気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(4)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

10)「学び舎」はつくる会潰しの刺客だったのではないか

「つくる会」の20年にわたる歴史を振り返りながら、周辺で起こった事なども縷々述べてきたのだが、昨年の採択で公立学校ゼロ採択という「つくる会」が存亡の危機に追い込まれた原因について、私の考えをに明らかにしておきたい。

第一に、会員が忘れてならないのは、20年前世間の熱い注目を浴びて発足した「つくる会」が、十二分の準備を経て世に問うた最初の教科書が、検定の段階で検定審議会の委員であった元インド大使による謀略であわや潰されそうになった事件である。外務省の「つくる会」潰しの謀略は新聞報道で暴露され失敗に終わったのだが、これは「つくる会」の歴史認識が自虐史観の外務省にとっては都合が悪かったために、国家権力を振るってまで「つくる会」を潰そうとした事件だったのだ。謀略がバレて「つくる会」潰しを外務省が諦めたと考えるのは早計である。日本の省庁では、一旦決めた方針は、それが成就するまではその方針を堅持するのはよく知られたことである。例としてあげれば、文科省の「ゆとり教育」の方針があれほど批判を受けたにも拘わらず、方針の白紙化の徹底は行われることなく、つい最近までその影響を残し細々ながら生き延びてきたし、外務省の例を挙げるならば、日本政府は東京裁判の扱いについて、judgments(個々の判決)を「裁判」と解釈し、日本は東京裁判全体を受諾したとし、永久にハンディキャップ国家であるべきだと考える外務省の東京裁判史観はいまだに確固として受けつがれていて、日本外交の隘路となっている。言うまでも無く今ではjudgmentsが個々の判決の意である事は、世界の国際法学者が等しく認めているところである。(佐藤和男監修「世界が裁く東京裁判」p247)

実は従来から歴史教科書について外務省は中韓と国内左翼から責められ続けてきた。例えば教科書誤報事件と言われる1982年の「第一次教科書問題」では、中韓に配慮した「近隣諸国条項」という屈辱的な検定基準を文科省は定めざるを得なかったし、1986年の「新編日本史」という高校の教科書がやり玉にあがった「第二次教科書問題」では、政府は中韓の圧力に負けて真っ当な発言をした藤尾文科大臣を罷免してしまった。当時、外務省が日中韓三国の力関係を冷徹に分析しかつ東京裁判史観に汚染されていなければ、国益を主張して政府をバックアップし、このような内政干渉を排除することは容易であった筈である。歴史教科書問題で常に日本が中韓の言いなりになってしまう原因は、そうした外務省の自虐史観から来る不作為にあると言っても過言ではないのだ。

長年にわたって「南京事件」や「慰安婦問題」を否定する活動を継続し、教科書運動にも反映しようとした「つくる会」は、中国・韓国からは歴史修正主義者だとして攻撃の的となり、それ故に常に中韓の矢面に立たされてきた外務省に取っては、一昨年の検定で明らかになった、南京事件については一切書かず、実際にあった中国兵による日本人虐殺事件である「通州事件」を書き、さらにマッカーサーの東京裁判批判談話を書くにいたった「つくる会」の教科書は、我慢の限界だったのかも知れない。そして中韓が長らく日本に対し外交交渉を通じて、南京虐殺と慰安婦を教科書にきちんと記述するよう求めていたことへの決着を付けるよいチャンスだと思ったに違いない。そして、外務省は20年前の「つくる会」潰しの謀略を完成させることにしたのだろう。

今回は20年前のように外務省が表に出て直接「つくる会」を叩くような馬鹿な作戦ではなく、
GHQが生みの親であり東京裁判史観を信奉する日教組や、「近隣諸国条項」に縛られる文科省の一部勢力など、反「つくる会」の勢力を合法的に利用し、事なかれ主義の採択関係者の心理をも巧みに利用した「つくる会」潰しが行われたと見て良いだろう。そして、「つくる会」潰しの刺客になったのが「学び舎」である。学び舎の教科書は、数年前から日教組の元教師達が退職金を持ち寄って作ったと言われているが、本当だろうか。日本史として系統立った記述ではなく、前後の脈絡もなくエピソードを積み重ねただけのような、とても歴史教科書とは思えない手抜き教科書に、それほどの時間と金が掛かったとは思えないのだ。だが、そんな学び舎の教科書が、結果的に「つくる会」潰しの刺客として効果を発揮したことは事実である。

学び舎が刺客として使われたのは、採択戦突入直前に朝日新聞が一面を使ってデカデカと報じた、直前まで文科省検定審議官だった人物とのインタビュー記事である、文科省の基準に合っていない学び舎を合格させるために自由社を貶めたあのインタビュー記事である。全国の採択関係者の殆どがこの記事に注目したに違いない。そしてこの記事は、「つくる会」の教科書を採択候補から外してもよい理由を採択関係者に提供したのである。微妙なこの時期に、朝日新聞にこのような人物を起用させてインタビュウー記事を書かせた黒幕は誰なのか?文科省基準を逸脱した学び舎の教科書と言いながらそれを検定合格させたのは、明らかに文科省の自殺行為だが、それを敢えて公表したのはなぜなのか? その結果、「つくる会」の教科書が公立学校から消滅したのはまぎれもない事実なのである。

ところで、学び舎の出現は「つくる会」潰しの刺客となっただけではない。恐ろしいことに、将来的に歴史教科書業界を一気に更なる左傾化へ転換させる布石となったのではないだろうか。何処の国の教科書かと言われるほどの「学び舎」の反日自虐教科書を挙って採択したのは、奇妙なことに、官界、法曹界、学会に多くの卒業生を送り込むエリート校と言われる国公立の附属中学校であり、反日ネットワークとも言うべき日教組の影響が大きい学校だった。この流れは、高校・大学への受験勉強に学び舎の教科書の存在感を増し、今後無視できないことになるのではないのか。私には、外務省と文科省と日教組がほくそ笑みながら、「つくる会」の今後に注目している姿が見えるのだ。そして符丁を合わせるかのように、昨年暮れに慰安婦日韓合意が突如成立し、外務省の不作為が原因で中国の思惑通り、南京事件があっさりとユネスコの記憶遺産に登録されたのだ。この一連の流れを全くの偶然とは私には思えないのである。

昨年の採択戦の結果としてはっきり言えるのは、子供達の教育環境がますます自虐史観の毒に染められていくだろうという予感であり、そこには国家権力が介在しているに違いないという怖れである。我々はこれをはね除けなければ子供達に顔向けができないのだ。より良い教科書作りの継続は勿論だが、国家権力の介入を排除し、国民に見える採択システムの構築を文科省に要求していくことも重要である。まだまだ戦える道はあるに違いない。

戦後、アメリカに良いようにされてしまった日本と日本人の教育を見直し、本来の日本人の歴史を取り戻そうとする「つくる会」の教科書改善運動は、東京裁判史観にどっぷり漬かり目的を見失なった末に、事なかれ主義と個人主義に漂よって太平楽を楽しむ世情に対し、危機感を抱いた無名の人達に支持されてきた。だが「つくる会」発足後20年にわたって、目に見えるような実りを得られなかった運動にもかかわらず、初心を忘れず運動を継続してきた会員の情熱と使命感には唯々頭が下がる思いである。ある会員が言った次の言葉が忘れられない。『結果が出るに越したことはないが、戦後70年の間染みこんだ垢を落とすには70年かかると思うべきだ。こんな壮大な運動に関わることが出来るだけでも幸せだと思うし、孫のためにも頑張らなければならないと思う。戦後、経済一辺倒で無為に過ごし、チャンとした日本を子供や孫達に残すことが出来なかった我々老人には、やらねばならない老後の仕事だと思っている』。願わくば、この老人のように残りの人生を有意義に過ごすことを望み、その手立てとして「つくる会」運動の灯を絶やすことなく、次の世代に手渡すまで戦い続けることができれば、これほどの幸せはないだろう。

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(3)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

9)つくる会教科書潰しの朝日新聞記事と文科省の不作為

ざっと「つくる会」の辿った道を振り返ってみた。波瀾万丈の道のりだったと言っても良い。
そんな「つくる会」の主な目的は、我々(自由社)の教科書で出来るだけ多くの中学生が歴史や公民を学び、子供達が将来誇りある日本人として振る舞うことである。そうなれば、70年にわたって続いてきた「戦犯国日本(東京裁判史観)」の国民意識をも払拭することもできると思うからだ。何処の国の歴史にも光と影がある。日本だけが光の部分を隠し影の部分だけを日本の歴史として教える。かつてイギリスの教科書も植民地の贖罪意識で酷い教科書だったが、サッチャー政権で「誇りあるイギリス」史観が復活したという。イギリスでは教科書改善ができて、なぜ日本はできないのか。答えは簡単である。国民の意識の問題であろう。巷間よく言われることだが、外国の左翼は他国からの非難には保守と一致団結して反論するという。国内の議論では保守と対抗していても、国益が絡むと熱烈な愛国者に変身するのだが、日本はといえば、外国に通じ祖国を誹謗中傷することが愛国者だと思い、そうすることがかつて日韓を併合して植民地にし、中国を侵略し、遂にはアメリカ様に刃向かった「罪深く馬鹿な日本人」を糾弾する「良い日本人」であると思い込んでいるのであろう。「良い日本人」とは端的に言えば、「罪深く馬鹿な日本人」の一人が自分の先祖である事にすら気付いていないのであり、世界標準から見れば、売国奴であり根無し草の愚か者に過ぎないのである。日本が今歴史戦で苦戦を強いられている、南京問題にしろ慰安婦問題にしろ、全てが日本人が捏ち上げた嘘から始まっているのだが、それを利用して日本を攻撃する中韓の人達から見れば、彼らは売国奴であり嘲笑の的である。日本にとっては彼らは「内なる敵」であるが、彼らの思いの根底には「東京裁判史観」に基づいた長いあいだの反日教育があるのだ。エリートを輩出し国家の官僚に送り込んでいる東京大学をはじめとする主要大学や歴史学会では、牢固として日本悪玉論である「東京裁判史観」を遵奉している現状を考えれば、「内なる敵」の増産に歯止めを掛けるのは容易なことではなく、国民の意識が変わるような余程の奇跡が起こらない限り、売国奴は日本の教育を危機に陥れ続けるだろう。

「つくる会」はそのような日本に歴史教育を通じて一石を投じようとした。だがそれは言論、出版の自由や結社の自由が憲法で保障されていることが前提であり、まさか最初の検定で外務省が「つくる会」潰しを仕掛けるなどとは思いもよらないことだったし、再びそのような事が起きるとは思ってもみなかったのだが、現実は我々の認識は甘かったようである。

