パールハーバー七〇周年記念出版

 私は一年も前からパールハーバー七〇周年を意識して出版の計画を立てていたが、マスコミの反応は鈍かった。ようやく12月8日が近づいてきた二、三週間前から、動きが出て来た。パールハーバーに関連する企画への私の参加内容と記念出版についてお知らせする。

①『正論』(今の号、12月号)論文「真珠湾攻撃に高い道義あり」
11月27日講演「日米開戦の由来を再考する」於靖国会館、1時30分開始。主催二宮報徳会、参加費¥1000。参加自由。
③『歴史通』(次の号)、対談、高山正之氏と日米戦争前史をめぐって
④『SAPIO』(次の号)題未定、論文掲載。
⑤日本文化チャンネル桜「闘論!倒論!討論!」
大東亜戦争開戦70周年記念大討論、日本はどうする!」放送12月10日(土)20:00~23:00

 さて、私の記念出版(徳間書店)は既報のとおり、次の二冊である。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満洲、支那の排日』

 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 
 5、は既刊、6は刊行されて約一週間で、今店頭に出ている。新聞広告はこれからである。どちらも¥1800。

 二冊はこの日のために準備してきた決定版である。くどいことは言わない。この二冊を読まずして今後、戦争の歴史を語るなかれ。

 本日は内容紹介として、目次だけでなく、あえて冒頭書き出しの3ページを引用紹介する。

GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜 GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜
(2011/11/17)
西尾幹二

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GHQ焚書図書開封 6

第一章 アメリカの野望は日本国民にどう説明されていたか
第二章 戦争の原因はアメリカの対支経済野望だった
第三章 アメリカの仮想敵国はドイツではなく日本だった
第四章 日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた
第五章 アメリカ外交の自己欺瞞
第六章 黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇
第七章 開戦前の日本の言い分(一)
第八章 開戦前の日本の言い分(二)
第九章 特命全権大使・來栖三郎の語った日米交渉の経緯
第十章 アメリカのハワイ敗戦を検証したロバーツ委員会報告
第十一章 世界史的立場と日本
第十二章 総力戦の哲学
 あとがき

アメリカに対する不安と楽観

 日本の一般国民は戦前においてアメリカに悪感情を抱いていませんでした。小説『風と共に去りぬ』はすでにベストセラーでしたし、アメリカ映画は『キングコング』を始め愛好され、アメリカ映画の上映禁止はやっと開戦二日後になってからでした。アメリカの国内向け対日悪宣伝のほうがはるかに先を行っていたはずです。

 一般の日本人はアメリカの実力を知っていましたので、本当に戦争する相手国になるとは永い間思っていませんでした。むしろシナ大陸に介入しているイギリスやソ連はけしからぬと考えていて、その力の排除が必要とは考えられていました。イギリスとアメリカはどこまでも別の国でした。イギリスは超大国であり、アメリカは日本と並び立つ新興国であるという19世紀以来の歴史の流れの中にありました。アメリカはドイツや日本を倒す前に、まずイギリスを抑えないと先へ進めません。戦前はそういう時代でした。アメリカが超大国であることはいまだ自明の前提ではありませんでした。

 戦争直前に「近代の超克」が論じられました。文学者や哲学者がさし迫る戦時への覚悟を文明論として討議したものですが、ここでいう「近代」は「西洋近代」であり、意識されていたのはアメリカではなくヨーロッパでした。日本はヨーロッパ文明と対決するつもりでいたのです。アメリカはどこまでもヨーロッパから派生した枝葉の文明にすぎないと見られていました。

 私見では日本政府は昭和十四年(1939年)あたりまで「英米可分」で行けると踏んでいた節があります。大陸をめぐる争いの中にアメリカは出遅れていて、欧州各国の進出地に簡単に手出しはできませんでした。太平洋の島々の奪取とフィリピンの征服までは遠慮なく武力侵略をしていたにも拘わらず、大陸にはいきなり軍事介入はせず、南の方の陣固めをしていました。フィリピンやグアムを據点に、イギリス、オーストラリア、オランダと組んで日本を包囲する陣形をつくり上げ、時の到来を待っていました。アメリカは蒋介石を傀儡(かいらい)として利用することにおいてイギリスと手を組みました。

