私は前から日本には「保守」と呼べるような政治的文化的集団ないし階層は存在しない、と思っていた。ところが人は安易に「保守はこう考えるべきだ」とか「私たち保守は」などと口にする。「保守言論界」とか「保守陣営」とかいう言葉もとび交っている。
今こそきちんと検証しておくべきである。思想的に近いと思っていた者同士でも今では互いに相反し、てんでんばらばらの対立した関係になっているではないか。皇室問題で男系か女系か、原発派か脱原発派か、TPP賛成派か反対派か――ひとつにまとまった従来の「保守」グループで色分けすることはできなくなっている。
もともと「保守」など存在しなかったことの現われなのである。この点を過日掘り下げて「WiLL」2月号に書いたので、ここに掲示する。
わが国に「保守」は存在するのだろうか。「疑似保守」は存在したが、それは永い間「親米反共」の別名であった。米ソ冷戦時代のいわゆる五五年体制において、自由主義体制を守ろうとする思想の立場である。世は反体制一色で、左翼でなければ思想家でない時代、一九六〇年代から七〇年代を思い起こしてほしい。日本を共産主義陣営の一国に本気でしようとしているのかそうでないかもよく分からないような、無責任で危ない論調の『世界』『中央公論』に対し、竹山道雄、福田恆存、林健太郎、田中美知太郎氏等々が拠点としたのが『自由』だった。六〇年代は『自由』が保守の中核と思われていたが、正しくは「親米反共」の中核であって、必ずしも「保守」という言葉では呼べない。
六〇年代の終わりに、新左翼の出現と学生の反乱に財界と知識人の一部が危機感を深めて日本文化会議が起ち上げられ、一九六九年五月に『諸君』が、七三年十一月に『正論』が創刊された。ここに拠った新しく増幅された勢力も、「反米容共」に対抗するために力を結集したのであって、私に言わせれば言葉の正しい意味での「保守」ではない。日本に西洋でいうところのconservativeの概念は成立したことがない。明治以来の近代化の流れのなかに、尊王攘夷に対する文明開化、民族的守旧感情に対する西洋的個人主義・自由主義の対立はあったが、対立し合うどちらも「革新」であった。革新官僚とか革新皇道派とか、前向きのいいことをするのは革新勢力であって、保守が積極概念で呼ばれたことはない。歴史の流れのなかに革新はあり、それに対する反動はあったが、保守はなかった。積極的な運動概念としての保守はなかった。背後を支える市民階級が存在しなかったからである。
政治概念として保守が唱えられだしたのは戦後であり、政治思想の書物に最初に用いられたのは、たしか一九五六年のはずだ。五五年の保守合同を受けてのことである。左右の社会党が統一したのにほぼ歩調を合わせて、自由党と民主党がひとつになり、いまの自民党ができて、世間では自民党と社会党とを保守と革新の対立項で呼ぶようになった。けれども、それでも「保守」が成立したとはいえない。
いったい、自民党は保守だろうか。国際共産主義に対する防波堤ではあっても、何かというと「改革!」を叫ぶ自民党は日本の何を守ろうとしてきただろうか。ずっと改革路線を歩み、経済政策でも政治外交方針でもアメリカの市場競争原理やアメリカ型民主主義に合わせること以外のことをしてこなかった。自民党を保守と呼ぶことはできるだろうか。
自民党をはじめ、日本の既成政治勢力は自らを保守と呼ぶことに後ろめたさを持っていた。もしそうでなければ、自らをなぜ「保守党」とためらわず名づけることができなかったのだろうか。 「保守」は人気のない、悪い言葉だった。永いこと大衆の価値概念ではなく、選挙に使えなかった。福田恆存氏がときおり自分のことを、「私は保守反動ですから……」とわざと口にしたのは氏一流のアイロニーであって、「保守」がネガティヴな意味合いを持っていたからこそ、悪者ぶってみせる言葉の遊びが可能になったのであった。
「保守」を利用する思惑
ところが、どういうわけだか最近、というかここ十年、二十年くらい「保守」はいい言葉として用いられるようになっている。保守派を名乗ることが、言論人の一つの価値標識にさえなった。いつまでつづくか分からないが、若いもの書きは競い合って自分を保守派として売り込んでいる。保守言論界と言ってみたり、保守思想史研究を唱えてみたりしている。私はそういうのをあまり信じないのだが、十年後の日本を占う当企画の一項目に「保守」があがっていること自体に、隔世の感がある。