平成27年4月24日、朝日新聞にとんでもない記事が載った。直前まで検定調査審議会の歴史小委員長だった上山和雄氏が、『教科書検定「密室」の内側』というインタビュウ記事に登場したのだ。朝日の記事のタイミングは、文科省の検定結果発表の直後であり採択戦突入の直前であった。インタビューでは上山氏は問題発言を連発しているが、「つくる会」にとって見逃せないのは以下の発言である。(記事引用)『検定が厳格になったとは思っていません。むしろストライクゾーンが広がったと感じます。日本のいいところばかりを書こうとする「自由社」と、歴史の具体的な場面から書き起こす新しいスタイルですが、学習指導要領の枠に沿っていない「学び舎」。この2冊とも、いったん不合格になりながら結局、合格したのですから』、『自由社の方は、これまでも同じ論調の別の教科書を合格にしているので、【×】にすると継続性の点で問題がある。では、もう1社の学び舎を【×】にするかですが、基準を一方に緩く、一方に厳しくするのはまずい。結果として(両方を合格にしたことで)間口が広くなったと感じています』
詳しくはURLを参照して欲しい。http://digital.asahi.com/articles/DA3S11721215.html?rm=150
このインタビュー記事から採択権者が受けた印象は、「自由社」は日本のいいところばかりを書こうとする偏向した教科書であり、それ故に一旦不合格になったこと、「学び舎」は学習指導要領には不適格な教科書だったこと、最終的に両者を合格させたのは、「自由社」を合格させるなら「学び舎」も合格させないとバランスがとれないという妥協の結果だったこと等だが、致命的だったのは、「自由社」も「学び舎」と同じく学習指導要領に不適格な教科書だという印象を与えてしまったことだろう。我々から見れば、これは「学び舎」を合格させるために「自由社」を貶めてだしに使ったという証言であり、まことに際どい内容である。上山氏は直前まで検定に関わった人物であり、退職したとはいえ一定期間の守秘義務があるにも関わらず、敢えて採択戦の直前に「自由社」だけを取り上げて貶める報道をした朝日新聞と上山氏の狙いは一体何だったのか。当時、「つくる会」が何もしなかったわけではない。記事が出た翌日には文科省に厳重抗議したが、何ら返答は得られなかったのだ。

私は正直なところこの記事を見て、採択戦の敗戦を覚悟した。自分が採択権者であれば「自由社」と「学び舎」は採択しない。もし「自由社」を採択すれば、反対派からこの朝日新聞の記事を示されれば、全く反論は出来ないであろう。一方、学習指導要領から外れた教科書という認識があるにも拘わらず、文科省の根本権限とも言える検定制度を自ら否定したに等しい違反行為をしても敢えて「学び舎」を合格させた文科省と、朝日新聞の際どい記事が示す一連のながれを考察すると、いわゆる「つくる会効果」を良しとしない反「つくる会」勢力のなり振り構わない「つくる会」への反撃の姿が、私には見えてきたのである。

ところで、上山和雄氏とはどんな人物なのか?
上山 和雄(うえやま かずお、1946年-)は、日本の歴史学者。國學院大學文学部教授。専門は日本近現代史。博士(文学)(東京大学、2005年)とある。
上のインタビューで述べている中から、いくつか上山氏の歴史観がよく判る下りを上げてみよう。東京裁判については『日本人から、自分たちが学んできた歴史への誇りと信頼を失わせました』などの記述が問題になり、私を含む何人かが批判しました。『歴史研究のイロハを踏まえてない』『教科書としてのバランスが崩れている』と」、「戦勝国の行為を裁かなかったことや、平和に対する罪を過去にさかのぼって適用したことの不当性など東京裁判の問題点ばかりを取り上げ、民主化や戦後改革がなぜ必要になったかなどを十分記述していなかった点です。」、「教科書には、守るべき最低ラインがあると思うんです。戦後の日本は、太平洋戦争を引き起こした仕組みの否定、つまり東京裁判を受け入れ、民主化を進めるところから出発したわけです。これは政府見解というより国民の共通認識でしょう。そこを否定するのは戦後の日本を否定するものと言わざるを得ません」、「歴史の見方には、いくつかあると思います。お国自慢をする『花のお江戸史観』、その反対の『自虐史観』。もっとも、自虐史観と非難される人々が日本を愛していないわけではない。愛しているからこそ過去の誤りを率直に認め、二度と起きないようにする考えもあるでしょう。三つ目としては戦前の皇国史観のように国民を動員するのを狙うものもある」、「教育の最大の目的は、子どもたちがきちんと生きていけるようにすること。一面的な考え方しかできない。近くの国と仲良くできない。そんな人間をつくっていいとは誰も思わないでしょう」などと述べている。また別の場所ではhttps://www.youtube.com/watch?v=OBaj2Mzk2ZQ「領土問題で考慮すべきは、単に日本固有の領土というような政府の言いなりではなく、領土問 題には相手がある事なのだから中国や韓国、ロシアの言い分も子供達に教えるべきだ。そうで なければ子供達は納得しない」、「良い教育とは何かといえば、戦前の「日本が一番」「天皇・国家のために死ぬ」という最悪の 教育の反省として戦後の教育があるのであり、それを自虐的とかいうのは当たらない」などという。上山氏がまさに東京裁判史観にどっぷり漬かっている事が判るコメントであり、これでは自由社の教科書を目の敵にするのも無理はないだろう。検定の過程を見れば、文科省の検定調査審議会は上山氏のような東京裁判史観しか見えない浅薄な歴史観をもつ委員が多いのではないかと思う。上山氏のコメントは、東京裁判を否定するコラムを書き、南京事件に触れず、逆に中国の国際法違反が明確な通州事件を書いた「新しい歴史教科書」を念頭に置いた「つくる会」潰しの露骨な謀略的批判であったと思う。

それを確信させたのは、産経新聞平成27年5月7日の【日本の議論】という記事で学び舎を取り上げ、これは一体どこの国の教科書なのか…新参入『学び舎』歴史教科書、検定前“凄まじき中身”という記事だった。(URL参照)
http://www.sankei.com/premium/news/150507/prm1505070008-n1.html
これは検定合格前の「学び舎」に関する記事だが、その内容はまさに今までの自虐史観教科書の存在が薄れるほどの凄まじさである。修正した検定合格後の中身は判らなくとも、今までとは全く異なる教科書であることは十分想像できた。何度も言うが問題は、学習指導要領から外れた「学び舎」の教科書を、なぜ文科省は検定合格にしたのかということである。一字一句にまで注文をつける検定の厳しさは何処に消えたのか。「学び舎」を特別扱いする理由があったのではないか。一方で自由社は今回の検定でもいつもと同様にかなり厳しい対応を受けた。一旦不合格になった理由は内容よりも主に誤字誤植を指摘され、それの修正に時間が掛かったために慣習的に一旦不合格になったにすぎないのである。その証拠に、他社の検定合格日は3月31日付けで自由社は4月6日と1週間違いに過ぎないのだ。上山氏が言うように内容的に記述が偏っていたからなどでは決してない。上山氏の発言には自由社を貶める意図が明確に見えるのだ。

ここから先は私の仮説ではあるが、決して根拠がないわけではない。過去20年の「つくる会」運動の歴史を振り返ることから見えてくる事実をつなぎあわせれば、朧気ながらも「学び舎」の必然的出現とその意図が見えてくるのである。

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(2)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・つくる会会員・石原 隆夫

6)「つくる会」の分裂騒ぎとは何だったのか

保守が大同団結して始まった「つくる会」は、第1回と第2回の採択で思わしい成果を上げることが出来なかったことから、参加者の思惑の違いが表面化し、平成18年4月組織は分裂した。
当時会長だった八木氏と日本会議に所属する理事や学者が一斉に「つくる会」から退場した。
八木会長の退場は、理事会に諮ることなく中国社会科学院と会談したことが原因だった。中国社会科学院といえば、「つくる会」の教科書に反対し、日本政府に是正を要求した中国政府の反日の司令塔であり、歴史戦の尖兵である。後に、八木氏が立ち上げた教育再生機構の機関誌の対談で、中国社会科学院のメンバーが、日中戦争は日本の侵略である事を認めろ、と日本側に迫っていたことを思い出す。分裂騒ぎでは、露骨な採択妨害の韓国に代わって密やかな中国の影が垣間見えるようになった。平成18年6月、八木氏が教育再生機構を立ち上げた際に、「朝日新聞に文句を言われない教科書を作る」とコメントしたが、これは「つくる会」の教科書のように、自虐史観教科書に対抗するものではなく、左翼の牙城である朝日新聞さえ納得する教科書を作るという宣言だったのだ。この言葉を聞いて、分裂の本当の原因と意味が理解出来た。「つくる会」の教科書では中国や韓国の内政干渉を誘い、その結果、採択数も伸びず商売にならないのであり、朝日新聞が文句を言わない教科書とは当然、中国も韓国も容認する教科書と言うことだったのである。あくまでも設立時の「趣意書」に書かれた理念を守り、誇り有る日本人たれとの思いを子供達に伝えようとする教科書作りをめざす「つくる会」にとっては、八木氏との協同はあり得ない選択肢であった。分裂で「つくる会」は産経グループのバックアップと扶桑社という出版社を失い、一部の会員も失った。それにも拘わらず、「つくる会」と残った会員は意気軒昂だった。「つくる会」発足時に掲げた「趣意書」に沿ってより良い教科書を作り、いずれは教育界から自虐史観を一掃しようと決意を新たにしたのである。だがこの分裂は、当事者間の微妙な路線や歴史観の違い、バックアップする企業の思惑、更に言えば垣間見える中韓の巧妙な工作が、あれほど盛り上がった教科書運動という大義名分や理念を簡単に忘却させ、変質させてしまう現実を国民の前に晒した事件であり、この結果、「つくる会」は孤高の道を歩まざるを得なくなったのだ。

7)「つくる会」の絶頂と混迷

平成19年5月、分裂前に教科書出版社だった扶桑社は「つくる会」に関係解消を通達し、教科書業界から撤退した。扶桑社を失った「つくる会」は新たに出版社として自由社を設立し、フジサンケイグループは新たに3億円を支援して扶桑社の子会社として育鵬社を立ち上げた。
平成21年4月、第3回目の採択戦を迎えたが、横浜市の中田宏市長の下で「つくる会」教科書の採択が実現した。横浜市側は完璧な情報封鎖であったので「つくる会」にとってはサプライズであった。継続採択も含め、この3回目の戦いは、初めて採択率1%を突破した記念すべき採択戦だった。採択率50%超のガリバー出版社である東京書籍から比べれば微々たる実績だったが、首都圏の東京都一貫校に続き横浜市で取ったのは、今後の「つくる会」の教科書運動に光明をみる思いであった。ただ、杉並区の場合と同様に、横浜市も東京都も時の首長自身の「つくる会」教科書の採択に賭ける強い思いが結果をもたらしたのであり、会員の働きかけが直接功を奏したわけではなかったのだ。だからこそサプライズなニュースであった。