 蒋介石に手を付けたのは勿論イギリスが先です。共産党(コミンテルン)と北方軍閥と国民党(蒋介石)とが入り乱れて争うシナ大陸の内乱の中で、「排日」から「抗日」の気運が高まるのはイギリスとアメリカにとってもっけの幸いでした。日支両国が手を結ぶことを恐れていた彼らは、両国の離反のために謀略の限りを尽くします。支那の学生の抗日デモに経済支援したり、キリスト教の宣教師を動員したり、支那を味方につけようと必死で排日・抗日に協力します。このプロセスの中でいつしか「英米不可分」の情勢がかもし出されていました。それなのに、日本はずっとアメリカは対日参戦してこないと思いつづけ、「英米可分」でやって行けると信じつづけていました。ですから突如としてアメリカが正面の敵として襲いかかってきたという印象が日本人の記憶から拭(ぬぐ)えません。

 しかし少しずつ日本に圧力を加えるアメリカの黒い影は、それよりはるか前から日本国民に意識されていないはずもありません。まさかアメリカは日本に戦争するはずはないし、そんなことをしてもアメリカにとっても利益はないと日本人は信じていた反面、心の中で「日米もし戦わば」の不安な予感のストーリーがはぐくまれてもいたのです。それはそれなりの長い期間つづいていて、十数年はあったでしょう。

 つまり日本人の心の中では、アメリカとはひょっとして戦争になるかもしれないと思いつつ、従って油断大敵、準備怠りなく、などと声を掛け合いながら、どう考えてもそんなことは起こりそうもないと信じてもいたのでした。

アメリカの東洋進出――最初の一歩

 そこで、開戦の十年あるいは十五年ぐらい前に、日本がアメリカをどのように意識していたのか、またアメリカを中心とする太平洋の動き全体をどんなふうに展望していたのか、そして当時の識者たちは日本国民にどう説明していたのか、これは今検討する価値があります。

 戦争が本当に近づいたら、これはもう「敵国」という意識がはっきりするわけですが、それ以前の段階でアメリカにたいしてどんな考えをしていたのか。本書では最初にこの関心から、昭和7年4月20日に刊行された『日米戦ふ可きか』という本を取り上げてみたいと思います。満州事変から一年、日米双方の国民の感情も険しくなりはじめていましたが、まだまだそれほど敵対的ではない、そんな時代に出た本です。

 当時はこの類の本がたくさん刊行されました。『日米戦争物語』『日米不戦論』『日米果して戦ふか』『日米戦争の勝敗』『日米開戦 米機遂に帝都を襲撃?』『日米はどうなるか』『日米決戦と增産問題の解決』『日米百年戦背負う』『日米危機とその見透し』『日米もし戦はば』『日米十年戦争』『日米開戦の眞相』『日米交渉の經緯』……。

 昭和三、四年ごろから刊行されはじめ、昭和十五、六年あたりまでこうした本はつづきます。とにかく、たくさんありますから、いったいどの本が代表的で、どの本がいちばんすぐれているのか、比較調査もできないまま、たまたま入手できたこの『日米戦ふ可きか』をご紹介しようと思います。

浅野正美さんの感想

西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427
 

 当ブログ「西尾幹二のインターネット日録」はいささか手前味噌の内容、ナルシズムの傾きがあることはよく承知している。出版物ではできないことだ。前回の鈴木敏明さんの文章を紹介したように、他の人が私を誉めて下さる文章を好んで掲示する自己抑制の無さをお見せすることがよくあることは本人が心得ている。それがブログというものの有難さかもしれない、と勝手に解釈してもいる。

 友人の鈴木敏明さんにつづいて、同じく友人の浅野正美さんが私の全集について、西法太郎さんが私の脱原発論について、それぞれ二度づつご自分の体験を書いて下さっている。今日は浅野さんの文章をご紹介する。私は拝読して大変にうれしかった。実はこれを読んで、11月19日(土)の講演「ニーチェと学問」のある方向を決めたほどだ。

