「株式日記と経済展望」からの書評(五)の六

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆英露対立を利用したアメリカと日本

 さしあたり明治の日本に話題を戻そう。十九世紀の日本はまだそんな偉そうなことが言える立場ではなく、なんとかして列強と同等の地位になり、仲問に入れてもらうのが先決だった。そのとき、とても興味深いアメリカとの共通点がある。

 アメリカを助けたのは具体的にはイギリスとロシアの伝統的対立だった。そしてまったく同じことが日本についても言えるのが面白い。アメリカや日本が、国際的に少しずつ自由に動き出せるようになるのは、もちろん日本はアメリカより半世紀以上遅れていたが、英露対立が基本にあったからである。日本もアメリカもこの対立を利用した。

 ユーラシア大陸を南北に二分割する英露対立は、かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、海を回って西太平洋にまで艦隊を派遣したイギリスとが、どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。もうひとつは北アメリカ大陸である。

 イギリスは自分の勢力圏とみなす地域にロシアが人ってくるのを防ぐために、同盟相手をいろいろに変え、ありとあらゆる策を弄するのを常としていた。アメリカがイギリスやフランスに先がけて、ペリー来航というかたちで日本に接近することが出来たのは、ちょうどその頃イギリスとフランスはトルコを援助してロシアに宣戦していたからである。クリミア戦争(1853-1856年)である。

 イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。対日接近に両国が一歩遅れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。しかしやがて幕末の日本にともに影響を与え、イギリスは薩長連合を援助し、フランスは落日の幕府を支えつづけることになる。

 その後アメリカは日米修好通商条約(一八五八年)を最後に、対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、ヨーロッパの二強国に遠慮したからではなく、アメリカが最大の内乱である南北戦争(一八六一~一八六五年)に突入し、外交上の余裕を失ったためである。これは日本に幸運だった。

 一方、クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港を求めて、東北アジアヘの進出を企て始めた。まず、ロシアは朝鮮に隣接する沿海州のウラジオストックに座を占めた。日本の北辺はにわかに風雲急を告げた。

 ロシアはいち早く日本列島とひとつづきである千島列島と樺太に人を入れた。日本は一歩遅かったのである。なにしろ幕末から明治への動乱期で、外を考える余裕がない。一八六九年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本はこれを拒否。明治の新政府ができてから、両国間にようやく取引が成立し、日本はもはや樺太は間にあわないと悟ってこれをあきらめ、かわりに千島列島全部の領有権を得た(千島・樺太交換条約、一八七五年)。

 ロシアも一八六一年に農奴解放令を発するなど、国内に困難をかかえていた時代である。イギリスは一八五七年、インドでセポイの大叛乱(セポイは東インド会社のインド人傭兵)を処理し、アヘン戦争を終結したあとの中国でアロー戦争(一八五六~一八六〇年)を起こして、再び清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。

 しかしイギリスは、ロシアが日本の北辺に迫ったことがいかにも面白くない。どこの国であってもとにたかくよその国が極東で支配的地位を占めることには耐えがたい。それが七つの海を支配した当時最大の帝国イギリスの受けとめ方である。

 しかしながら、当時の日本はいまだ無力なる半植民地国家であった。だからいかなるゲームにも参加できない。そうかといってイギリスはロシアと争って日本を分割するには、日本は地下資源などの魅力に乏しく、戦えば手ごわい抵抗相手にもみえた。それくらいなら日本を助け、育てて、ロシアに対抗する防波堤とするほうがよい。

 日本は自分の自由意志で国際情勢を乗り切っていく国家になりたがっていた。そのためになんとしても不平等条約を撤廃してもらわなくてはならない。列強と対等な関係を一日も早く築くことを強く希望していた。そのことにむしろ利益を見出したのはイギリスである。日本は急速に近代的な国家体制を整え始めていた。イギリスはそれをみて、ロシアとの極東における取引ゲームに日本が参画することをむしろ期待し、その方向に誘導した。

 ここからは少し話が先へ行きすぎるが、日本は残念ながら厳密な意味での独立国ではなかったといえるだろう。イギリスの対ロシア政策の傀儡であった一面が小さくない。しかしあえてその役割を引き受け、果たさなければ、当時の世界情勢のなかでは相手にされず、踏み潰されてしまうのが落ちだった。明治日本を最初から”悪しき強国”として描くのはどうみても間違いである。(P511~P516)

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の五

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 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」

書評 / 2007年05月05日

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」は
失敗に終わったが、往時の日本人のこの気迫は貴重である。