平成23年4月、「つくる会」の歴史と公民の教科書が無事検定合格し、第4回目の採択戦に突入した。分裂後初めての教科書作成と出版を経験したが、扶桑社に依存していた出版の細部のノウハウを短期間に吸収確立するのが困難だったこともあり、年表盗用というとんでもないミスが発生してしまった。ルーティンワークとして誰かが責任を持って年表のチェックを怠らなければ、起こりえなかったミスである。本来、年表には著作権が認められていない。従って、出版社の編集者が従来の書式を使って作成するのが慣習であり、余程のことが無い限り大幅に書き換える必要の無い作業である。従って教科書作成に携わった誰もが、出来上がった年表が従来通りに出来ていると思い込み何の疑問も抱かなかったのである。現実は、編集担当者に参考としてわたされた某社の年表を編集担当者が完成品だと誤解し、そのまま教科書に載せてしまったのである。
5月に、育鵬社を応援する人達が、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」が「朝鮮侵略」と書かれていることに気付き、某社の年表盗用だとして大々的にネットに発信し大騒ぎになった。その後、反「つくる会」の組織が非難声明を出し、8月1日には全ての新聞が取り上げた。8月は採択戦の山場であり「つくる会」は混乱を極めた。発覚と同時に「つくる会」は謝罪表明をし、文科省に年表の差し替えを申請したのだが、「つくる会」の年表盗用として広まった負のイメージはいかんともしようがなく、横浜市や東京都は次善の選択として育鵬社の教科書を採択したのである。
「つくる会」のオウンゴールとも言える大失態だった。我々のミスに乗じて採択戦の早い時期から、育鵬社が「つくる会」の年表盗用を喧伝して回ったことを知ったが、すべて後の祭りだった。
採択結果は『新しい歴史教科書』が0.08%、『新しい公民教科書』が0.05%と惨敗だったが、育鵬社は歴史が3.9%、公民が4.1%と大躍進だった。「つくる会」の敵失を奇貨として利用した育鵬社は昨年の採択で大きな躍進を遂げ、反対に「つくる会」はどん底を見ることとなったのだ。その後、年表は新しい工夫を盛り込み使いやすいものに改善され、盗用年表と差し替えられたが、この事件が「つくる会」教科書を採択しないもう一つの言い訳を採択権者に与えてしまったことは確かである。

8)採択惨敗で再認識した「つくる会」の存在意義

昨年は5回目の採択の年だった。4回目の惨敗を挽回するために「つくる会」に残された道は、
「つくる会」発足時の趣意書にあるように、『世界史的な視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写することで、祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語を語り合える』教科書作りに愚直に邁進することだった。
以前からの中韓による歴史改竄と謀略に満ちた日本への誹謗と中傷は、慰安婦問題や南京事件を通じて日増しに強まり、いわゆる歴史戦の様相を呈し、国民の間にも中韓に対する疑問が抱かれるようになった。その結果として嫌韓・嫌中本が本屋のベストセラーになったのである。「つくる会」は以前から歴史戦がもたらす危険に気付き、南京問題や慰安婦問題に対応する組織を立ち上げ、シンポジウムや出版物を通じて国民への啓蒙を図ってきたが、このような運動は教科書関係の保守団体としては「つくる会」が唯一の存在であった。教科書は次世代の子供達を育てる手段だが、歴史戦への挑戦は、今の日本と日本人の国益と誇りを守るとともに、次世代を担う子供達をも守る重大な使命を帯びた活動である。その活動を通して、『新しい歴史教科書』が世に問うたのは、日中関係では無かったことが証明された「南京事件」を記述せず、逆に歴史的事実である「通州事件」を記述し、日米関係ではマッカーサーの東京裁判を否定した談話を、コラムという形ではあるが、記述したことである。幸いにしてこの試みは、文科省の検定をパスすることができ、「つくる会」の教科書執筆陣は教科書記述の可能性が大きく広がったと喜んだのである。歴史戦の最中にあってこれは教科書業界にあっては特筆すべき事であった。このような「つくる会」の先進的な試みが、必ずや「つくる会効果」として、次の各社の教科書に影響を与え、結果として各教科書から自虐的表現が無くなっていくことを我々は期待していたからである。

ところが期待していた採択は、1)「つくる会」の惨敗に終わった5回目の採択戦で述べたように公立学校ではゼロ、私立が僅かばかり採択という信じられないほどの惨憺たる結果に終わったのだ。一方で、売れる教科書を目指した育鵬社は前回を大幅に上回る6%の採択率を確保し、経営的に安定といわれる5%の大台を超えたのである。一部の「つくる会」会員の間からは、「つくる会」から別れた同じ保守系の育鵬社が伸びたことを喜ぶ風潮もあったが、大方の会員には深い挫折感を味わう結果であった。この結果を受けて10月に急遽開かれた「つくる会」総会は、本部の責任を追及する紛糾の場となるかと思われたが、総会に出席した会員の総意は、「つくる会」の存続を賭けても自虐史観是正のために教科書出版を諦めずに運動を継続すること、また、国益のために歴史戦を継続して戦う「つくる会」の方針も満場一致で承認されたのであった。会員がこの苦境に直面して絶望感と挫折感を味わいながらも、一致団結して「つくる会」の存続を決意した理由は、営利団体ではなくボランティア団体であるという他の教科書会社とは異なる「つくる会」の特殊性もさることながら、逆境に遭って「つくる会」の使命を改めて再認識した個々の会員の意識の高さにこそ求められるべきであろう。当時、危機に瀕していた財政を救ってくれたのは、呼びかけに応じてくれた全国の会員からの緊急の寄付であったが、これこそ会員の意識の高さを証明するものだった。

つづく

気が付けば「つくる会」の周りは敵ばかり(1)

ゲストエッセイ
坦々塾塾生・「つくる会」会員・石原隆夫

昨年10月、教科書出版会社の三省堂が、自社の教科書を採択の現場で有利に扱ってもらうよう
採択関係者や教師に賄賂を渡していたとして、突然文科省に呼ばれて注意を受けるということがあった。その後、賄賂を渡していた教科書出版会社が22社も自主的に名乗り出たのだが、一方で3839人の教科書選定・採択関係者が賄賂をもらっていたことが判明し、そのうち88件では謝礼を払った会社の教科書を採択したという。教科書大疑獄事件である。採択率50%超のガリバー企業である東京書籍が一番派手に贈賄をしていたことも判明し、異常な採択率の疑問が氷解した。しかしながら現時点において、収賄側は処罰されているにも拘わらず、贈賄側の教科書会社に対し文科省は厳重注意をしただけで、何らの実効ある処罰をしていないという異常な事態が続いているのだ。更に特筆すべきは、文科省の基準に合っていない「学び舎」という何処の国の教科書かと思えるような教科書がデビューしたことである。いま教科書業界に一体何が起こっているのか、「つくる会」の歴史を振り返る中からわき上がる疑問をぶつけてみたいと思う。

1)「つくる会」の惨敗に終わった5回目の採択戦

昨年、「新しい歴史教科書をつくる会」(以後「「つくる会」)は5回目の歴史・公民の中学校教科書の採択戦を迎えた。公民は修正程度だったが、歴史は全面見直しで画期的な教科書として満を持しての採択戦だった。画期的というのは、南京事件については無かったことが証明されたとして記述せず、代わりに実際にあった日本人居留民が虐殺された通州事件について触れ、東京裁判については、マッカーサーがトルーマンに語った反省の言葉をコラムで記述したからである。
採択戦が終わった8月末、「つくる会」会員は呆然自失で虚脱状態にあった。公立中学校での採択が、歴史・公民ともにゼロだったからだ。今までの採択では決して無かったことである。
頼みの私立中学校の採択も伸びず、「つくる会」の存続が危ぶまれる結果となった。

採択惨敗に対する原因究明の動きが、本部役員と会員双方から起こったが、原因については本部と会員の分析には乖離があった。会員の分析は主に「つくる会」側にあるとしたが、本部の分析は、期待された文科省の首長権限の強化の通達が、国会での共産党委員の巧みな質問に引っかかり、骨抜きにされて空振りに終わったこと、教科書選定委員会や教育委員会などの採択関係者の間に、「つくる会」の教科書の採択に対する長年の拒否反応があったことなどをあげ、「教科書採択の構造問題」(以後「構造問題」)にこそ根本原因があるとした。私は5回の採択を振り返って、「つくる会」の教科書が一度も採算分岐点と言われる5%にも至らず無視されつつづけてきた原因は、やはり「構造問題」にあると確信していた。

2)異様な歴史教科書「学び舎」の唐突な出現

平成28年3月19日の産経新聞一面トップには”慰安婦記述30校超採択”の大見出しが踊り、「学び舎」の中学歴史教科書について大きく報道した。
http://www.sankei.com/life/news/160319/lif1603190015-n1.html
(記事引用)>学び舎とは、平成28年度から中学で使用される教科書「ともに学ぶ人間の歴史」の発行会社。26年度の中学校教科書検定から参入した。当初、申請した教科書がいったん不合格とされた後、大幅に修正して再申請し合格した。「つづきを読んでみたくなる」教科書を目指すとして、全国の現職や元職の教員約30人が執筆し、歴史研究者らの支援を受けている。中学では唯一、慰安婦の記述がある。文部科学省によると、同社の歴史教科書の採択数は全国で約5700冊(占有率0・5%)。業界では「参入組にとって障壁が特に高い教科書業界では異例の部数」(教科書関係者)と受け止められ、「執筆者らの人的ネットワークで採択が広がった」(業界関係者)との見方もある。採択したのは少なくとも国立5校、私立30校以上。国立は筑波大付属駒場中のほか、東京学芸大付属世田谷中▽同国際中等教育学校▽東大付属中等教育学校▽奈良教育大付属中。私立では灘中、麻布中など、エリート養成校といわれる学校が軒並み採択した。