西尾幹二先生
全集刊行誠におめでとうございます。本日版元から送られてきて、そのずしりと重たい大冊を手にして、我がことのように喜びをかみ締めています。何という立派な装丁、そして先生の筆になる題字の美しさも際だっております。
書棚に置いたときに、輝くような存在感を発揮する書物をほとんど目にすることがなくなった昨今ですが、先生の全集にはその佇まいにも内容に劣らない気品を感じることができました。
今年1月8日のお正月、坦々塾の新年会で先生の個人全集刊行のことを初めてお聞きしてから、この日の来ることを長く待ち続けておりました。
これから足かけ6年、季節の巡りに合わせて先生の全集が届くということが、何よりの楽しみになるものと思います。
平成19年4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念パーティーの折りに配られた西尾先生の「謝辞」をここに引用させていただきます。
『私は28歳のとき、ドイツ文学振興会賞という学会関係の小さな賞をいただいたことがあります。「ニーチェと学問」と「ニーチェの言語観」の2篇が対象でした。もうこれでお分かりと思います。「学問」と「言語」は『江戸のダイナミズム』の中心をなすテーマです。若い頃の処女論文のあの日から一本の道がまっすぐに今日にまでつづいて、そしてそのテーマを拡大深化させたのが、今日のこの本だといっていいのかもしれません』

こうした言葉を読み返して見ると、全集の刊行をあえて第五巻のニーチェ論から始められたのも、納得することができます。
思想家としての西尾先生は、難解な事象を解りやすく伝える名人でもあります。言葉は伝わらなければ意味がない、という先生の思いがそうした表現に繋がっているのだと思います。上等なお酒を味わうように、じっくりと堪能させていただきます。浅野正美

 19日の講演「ニーチェと学問」について東京新聞に間もなく予告広告が出る。新聞にスペースがあって、短くまとめたその中味をのせてくれるというので、次のようにまとめた。

ニーチェは古代ギリシアの言語と思想を研究する古典文献学者でした。緻密な言葉の検証と言葉では捉えられない過去との乖離(かいり)に引き裂かれる体験は、「神の死」の自覚に直結します。古代の価値が不安定になり、把捉不可能になる17-19世紀の問題の発見は、西洋だけでなく、中国にも日本にもあり、荻生徂徠や本居宣長らの古代の復権への悲劇的認識はニーチェに先がけてさえいます。「ニーチェと学問」のテーマを世界史の広い相で再考するという新しい試みです。

 「ニーチェと学問」は話せばきりのない専門的テーマである。そこで日本人にとってそれが何であるかを語ることがむしろ必要な時代になっていると判断してのことである。

 浅野さんの次の感想文は、「坦々塾のブログ」11月9日付からの転載である。

西尾幹二全集 第五巻 感想文

<光と断崖 最晩年のニーチェ>    

         坦々塾会員 浅野 正美

 西尾先生の個人全集がついに刊行されました。私も宮崎先生と同じように、しばらくはただ眺めていました。10月21日に届いてから10日間、毎日背表紙を眺め続けて気持ちを集中していきました。時間をかけてゆっくり読もう、ドイツ語論文以外はすべて読もう、と決意して11月に変わった日から読み始めました。1頁の文字数が原稿用紙3枚になる大判にして600頁近い大冊です。果たしてどれだけの時間がかかるのか、計算すると14時間と出ました。毎日2時間で一週間と予定を立てて読み始めてから一時間後、進んだ頁数はやっと30でした。