2007年5月5日 土曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆若い国アメリカの気概

 思い切って歴史を二百年ほどさかのぼって、列強の動きをひとわたり広い角度から、大雑把に眺めておくことにしよう。

 十九世紀の初めのヨーロッパにナポレオン戦争があった。ナポレオンが失脚した一八一五年に、いわゆるウィーン体制が始まる。ナポレオン時代は戦争に戦争があいつぐ動乱期だったが、フランス革命の精神的余波がヨーロッパ中に広がった革命精神の高揚期でもあった。ウィーン体制はこの反動で、安静、安定、秩序というものをなによりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのがオーストリアの宰相メッテルニヒである。ヨーロツパではしばらく平和が保たれる。

 しかるに、ナポレオン戦争中にすでにスペインの植民地であった中南米諸国が、スペイン本国が占領された機に乗じて、次々と反抗の狼火をあげた。一八一六年のアルゼンチンの独立をはじめ、各国が続々と独立した。一八一八年にチリが、一八一九年にコロンビアが、一八二一年にメキシコが独立し、一八二二年にはブラジルもポルトガルの支配を脱して独立国になった。

 メッテルニヒはこれらの動きを革命運動とみなし、武力をもって干渉しようとしたが、まずイギリスの反対にあった。イギリスはようやく中南米市場を自由貿易に開放したばかりであった。スペイン・ポルトガルの重商的植民地帝国を叩きつぶしたばかりなのだ。ヨーロッパのどの国でも中南米の一角に干渉しようとしたら、無敵のイギリス海軍がただちに出動するかまえだった。大西洋世界における平和を守ったのは事実上イギリスの海軍力だった。

 ところが、面白いことに、イギリスから独立して少しずつ力を貯えつつあったアメリカ合衆国が、一八二三年に南北両大陸へのヨーロッパの干渉を拒絶する宣言をして、独自の力を誇示した。いわゆるモンロー宣言である。アメリカにはまだまだそんな大見得を切るだけの実力も裏づけもなく、モンロー宣言はどうみてもたんなる空威張りにすぎなかった。しかし、アメリカにはすでに南北両大陸を広く見渡す目と、いずれはこれをわが勢力下におこうとする気概があった。

 一八一〇年代、ロシアはべーリング海峡からアラスカに支配権を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進めていた。これに対しアメリカはイギリス領カナダとは国境確定をすでにしたが、太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯はイギリスと領土紛争をつづけていて、モンロー宣言はさしあたり、イギリス、フランス、そしてロシアの動きに敏感に反応し、ヨーロッパ全体の介入を牽制した宣言であった。

 その際、中南米諸国の独立を擁護し、オーストリアの宰相メッテルニヒの野望を砕いたのは、自分の実力以上の差し出がましい行動だったともいえる。なぜなら、中南米の平和を守っていたのはイギリスであり、当時アメリカはインディアンの土地をメキシコと奪い合ったり、荒らくれ者の集団を中米に暴れこませたりする程度で、南アメリカ大陸に対し十分に責任の持てる体制ではなかったからだ。

 それなのにアメリカは言うべきことを言った。いちはやく、先手を打つようにして言った。アメリカにはまださしたる海軍力さえない。しかし、その陸軍力はいっでもイギリスの植民地カナダを侵略する力を備えていた。それにカナダを脅かしているのは、アメリカだけではない、南下するロシアもあった。

 アメリカはイギリスに対し、たくさんの貸しがあるのである。中南米諸国の独立擁護を宣言した背景には、イギリスの海軍力をも外交的政治的に利用しうるとの敢然たる意志があってのことと思われる。なぜアメリカにはこれほどの気概があったのだろうか。

 同じ英語を話す移民国家カナダとオーストラリアには当時も、そして今もこの気迫がない。カナダ移民の始まりは漁業資源の商業目的であったし、オーストラリアはなんと十八世紀の末までイギリスの囚人の捨て場であった。どちらもイギリス本国に経済的に束縛されつづけていた。

 しかし、アメリカはイギリスと戦争をして独立を勝ちえた国家である。植民地と戦争して敗北したイギリスはひどく落ち込んで、自信を失う時期さえあった。過去二世紀の国民国家の形成期に、きちんと自分を主張し、戦争をも辞さなかった国とそうでない国との差ははっきりと出ており、今日まで影響を残している。