昨年の4月6日に文科省が検定結果を発表し、その時私は初めて学び舎の出現を知ったが、学び舎の出現の仕方は唐突であった。新たな参入が難しい教科書業界だから、参入の動きがあれば事前に何らかの情報がある筈だが、学び舎については文科省が発表するまで判らなかった。異常なデビューと言っても良いのではないか。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/kentei/1358684.htm
更に驚いたのは、慰安婦についての記述が復活し、南京事件については、展転社裁判の原告であった夏淑金の証言をもとに虐殺の具体的シーンを記述したことであった。いままで全ての教科書に「慰安婦」の記述が無いのは、これを問題視して「つくる会」が発足し、初版の教科書で一切記述しなかったからであり、この影響が他社の教科書にも及び、中学校の教科書からは慰安婦の記述は一掃されたのである。「学び舎」の出現は、「つくる会」の教科書の先進的な記述が他社に与えるいわゆる「つくる会効果」を一挙に無に帰し、中学校の歴史教育を20年前の自虐史観の時代に戻してしまったのである。

3)つきまとう反「つくる会」の外務省の影

{つくる会」は平成9年1月、初代会長西尾幹二氏と副会長藤岡信勝氏のもとで創立宣言を発し、同時に文科大臣に教科書から「従軍慰安婦」の記述撤去を申し入れた。発足に当たっては日本の保守といわれる殆どの学者・識者が糾合し、会員数は1万人を超え、全国の支部は48支部を数え世間の注目を集めた。当時の保守運動体としては、「日本会議」以外では拉致問題の「救う会」があり、そこに教科書問題の「つくる会」が国民的熱気を伴って出現したのであり、これは左翼にとって脅威であった。また「朝まで生テレビ」に出演し慰安婦問題と教科書について提起し論争になった。第1回目の「つくる会」シンポジウムは『自虐史観を越えて』と題して開催され保守系の市民の喝采を受けた。また歴史と教科書問題について啓蒙する数々の本が出版され、「国民の歴史」はベストセラーとなった。私もこの本を読み、日本史を世界史の中に位置づけた雄渾な歴史絵巻に心が躍る思いであり、改めて日本史の面白さに気付いたのである。
「つくる会」初めての中学校用教科書「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」が検定に出されたのは平成12年4月だったが、10月に事件が起こった。外務省から元インド大使が検定審議官として参加していたのだが、この検定審議官が「つくる会」の教科書を不合格にするよう他の審議官に働き掛けていたことがバレて罷免されたのである。外務省が「つくる会」の教科書を厄介者扱いにしていることが判り、その裏に蠢く得体の知れない存在に暗澹たる思いだったが、外務省の「つくる会」潰しの意図が何処にあったのか、不明なままこの事件は有耶無耶となった。

4)極左の採択妨害と中韓の内政干渉

翌年(平成13年)4月に「つくる会」の教科書は検定合格となったが、それを待ち受けていたかのように、中韓両政府が「新しい歴史教科書」に激しく反対し、日本政府に再修正を要求してきたのだ。5月には韓国政府が全ての歴史教科書に対し政府に内容の修正を強く迫ってきた。
不遜かつ無礼であからさまな内政干渉であった。ところが6月に歴史と公民の教科書を市販本として出版したところ、合わせて76万部の大ベストセラーとなったのである。中韓の内政干渉に呆れた多くの国民が「つくる会」への支援と好奇心から買ってくれたのである。

採択戦はまるで戦争だった。共産党や社民党の支援を受けた反「つくる会」の市民団体や中核派などの極左の団体は、「つくる会」の教科書を『子供達を戦争に狩り出す教科書』だとして、愛媛県や栃木県など、「つくる会」の教科書が採択有望だと下馬票のあるところに押しかけ、採択関係者に「つくる会」教科書を採択しないよう圧力を掛けた。時には脅迫電話で採択関係者を縮み上がらせるなど不逞を働く始末だった。「つくる会」会員は正統な採択運動を進めながらも、反対運動に対抗するべく各地に出向いて彼らと対峙した。異常だったのは、韓国から地方議員などが採択地に押しかけ首長に面会を強要し、姉妹都市の解消をちらつかせて「つくる会」教科書の採択に反対したことである。教育の根幹である教科書採択に外国人が介入するという前代未聞の内政に関わる重大事件にも拘わらず、外務省は韓国に抗議もせず、彼らの入国を制限することもなく、彼らのやりたい放題を放置したのである。中核派に対する公安の動きも鈍かった。7月には一旦「つくる会」の教科書の採択を決めた栃木県下都賀地区の教育委員会は、反対派の脅迫に耐えかねて採択を白紙に戻すという事件が起こった。翌8月には遂に極左の革労協が「つくる会」の事務所に放火する事件が発生した。採択期間中にこのような暴力沙汰が易々と行われたのである。事件の報道は毎日、新聞の一面を飾った。新聞を読んだ採択関係者にとっては、「つくる会」の教科書を採択したくとも、極左の脅迫で家族が危険に晒されたり、韓国に姉妹都市を人質にされたのでは、断念せざるを得なかったのだ。中韓が教科書に介入してきたのは、反「つくる会」からの介入要請と、歴史戦で日本を貶めようとする中韓の思惑が一致したからである。
「つくる会」の初陣は、歴史の採択率0.039%、公民は0.055%で惨敗に終わったのだ。

平成14年12月、公安調査庁は平成13年版『内外情勢の回顧と展望』において、「つくる会」教科書の採択反対運動への過激派の関与を指摘し、「内外の労組、市民団体や在日韓国人団体などと共闘し、全国各地で教育委員会や地方議会に対して、不採択とするよう要求する陳情、要請活動を展開した」と記した。「つくる会」の教科書運動によって日本が目覚めることを怖れる内外の勢力が一斉に「つくる会」に襲いかかったといっても良い状況であり、これが多くの教育関係者に「つくる会」の教科書を採択することに対する、恐怖感を伴う深いトラウマを残す事になったのである。この事件での大きな疑問は、国家の教育の根幹である教科書の採択に、なぜ中国と韓国がタブーとされる内政干渉を仕掛けてきたのか、政府はなぜ内政干渉だと抗議をせず黙認したのか。韓国の議員や民間人が地方自治体に押しかけ、「つくる会」の教科書採択を邪魔する行動に対し、外務省が何らの行動も起こさず傍観していたのはなぜか、その後の採択でも国民の非難を無視し、韓国人の反「つくる会」行動を黙認してきたのはなぜか。検定時に「つくる会」潰しを図って失敗した外務省が、採択妨害のために中韓を呼び込んだのではないか。特に反日の為なら何でもありの韓国政府は、日頃から外務省に日韓関係の歴史観について圧力を掛けていたことは知られているし、教科書にも「慰安婦強制連行」を記述することを長年にわたって要求してきた。外務省は韓国の要求に応える代わりに、韓国議員と市民による「つくる会」潰しの内政干渉を許したのではないか。

5)トラウマを越えて

「つくる会」会員にとっては気が滅入ることばかりでは無かった。平成14年8月には、愛媛県立中高一貫校3校で『新しい歴史教科書』を採択した。また平成16年8月には都立中高一貫校で翌年4月から使う『新しい歴史教科書』を採択したのである。

平成17年、「つくる会」にとって第2回目の採択を迎えた。杉並区の山田宏区長が主導して『新しい歴史教科書』を採択するという情報が流れると、杉並区役所は戦場となった。中核派を中心に、在日韓国朝鮮人のグループや左翼の市民グループなどが庁舎内を占拠し、庁舎を取り巻いた。
「つくる会」会員も急遽招集を掛けて杉並区役所に押しかけ、反対派と一触即発の暴力沙汰になりそうな緊迫した睨み合いを続けていたが、一刻も早く採択が実現するよう祈る思いであった。
反対派が「つくる会」の教科書を「子供達を戦争に駆り立てる教科書」だとして喧伝した結果、普段はノンポリの筈である若い母親達が大挙して押しかけてきたのだ。彼女たちの金切り声をあげての必死の抵抗には、愚かなと思いつつも為す術もなく、たじろぐしか無かった。反対派の怒号の中で、杉並区は『新しい歴史教科書』を採択したのである。我々の萬歳の声が庁舎を揺るがせた。反対派はというと、敗れた途端に大人しくなり、日当の入った封筒を握りしめて占拠していた庁舎から退出していった。大方の人達は金で動員されたことが判ったのである。
杉並区の勝利は、改めて首長の力を見せつけた一戦であり、首長との関係が今後の採択戦の主要戦略となった。反対派が「つくる会」に仕掛ける巧みなレッテル貼りには感心するのだが、保守側は左翼の教科書を一瞬にして葬り去るようなレッテルを見いだせず、常に宣伝戦では左翼に完敗している状態だといえる。採択戦は一般の国民に対する宣伝戦でもあったのだが、「つくる会」はこの点で有効な手立てをまだ持っていない。

この年の12月、警察庁は平成17年の『治安の回顧と展望』において、中核派について「『「つくる会の教科書採択に反対する杉並親の会』と共闘して、市民運動を装いながら、杉並区役所の包囲行動、教育委員会への抗議・申し入れ、傍聴等に取り組んだ」記述した。公安調査庁は「教育労働者決戦の一環として、教職員組合や市民団体に対し、同派系大衆団体を前面に立てて共同行動を呼びかけた」として、「つくる会」への反対運動における中核派の関与を指摘した。
オール左翼対「つくる会」の構図がはっきりとした戦いだった。この時も韓国からは大挙して日本に押しかけ、採択戦を妨害して回ったのである。杉並決戦では忘れられない想い出がある。
「つくる会」が勝利し萬歳を叫んで歓喜に浸っていたとき、韓国のTVクルーが私にインタビュウーを申し込んできたのだ。今のお気持ちはと聞くので、韓国の人達には残念なニュースだと思うが、あなたたちの内政干渉のおかげで我々はますます燃えて採択を勝ち取ったんだ。韓国人が反対すればするほど「つくる会」の教科書採択は増えるし、韓国批判も増えるぞ、と言ってやったが、カメラマンが途中でスイッチを切り不快そうにしているのを私は見ていた。

つづく

頭脳への刷り込みの恐ろしさ

 「新しい歴史教科書をつくる会」は『史』という機関紙を出していて、9月号が通巻100号記念となり、頼まれて次のような巻頭言を書いた。

 総理、歴史家に任せるとは言わないで下さい!
 