 決して急がず、時には前に戻りながら目の前にある文章の理解に努める、という読み方で毎日朝夕1時間をこの本のためだけに費やすこと8日、やっと読了することができました。不思議なことに、この間他の文章を読むという気分にならず、新聞や週刊誌を始め、本業に関する報告書や業界紙にもほとんど目を通すことがありませんでした。一切の夾雑物を廃して挑まねば、この高峰には登れないという意識が働いたのではないかと思っています。読み進んでいるときに感じたのは、若い頃に多少遊んだ北アルプスの雪山登山の経験と似通っているということでした。雪山であれば、夏道と呼ばれる曲がりくねった登山道も雪に埋もれているため、一直線に頂を目指すことができます。その分勾配は急になり、呼吸も荒くなります。確実にいえることは、一歩一歩の歩みは苦しくとも、確実に頂上に近づいているという事実です。ただしこれだけでは頁を繰ることの集積で登頂が果たせるということになってしまいます。

 若い頃の私にとって、西尾先生は里から仰ぎ見る霊峰のごとき存在でした。ただし「光と断崖 最晩年のニーチェ」を読み終えた今、その山に登頂したという気持ちはまったくありません。里からアプローチにたどりついてみたら、里からながめているたおやかな峰が、峨々たる岩肌も露わな、かくも巨大な岩稜であると知り途方に暮れてしまった、といった表現が正直なところです。思想の核心に一歩でも近づくことができなかったならば、それはただ単に本を読んだという事実があるに過ぎません。

 この巻にも収録されている西尾先生訳の「この人を見よ」は、過去に新潮文庫で二度、筑摩文庫のニーチェ全集で一度読んだことがあり、今回で4回目の挑戦になりました。私にはニーチェに強く惹かれたという経験はなく、それでも筑摩の文庫全集は全部読みましたが、時々はっとする短い箴言に共感することはあっても、全体を通した理解には遠く及びませんでした。正直に言えば、日本語で読んでいて、こんなにもわからない本はない、というのが私の偽りのない実感でした。

 西尾先生が何度か強調されているように、「言葉と学問」を糸口に、改めて主要作品を読み返してみようと思っています。ニーチェに対しては、猛毒を帯びた危険な存在、悪書、というイメージが一般にはあるのではないかと思います。神を殺した野蛮人であり、ナチズムの思想的バックボーンとなった誤った思想家、あるいは最後には狂人と化した怪物。ナチズム云々に関しては本書で、トーマスマンの誤解が後年通説化して一般に広まってしまったという歴史的な事実を知ることができました。

 ニーチェの思想を勝手に解釈して自己の政治的正当性の根拠にしようという試みや、ナチズムが胚胎する元になった、ドイツ民族優越論は、ニーチェにその萌芽を見ることができるといった曲解はニーチェには何の責任もないことであり、意味合いは違うのかもしれませんが、日本が軍国化した基層には神話と神道、そして天皇制にその原因があるという、戦後抜きがたく定着してしまった我が国の不幸に通じるものを感じました。

 ニーチェに惹かれるレベルまで理解の及ばない私が、仮にも文庫全集を読もうと思ったのは、この人が後生に与えたあまりに大きな影響が導火線になっています。引き合うにせよ反発するにせよ、多くの人がこの巨人の磁力に巻き込まれて多くの言葉を残しています。R・シュトラウスは、冒頭のメロディーだけならだれもが知っている交響詩「ツアラトストラ」を作曲し、現在でもオーケストラの演奏会では主要な演奏レパートリーとして盛んに取り上げられています。

 ワーグナーとニーチェとの関係は、当初の賞賛から一方的な決裂という破局まで180度の転換を見せますが、この極端な変化の原因を私は何度か人に尋ねたことがありました。大方の答えは「似たもの通しだから」、「磁石の同極が反発し合うようなもの」というありきたりの答えで、充分納得できるものではありませんでした。西尾先生はこの両者の関係を、ニーチェの文体とワーグナーの音楽の構造に見られる類似性から説き起こし、凡百の解説とは雲泥の差をもって明快に説いておられます。