 国家の起源はこの上なく大切である。囚人の捨て場であったオーストラリアは今も元気がなく、資源大国であるのにそこに住む人は亡命者の群れのようにひっそり、浮かぬ顔で生きていると聞く。過日ある人から、オーストラリアの住民はテーブルスピーチの前に、「自分は一八○○年以後の移民の子孫だ」というようなことをいちいちことわるという話を聞いて、なるほどと思った。囚人の捨て場が国家の起源だったということを国民規模で気にしているのである。

 話は元へ戻るが、日本人は、太平洋の向こう側のアメリカ人の生き方とその歴史を、長いあいだじっと観察し、考えてきた国民である。アメリカの政治行動はヨーロッパのそれ以上に日本に与えてきた影響が大きい。日本にとって中国と韓国は二千年の文化と歴史で結ばれた隣人である。アメリカにとっての中南米諸国よりはるかに関係が深い。アメリカ合衆国と中南米諸国との間には歴史的文化的になんのつながりもない。そのアメリカが中南米に関してモンロー宣言を発するのなら、日本がアジアに関して同じ宣言を発してなぜ悪いのだろう。

 実際、昭和九年(一九三四年)に、外務省情報部長の天羽英二は、日本だけが極東平和の責任を負うという宣言、やがて「大東亜共栄圏」の理念に発展する、を行い、これは「アジアのモンロー宣言」と呼ばれ、国際社会を騒然とさせた。残念ながら、当時すでに日本は五大国の一つであったとはいえ、中南米を実際に防衛していたイギリス海軍のように、ほかにアジアを実際に防衛してくれているスーパーパワーは存在しなかった。日本一国でアジア全体を守る、というのである。

 「アジアのモンロー宣言」は失敗に終わった。それでも、往時の日本人のこの気迫は貴重である。アメリカだってまったく実力もない時代に、イギリスとロシアなどとの対立をうまく利用して堂々とした言動を示していたのである。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

10月の仕事

11月の月刊雑誌(12月号)に西尾先生は次の成果を発表されます。

   評論  中国に奪われた自由 
        (Voice 11月10日発売)

        副題 「アヘン戦争期」と似た三角貿易体制を突破できるか

   対談  ヨーロッパの優等生 ドイツ型教育はなぜ崩壊したのか
        (諸君! 11月1日発売)

        対談相手  川口マーン恵美氏

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の四

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆大東亜戦争の根本的原因を考察する 日下部晃志

《 1906 サンフランシスコ市教育委員会、日本人・コリア人学童の隔離教育を決定
1907 サンフランシスコで反日暴動
1908 日米紳士協定(日本が移民を自粛する代わりに、排日的移民法を作らないことをアメリカが約束)
1913 カリフォルニア州で排日土地法成立
1924 絶対的排日移民法

 以上のようになる。当初は主として西海岸で、州単位での立法であったし、守られなかったが日米紳士協定を結ぶ余地はあったのだ。しかしながら、24年の絶対的排日移民法は連邦法で、これは別名「帰化不能外人移民法」ともいい、日本移民は禁止されたのである。これが何を意味するだろうか。まず、アメリカ社会の根底に日本人に対する差別があったことであろう。確かに、移民の受け入れについては、各国の自由に任せられるべきだが、ヨーロッパからの移民は受け入れるが、非白色人種の移民は受け入れないということは、どう解釈しても人種差別である。経済の面からみると、日本にとっては労働力の供給先を失ったということである。そのため労働力が過剰になり、新たな移民できるような場所を大陸に求めざるをえなくなったのである。アメリカがホーリー・スムート法によって関税障壁を設け、世界恐慌を誘発したのが1930年で、日本が満州事変を起こしたのが1931年ということを考えればわかりやすい。大恐慌とそれにより発生した失業者をどう解決するかという問題を抱えた日本が満州に目を向けたことには、こういった背景もあったのである。 》

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

このような戦前における日米関係は人種差別をめぐる摩擦があり、大東亜戦争の一つの原因となったことは明らかだ。しかし学校教育における歴史教科書では人種差別撤廃を目指した戦争であるとは一言も教えられていない。あくまでも日本は侵略戦争をした犯罪国家と教えられている。

しかしそれではなぜアメリカで強制収容所が作られ、日本人と日系人が収容されたのか? なぜ広島と長崎に原爆が落とされたのかについての納得できる理由が見つからない。このような見方をされないようにアメリカは東京裁判で侵略国家と日本を断罪して、アメリカを民主主義をもたらした解放者と位置づけている。