 「干天の慈雨」ということばがあるが、民主党政権下でずっと不安な思いをさせられ、いらいらしつづけた私にとって、安倍晋三政権の成立は「慈雨」にも等しいと観じられた。将来への大なる期待よりも、私などはこれで日本は危ういところを辛うじてやっと間に合った、タッチの差で奈落の渕に沈むところだったが何とか「常識」の通る社会をぎりぎり守ってくれそうだ、と、薄氷を踏む思いを新たにしているところである。

 安倍晋三氏が官房副長官であった当時が、『新しい歴史教科書』の最初の検定から採択への試練の時期であった。私は氏に何度もお目にかかり、窮境(きゅうきょう)を救っていただいた。故中川昭一氏とご一緒のところをお目にかかることも多かった。教科書問題とか歴史認識問題に一貫してご両名は関心が深かった。

 安倍氏が第二次政権の安定したパワーで再び同問題を支援して下さることを念願しているが、ひとつだけご発言で気がかりなことがある。「侵略」の概念は必ずしもまだ定まっていない、と正論を口にされたそのあとで、付け加えて自分は判断を専門家の議論に任せるという言い方をなさってきた。大平正芳氏も、竹下登氏も、あの戦争は侵略戦争かと問われて、政治家の口出しすべきことではない、歴史の専門家に判断を任せると言っていたのを覚えている。

 しかしじつはこれが一番最悪の選択なのだ。なぜなら日本の歴史の専門家は終戦以来、自国の歴史を捻じ曲げ、歪め、「歴史学会」という名の、異論を許さぬ徒弟(とてい)制度下の暗黒集団と化しているからである。文科省の教科書検定も、判断の拠り所を「歴史学会」の判定に求めているようである。だからいつまで経っても普通人の常識のラインにもどらない。「歴史学会」は若い学者に固定観念を植えつけ、ポストの配分などで抑え込んでいる。この世界では日本の「侵略」は、疑問を抱くことすら許されない絶対的真理なのである。学問というよりほとんど信仰、否、迷信の域に達している。

 日本史学会のボスの一人であったマルクス主義者永原慶二氏の『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館・平成15年刊)に、「つくる会」批判の表現がある。戦後の日本史学会は東京裁判史観という「正しい歴史認識」に恵まれ、正道を歩んできたのに、「つくる会」というとんでもない異端の説を唱える者が出て来てけしからん、という意味のことが書かれている。はからずも日本史学会は今まで東京裁判に歴史の基準を置いてきた、と言わずもがなの本音をもらしてしまったのだ。マルクス主義左翼がGHQのアメリカ占領政策を頼りにしてきた正体を明かしてしまったわけだ。

 安倍総理にお願いしたい。どうか「歴史の専門家の議論に任せる」とは仰らないでいただきたい。これでは千年一日のごとく動かない。のみならず、北岡伸一氏たちの『日中歴史共同研究』のようなあっと驚くハレンチな結果を再び引き起こすことになるばかりだろう。どうか総理には「広範囲な一般社会の公論の判断に任せる」という風にでも仰っていただけないかとお願いする。

 旧左翼(マルクス主義史観)とアメリカ占領軍(東京裁判史観)が裏でしっかり手を結んでいたことがこのところ次第にはっきりしてきた。ルーズベルトがスターリンの術中にはまっていて、アメリカは戦後すぐに東欧でもアジアでも共産主義の拡大に協力的ですらあった。今の中国はアメリカが作ったのである。

 安倍さんは日本が講和後には東京裁判に縛られる理由がないことも、侵略の概念については国際的な統一見解が存在しないことも知っておられるだろう。いつ言い出せるかが課題である。尖閣その他で緊張している間は、しばらく波風は立てられまいが、われわれはあくまで後押ししなければいけない。

 歴史に関する考え方は日本でも世界でもどんどん動いているが、戦後すぐに固定観念を刷り込まれてから、頭にこびりついて、完全に自由を失っている人は今も少なくない。

中国人スパイ事件と八木秀次氏(二)

 日本にいま求められているのは「戦う保守」の精神である。そして、あちこちに雨後の筍のように増えているが、本当は日本にいまいない方がいいのは「自閉的右翼」である。左翼が現実の力を失ってしまったために、保守がいたるところに蔓(はびこ)り、贋物の保守のことを私はそう呼ぶが、彼ら「自閉的右翼」はアメリカの対応いかんであっという間に中国迎合に向かうだろう。

 外交官だけでなく、日本に来ている研究者も留学生もみんな情報戦を担っているといわれるほどの中国人を相手にして、実に不用意に対応した八木氏のケースは好見本である。つくる会理事会に相談もなく訪中し、プライヴェートな旅行だから文句あるかと嘯(うそぶ)き、外国に観光旅行に行っていけないという決まりはつくる会にはない、と、米国旅行と同じように見るまぜっ返しをひところしきりに言っていた。無知もきわまれりである。プライヴェート観光旅行でなぜ中国社会科学院が原稿まで準備して八木氏一行を迎えたのか。中国側とは最初から連繋があったに相違ないのである。八木氏たちは国家的工作に「取りこまれた」と見るべきである。会内部での充分な議論もつめず、若い事務局員に会代表の名において、しかも南京問題など微妙なテーマの討議に参加させるほどの無責任ぶりである。

 討議をしてはいけないというのではない。それはそれなりの用意が必要である。「戦う保守」の名に値する論客を揃えて立ち向かうべきである。

 『環球時報』(3月9日)は、「右翼雑誌『正論』は、中国側の発言と討論の中味を併記しているため、ある意味では中国側の主張宣伝の作用を及ぼした」(宮崎正弘氏訳)と述べている。これは控え目な表現で、ネットの掲示板などでははっきり「投降」と書いている例もあるそうである。『正論』には公表されていないさまざまな内容が社会科学院のホームページには掲載されている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を創設した本来の精神は、「一文明圏としての日本列島」を堂々と胸を張って言いつづけることに外ならない。自己を普遍と見なし、決して特殊と見ないことである。中途半端な受け身の姿勢、謙譲、相対主義的立場をとらないことである。中国や西欧を相手にしたときにはとくにそうである。相手の尺度をいったん受け入れたら無限後退あるのみである。理解と寛容を美徳とする心やさしい日本人には難しいかもしれない。しかし中国や西欧は日本に対し、理解と寛容ではなく、まずは主張と決めつけから始めることを知っておくべきである。

 それを弁(わきま)えていれば、やすやすと謀略にさらされたり、工作に取りこまれたりすることはないであろう。

 つくる会がなぜ混乱したかの究極の理由を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれない。なにか外からの強い力が働いた結果という印象を多くの人が抱いていると思う。歴史教科書はとまれ靖国に次ぐ重要な政治的タームである。八木元会長の油断はスキを与え、中国が久しく狙っていたつくる会の切り崩しをやすやすと成功させたということになるのかもしれない。

拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

関連ブログ(「日本国憲法、公民教科書、歴史教科書)

中国人スパイ事件と八木秀次氏(一)

 藤岡信勝氏の「つくる会を分裂させた中国人スパイ」(WiLL8月号)は反響を呼んでいる。氏は9月号にも続篇を書くべく準備を進めているようである。

 「つくる会」分裂は私の身にも及んだ痛恨事だった。私も当時から思い当る節があり、分裂に至ったいきさつには「なにか外からの強い力が働いた結果」という推定を下していたが、今度の李春光スパイ事件であゝそうだったのか、成程、と合点がいった。

 分裂に至ったいきさつは予め会に複数の新勢力が理事としてもぐり込んでいて、私が名誉会長を退任したスキを突いてクーデターに起ち上がり、つくる会乗っ取りを策したこと、それと前後して八木秀次会長(当時)が理事会に諮らずに中国を訪問し、有能な学者ではなく同行した事務局員を代表に仕立てて中国の学者たちと討論したことに端を発する。その余りの不用意と行動の軽さが会員の怒りを買った。

 私は『諸君!』(2006年8月号)に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」という一文を寄せ、この一件についても論評している。そのくだりを二回に分けてここに掲示する。(以下は拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

(一)
 
 八木秀次氏が事務局員を同伴し、2005年12月末中国社会科学院日本研究所を訪れ、中国人歴史家と意見交換(記録は『正論』2006年3、4月号)した一件は、どうやらつくる会が今まで掲げて来た本来の理想とはまるきりかけ離れた、裏切り行動であったように思える。これは新しい事件である。記録を一読してまずいと思ったのは、中国の掲げる普遍性を動揺させようとする日本側の気概や決意がまったく感じられないことである。

 記録を見る限り、日本側は中国側に対し、貴国の立場は立場として尊重しますが、当方にも当方の立場があるので、どうか当方の立場も認めて下さるようにお願いします、という態度で終始一貫しているように見受けられた。しかしこんなことを中国側に言ったとしてもほとんど何の意味もなさないだろう。中華思想を暗黙の前提にしている共産主義国の相手に対し、貴方は貴方、私は私と住み分けしましょうという相対主義的立場を言うことで何かの譲歩が引き出せたとしても、それは錯覚であって、歴史認識の一部を認めてもらっても――例えば田中上奏分のような今さら問題とすべきではない偽史の承認、等々――全体としての歴史観は中華文明の一部にすぎない東邦の小国の言い分を聞く理由はない、とはねつけられるのが落ちである。八木氏らの中国側との意見交換は事実その通りに経過している。

 いったい八木氏は『国民の歴史』『国民の芸術』『国民の文明史』を心を入れて読んでいるのであろうか。氏の根本的な間違いは、最初に中国の立場は中国の立場として認めます、という受身の姿勢を打ち出してしまったことである。中国の立場は中華思想であるから、これを認めることは日本をその一部として包み込む普遍思想を認めたと相手が受け止めてしまうことであって、そう言った後で日本の立場を認めてもらったとしても、それは中華支配下の一地方の歴史をそれ相応に認めていただく、という以上のことにはならない。

 日本軍が中国の領土内で戦争した以上どんな理由があれ「侵略」だと言い張ってきかない、意見交換の場で彼らの議論は、勿論子供っぽいともいえよう。近代政治史が分っていないと反論もできよう。しかし彼らは聴く耳をもつまい。彼らは近代化していないのでも、知識不足なのでもない(八木氏はそう誤解しているようだが)。そうではなく、そういう子供っぽい表現で、中華思想を主張しているのである。

 だとしたら、中国に対応するやり方は次の唯一つしかない。

 日本の天皇と中国の皇帝は政治史的にみてどちらが秀(すぐ)れているか。日本の天皇にはカミ概念があるが、中国の皇帝にはそれがない。カミ概念は政治力としての絶対化を招かない。日本の天皇は連続性を本質とするが、中国の皇帝は易姓革命(えきせいかくめい)でたえまなく廃絶され、歴史の中断と社会の混乱を惹起した。15世紀以後にユーラシアには四つの大帝国があった。ロマノフ王朝、オスマン・トルコ帝国、ムガール帝国、清朝。これらはそれぞれ静止した小宇宙で、富も多く学問も秀れていたが、西から迫るヨーロッパの暴力にあっという間に席捲(せっけん)された。日本はなぜひとり難を免れ、たちまち先進国となったのか。清朝の支配下にない、別体系の、ヨーロッパに対応する独立し完成した文明だったからである。(『国民の歴史』第19章「優越していた東アジアとアヘン戦争」に詳細を譲る)。

