは40年以上前だから、現代と若干違うだろうが、大学
という所に行ってみて有益だったと思う事の一つは、大学の先生とか外の
大人から色んな話を聞いたことだ。
例えば・・・
「東大に何人も入る、いわゆる有名校は、何も全員が全員“できる”という
訳ではない。一握りの核になる連中が、全体を引っ張っているのだ」
「こんな受験勉強ばかりやらされたら、おかしくなりますわな~。それで私
大なんかに入ってアルバイトしたり、遊んだりして丁度よくなる」
「国立大学に入るのがどんなに大変か・・・それが分かっているから、少し
入社試験の点が悪くても入れるんだ。なぜなら彼等だったら、必ず努力する
と踏んでるからだ」等々。
ついでに書くと、私のようにいわゆる一流大学でない者は、先生が東大や
京大出身者が多かったせいもあるかもしれないが、少なくとも入学時点では、
全く期待されていないことが分かった。
西尾先生が『ヨーロッパの個人主義』で見抜かれた、受験生は「保護集団」
に入るために勉強する、という点は、池田様が4月30日のブログ「世界は
現在」にコメントして紹介された内容に通ずるように思う。
つまり池田様が同人誌『雙面神』で感動された、若き日の先生の論考の中
にある、「嫌いな作家を論じるときに、『大きく救う』などとばかげたことが
出来るものか」という部分だ。
さらに「これはどう見ても文学的信念ではなくて取引の原理であり、作家
の生き方ではなくて処世術であり、世渡りの方法に過ぎない。」と続く。
大学であれ何であれ「保護集団」にいる間は、容赦ない批判や評価を避け
るという風潮や習慣は、組織の維持にはプラスに働くかもしれない。しかし
最も厄介なことは、その組織自体を壊すようになる可能性が少しでも見えた
場合には、最も論理に敏感であるはずの人々も、途端に非論理的になる。
だからこそ、先生が書かれたように、「寡聞にして、学問の理念が問われた
とは聞かない」ということになるのだろう。
このことは今に至るまで同じで、教育問題といえば、教える量を減らすと
か、入試制度を変えるなどの議論であって、肝心の学問の目的を真剣に考え
るなどということは後回しどころか、全く問題にされてないのではないか
と思う。
それどころか「軍事目的の研究はしない」などと言う大学まで出てきて、
そんなことを言う大学が「国際化」だけは標榜する。こんな一流大学という
保護集団に居た人たちが、別の保護集団の官僚となって、教育改革などでき
るのだろうか?
自ら学問の理念を真剣に問うたことがないからこそ、自分自身が体験した
こともない、例えばGHQがやったような社会実験的なことを安易にやろう
とするのではないだろうか?
今のような状態で、とにかく海外から留学生を呼び込み、世界中の大学と
張り合うそうだが、その結果どうなるか?
例えば「表芸」だけしか見ない(というより「裏芸」を見る目が全くない)
中国人留学生がこれ以上増えたらどうなるか?
「自分の能力を日本社会は正当に評価しない、不平等だ」と必要以上に騒
ぐか、逆に日本社会では、「表看板」さえ手に入れれば何でもできると踏
んで、ありとあらゆる方策を考えるのではないだろうか?