おそらく、元左翼の人たちがいっせいに右旋回した時代に、「保守」がカッコイイ看板に担ぎ上げられたといういきさつがあったためであろう。西部邁氏の果たした役割の一つがこれであったと思う。また、市民階級は生まれなくても、二十世紀の終わり頃のわが国には一定の小市民的中間層が成立し、一億中流意識が定着した、とまでいわれた経済の安定期があって、それが「保守」の概念を良い意味に格上げし、支え、維持したといえなくもない。
「保守」を利用する人たちの思惑はどうであれ、人々がこの言葉を価値として用いることに際して抵抗を覚えないムードが形成された背景の事情はそれなりに理解できる。しかし、二つの理由からこれはいかにも空しい。あっという間に消えてなくなる根拠なきものであることを申し上げたい。一つは、思想的根拠にエドマンド・バークなどを代表とする外国の思想家を求め、日本の歴史のなかに必然性を発見できていない。もう一つは、金融危機が世界を襲いつつある現代において、新興国はもとより、先進国にも格差社会が到来し、中間階層が引き裂かれ、再び体制と反体制とが生じ、両者が反目する怨念の渦が逆巻く嵐の社会になるであろうということである。
安定期にうたた寝をまどろむことのできた仮そめの「疑似保守」は、十年後には雲散霧消し、やがてどこにも「保守」という言葉をいい言葉として、価値あるものの印として掲げる人はいなくなるであろう。大切なことは、一九六〇~七〇年代に「反米容共」に取り巻かれた左翼中心の思想空間で「親米反共」を命がけで説いた世代の人々は、自らを決して保守とは呼ばなかったことだ。たとえば、三島由紀夫は保守だったろうか。命がけで説いたその熱情はいまも必要であり、大事なのは愛国の熱情の維持であって、時代環境が変わればそれを振り向ける対象も変わって当然である。
十年後の悲劇的破局の光景
時代は大きく変わった。「親米反共」が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片一方に傾くことはいまや危うい。それなのに、一昔前の冷戦思考のままに、「親米反共」の古いけだるい流行歌を唄いつづけている人々がいまだにいて、しかもこれがいつの間にかある種の「体制」を形成している。そして、愛国心も国家意識もない最近の経済界、商人国家の請負人たちと手を結んでいる。「生ぬるい保守」「微温的な保守」「ハーフリベラルな保守」と一脈通じ合っているにもかかわらず、自分たちを「真正保守」と思い込んで、そのように名づけて振る舞っている一群の人々がいる。言論界では岡崎久彦氏から竹中平蔵氏、櫻井よしこ氏まで、冷戦思考を引き摺っている人々はいまだに多く、新聞やテレビは大半がこの固定観念のままである。
中国に対する軍事的警戒はもとより、きわめて重要である。しかしそれと同じくらいに、あるいはそれ以上に、アメリカに対する金融的警戒が必要なのである。遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、付加価値をつけて高く売るということで成り立ってきた五百年来の資本主義の支配構造が、いまや危殆に瀕しているのである。一九七三年の石油危機でOPECの挑戦を受けた先進国は、いまや防戦に血眼になっている。資源国は次第に有利になり、日本を含む先進国の企業は収益率が下がり、賃金の長期低落傾向にあるが、それでも日本は物づくりに精を出し、戦後六十年間で貯めた外貨資産は十五兆ドル(一千五百兆円)に達した。
ところが、欧米主導の金融資本はわずか十三年間で手品のように百兆ドル(一京円)のカネを作り出した。あぶくのようなそのカネが逆流して自らの足許を脅かしているのは、目下、展開中の破産寸前の欧米の光景である。アメリカは「先物取引」という手を用いて石油価格の決定権をニューヨークとロンドンに取り戻すといった、資源国との戦いをいま限界まで演じているが、もう間もなく打つ手は行き詰まり、次に狙っているのは日本の金融資産である。
「非関税障壁の撤廃」(ISD条項はその手段)を振り翳したTPPの目的は明瞭である。日本からあの手この手で収奪する以外に、アメリカは目前に迫った破産を逃れる術がないことはよく分かっているのだ。「親米反共」の古い歌を唄っている自称「保守」体制は、これから収奪される国民の恨みと怒りの総攻撃を受けるであろう。格差社会はますます激しくなり、反体制政治運動が愛国の名においてはじまるだろう。
「保守」などという積極概念は、もともとわが国にはなかった。いま「親米反共」路線を気楽に歩む者は、政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙をき、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。『WiLL』2月号より