しかし戦前において日本人を対象にした排日法が軍事的緊張までもたらした事実もあり、なぜ日本が勝ち目のない戦争に踏み切った理由として考えれば、一種のアメリカに対する人種暴動だったのだろう。暴動は警察や軍などに鎮圧されるのが普通だから、なぜ勝てる見込みのない戦争をしたかという質問は、大東亜戦争が植民地解放や人種解放戦争であったという見方をしていないからだ。

中国や韓国が日本に対して植民地支配はけしからんとか、侵略戦争で酷いことをしたという歴史カードを突きつけてきますが、背後で煽っているのはアメリカだ。この事は従軍慰安婦問題がアメリカで対日非難決議がなされようとしている事からも伺われる。アメリカにとっては日本が戦争犯罪国家でなければ困るからだ。

大東亜戦争が植民地解放と人種差別解放の戦争であったとするならば、アメリカはそれを弾圧した国家という汚名を着ることになる。しかしアメリカも数十年後には白人よりも有色人種が多数派となり、黒人の大統領も誕生しようとしている。そうなれば大東亜戦争に対する評価もアメリカでも変わってくるのではないかと思う。

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の三

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆有色人種の希望の星

 第一次大戦の戦後処理をしたパリ講和会議において、日本政府代表が人種平等に関する提案、いわゆる人種差別撤廃法案を提出した背景は、以上に詳細に述べ立てた推移に基づくのである。

 同じ頃アメリカの黒人たちも、国際会議において人種問題が初めて採り上げられることに色めき立った。黒人たちはパリ講和会議ヘアピールする準備に取りかかり、日本政府をサポートする考えだった。四人の著名な黒人が会議に先立って日本使節団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力をしてほしいという嘆願書を提出した。

 国際連盟にではなく、日本政府に嘆願書を出すという点において、興味深い注目すべき時代の性格が表現されている。全米平等権利同盟は、さらに代表をパリに送り込もうとしたが、しかしアメリカ政府に妨害され、わずかに日本の代表にインタビューすることが可能になっただけだった。ウィルソン大統領にも面会を求めたがあっさり断られた。

文:西尾幹二『国民の歴史』より(P566~P571)

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

大東亜戦争の歴史的な評価については、未だに定まってはいませんが、東京裁判史観に洗脳された人にとっては日本は戦争犯罪を犯した犯罪国家であると学校などで教え込まれてしまった。しかし明治維新以来からの流れを分析すれば、日露戦争と大東亜戦争は白人対黄色人種の戦争であり、二つの戦争はよく似ている。

戦前のアメリカは白人優先国家であり、世界一人種差別的な国家であった。「株式日記」でも以前に「優生学」について書きましたが、アメリカはその優生学の本場であった。ナチスドイツはアメリカの優生学を手本にしたに過ぎない。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

◆優生学 ウィキペディアより

《 ドイツと共に、優生学思想を積極的に推し進めた国はアメリカである。優生学に基づく非人道的な政策を採っていた、と来れば、一番に想起されるのはやはりナチスだが、実は、アメリカの方が優生学的な政策を実施していた期間は長い。また、そのような政策を始めたのも、アメリカの方が早い。優生政策の老舗は、アメリカだと理解した方が事実に沿っているのである。断種法は全米30州で制定され、計12000件の断種手術が行われた。また絶対移民制限法(1924年)は、「劣等人種の移民が増大することによるアメリカ社会の血の劣等化を防ぐ」ことを目的として制定された。この人種差別思想をもつ法は、公民権運動が盛んになった1965年になってやっと改正された。 》

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の二

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本人移民排斥のテーマは、重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

歴史 / 2007年05月06日

日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆再びアメリカに「対日開戦論」

 日本人移民に対するアメリカ黒人の考え方や感じ方は、そもそもどういうものであったであろう。日本の帝国主義的進出が報道されても、黒人の対日好意はべつだん下がらなかった。日本の経済発展は、アメリカ黒人の高い興味と賛嘆の感情を呼び起こした。

 日本の急激な発展こそが、日本人に対する人種差別意識をよりいっそう高めているということも、黒人はよくわきまえていた。日本人移民のせいで黒人の仕事がなくなるのではないかと心配する連中もいるにはいたが、しかし『サバンナ・トリビューン』紙の論調によると、アメリカにとっての最大の脅威は、一日に三千人の割合で上陸してくるヨーロッパ系白人の移民であって、日本人移民の数などたかがしれている。もし、アメリカが生き残りたいのなら、ヨーロッパからの移民を制限せねばならない、と。