 残念ながら私には、ワーグナーの聖地バイロイト劇場で彼の作品を鑑賞したという経験がありませんが、本書には若い日の西尾先生がそこに一週間滞在し、ワーグナーが理想的な上演を目指して建てさせた独特な構造を持つ劇場で音楽を体験した日のことが書かれています。多分「リング四部作」を始めとして、代表的なオペラの内のいくつかを聴かれたのではないかと思います。きっとそこでは東京の一般的な劇場やレコードでは味わうことのできない音楽が鳴り響いていたことと思います。この箇所を読みながら、最後までワーグナーに耽溺し国庫を空っぽにしてまで理想の城を造り続けたバイエルンの国王、ルートヴッヒ二世のことを思い浮かべていました。ヴィスコンティの耽美的な映画を観た方も多いのではないかと思います。彼は晩年にいたって幽閉され、癈人同様となり、発狂するか絶望して入水自殺したといわれています。

 ルートヴッヒ2世が建てた城の中でももっとも有名なノイシュバンシュタイン城(別名白鳥城)には、新婚旅行で一度だけ行きました。観光客が見ることができるのは宏大な建物の内のごく一部に限られますが、若き国王がこの城にワーグナーの作品世界を贅沢に再現したその情念には、ただただ圧倒されるばかりでした。

 フュッセンという南ドイツの田舎町にこの城はあり、城の建つ丘の上からは市街を一望に見渡すことができます。緑の中に建物が点在するのどかな田園風景に暮らす人の多くが、狂王の遺産である観光資源によって幾ばくかの糧を得ているのは間違いのないことだと思います。黄葉の森に囲まれた城と下界の街を見ながら、「ルートヴッヒさん、100年かけてあなたは充分に元を取りましたね。」と心の中でつぶやいていました。

 西尾先生には何としても200歳か300歳まで仕事をしていただいて、個人全訳ニーチェ全集を出版していただきたい、という妄想とも夢想ともつかない願望をこの一巻を読んで痛切に感じました。まずは未だ未読の西尾先生の訳になる「アンチクリスト キリスト教呪詛」を必ず読もうと思います。
今ニーチェを読み返せば、今までよりは多少理解できることがあるのではないか、というのは根拠のない錯覚かもしれませんが。

 私は西尾先生を巨大な山に例え、いくら読んでも登頂することが叶わない永遠の未踏峰であると感じました。山男は登頂することを征服するともいいますから、当然のことですがそんなことができるはずがありません。先生は今年の夏、駆け足で上高地と飛騨高山の旅をされたと書かれていました。上高地では、梓川の向こうに穂高連峰が連なって見えますが、先生が行かれたときにはその姿を目にすることができたのでしょうか。私も上高地には、山登りをしていた頃に何度も通い、ここで半年間働いていたこともあります。麓の安曇野からも見える北アルプスの山々は、上高地まで来るとぐっと近く、大きく、迫力を増して見えますが、この山の本当の大きさと厳しさは、上高地からさらに20㎞以上歩いた先でないと実感することはできません。樹林帯を進むとき、山は一端視界から消え、森林限界を超えて空が広くなった時に初めてその全容や岩の荒々しさが目の前に飛び込んできます。

 全集22巻を通読したときに、果たして私の視線はどの位置から西尾幹二という巨峰を仰ぎ見ているのかというのは、今の私にとって楽しみでもあり恐怖でもあります。願わくばアルピニストのベースキャンプでもある個沢(からさわ、標高2500メートル地点にあり穂高連峰へはここから本格的な山登りが始まる)まで到達していたいと思いますが、ひょっとしたらそのときもまだ安曇野の田園風景の遠くに連なる山を仰いでいるかもしれません。象徴的なことですが、安曇野から見える山々は前山といって、穂高の主砲群ではありません。この前山は燕岳、常念岳、蝶ヶ岳、霞沢岳、六百山と連なっていますが、上高地から上流を見たときには右手、川の左岸に連なる山々で、右岸に連なる槍ヶ岳から焼岳にいたる山脈とは遠く隔たっています。里からはこの前山が衝立の役割をはたしてしまい、槍、穂高の峰々の目隠しになっているのです。前山を見て、「穂高を見た!」と叫ぶことだけはしたくないと思います。

