「株式日記と経済展望」からの書評(五)の五

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 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」

書評 / 2007年05月05日

日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」は
失敗に終わったが、往時の日本人のこの気迫は貴重である。

2007年5月5日 土曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆若い国アメリカの気概

 思い切って歴史を二百年ほどさかのぼって、列強の動きをひとわたり広い角度から、大雑把に眺めておくことにしよう。

 十九世紀の初めのヨーロッパにナポレオン戦争があった。ナポレオンが失脚した一八一五年に、いわゆるウィーン体制が始まる。ナポレオン時代は戦争に戦争があいつぐ動乱期だったが、フランス革命の精神的余波がヨーロッパ中に広がった革命精神の高揚期でもあった。ウィーン体制はこの反動で、安静、安定、秩序というものをなによりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのがオーストリアの宰相メッテルニヒである。ヨーロツパではしばらく平和が保たれる。

 しかるに、ナポレオン戦争中にすでにスペインの植民地であった中南米諸国が、スペイン本国が占領された機に乗じて、次々と反抗の狼火をあげた。一八一六年のアルゼンチンの独立をはじめ、各国が続々と独立した。一八一八年にチリが、一八一九年にコロンビアが、一八二一年にメキシコが独立し、一八二二年にはブラジルもポルトガルの支配を脱して独立国になった。

 メッテルニヒはこれらの動きを革命運動とみなし、武力をもって干渉しようとしたが、まずイギリスの反対にあった。イギリスはようやく中南米市場を自由貿易に開放したばかりであった。スペイン・ポルトガルの重商的植民地帝国を叩きつぶしたばかりなのだ。ヨーロッパのどの国でも中南米の一角に干渉しようとしたら、無敵のイギリス海軍がただちに出動するかまえだった。大西洋世界における平和を守ったのは事実上イギリスの海軍力だった。

 ところが、面白いことに、イギリスから独立して少しずつ力を貯えつつあったアメリカ合衆国が、一八二三年に南北両大陸へのヨーロッパの干渉を拒絶する宣言をして、独自の力を誇示した。いわゆるモンロー宣言である。アメリカにはまだまだそんな大見得を切るだけの実力も裏づけもなく、モンロー宣言はどうみてもたんなる空威張りにすぎなかった。しかし、アメリカにはすでに南北両大陸を広く見渡す目と、いずれはこれをわが勢力下におこうとする気概があった。

 一八一〇年代、ロシアはべーリング海峡からアラスカに支配権を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進めていた。これに対しアメリカはイギリス領カナダとは国境確定をすでにしたが、太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯はイギリスと領土紛争をつづけていて、モンロー宣言はさしあたり、イギリス、フランス、そしてロシアの動きに敏感に反応し、ヨーロッパ全体の介入を牽制した宣言であった。

 その際、中南米諸国の独立を擁護し、オーストリアの宰相メッテルニヒの野望を砕いたのは、自分の実力以上の差し出がましい行動だったともいえる。なぜなら、中南米の平和を守っていたのはイギリスであり、当時アメリカはインディアンの土地をメキシコと奪い合ったり、荒らくれ者の集団を中米に暴れこませたりする程度で、南アメリカ大陸に対し十分に責任の持てる体制ではなかったからだ。

 それなのにアメリカは言うべきことを言った。いちはやく、先手を打つようにして言った。アメリカにはまださしたる海軍力さえない。しかし、その陸軍力はいっでもイギリスの植民地カナダを侵略する力を備えていた。それにカナダを脅かしているのは、アメリカだけではない、南下するロシアもあった。

 アメリカはイギリスに対し、たくさんの貸しがあるのである。中南米諸国の独立擁護を宣言した背景には、イギリスの海軍力をも外交的政治的に利用しうるとの敢然たる意志があってのことと思われる。なぜアメリカにはこれほどの気概があったのだろうか。

 同じ英語を話す移民国家カナダとオーストラリアには当時も、そして今もこの気迫がない。カナダ移民の始まりは漁業資源の商業目的であったし、オーストラリアはなんと十八世紀の末までイギリスの囚人の捨て場であった。どちらもイギリス本国に経済的に束縛されつづけていた。

 しかし、アメリカはイギリスと戦争をして独立を勝ちえた国家である。植民地と戦争して敗北したイギリスはひどく落ち込んで、自信を失う時期さえあった。過去二世紀の国民国家の形成期に、きちんと自分を主張し、戦争をも辞さなかった国とそうでない国との差ははっきりと出ており、今日まで影響を残している。

 国家の起源はこの上なく大切である。囚人の捨て場であったオーストラリアは今も元気がなく、資源大国であるのにそこに住む人は亡命者の群れのようにひっそり、浮かぬ顔で生きていると聞く。過日ある人から、オーストラリアの住民はテーブルスピーチの前に、「自分は一八○○年以後の移民の子孫だ」というようなことをいちいちことわるという話を聞いて、なるほどと思った。囚人の捨て場が国家の起源だったということを国民規模で気にしているのである。

 話は元へ戻るが、日本人は、太平洋の向こう側のアメリカ人の生き方とその歴史を、長いあいだじっと観察し、考えてきた国民である。アメリカの政治行動はヨーロッパのそれ以上に日本に与えてきた影響が大きい。日本にとって中国と韓国は二千年の文化と歴史で結ばれた隣人である。アメリカにとっての中南米諸国よりはるかに関係が深い。アメリカ合衆国と中南米諸国との間には歴史的文化的になんのつながりもない。そのアメリカが中南米に関してモンロー宣言を発するのなら、日本がアジアに関して同じ宣言を発してなぜ悪いのだろう。

 実際、昭和九年(一九三四年)に、外務省情報部長の天羽英二は、日本だけが極東平和の責任を負うという宣言、やがて「大東亜共栄圏」の理念に発展する、を行い、これは「アジアのモンロー宣言」と呼ばれ、国際社会を騒然とさせた。残念ながら、当時すでに日本は五大国の一つであったとはいえ、中南米を実際に防衛していたイギリス海軍のように、ほかにアジアを実際に防衛してくれているスーパーパワーは存在しなかった。日本一国でアジア全体を守る、というのである。

 「アジアのモンロー宣言」は失敗に終わった。それでも、往時の日本人のこの気迫は貴重である。アメリカだってまったく実力もない時代に、イギリスとロシアなどとの対立をうまく利用して堂々とした言動を示していたのである。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

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