 中国の歴史学者に対してはまずはこういう本質的議論を吹きかけていくことが肝腎である。大東亜戦争はこの文脈における文明的行動の一つであった、と言い張って譲らないことが鍵である。

 そして、この立場とこれを主張する方法論こそ、ほかでもない、「新しい歴史教科書をつくる会」の、日本の歴史始まって以来の本当の意味での新しさだったはずである。戦後思想を克服する、といった小っぽけな話ではなかったはずである。私は今、会の外に出たからこそ思い切ってそう申し上げたい。八木氏とその一派による「会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」と私が書いた理由はお分りになったであろう。

 八木氏は天皇崇敬者だそうだが、中国人の前で天皇を歴史に持つ日本の優位をなぜ堂々と開陳しなかったのか。

つづく

育鵬社教科書の盗作事件

ゲストエッセイ 
長谷川真美
「新しい歴史教科書をつくる会」広島県支部長・元廿日市市教育委員・主婦

昨年末の文書作戦

私は自分のブログでも何度か、
育鵬社の教科書が扶桑社のものを盗作していると疑われることを書いてきた。

小山先生も今年に入って引き続き調べられている。
盗作個所は優に40箇所を超えるだろうと言われている。
私はその後調査再開には至っていないが、
こんな風な「不正」と思われることを
どうしても放置できない性格なので、
以下のような文章を年末にかけて封書で投函した。
(私のブログでの調査?内容と小山先生のものも同封した)

育鵬社の支援者25名には少し内容が違うものを出した。
金美齢さんから丁寧な返事と、もう一通差出人不明の返事が来た。
差出人不明のものは、
余計なことをせず、育鵬社に統一しろ・・・・という内容だった。
本当は誰から来たのか分っている。
著名な方なのに、
差出人不明の怪文書?として返事をくれるのは随分卑怯だなと思っている。

平成23年12月 日
            

前略、私は広島の長谷川真美と申します。突然お手紙をさし上げるご無礼をお許しください。私は現在「新しい歴史教科書をつくる会」の広島県支部で支部長という役目を引き受けているものです。今日は支部長という立場ではなく、一個人として、教育再生機構並びに「教科書改善の会」が支援し出来上った育鵬社の歴史教科書について、どうしてもお伝えしたいことがあり一筆申し上げます。

私共「つくる会」が主導した自由社の教科書が惨憺たる結果に終わったこと、育鵬社の公民の教科書に「愛国心」等が書かれていないことなどはとても残念なことでしたが、以下にお知らせいたしますように、育鵬社の歴史教科書が扶桑社版(藤岡信勝代表執筆)を明らかに盗作していると認めざるを得ない事実が徐々に判明してきており、この事の方がもっと重大で残念なことだと思っています。

「つくる会」本部も早くにこのことに気がついていたようですが、採択戦の妨害になることから、採択が終るまで調査、発言を控えてきました。現在、小山常実さんがご自身のブログ(「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書http://tamatsunemi.at.webry.info/)で調査を続けておられます。私も事の重大さに気づき、育鵬社盗作疑惑について調べているところです。調べれば調べるほど、鳥肌が立つほどに酷似している箇所が次々と現れてきています。

八木秀次氏が代表である教育再生機構側は「つくる会」から分派脱退した折に、絶対に今までの教科書の真似をしないということを文書で約束していたはずです。また、屋山太郎氏が代表される「教科書改善の会」も、平成21年9月3日、「中学校教科書採択結果を受けて」という声明の中で、「なお、歴史教科書については全く新しい記述となり、著作権の問題が生じる恐れはありません。」と述べておられます。

しかし、目次の章立て、単元の構成、単元の表記、単元の内容は他社数社の教科書と比べてとてもよく似ていますし、現在調べている限りでも、文化史を除く本文の多数の個所の文章の酷似ぶりが明らかになっています。全く新しいはずが、どうしてこれほどそっくりになってくるのでしょう。

平成21年8月25日の裁判により、教科書の著作に関して、「つくる会」側の主張した教科書は、共同著作物ではなく、結合著作物であるとの判決がありました。つまり約八割に「つくる会」側の著作権が認められたことになります。これは単純に「つくる会」側が敗訴した裁判ではありませんでした。

私の推論ではありますが、扶桑社(藤岡信勝代表執筆)の教科書の著作権侵害とも思えるこれらのことは、おそらく育鵬社の社員が主導して勝手に行ったことではないでしょうか。版権(平成24年3月で消滅)が扶桑社にあったということで、それをリライトしても法律に違反しないと思ったのかもしれません(もちろん著作権者に許可を得てリライトするならばいいのですが)。

皆さまは、保守系の教科書がもう一つ出来たのだから、そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないか、或いは、中味が似ていてもそれはそれでいいことじゃないか、喧嘩せずに仲良くやればいいじゃないかとお考えかもしれません。しかしこれが「盗作」まがいのことをした結果であるとしたら、道義、道徳を重んじるはずの保守系教科書で、そのようなことが許されるのでしょうか。こんなことを見過ごせば、保守言論界が大変なことになるのではないでしょうか。私には、身内でこのようなことを見過ごして甘い顔をすることは、左翼に笑われる保守の自滅そのものになると思うのです。自浄作用の無い世界は滅びていきます。

その点ワック出版は立派でした。『歴史通』11月号では、S.Y.さんが著作権侵害を起こし、ご本人も出版社も著作権者に対し謝罪され、そのことを実名で公表していました。S.Y.さんの書かれた内容は「尊敬される日本人」の中の「佐久間 勉」でした。内容が良いものだとしても、文章を書くときのルールとして著作権があり、引用、参照、など明確にしない「手ぬき」は許されないものです。

そのうえ、自虐偏向の他社の教科書は問題外ですが、育鵬社は「南京虐殺」は「あり」との立場に立ちました。そしてご存知のように、中国語読み、韓国語読みの「ルビ」を振りました。大東亜戦争を括弧の中に閉じ込めてしまいました。近隣諸国に配慮することで、左に擦り寄っています。フジテレビという「韓国」系列に阿るテレビ会社が後ろについていることも心配の種です。

色々書きましたが、育鵬社の教科書は歴史も公民も、今までの教科書運動の成果に逆行するようなものになっています。このことは市販本を読んでいただければ誰にでも分ることです。

私はやっとここまで来た教科書運動が、こんな風になったことが許せません。
子孫が育っていくこれからの日本に、真に立派な教科書を手渡して行きたいと思っています。保守陣営がもっと頑張り、日本を立て直してもらいたいと思っています。

手段を間違えれば、いくら表面を取り繕っても、必ずひずみが出ます。

日本人はそういう意味で、汚い手を使わないことを良しとする国民のはずです。ただ、日本人の弱点は長いものに巻かれること、争いを好まないことなどがあり、私のこういった主張に「保守言論界にとって、あまりさわがない方がいいのでは・・・・」との反応があります。先にも言いましたが、このような不実が黙認されるようなことがあれば、保守言論界は自浄作用がないということになり、いずればジリ貧になっていくでしょう。

私はこの件を育鵬社の支援者25名の方々に告知いたしました。今後はもっと巾を広げて告知していくことをご報告しておきます。自虐史観ではなく、日本の子供たちに、自国への愛を育むための教科書が必要だと考えておられるであろう皆様、どうか、この件を真剣にとらえ、今後どうしたらよいかお考え下さり、対処していただきますようお願い申し上げます。

なお、ご参考までに私のブログでの発表内容の一部、小山先生の文章の一部を同封致します。

最後までお読みくださり、有難うございました。

草々

添付文書

(卑弥呼)

〇扶桑社
第2節「古代国家の形成」の、中国の歴史書に書かれた日本の邪馬台国と卑弥呼

3世紀に入ると、中国では漢がほろび、魏・蜀・呉の3国がたがいに争う時代になった。当時の中国の歴史書には、3世紀前半ごろまでの日本について書かれた「魏志倭人伝」とよばれる記述がある。
 そこには、「倭の国には邪馬台国という強国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力をもっていたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。
 ただし、倭人伝の記述には不正確な内容も多く、邪馬台国の位置についても、近畿説と九州説が対立し、いまだに論争が続いている。(26~27ページ)

〇育鵬社
文明のおこりと中国の古代文明の、「邪馬台国」

3世紀になると、中国では漢がほろんで魏・呉・蜀の3国に分かれました。この時代について書かれた歴史書『三国志』の中の魏書の倭人に関する部分(「魏志倭人伝」)には、当時の日本についての記述があります。
 それによれば、倭(日本)には魏に使者を送る国が30ほどあり、その中の一つが女王卑弥呼が治める邪馬台国でした。倭が乱れたとき、多くの人におされて王となった卑弥呼は、神に仕えて呪術を行い、よく国を治めました。宮殿に住んで1000人の召使いを従え、魏の皇帝からは「親魏倭王」の称号と金印を授けられ、多くの銅鏡を贈られたと倭人伝には記されています。
 しかし、邪馬台国の位置については、倭人伝の記述の不正確さのために近畿説、北九州説など多くの説が唱えられ、いまだに結論が出ていません。(26ページ)

〇帝国書院(17年検定)
「むら」がまとまり「くに」への、むらからくにへ

漢の歴史書(『後漢書』)によれば、1世紀の中ごろに、奴国(現在の福岡市付近)の王が漢に使いを送り、金印をあたえられたとあります。また、魏の歴史書(『魏志』倭人伝)によれば、3世紀に倭(日本)は小さな国に別れ、長い間争いが続いたが、邪馬台国の卑弥呼を倭国の女王にしたところ、争いがおさまったとあります。卑弥呼は、まじない(鬼道)によって、諸国をおさめ、ほかのくによりも優位にたとうとして中国に使者を送り、倭王の称号を得ました。そして、銅鏡など進んだ文化や技術を取り入れました。銅鏡は諸国の王らが権威を高めるためにほしがったものでした。(26ページ)

(聖武天皇)
〇扶桑社
奈良時代の律令国家の、聖武天皇と大仏建立

聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本のすみずみにまで仏教の心を行き渡らせることによって、国家の平安をもたらそうとした。都には全国の国分寺の中心として東大寺を建て、大仏の建立を命じた。(45ページ)

〇育鵬社
天平文化の、奈良の都に咲く仏教文化

聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、日本のすみずみに仏教をゆきわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。また、都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、金銅の巨大な仏像(大仏)をつくりました。(45ページ)