浅野正美

西尾幹二全集(全22巻)発刊に思う

ゲストエッセイ 
鈴木敏明 えんだんじのブログ 1938年 神奈川県生まれ
1956年 県立鎌倉高校卒業
外資系五社渡り歩いて定年
定年後著作活動、講演等に専念
これまでの著作
・「ある凡人の自叙伝」1999年 自費出版図書館編集室
・「大東亜戦争は、アメリカが悪い」2004年 碧天社
・「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」2006年 展転社
・「逆境に生きた日本人」2008年 展転社

 私は成人して以来、50年間日本の知識人の言動を見てきました。戦後日本の知識人の印象と言えば、彼らは本当にバカ、アホ丸出しの救いがたい人たちの一言につきます。その理由はなにか?彼らは共産主義、ソ連に惚れ込みまさに悪女に憑かれたという表現がぴったりです。ソ連という悪女の醜さに自らの目と耳を覆い盲信、盲進したのだ。日ソ不可侵条約の突如の破棄、北方四島略奪、60万日本兵の強制収容と強制労働、そのために日本兵が5万から7万人の死者が出た。これらの現実は、まだ戦後日本人の記憶の中にある生々しい史実なのだ。ところが知識人は、この現実を見ようとしないのだ。そしてあの有名な安保騒動。ぞっとする彼らの徹底した親ソ反米。一方我々一般庶民は、ソ連の実態をすでに認識していて、日本はアメリカ占領軍に支配されたが、ソ連軍に支配されなかったのは不幸中の幸いで、心底ソ連軍に占領されなくて良かったというのが認識だったのだ。だからこそあれほどの安保騒動後に自民党政府は解散し、総選挙しても、自民党政府の圧勝に終わったのです。当時著名な知識人であった蝋山政道は、自著「日本の歴史26巻」(よみがえる日本 文芸春秋社)、の中で総選挙敗北の教訓を次ぎのように書いている。

 「第一は、日米安保条約のごとき国際外交問題に対して、日本国民はいまだ平素じゅうぶんな知識や情報をあたえられていない。日常生活に関する地域または職域についての国内問題であるなら、一定の知識・経験によって実感的に判断する能力をもっているが、外交政策になると、その実感は一方的な不満や不安をかきたてる宣伝に動かされやすい」

 「第二は、第一のそれとつながっている。日常生活と国際的地位という大きな距離とギャップを持っている政策問題について、一般の国民にそれを統一する理解を期待し、政策形成に寄与することを求めることはできない」

 どうですか、蝋山政道のこの傲慢ぶり、完全に日本の一般国民をバカにし、自分たちの主張が正しいのだと言わんばかりですし、総選挙での革新派の大敗を国民の無知のせいにしているのだ。このように安保騒動後の総選挙大敗後も一般国民と知識人とのソ連に対する認識ギャップを意識することなく、自分たちの考えが正しいのだとソ連にのめりこんでいったのだ。そしてベトナム戦争で見せた日本の知識人の勝手な幻想、すなわち北ベトナムは天使、南ベトナムとアメリカは悪魔との幻想が北ベトナムによる共産党一党独裁国家の樹立という目的を見抜くことができなかった。どうして戦後日本の知識人は、こうまで愚かなのか。結局彼らは、現実を直視しようとせず、時勢、時流、権力に迎合することに夢中になるからです。すなわち彼らは、日本人のくせにソ連の権力に迎合したのです。

 ここで日本通の一人の外国人が、日本の知識人をどう見ているのかとりあげてみました。その外国人の名は、オランダ人のジャーナリストでカレル・ヴァン・ウォルフレン。ウォルフレン氏は、日本経済絶頂期の1989年に「日本/権力構造の謎」(The Enigma Of Japanese Power)という本を出版した。この本は世界10ヶ国語に翻訳され、1200万部売れたという。私もその頃この本の翻訳本を読みましたが、いまでは何が書いてあったかほとんど忘れてしまっています。私は、このウォルフレン氏がきらいなのです。彼は日本語がペラペラ、その日本語で大東亜戦争日本悪玉論を主張するのです。私は日本語を話せない外国人が外国語で大東亜戦争日本悪玉論を語っているより、日本語堪能の外国人が大東亜戦争日本悪玉論を語っている方が怒りを強く感じるのです。「日本をもっと勉強しろ」といいたくなるのです。第一ウォルフレン氏がオランダ人であることが気にいらない。大東亜戦争の時オランダ軍など当時の日本軍にとってはハエや蚊のような存在だ。オランダはアメリカと同盟を組んでいたからこそ勝利国になれたにすぎない。終戦後は、勝利国面して日本批判を繰り返し、オランダの女王が来日した時、平然と日本を批判した。オランダが植民地、インドネシアに何をしてきたというのだ。オランダに日本を非難する資格など一切ない。こういうことをウォルフレン氏に直接言いたいくらいなのです。それではなぜ、ウォルフレン氏をとりあげたのか。彼が日本の知識人について名言を吐いているからです。