 黒人による日本人擁護は、一般にきわめて盛んだった。日本人は人種平等、団結、自立のいわば広告塔だったからである。倹約と経済活動と工業技術をみごとに組み入れることに成功した日本人移民は少なくない。

 その仕事ぶりを見た有名なある黒人は、世界中がやりたいと思っていることを、日本人は必ず人種の壁を越えてでもやってのけてしまうだろうと述べた。国の発展に大きく貢献した人種に対しては、その人種がなんであれ、世界中が敬意を表すという絶好の実例、それが日本人なのだとほめ讃えた。

 カリフォルニアの農園から白人が日系移民を締め出そうと躍起になっていることを知って、それによって大量の働き口を手に入れることができると注目する黒人たちも、もちろんいるにはいた。しかし、あくまで日系人差別には反対の姿勢を貫いていた。

 しかし、時間がたつにつれて、論調は少しずつ変わった。『アフロ・アメリカン』紙によれば、カリフォルニアには黒人の未来があると期待する一方で、日系人が犯した大いなる罪、つまり倹約と努力というものに、とてもかなわないという気持ちが彼らにのしかかった。

 日本人がその能力を発揮した足跡を残せば残すほど、日本人にとってアメリカン・ドリームは近づいた。しかし、逆に白人はそれを嫌悪し、黒人もまた次第に日本人を妬むようになった(以上、レジナルド・カー二ー『二十世紀の日本人ーアメリカ黒人の日本人観一九〇〇~一九四五』山本伸訳による)。

 一九〇六年のサンフランシスコ学童隔離事件に際して、アメリカ海軍は対日作戦計画を策定し、いわゆるオレンジプランの概略をまとめ上げたことは前に述べた。アメリカ政府の政策の基幹をなすモンロー主義や、それとまことに矛盾する外国に向けられた門戸開放政策への要求と並んで、これまた再び矛盾する日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、みずからの海軍力で守るべき重要な国家の政策目標とされたのであった。

 そして一九〇八年に、いわゆる「白船」事件が起きた。しかし、この三年間の日米危機がいちおうの解決をみたのは、移民問題のほかに差し迫る政治的案件がなかったからだといえるだろう。ところが一九一三年、再びアメリカには、日米戦争に備えて軍艦三隻を動かそうという開戦説が浮かび上がる機運が盛り上がったのである。それは外国人土地法の制定をめぐっての二番目の日米危機であった。

 外国人土地法とは、日本人移民一世のように、アメリカ市民権を取得できない資格剥奪者は、土地所有権をも奪われるという、きわめて露骨な、日本人を狙い撃ちした立法であった。ヨーロッパ系の移民労働者にはもちろん適用されない。大統領はウィルソンに代わっていて、彼が理想主義者としての仮面の裏で、いかに露骨な人種主義者であったかということは、先に国際連盟について論じた際に言及している。

 ウイルソンは日本政府からの強硬な抗議を受けて、日本は戦争を予定しているのではないかと憂慮し、ワシントン政府はさながら開戦前野を思わせるかのごとき緊張した空気に包まれた。

 海軍作戦部長ブラッド・リー・フィスク少将は、このカリフォルニア土地法を絶好の開戦理由として、日本がフィリピンとハワイを奇襲するであろうから、対日戦争は十分に起こりうる事だと主張して、日米戦争に備えて軍艦三隻を派遣するよう提案した。もちろん、ウィルソンの判断でこの海軍の強硬案ば退けられはした。そしてアメリカ政府を襲った開戦説はまもなく立ち消えとなった。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(五)の一

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本人移民排斥のテーマは、重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

歴史 / 2007年05月06日

日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆日露戦争の勝利の代償

 話は変わるが、日本はなぜ中国と戦争をしてしまったのか。これはじつに不幸な戦争であったということはさんざん言われてきた。まさにそうである。日本は中国や朝鮮と手を取り合って欧米と対決するのが自然であり、多くの不幸や誤解を回避しうる道であったことはあらためていうまでもない。

 日露戦争はある面で朝鮮や中国をロシアから守るという性格を持った戦争でもあった。もし、日露戦争で日本が負けたら、朝鮮は全土、ロシアの属領となっただけでなく、中国もまた確実に北半分をロシアに領有されてしまったであろう。

 それでも日本は、当時朝鮮や中国と組んでロシアに当たるという作戦は立てなかったし、立てることもできなかった。前の項でその理由はくわしく書いたから同じことはもう繰り返さない。要するに日本は英米、とりわけイギリスの惚偲だった。逆からいえば、何をいちばん心配したかというと、日本人がアジア人の代表であって、白色人種対黄色人種の戦いの緒戦であるというふうに受け取られることをいちばん恐れていたのである。