〇帝国書院(17年検定)
中国にならった国づくりの、大仏の造営

聖武天皇の時代、全国で伝染病が流行し、ききんがおこりました。世の中の不安が増すと、古くからの神にかわって、仏教を信仰する人々が増えました。聖武天皇とその后は、仏教の力で国を守り、不安を取り除こうと考え、行基らの協力で都に大仏を本尊とする東大寺をたて、地方には国ごとに国分寺と国分尼寺を建てさせました。(37ページ)

〇清水書院(23年検定)
平城京の建設と仏教

奈良時代のなかごろ、仏教を深く信仰していた聖武天皇と藤原氏出身の光明皇后は、仏の力で国家を守ろうとして、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、都には総国文寺として東大寺を建てた。(37ページ)

〇東京書籍(23年検定)
天平文化の、奈良時代の仏教と社会
聖武天皇と光明皇后は、仏教の力にたよって国家を守ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を、都には東大寺を建て、東大寺に金銅の大仏をつくらせました。(42ページ)

小山ブログから

平成21年8月25日東京地裁判決から分かること、その5―――単元構成等の類似性も盗作の証拠となること
< < 作成日時 : 2011/11/06 19:11 >>
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  これまで「平成21年8月25日東京地裁判決から分かること」を四回にわたって記してきた。その第一回記事でもふれたように、東京地裁判決は、育鵬社が「つくる会」側著者の著作権を侵害しているかどうかについて判断するためのポイントを示している。

  判決の「第4 当裁判所の判断」の「1 争点1(原告らの有する著作権の対象及び内容)について」には、以下のような記述がある。

 (2)本件記述の著作物性

  著作物とは,「思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの」をいう(著作権法2条1項1号)。本件記述(本件書籍において,各単元において図版や解説文を除外した本文部分や,各コラムにおいて図版や解説文を除外した部分)は,特定のテーマに関して,史実や学説等に基づき,当該テーマに関する歴史を論じるものであり,思想又は感情を創作的に表現したものであって,学術に属するものであるといえる。

  この点,本件教科書(本件書籍)が,中学校用歴史教科書としての使用を予定して作成されたものであることから,その内容は,史実や学説等の学習に役立つものであり,かつ,学習指導要領や検定基準を充足するものであることが求められており,内容や表現方法の選択の幅が広いとはいえないものの,表現の視点,表現すべき事項の選択,表現の順序(論理構成),具体的表現内容などの点において,創作性が認められるというべきである。

  傍線部は私が付したものであるが、まず、上記第一段落の傍線部に注目されたい。第一段落にあるように、判決は、各単元本文と各コラムにおける図版等を除いた部分(要するにコラム本文)は、歴史を論じた「思想又は感情を創作的に表現したもの」であり、著作権法で保護する著作物と言えるとする(図版やその解説文等が著作物であるかどうかは触れられていない)。

  第二段落では、創作物性を認定する場合のポイントが四点ほど述べられている。すなわち、①表現の視点、②表現すべき事項の選択、③表現の順序(論理構成)、④具体的表現内容などである。

  これまで、私は、教科書という性格上、単元構成や論理構成、取り上げられる事項がそっくりだからと言って必ずしも盗作と認定することは出来ないのかもしれないと考えてきた。つまり、①②③の類似性をもって盗作認定することは難しいのではないかと考えてきた。ただし、④具体的表現内容、すなわち文章がそっくりなものは当然に盗作となるから、文章が似ているものを中心に探してきた。

  しかし、判決をみると、①②③の類似性も盗作の証拠となることが明確に知られる。もちろん、研究書などとは異なり、教科書であり学習指導要領による枠づけもあるから一定程度の類似性は致し方ないものと思われる。だが、余りにも単元構成が似ている場合にはそれだけで盗作と言えるだろうし、取り上げている事項、表現の順序(論理構成)に甚だしい類似性がある場合には、文章表現が類似していなくても盗作と言えるということになると考えられるのである。

 付記しておくならば、前に記したように、判決は、『新しい歴史教科書』の著者と出版社の出版契約を平成23年度までの期間と捉えており、扶桑社-育鵬社の版権は24年3月で消滅する。それゆえ、出版社の主導権を認める共同著作物と捉えたとしても、育鵬社は、扶桑社版を基にして、平成24年4月以降に使用される教科書を作成する権利を持たないのである。ましてや、著者に主導権を認めた結合著作物である以上、なおさら、持たないことを強調しておこう。にもかかわらず、著しく酷似した単元構成の教科書を、今回、育鵬社は作成したのである。

  では、育鵬社版と扶桑社版とはどの程度類似しているのか。前に「『つくる会』側の著作権を侵害した!?育鵬社歴史教科書」であげた第4章(近代日本)では、本当に単元構成がそっくりであった。第5章(二つの世界大戦と日本)、第6章(戦後日本)に関してはどうであろうか。

〇扶桑社(藤岡信勝代表執筆)      〇育鵬社(伊藤隆他)
第5章 世界大戦の時代と日本       第5章  二度の世界大戦と日本
第1節 第一次世界大戦の時代        第1節 第一次世界大戦前後の日本と世界
62第一次世界大戦                60第一次世界大戦
63ロシア革命と大戦の終結           61ロシア革命と第一次世界大戦の終結
64ベルサイユ条約と大戦後の世界       62ベルサイユ条約と国際協調の動き
65政党政治の展開                63大正デモクラシーと政党政治
66日米関係とワシントン会議           64ワシントン会議と日米関係
67大正の文化                   65文化の大衆化・大正の文化
 
第2節 第二次世界大戦の時代        第2節 第二次世界大戦集結までの
                                日本と世界
68共産主義とファシズムの台頭        66世界恐慌と協調外交の行き詰まり
69中国の排日運動と協調外交の挫折    67共産主義とファシズムの台頭
70満州事変                    68中国の排日運動と満州事変
71日中戦争                    69日中戦争(支那事変)
72悪化する日米関係              70緊迫する日米関係
73第二次世界大戦               71第二次世界大戦
74大東亜戦争(太平洋戦争)         72太平洋戦争(大東亜戦争)
75大東亜会議とアジア諸国          73日本軍の進出とアジア諸国
76戦時下の生活                 74戦時下の暮らし
77終戦外交と日本の敗戦           75戦争の終結
                           76戦前・戦中の昭和の文化

第3節 日本の復興と国際社会        第6章現代の日本と世界
                           第1節 第二次世界大戦後の民主化と再建
78占領下の日本と日本国憲法         77占領下の日本と日本国憲法
79占領政策の転換と独立の回復        78朝鮮戦争と日本の独立回復
80米ソ冷戦下の日本と世界           79冷戦と日本
第4節 経済大国・日本の歴史的使命    第2節 経済大国・日本の歴史的使命
81世界の奇跡・高度経済成長          80世界の奇跡・高度経済成長 
82共産主義崩壊後の世界と日本の役割    81冷戦と昭和時代の終わり
                            82 戦後と現代の文化
                            83冷戦の終結と日本の役割  
              
  両社の単元構成はほとんど同一である。時代が6年経過した関係から、政治・経済史について単元2つを増加し、文化史を2単元新設しただけである。その他の点は全て扶桑社を育鵬社は踏襲しているのである。この類似性が如何に甚だしいものであるかを示すために、扶桑社版と同じく平成18~23年度使用年度が同一である帝国書院の目次を掲げておくので比較されたい。

○帝国書院平成18~23年度版(黒田日出男、小和田哲男、成田龍一他)
第6章 二つの世界大戦と日本
 1節 世界情勢と大正デモクラシー
  1第一次世界大戦と総力戦 
  2日本の参戦と戦争の影響
  3平和を求める声と独立を求める声
  4民衆が選ぶ正当による政治
  5都市の発展と社会運動
  6大衆の文化・街頭の文化
 2節 日本がアジアで行った戦争
  1世界恐慌と各国の選択
  2行きづまる日本の選択
  3おしすすむ日本と抵抗する中国
  4戦争の拡大から第二次世界大戦へ
  5植民地の支配と抵抗
  6長引く戦争と苦しい生活
  71945年8月、原子爆弾の投下
  8それぞれの敗戦と「戦後」の出発
第7章 現代の日本と世界
 1節 戦後日本の成長と国際関係
  1、新時代に求められた憲法
  2、冷たい戦争と国際連合
  3、日本の独立と安全保障
  4、高度経済成長とよばれる発展
  5、国際関係の変化と日本
 2節 これからの日本と世界
  1、変化する世界と日本
  2、いまの自分にたちかえって

  帝国書院と扶桑社・育鵬社とは全く単元構成が違うことに気付かれることと思う。ざっと見た感じでは、自虐5社と言われるが、それぞれの単元構成は余り似ていない。扶桑社と育鵬社の類似性は異常なのである。これだけ似ていると、単元構成の点だけで育鵬社を盗作教科書として弾劾することができよう。

月刊誌『自由』2月号

jiyuhyousi.jpg 月刊誌『自由』2月号(1月8日発売)に、石原萠記、加瀬英明、藤岡信勝、西尾幹二の「新春座談『自由』50年の歩み――安保闘争から歴史教科書問題まで――」が掲載されました。

 その後半で「新しい歴史教科書をつくる会」の現下の問題点が整理され、明解に語られています。最重要の指摘は、安倍前首相が介入して3億円がフジテレビから一種の「だまし」で八木一派の手に渡ったいきさつを屋山太郎氏が証言している、との藤岡氏の告知です。座談会の最大のポイントです。以下は藤岡氏のその部分の発言内容です。

 フジテレビが三億円出すに至ったのは、屋山氏によれば、次のような経過だそうです。

 年が明けてからだと思うのですけれど、屋山氏が安倍総理に電話して、「扶桑社が教科書をやめるということになった。これは大変困る。何とかしてくれないか」と頼んだ。安倍総理から、「誰に言えばいいのか、誰がポイントなのか」と聞かれたので、「それはフジサンケイグループ会長の日枝さんだ」と答えた。それで、安倍総理が、日枝さんに働きかけた。

 屋山氏が安倍総理に電話して一夜明けた翌日には返事が来て、日枝さんが三億円出すことになった。扶桑社の子会社として育鵬社というのをつくって、すぐに社名が決まったかどうかは分かりませんが、それで出すという話が決まった。そういうことを私は屋山さんから直接聞きました。

 安倍さんは、「つくる会」の教科書を念頭において、扶桑社がもう採算が合わないからという口実で出さないというふうに理解していたはずです。安倍さんは自民党若手の教科書議連の中心メンバーでしたし、安倍内閣時代に「つくる会」の教科書がなくなるという事態を危惧して動かれたのだと思います。