 彼は自著「日本の知識人へ」(窓社)の冒頭のページでこう書いています。
 
 「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の利益を守ることにあるからだ」
まさにこれは、名言ですよ。知識人らしい知識人がいないことは、日本国民にとって悲しむべきであり、危険なことであると言っているのは、まさにその通りです。私などそのことを、痛切に感じています。さらに彼は、こう書いています。

 「日本では、権力から独立した知識人がいないどころか、むしろ、権力によっても認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流でした」

 全くその通りです。多くの知識人は、権力に認められることを望むのだ。そのために権力に認められようとあからさまな行動にでる。ここまで知識人としてのあるべき姿について私の意見とウォルフレン氏の意見を紹介してきました。この両者の意見を保守言論界の長老とも言われる西尾幹二氏にあてはめてみました。私は主張しました。日本の知識人は、あまりにも時勢、時流、権力に迎合過ぎる。その例外が西尾幹二氏なのです。西尾氏は、時勢、時流、権力に迎合しないどころか、あらゆる団体、業界などからの支援なども一切受けず、学閥、学会などとは無縁です。従って西尾氏の発言には損得勘定がない。要するに私に言わせれば、西尾氏は、崇高なまでに孤高をつらぬいて現在の学者として地位を築いてきたわけです。この崇高なまでの孤高は、知識人にとって非常に重要で、そのことが、ウォルフレン氏の指摘する知識人としての規格にあてはまるのです。西尾氏は、知識人が一番必要とされている時に、知識人らしく振舞える非常に数少ない知識人の一人なのです。知識人が必要な時に知識人らしく振舞えるとは、どういうことかと言うと、非常に難しい問題が生じ、私たち一般庶民が明快な回答に窮するとき、あの人ならどんな考えを持つのだろうかと、その人の意見に期待を寄せることができる人の意味です。西尾氏は、どう考えているのだろうかと私たち庶民が期待をよせることができる数少ない知識人ではないでしょうか。

 ウォルフレン氏は「日本では、権力から独立した知識人がいない」という。確かにそのとおりだと思います。しかし例外もあります。西尾幹二氏です。権力から独立した、日本では非常に数の少ない、希少価値のある知識人です。これは何十年間にわたって崇高なまでに孤高をつらぬいてできる知識人の技とも言えるのではないでしょうか。

 その西尾幹二氏の全集、全22巻のうち最初の5巻「光と断崖―最晩年のニーチェ」が国書刊行会から先月出版された。今どき全集が出せる文筆家や知識人はいない。西尾氏のすぐれた学問的業績が認められたためでもあり同時に50数年にわたる生き様も認められたのだと思い、素直に西尾先生にお祝いの言葉をささげます。また同時に全集出版は、私のような西尾ファンにとってもとても喜ばしいのです。出版社は慈善事業ではありません。全集を出したところで売れないと判断したら、誰が出版するものですか。全集を出しても売れると判断したからこそ出版するのです。ということは私のような西尾ファンが全国大勢いるということです。そのことは、現在のような情けない状態の日本でも健全保守、健全な愛国者が多いいということを改めて認識させてくれるので非常に嬉しいし、心強い思いをさせてくれるのです。

 西尾先生、おめでとうございます。これからも日本国家のため、長く、長く健筆をふるってくださるよう切にお願い申し上げます。