 当時の日本人には、自分の客観的位置がよく見えていたし、恐怖が与えた自己抑制の機能がうまくはたらいていた。白人社会を刺激するという意図などは考えられなかった。無邪気なまでに「脱亜入欧」の姿勢だった。しかし、それでも結果として日露戦争の勝利は、白色人種の社会にいちじるしい衝撃をリえたことはよく知られている。

 世界を揺るがしたニュースであった。これはどの大ニュースは二十世紀の初頭にはほかになかった。あらゆる植民地の国々では人々が胸をうちふるわせて感動した。少年ネルーやガンジーが揺さぶられた話を読んだことがある。

 インドネシア人は巨大なバルチック艦隊があの狭い海峡を通ってゆくのを見て、こうこれで日本はおしまいだ、日本はせっかく立ち上がったのにもうだめだ、と日本人に好意を持っていた彼らの多くは汲を流したそうである。が、ほどなくして日本大勝利のニュースが届いて、彼らは愕然とする。世界屈指の大国に、あの小さな国が勝つなどとは夢にも考えられなかった。

 世界中は沸き立った。船でヨーロッパに出かけていった日本人は、立ち寄るアジアの港々で関税の役人その他に握手攻めにあい、大歓迎を受ける。日本人だと聞くと、手を取って東郷とか乃木という名前が出てくる。

 心を強く動かされた者のなかに、アメリカ合衆国に住む黒人たちがいた。『カラード・アメリカン・マガジン』誌は、日本の行動の最も重要な点は、アジアとアフリカに考えるきっかけをつくったことだと書いた。ある公民権運動家は、日本が白人優位の人種神話を葬り去ったと主張して全米を演説して回った。

 日本人と黒人は性質がよく似ているという意見が出てきた。戦っていないときの日本人兵士は、子どものように静かで、しかしいったん立ち上がると、死を美徳とする生活によって培われたその活力は、みなぎりあふれている。

 ミカドの軍隊の睡眠時間はわずか三時間で、ほかの国の兵士には欠くことのできない食糧列車がなくても、みずからが魚と米を持ち歩きながら戦うのだ、などといった伝説が広がった。

 ヨーロッパで最も大きく勇ましい国ロシアにとって、小国日本は絶好の餌食になるはずだった。ところが白人が有色人種を支配するという人種構造はけっして真理ではなく、ただっくられた神話にすぎないということを知らしめたことが、合衆国の黒人たちをなによりもまず興奮させ、日本人に強い同胞意識を抱かせたのである。

 しかし、このことは同時に、逆に白人社会に衝撃とパニックを広げた。それがどれくらい大きかったかということは簡単に説明はできない。二十世紀の政治史における最大の出来事のひとつであった。輝かしかった日本の過去ということを言いたいために強調しているのではない。

 それがやがて日本にとってどんなに大きく深刻な問題につながっていくかということを言っているわけである。アメリカにおける排日運動は、まさにこうした戦争のよは勝利がもたらした興奮の感情の余波にほかならない。

 「黄禍(イエローペリル)」を最初に口にしたのはドイツの皇帝ヴィルヘルムニ世で、日本人に向けて述べられな言葉では必ずしもない。おそらく中国人が念頭にあった。しかし、日露戦争の結果、標的は日本に向けられた。ジャン.・ジョレスのようなフランスの有名な社会主義者ですら、黄色人種が地球の表面をやがて支配するのではないかという危機感を論説で表現する始末であった。矛盾そのものであった。

 日本人がアジアの一角で成功を収めたことから、彼ら白人の目には、その背後に何億という中国人、インド人の影が見える。人種というテーマが露骨に登場したこの時代に、健気に努力していた日本人が、先頭を走っていたがゆえに、標的になったことは間違いない。

 私はこのことが、深く深く第二次世界大戦につながっていると信じている。歴史の流れというものは、次第次第にひとつの道筋をつくっていき、必然的に避けられない方向に動いていくということを考えておかなくてはならない。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

「株式日記と経済展望」からの書評(四)


 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、「ブログ株式日記と経済展望」から、西尾先生の文章の論評を、許可を得て転載します。今回のものは昨年(平成18年)9月13日に書かれたものです。その予見を一年たって読むのも面白いものです。なお、この文章は『国家と謝罪』に掲載されています。

憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

安倍氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせて、憲法
改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい

2006年9月13日 水曜日

◆<自民総裁選>安倍氏VS参院自民 参院選めぐり波風

毎日新聞の記事はこちらを参考にしてください。

◆「小さな意見の違いは決定的違い」と言うこと(五) 9月13日 西尾幹二

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。
 
 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏の干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

(私のコメント)注:私とは株式日記と経済展望の著者2005tora氏のことです。

小泉内閣の功罪としては権力を官邸に集中させた事ですが、安倍氏が新首相になった場合にうまく機能するだろうか? 小泉首相はYKKの時代から経世会を相手に渡り合って来たから、ある程度のリーダーシップは持っていた。安倍氏の場合はタカ派のイメージではあっても政局の修羅場の経験があまりない。

日本の総理大臣がこれだけ権力が集中すると責任の重さに潰されてしまった首相もかなりいる。ある意味では日本の総理大臣はアメリカの大統領よりも権力が集中している。アメリカの大統領には議会の解散権はないし、二期八年経ったら辞めなければならない。それに対して小泉首相は自己の判断だけで衆議院を解散させてしまった。

それくらいのワンマンでないと日本の総理大臣は務まらないのかもしれない。かつては権力が分散して各自に任せていればよかった時代もあった。だから誰がなっても総理大臣が務まったとも言えるのですが、安倍氏が総理大臣になったときに集中した権力を使いこなす事ができるだろうか?

これだけ権力が集中すれば総理の周りには多くの有能なスタッフがいないとコントロールしきれない。そのスタッフのメンバーとして中西輝政、岡崎久彦、八木秀次、伊藤哲夫氏などの名前が挙がっている。小泉首相にはとくにブレーンはおらず亡国のイージ○が全て裏で動き回った。それに対して安倍氏は裏で動く人がおらず、汚れ役がいない。

小泉首相が独断で行動が出来たのも、亡国のイージ○が全て裏で手配して動いてくれたからですが、今回も安倍氏は来年の参院選での候補者の人選について見直すと言っていましたが、誰が決定をして誰が根回しをするのだろうか? このような実務を取り仕切る人が必要なのですが、単純に小泉首相の真似をしてもうまくいくはずがない。

おそらくは森派の森会長と亡国のイージ○が同じように総理大臣を動かして行くのだろうか? さらにはアメリカ政府のバックアップもなければ安倍政権は長続きできないし、しばらくは小泉首相が作った組織を引き継いで行くしかない。とくに大臣人事は政局の原因になるだけに細心の注意が必要ですが、自薦他薦が渦巻いて小泉流にやるのも大変だ。

政策ブレーンも登用する話も出ていますが、小泉流に民間から大臣を登用するのも人気取りにはなりますが民間登用大臣は結局は飾りにしかならず、竹中氏も最終的には国会議員になった。だから政策ブレーンも人気取りに過ぎないのでしょうが、最初は国民の支持率を高めるために何でもやる必要がある。

株式日記では安倍氏の支持も不支持も決めていませんが、靖国問題や憲法改正問題などでの妥協的な態度が気になります。5年がかりで憲法改正では自分の任期中には憲法改正はやりませんと言っているに等しく、靖国神社も今年の8月15には参拝しなかった。つまり対中政策も妥協的になるのだろうか?

西尾幹二氏のブログに寄れば、安倍内閣では政策ブレーンに「作る会」のメンバーの名前があがっていますが、「作る会」の分断工作にも安倍氏が絡んでいるのだろうか? それとも亡国のイージ○が動いたのだろうか? 

同じ保守派思想にも、自主独立路線と、親米路線がありますが、私は理念としては自主独立であり、現実的対応として当面はアメリカとの同盟を組むと言うスタンスなのですが、日本での親米派は理念としても自主独立を放棄してアメリカべったりなのだ。

文・株式日記と経済展望:2005tora氏

9月の仕事

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、9月の仕事の紹介です。

 

 9月の政変を西尾先生は「『日米軍事同盟』と『米中経済同盟』の矛盾と衝突」という観点で、ただの政局論ではない大きなテーマとしてとらえている。

 詳しくは『諸君!』11月号の西尾論文を見てほしい、とのこと。論文のタイトルはつごうでやや政局論ふうに変更されている。

 ほかに、コラム「正論」(『産経新聞』10月2日付)とチャンネル桜(10月16日放送)でも同趣旨を論じている。

 以下にコラム「正論」を掲示する。

米国の仕組む米中経済同盟
(シリーズ・新内閣へ)