 しかし、八木・屋山グループは、安倍首相の善意を利用して、『新しい歴史教科書』はそもそも「つくる会」の教科書ではなく、扶桑社の教科書だということにして、そもそも「つくる会」を弾き出して、八木さんたちのグループに教科書をやらせるというふうに話をすり替えたのです。安倍さんの意向はそうではなくて、「つくる会」の教科書を出し続けるために影響力を行使したと思います。そのことは安倍さんに近い政治家の方からも確かめている。ところが扶桑社は教科書の書名を変える、執筆者も替えると言う。代表執筆者の私はクビです。編集方針を変える。支援組織をつくる。「つくる会」は解散して、個々のメンバーは仲間に入れてやる。こんなことを「つくる会」がのめるはずがありません。

 次に以下の二つの引用で、つくる会問題の本質の指摘とそれに対する西尾のスタンスが余すところなく語られていると信じます。

 この問題の最大の被害者は、私ではなく、藤岡さんなんですよ。藤岡さんの人格を侮辱するビラがまかれたわけですから。いや、侮辱するレベルではなく、藤岡さんの社会的立場をなくそうとしたのですから。公安調査庁情報というものを遣って、他人の存在を脅かすことは犯罪ではないのですか。証拠は八木さん自身が言論雑誌に書き残しているんです。警察だの公安だのの名を用いて、他人を蹴落とすことが許されるのなら、われわれ小市民は穏やかに生活することが出来なくなります。そしてつくる会が、要するに乗っ取りの対象になった。しばらく私は見ていて、横で見ていただけですけれど、これはおかしいと。絶対におかしいと気が付いた。藤岡さんとつくる会を守らなければいけないと。

 最大の被害者は藤岡さんとつくる会で、私は見ていられなかった。つまりあまりにも明白な不正が行われた。正義に反すること、素朴な意味での正義に反することが行われているということを私は友人たちにも申し上げています。それで再生機構に名前を貸すのをやめた人が何人もいます。正義の問題だ、単純な正義の問題だと何人もの人が気付きました。

 以下は藤岡さんご自身が自分の口からは言いにくいことでしょうから、私が代弁します。藤岡さんは八木秀次氏を名誉棄損で民事提訴しているだけでなく、11月初旬に「偽計による業務妨害罪」で、八木秀次、宮崎正治(元つくる会事務局長)、渡辺浩(産経新聞記者)、「ミッドナイト・蘭」こと中村世志也の四名を東京地方検察庁に刑事告訴しました。東京地検は正式受理した模様です。「藤岡信勝先生の名誉を守る会」も既につくられ、つくる会は理事会だけでなく、約5000人の会員がこの裁判の行方を見守っています。

 私の手許に有志が集まって作成したと聞く東京地検への「嘆願書」が送られて来ています。これは私が関与した文章ではありませんが、よく書けているので、その要点を紹介することで、「問題の核心」をお話ししたいと思います。

 藤岡氏が平成13年まで共産党員であったという公安調査庁情報と称するものを、八木氏は『諸君!』や『SAPIO』で「公安調査庁の知人に確認した」と記述しています。東京地検はその「知人」なる人物の実在の有無を明らかにする義務があると思います。「嘆願書」はまずそのように訴えています。

 次に、その「知人」なる人物の氏名、所属部署、身分を明らかにすべきです。また八木氏の言うように公安調査庁に「知人」がいれば、他人の情報を得ることは可能なのか。普通には可能ではないはずです。ならば、それを可能にした八木氏の特権、氏の同庁との関係は何なのかを説明して欲しいと述べています。

 以上が事実であった場合、現時点では氏名不詳の「知人」には、当然ながら刑事責任が発生するのではないか。何故なら、公安内部の「知人」が公安という国家機密機関の情報、しかも非公開の個人情報を、八木氏という特定の人物に公刊雑誌に複数流布させることを可能にしたからであります。

 以上にあげた諸点は「知人」の実在を前提とします。もし「知人」が実在の人物ではなく、八木氏による創作・ニセ情報であった場合には、八木氏の刑事責任が発生するのは如何せん防止しがたいのではないか、と問うております。

 関係者によると、この「嘆願書」は既に約100人の署名がなされ、東京地検に送られているそうです。署名は今後増えるでしょう。

 よく考えて欲しいのですが、平成13年、すなわち最初の教科書採択の年まで、藤岡氏は保守派の隠れ蓑をまとった「隠れ共産党員」であったと、公安の権威を使って言い立て、藤岡氏をつくる会から失脚させようとしたのですから、卑劣この上もない行為です。八木氏が藤岡氏のいる理事会などで「平成13年まであなたは共産党員ではなかったか」と堂々と声を上げ、公開討論をするのなら、それは少しも卑しいことではありません。

 私が残念なのは、今の世の中が、公安利用などということに敏感でなくなり、仲間を公安に売ることが不正の極みだということさえ分らない人々が、保守言論界の名だたる名士たちの中に少なくないほどに、世の中の道徳観が麻痺していることです。

 私が憤りを覚えているのはひたすらその一点です。それがこの問題に対する私のスタンスの最大の部分です。

 以上のほかに、つくる会のテーマに限っても14ページにわたってさまざまな観点が詳しく討議されていますし、『世界』と対決した『自由』の1960年代以来の長い歴史も追跡されています。まさに戦後史の欠かせないドラマです。

 『自由』は簡単に入手できない地域もあるかもしれません。

 『自由』誌本号の入手及びご購読のお申し込みは、お近くの書店または、自由社(電話:03-5976-6201/FAX:03-5976-6202)までお申し込み下さいますようお願いいたします。

文・西尾幹二

私の感想

 石原隆夫さんの誠の志のあるご文章を三篇拝読した。御礼とともに、若干の感想を述べたい。

 「つくる会」の新しい理事諸氏は会の10年の歩みをよく知らないし、内紛の経緯もはっきりは分っていないようだ。他方、旧い理事諸氏は分っているけれど、福地惇氏を除いてみんな事なかれの態度で、自分の保身に走るかあるいは無責任に欠席しつづけているらしい。この侭いけばこの会は草刈り場になり、会員組織とそうバカにならない額の預貯金が誰かに攫われてしまうのも時間の問題だろう。

 この間、故坂本多加雄さんの献身ぶりを思い出して掲示したばかりだが、初版本が出た平成13年、みんな頑張ったあのころが「つくる会」のピークだった。誠の志を持つ人が「つくる会」の役員であるべきなのに、どうも伝えられる限りでは今の役員諸氏はありふれた日本人社会の縮図、官僚社会の悪い処ばかりを集めたような無気力な集団に見える。

 石原さんの三つの報告文を読むと、あちこちに見られる今の日本の悲しい社会現象を見ているときと同質のものを感じ、心が沈む。まことに残念で、やるせない。

  この中で次の六行が眼目だと思った。

 この経緯から見えてくるのは、扶桑社から突きつけられた三条件は、理事達はそれほど深刻な問題と受け取っていないのではないかと言うことです。それとも見たくないものを突きつけられて見ない振りをしているのか、扶桑社がそんな事を出来るわけがないと高を括っているのか、教科書の内容や理念が変わっても教科書が出せれば良いと扶桑社に魂を売り渡す覚悟をしたのか、何とも判断がつきませんが、私たちの期待を見事に裏切った事は間違いありません。

 私は以上の中で一番真実に近いのは最後のケース、「教科書の内容や理念が変わっても教科書が出せれば良いと扶桑社に魂を売り渡す覚悟をした」ケースが今の理事会と過半の会員諸氏の判断なのではないかと考えている。べつに「覚悟」なんかしていないとは思うが、「教科書が出せれば良い」「内容は他の七社よりましならばいい」くらいに漠然と考えているのではないだろうか。

 その証拠に、理事会でも評議会でも会報でも、歴史観論争ひとつ起こっていない。安倍総理の変心ぶりで従軍慰安婦強制連行否定説も、南京事件まぼろし論もあぶなくなっている。米国が正しかったとする太平洋戦争史観への疑問ひとつ検定を通らない時代がひょっとすると足早に近づいているのかもしれないのに、そういうことを互いに議論しようという空気さえ今の「つくる会」の周辺には生じていない。

 熱情を失ったも抜けの殻のような意味のない団体になりかかっている。

 扶桑社が「教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる」と言っているそうだが、それなら次に出す教科書は「つくる会」の教科書とはもう言えない。

 「つくる会」は理念を持って始まった運動団体であった。その理念の下で教科書をつくる。だから内容をきめる編集権も、執筆者選択権も会にある。そして、出版社はその結果を全面的に受け入れる。そういう契約で10年以上やってきたはずだ。

 今その前提をくつがえすというのなら、「つくる会」は扶桑社から離れ、別の出版社を捜す以外に「理念」を活かす方法はまったくないことになる。

 こんなことはみんな知っているのに今にわかに知らない振りをしているのである。古参の理事で今なお会に残留している藤岡、高森両先生は百もご承知のことであろう。今どうお考えになっているのか。会員の前にご所信を披瀝なさる義務がおありではないか。

 みんなでだんまりをきめこみ――各自が自分だけいい形で残りたいと思って――その場その場をやりすごしてたゞ時間稼ぎをしているようにみえるので、石原氏に理事会は今や「当事者能力がない」と断案を下されたのである。

 妙な連想だが、私の目にも今の「つくる会」は日韓併合前の朝鮮半島のようにみえる。外国(注・外の団体)に魂を売っている人がトップにおさまって、自己管理能力をすでに失っているのである。

 「教科書編集権」と「執筆者選択権」は「つくる会」という戦後最大の保守運動にとっての生命線である。これを捨てれば自らを失うことになるのである。

 扶桑社と産経は今まで良き協力者であったが、この生命線をこれからは守らないというのなら、おさらばするしかないだろう。

 教科書を出してくれる出版社は平成8年に三社と交渉し、三番目が扶桑社=産経であった。このことを事情を知らない新しい理事諸氏におしらせしておく。二社が承諾し、一社がことわった。

 だから「つくる会」と扶桑社=産経とは無期限では決してない契約関係にあり、運命共同体ではない。お互いにフリーに考えるべき立場にある。

 歴史観において中国にもアメリカにもブレない、出版社とも対等に交渉できる見識ある会長がほしい。主体性あるしっかりした人物、日和見主義者ではない強固な意見の持主、政治屋ではなく日本の歴史に関する理想を掲げることが出来る人――そういう人材こそが指導性あるリーダーにならなければいけない。理事の中にそういう人物はいるのである。

 私は今の「つくる会」の現状にひどく失望しているが、絶望はしていない。

 今や風前の灯ともいえる現状だが、灯は消えないだろう。それを祈りつつ、年の瀬に、一年を思い出し、感想の一端を述べておく。