実際私は以前、ある中国人女性が「日本では潰されてしまったから、ア
メリカに行く」などと言って、実際に一家で渡米した家族を見たことがあ
る。もう一人、経済方面において、日本ではちょっと名の知られた中国人
女性だが、自分が教えている日本人の事を、「(彼等日本人は)お勉強はも
ういいのよ」と、高飛車に馬鹿にしているのを、偶然聞いたことがある。
彼女は日本のある国立大学の経済学部か何かをトップで卒業したそうで
ある。
日本に来て、十分な奨学金を貰いながら、日本人を馬鹿にして、いつか
日本人を出し抜いてやろうと思っているこんな連中を、有難がり、褒めち
ぎっているのが今の我々である。
こうした外国人からの批判に敏感な日本人は、ますます「実力主義」が
必要だとして、あらゆる小手先の「改革」に、手をつけようとするに違い
ない。
ところで我々日本人が、これまでお手本にしてきたアメリカだが、昔か
ら日本と違って、大学は勉強も厳しく、入るのは簡単だが、卒業するのが難
しいと言われてきた。そしてこうした点が、実力社会のアメリカの強みだと
して、日本社会を批判する材料として持ち出されることが多かった。しかし、
兎にも角にも「肩書」がモノを言うアメリカでも、別の側面があるという。
例えば、私が学生の頃、本や雑誌で読んだ限りでは、アメリカでは一旦入
った大学でやっていくのが無理となれば、一段低いレベルの大学でやり直す
ことができるなどの制度があるという。また通信教育も発達していて、通信
だけで学位が取れる大学もある等々。
学生の時、私はアメリカにいたことのある英文学の先生に「日本の学生と
アメリカの学生と、何か違いがありますか」と聞いたことがある。それに
対しては、「あまり変わらないと思います」という答えだった。
よくいる評論家のように、何でもアメリカ様様なら、こうした教育制度も
真似して、公教育に取り入れたらどうか?最近問題になっている外国人留学
生の件も、日本の大学の入口が緩いなら、出口で締めて、バランスを取るし
かないのではないか?
それを避けるのは、そんな改革をしたら、当然本国の学生も巻き込んで、
社会のあらゆる秩序が滅茶苦茶になる可能性があるからではないだろうか?
江戸時代のように、各藩が藩校を持っていて、場合によっては、そこから
体制を揺るがすような人材を輩出した・・・こんな幕末の時代の一場面のよ
うになっては困るから、学問の本質に迫る問題だけは、避けようとするので
はないだろうか?
それとも、そんな深謀遠慮はなく、単にひたすら保身したいがための無思
慮のせいなのだろうか?
ただ現代では、大学によっては、様々な成果を上げている所もあるようだ。
その意味では、昔のようにいわゆる一流大学だけが注目される時代ではなく
なったようだ。もしかして、こうした、言わば「下からの力」こそが日本社
会全体を変える力を持っているのかもしれない。
少なくとも私の考えでは、漫画やアニメの世界では、手塚治虫の有名な
漫画『ブラックジャック』のように、「もぐりでも超一流の医者」が、年月
を経ても魅力を失わずにいるように、現在もそれと似た着想の作品が沢山
ある。付け加えると、漫画にしろ音楽にしろ、才能のある日本人は、少子
化で不足どころか、今でも沢山いると、私は思っている。
このように、「遊び」の中では、作品そのものが、あたかも現実社会に対
する批判的側面を体現しているかのように見えるのが、日本社会の面白い
所ではある。
しかしサブカルチャーではなく、本来なら社会を牽引すべき論壇や学問・
芸術の世界では、日本の保守政治家が「左にたてこもり、同じところをぐ
るぐる回っている」(産経新聞 「正論」欄 H30/6/8)と先生が書かれ
たように、本質的な議論を避け、たとえ自分の足元が覆されることになろう
とも、祖国の復興に賭けようという気概が見られないことは、先生が常々憂
慮されている通りだ。
つまり日頃は「革命」とか「改革」など、穏やかでない言葉を頻発してい
る人間が、実は最も「保守的」だということだ。
ところで、西尾先生の最近の安倍政権に対する厳しい批判に対し、眉をひ
そめる人が少なくないようだが、以前は、病気持ちの安倍さんに対し、先生
が「彼は病気もあるし、大事にしないと・・・」と仰っていたのを忘れたの
だろうか?
私が先生の著作の中で、最も印象的なものの一つは、(どの著作かは忘
れたので、正確には表現できないが)「どんな思想も事柄も、結局は言葉
で表現するしかない、言葉は道具だ。・・・(しかし思想や言葉そのものに
振り回されるのは)逆に、言葉(や思想)が単なる道具である事を忘れて
いるのではないか」といった内容の言葉だった。
言う間でもなく西尾先生は、徹底した言語の人だ。でも我々の多くは
そうではない。古い言い方だが「西洋かぶれ」というか、高学歴の人ほど
精神が弱くなる傾向が強いのはそのためだ。
だからこそ現在経済的にも、他の面でも色々苦労していると言われて
いる若者たちの心情も理解できなければ、彼らが何を求めているかも
理解できないのだろう。