両大国の露骨な利己主義に日本は・・・・

《《《王手をかけられかねぬ危機》》》

 今回の政変を私は「日米軍事同盟」と「米中経済同盟」の矛盾と衝突の図とみている。安倍前首相は憲法改正を掲げたが、9条見直しがなぜ国民の生死の問題にかかわるかをテレビの前などで切々と訴えたことがあっただろうか。米国の核の傘はすでにして今はもうないに等しいのだ、と果たして言ったか。日本海に中国の軍港ができたらどうするつもりか、諸君、考えたことはないのか、と声をあげたか。この2つの危機はすでに今の現実である。

 テロ支援国家との2国間協議は絶対にしないと言っていたブッシュ米政権が、北朝鮮と話し合いを開始した。そして国連の制裁決議をさえも無視した。これが同盟国日本に対する裏切りであることは間違いない。中国の北朝鮮制裁も口だけで、金正日に金を払って鉱山開発権を手に入れ、ロジン、ソンボンという日本海の出口の港湾改修工事を中国の手でやり始めた。ここに中国の軍港ができて、核ミサイルを積んだ潜水艦が出入りするようになったら、わが国は王手がかかってしまったも同然である。

 日本海が米中対決の場になることを避けるためにも、米国は北朝鮮を取り込む必要がある。ブッシュ氏に安倍氏はシドニーの日米会談でずばりそう言われたかもしれない。「お前のやっている対北制裁一本槍(やり)では中国にしてやられるぞ」と。無論私の単なる推測である。ただそういう風にでも考えないと、米国の政策転換はあまりに理性を欠いた、利己主義でありすぎる。

《《《南北会談は中国の差し金》》》

 北朝鮮のほうが米国にすり寄りたい現実もある。北が一番嫌いで恐れているのは中国である。「韓国以上に親密な米国のパートナーになる」とブッシュ氏に伝えた金正日の謀略めいた(しかし半ばは本心の)メッセージがある(『産経新聞』8月10日付)。とはいえ中国も米国がイラクで泥沼にはまっている間に着々と台湾にも、朝鮮半島にも手を打っている。半島の南北首脳会談の開催はどうみても、中国の差し金である。

 韓国大統領選は現時点では民主主義の側に立つ野党ハンナラ党の候補が優位にある。それをくつがえすための南北会談である。盧武鉉韓国大統領は北朝鮮に全面譲歩し、南が北にのみこまれる統一を目指している。それでもハンナラ党の優位が崩れないなら、同党候補が北の手で暗殺される可能性があるという。韓国の法律では投票日の15日前を過ぎて候補者が死亡した場合には、新しい候補者は立てられないことになっているそうである。

 すさまじく激烈な半島情勢である。日米にとっても、中国にとっても、半島を相手側に渡せない瀬戸際である。ひょっとしたら日本は米国の本格的な援(たす)けなしで、独力でこの瀬戸際を乗り越えなければならないのかもしれない。

 安倍前首相がまるでヒステリーの子供が「もういや」と手荷物を投げ出すように政権をほうり出したのは、自分ではもうここを乗り越えることはできないという意思表示だったのかもしれない。

《《《徹底的な中国庇護策》》》

 他方、経済問題における米国の日本と中国に対する対応の仕方は、歴史を振り返ると、正反対といえるほどに異なっている。戦後日本が外貨を稼ぐ国になると、米国は一貫して円高政策を推進して、わが国輸出産業を潰(つぶ)しにかかった。1985年のプラザ合意は露骨なまでの日本叩(たた)きだったが、日本の企業が負けなかったのはなお記憶に新しい。

 ところが米国は中国に対しては完全に逆の対応をしている。1994年から2006年までの12年もの長期にわたり元は1ドル約8元という元安のまま変動させない。2001年から中国の外貨準備高は上昇し始め、昨年日本を追い越した。徹底的な中国庇護政策である。

 それもそのはずである。中国で工場生産して外国に輸出している企業は中国の企業ではなく、米国の企業だからである。米国への輸出企業のトップ10社のうち7社は米国の企業である。

 経済は国境を越えグローバルになったという浮いた話ではなく、完璧(かんぺき)な米国のナショナルエゴイズムである。このことは他方、米国の30分の1で生産できる中国の労働力に米国経済が構造的に支配され、自由を失っていることを意味する。

 軍事的超大国の米国はそれでも中国が怖くはないが、以上の米中の関係は日本にとっては危険で、恐ろしい。福田政権が国益を見失い、軍事的にも経済的にも米中の利己主義に翻弄(ほんろう)されつづける可能性を暗示している。

(にしお かんじ)2007.10.2